■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部 3章 7話11
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草を踏みしだく自分の足音しか聞こえない。厚い皮ジャンを着ていても、やはり、まだまだ肌寒い。一面の野草がしっとり朝露に濡れていた。皮ジャンのポケットに手を突っ込み、あくびをしながらぶらぶら歩けば、薄霧に沈む野草の先に件のゲルが近付いてくる。銜え煙草で空を仰げば、明けたばかりの朝空は寒々しく薄青い。だが、雨の気配はないようだ。ひんやり取り巻く清々しい空気に深呼吸して足を止め、小首を傾げてゲルを眺める。丁度フェルトが払われて、頭を屈めて先方が出て来た。時間通りだ。口から煙草を取り去って、セレスタンは苦笑いで声をかけた。
「隊長、おはよっす」
踏み出しかけた足を止め、ケネルが肩越しに振り向いた。何かを探して周囲を見回し、戸惑ったように向き直る。「──お前が来たのか、セレスタン。バパはどうした」
馴染みの顔ではない為か、怪訝そうな面持ちだ。ぶらぶらそちらに歩きつつ、セレスタンは肩をすくめた。「まだ寝てまさ。どうも頭(かしら)、くたびれちまったみたいでね。てんで起きてこねえから、今日は俺が名代で。──あー、ザイは今、あっちの方で手一杯なもんで」
すぐに事情を合点して、ケネルは「──ああ」と頷いた。日程確認を手早く済ませ、セレスタンは首を傾げて無人の草原をきょろきょろ見回す。寝静まったゲルに顎をしゃくった。「副長もまだっすか。珍しいすね、寝過ごすなんて」
「今頃こっちに向かっているだろ。このところヤツは街道だから」
セレスタンがぎょっと見返した。絶句でまじまじゲルを見て、チラ、とケネルの顔を見る。寝静まったゲルに恐る恐る顎をしゃくった。「ひょっとして隊長、ここ、お姫さんとタイマンすか」
ケネルは「まあな」と肩をすくめた。
「まじすか」
セレスタンは目を丸くして、戸口とケネルを慌しく見やる。やがて、唖然とケネルで動きを止めた。
「──お労しいっす! 隊長!」
ひし、とケネルの手を握る。ケネルは「ん?」と見ていたが、緩々首振る禿頭を叩いて、ぬっと顎を突き出した。
「分かってくれる?」
セレスタンは毒気を抜かれて固まった。いかめしい隊長らしからぬ気安い態度だ。ケネルは頭を掻きつつ寝静まった戸口を肩越しに見やった。「……誘惑されて困ってんだよな俺」
「──え゛!?」
セレスタンは愕然と凝視する。ケネルは腕組みで首を捻った。
「出来るだけ見ないようにしてるのに、気がつくと布団の中にいるんだよなアイツ」
「え゛え゛え゛っ!?」
セレスタンは顎が外れんばかりに絶句する。ケネルはやれやれと嘆息した。「まあ、そういうつもりはないんだろうが」
「……は?」
唖然と固まったセレスタンを後目に「訳が分からん……」と一人ごち、ぶつぶつ原野を歩き出す。日課の見回りに行くらしい。くたびれたような後ろ姿が肩に手を置きコキコキ首を回している。セレスタンは呆気にとられて見送った。
「……隊長、なんか変わったな」
「はい、ごちそーさん」とケネルはさっさと席を立った。そして、自分の食器をチャッチャと片付け、戸口のフェルトを無造作に払い、すたすた外へ出て行ってしまった。だから静かなゲルの中、野良猫と二人きりの朝ご飯。
今朝の野良猫は珍しく遅刻してやって来た。戸口のフェルトを払った時には、憮然としていたような気もしたが、どかっと定位置に座り込むなり意地汚く飯を掻っ込んでいるから、ソッチは気のせいだったかもしれない。何れにせよ、感心するほどの食いっぷリ。よくも朝から、あれだけ大量に食べられるものだ。エレーンは何とはなしに溜息をついた。食欲がさっぱり湧かないのだ。
「食べられないー」と駄々をこねると、ケネルは甘菓子等々を出してきてお茶を濁したりするのだが、ファレスにそういう甘えは通じない。こと飲み食いにかけては無駄にする事を一切許さぬこのさもしい野良猫は「とっとと食えやコラ」などと恫喝込みでハッパをかけつつ一定量を食べ終えるまできっちり食卓を監視している。なので、食が進まずちんたらフォークで突付いていたりすると、必然的に二人で取り残される羽目になる。そして、今日も今日とて目の前に出された目玉焼きをフォークの先っぽでもそもそもそもそもそもそ、いじくり回していたのだった。フェルトを上げて開け放してあるゲルの戸口の向こうでは、疎らに生えた短い草が柔らかな日差しに照らされている。
「──また、えらく気に入られたもんだな」
焼いたハムをフォークで突付き、飯を仰け反って掻っ込みながら、半ば独り言のようにファレスが言った。あの綺麗な恋人の事やら小生意気な小娘の事やら昨夜の謎の美女の事やらモヤモヤしていたエレーンは、ぽっかり開いた戸口の向こうでパン屑つつく小鳥を眺めて、「何がー?」と心ここにあらずで返事をする。ファレスが骨付き肉を食いちぎった。
「だからケネルの野郎だよ。あいつが下をぶん殴るとこなんざ初めて見たぜ。移動の時も、たまには代わるっつってんのに、あの野郎、誰にも渡しやがらねえしよ」
「……へー、何をー?」
鳥の丸焼きを咀嚼しながら、ファレスは続けた。「だから " てめえを " だろうがトーヘンボク」
「単に代わるのが面倒なんじゃないのおー? ケネルって面倒臭がりやだし、神経ないしー」
そう、彼は稀代の面倒臭がりやなのだ。神経ないし。
ファレスが呆れたように嘆息した。
「片手で抱えて一日中突っ走るのが、どんだけ重労働だと思ってんだ。てめえはグースカ平気でお構いなしで寝やがるしよ」
戸口の鳥から目を上げて、エレーンは、ぽかん、と見返した。急に胸がドギマギしてきて、困惑しながら言い返す。「な、なあに言ってんのよおー女男ってばあ〜! それじゃあ、まるでケネルが──」
「毎晩同じゲルで寝泊りして、蛇の番をしてやっているとでも思ったか」
どきん、と心臓が飛び跳ねた。話の流れから察するに " 気に入られた " のは恐らく自分で、ケネルが誰かを自分の為に " ぶん殴った " と受け取れる。いやでもそんな──と混乱しつつ、はた、と我に返って言い返した。「な、なに言ってんのよー、ケネルにはちゃんと綺麗な彼女がいるじゃないよ」
密会シーンを目撃したのは、つい昨日のことなのだ。その上、妙な小娘もいるし、昨夜の謎の美女もいる。そう、第二、第三の女がいるのだ。そうだ、ちゃあんと知っているのだ。
「……女ァ?」
ファレスはかったるそうに即答した。「そんなもん、ヤツにいる訳ねえだろ」
「で、でも、見たもん、テントの近くで」
「どうせ商売女か何かだろ。うろついてるからな、ここんとこ。たく、どこで聞いて来んだか知らねえが」
「違いますー。絶対そんなんじゃありませんんー。だいたい、あんたに分かる訳ないじゃん。ケネルのプライベートなことなんかー」
「女を構う暇なんかあるかよ」
皿のチーズにフォークを突き立て、ファレスが口へと放り込んだ。「ヤツは四六時中隊にいんだぜ。そりゃあ気晴らしに行くくらいはするだろうけどよ」
取り合うことなく、続けて煮豆を放り込む。
「……ふ、ふーん」
にべもない態度にたじろいで、エレーンはそわそわ指先をいじった。胸がドキドキ高鳴って、いてもたってもいられない。すっく、と席を立ち上がった。逆上せ始めた頬に手を置き、ゲルの中を行ったり来たり。飯を雑に掻っ込みながら、ファレスが鬱陶しげに眉を上げた。「おいこら、座れ。こっちはまだ食ってんだぞ。そこいらウロウロ歩き回んじゃねえよ。いい年した女が行儀悪りぃな。飯はきちんと座って食え」
親のような口喧しい小言。エレーンは「うんしょ……」と戸口で作業。ファレスは遠い皿まで手を伸ばし、キュウリを口に放り込み、右の頬をぷっくりさせつつ、ぼりぼりたるそうに噛み砕く。「たく浮かれてんじゃねえぞあんぽんたん。いいかジャジャ馬、肝心なのはこっから先だ。早い話がお前はケネルの弱点ってこった。だから勝手にフラフラすると、群れ全体に塁が及ぶ。そして、厄介なのはお前の方だ。連中ならどんな襲撃を受けようが、てめえで何なりとしてくるだろうが、お前は信じらんねえくらいにトロくせえからな。そこん所をよーく踏まえて身の振り方に注意しねえと、いつ又何時危ねえ目に──」
ぱさり、と下ろしたフェルトを背にして、エレーンはグーの両手を口元に、込み上げる笑いを堪えていた。
「つまりなに? つまりケネルはあたしのことを〜……?」
お空を眺めて思考停止。そして何の前触れなく再起動。パッと両手で頬を挟んだ。
「えーいっや〜んっ! あたし困っちゃうぅ〜っ!」
クネクネ体をくねらせて、てくてく草原を歩き出す。フェルトを下ろしたゲルの中から「──あ? 野郎! どこ行った!」と野良猫の遠吠えが聞こえたが、そんなもん構わず無視である。
「うっく〜っ! もー、やーだあー! あたし、ケネルのお気に入りだってお気に入りだってお気に入りだってえっ!」
にまにま赤面、意味なく首を傾げてしまう。顔のにやけが止まらない。ゲルの中から「飯はどーすんだ! あほんだらー!」と柄悪い怒鳴り声がしつこく追いかけてきたけれど、「うっさいわね」と舌打ち一つでやり過ごす。せっかく良い気分に浸っているのに邪魔立てなんかされたくない。そうとも、ここで戻ろうものなら、ぶち壊しにするに決まっている。案の定、すっかりヘソを曲げた喚き声が更なる追い討ちをかけてきた。
「──てんめえジャジャ馬、いい気になんなよ。迎えになんか行ってやらねえからなあっ!」
朝の草原は心地良かった。空は澄んで晴れ渡り、爽やかな風が吹いている。小鳥が小さく囀りながらくちばしで地面を掘り返している。少し気温が上がったようで、下り降る日差しは暖かい。夜には魔物のように蠢いた森も、朝の明るい日差しの下では静かに穏やかに広がって──。ふと、エレーンは気がついた。青々茂った草原の向こう、緑梢ざわめく大木の下に、長い手足のひょろりとした白いシャツ。幹に頭をかったるそうにもたせかけ、ポケットに手を入れ寄りかかっている。あれは──。
思わぬ場所で鉢合わせをしてしまい、内心焦って、おずおず大木に呼びかけた。
「……お、おはよ、ノッポ君」
呼ばれてこちらをふと見やり、ウォードが背中をのっそり起こした。緑梢そよぐ木陰を出、ゆっくり長い脚で歩いてくる。見渡す限り辺りは無人で、動くものは遠くに見える家畜だけ、あとは白っぽいゲルがぽつぽつ三つ、ゲルに繋がれた茶色い馬と犬が歩き回っているのが見えるだけ。ゲルの煙突から煮炊きの煙がのどかに立ち昇っている。他のゲルも食事中であるらしく誰の姿も外にない。冷たくされた昨日の記憶が蘇り、困惑して見返した。「……もしかして、あたしのこと待ってたの?」
約束した覚えは無論ない。しかも、こんな朝方だ。ポケットに手を入れたまま、ウォードはゆっくり近付いてくる。小首を傾げ、少し手前で立ち止まった。じっと顔を見つめている。
「な、なに? ノッポ君」
エレーンは及び腰で引きつり笑った。真正面に立たれてしまい、お陰で周囲はすっぽり日陰。無表情で立っているから、機嫌がいいのか怒っているのか困っているのか分からない。脆くも繊細な伸び盛り。この年頃は厄介だ。ウォードが言い難そうに頭を掻いた。「──エレーン、オレさー」
だが、先が続かずもじもじしている。(今度は何事? )と身構えていたら、ふい、とウォードが目を逸らした。
「やっぱ、いいー」
くるり、とあっさり背を向ける。息を詰めていたエレーンは、予期せぬ肩透かしにがっくり脱力。「な、なにノッポ君。何か用があるんじゃないの?」
長い脚がピクリと止まった。ウォードは背を向けたまま突っ立っている。何事か躊躇しているようだ。しばし無言で突っ立って、やがて「──やっぱ言うかー」とぶらりと後ろを振り向いた。
「悪かったねー」
エレーンは「は?」と瞬いた。彼に謝られる覚えはない。心当たりを強いて挙げれば、昨日のツレない仕打ちくらいのもの。なら、まさか、それを謝りに? こんなに朝早くから?
まじまじ彼の顔を見た。吹き出物一つない綺麗な顔。不思議な人だ。腹にしがみ付いて眠ったかと思えば、次の日には冷淡にあしらう。そうかと思えば、その又次の日には自分の方からやってくる。随分、情緒不安定だ。ぶつけられる感情が好悪の両極を行ったり来たり。態度が日によってまちまちで、彼の機嫌の良し悪しはその時になるまで分からない。昨日の邪険な態度の反動なのか、今日のウォードはおっかなびっくり顔色を窺っている様子。反応出来ずに突っ立っていると、頭を掻いて目を逸らした。「オレには普通のことだけどー、エレーンは気にするかもしんないしー。だからオレ、謝っといた方がいいかと思ってー」
「……ノッポ君」
相変わらずよく分からない物言いだが、じーん、となんとなく感動した。つまり、あんな些細な出来事を気に病んでいたということか。少年のハートは繊細だ。両手を胸で組み合わせ、お目々うるうる食い入るように見ていると、ウォードは困ったように目を逸らした。「──なんか死にそうになってたしー」
「う、ううん違うの! あれは違うの! ノッポ君とは関係ないから! 全っ然ないからっ!」
ぶんぶん力いっぱい首を振る。そりゃあシカトはへこんだし、あんまりっちゃああんまりだけど、あれしきのことで死んだりしない。いくら繊細な乙女でも。ゲルの中から「とっとと帰って来い! 何やってんだあほんだらー!」とついに癇癪起こしたらしい罵り声が柄悪く聞こえてきたけれど、無論とことん無視である。硝子の少年のお相手のが大事。ウォードは手持ち無沙汰そうに「それならいいけどー」と頭を長い指で掻いている。こんな綺麗な男の子に気を使ってもらったりすると、そりゃあ、やっぱり気分がいい。えへらへらと笑いつつ希望を便乗して出してみた。「あ、なら、もう少し優しくしてくれたりすると嬉しいんだけどなっ!」
ウォードが驚いたように振り向いた。
「優しくするのー? あれよりもっとー?」
「……で、できれば」
笑顔のままで固まった。だったらあれが上限か? あのツレない態度がか? 普段どんな生活送ってるのだ。ウォードは「……できるかなー」と真面目に首を傾げている。あまりに真剣に悩んでいるので、慌てて片手をぶんぶん振った。「あ、いや、ごめん、なんでもない! もうあんな事はしないでくれればっ!」
そう、無視は堪える。ああいう無視は。容赦なくけんもほろろだし。運悪くアレに遭遇すると、楽しい気分も一気にしぼむ。首を傾げてウォードが見た。「それはどーだかわかんないけどー。又やりたくなるかもしんないしー」
「……あーそお」
二の句がつげずに口をつぐんだ。なら、又ツンケンするってか? わざわざ宣言するってか? 律儀というか馬鹿正直というか奔放というか何というか──。ウォードが唐突に背を向けた。
「じゃあねー」
付いていけずに、エレーンは「はい?」と固まった。ウォードはどこかかったるそうに長い脚で歩いていく。呆気に取られて見送っていると、「あ、そうだー」と背中が止まった。すたすた早足で引き返してくる。目の前まで来て立ち止まり、ぬっと両手を突き出した。「これくらいー?」
「なにが?」
冷たく大きな左右の手で肩をむんずと挟まれている。エレーンはぱちくり見返した。毎度毎度の事ながら彼の行動は予測不能だ。そして、まったく意味不明だ。相手に非があるかのように、ウォードはじれったそうに言い直す。「だからー、これくらいなら大丈夫ー?」
つまり " 痛くないか " の意であるらしい。
「う、うん……」
若干気圧され頷いた。無論全く痛くない。掌が肩に載ってるだけだ。何かの練習をしているように、触っただけの両手の形を保持しつつ、ウォードはブツブツ呟いている。そっと聞き耳を立ててみると、
そーっと、そーっと、壊さないように。
なんの呪文だ。
指の長い綺麗な手だ。節くれ立った肩の手を、なんの遊びー? と見ていると、手に少し力がこもった。「これはー?」
硝子の瞳がチラと窺う。
「うん平気」
エレーンは即答。なんなんだ。
「なら、これはー?」
「……う、うん、まあ、」
惰性で曖昧に頷きながらも、エレーンは軽く顔をしかめた。力が段々強くなる。今度はぞんざいに掴まれたくらいの感じ、怒った時の野良猫の力くらいだろうか。態度で不審を訴えても、ウォードはやはり頓着しない。淡々と覗く瞳の中に真剣な光が宿っているような気がして、臆しているのに拒めない。肩を包む掌に更なる力が、ぐっ、とこもった。「これはー?」
「──いっ!?──痛いってノッポ君っ!」
堪りかねて身を捩った。肩を揺すって、とっさにもがく。ビクリ、とウォードが手を放した。驚いたような面持ちだ。顔を眺め、自分の掌をのんびり見やって「これくらいかー」などと呟いている。掴まれた肩を手で擦り、エレーンは引きつり笑いで首を捻った。今のは何の実験なのだ?
「悪かったねー」
言うなりウォードは踵を返した。相手のことは全く微塵もお構いなし。なんという気紛れ。だが、しばらく歩いて立ち止まり、又じっと止まっている。
「……ど、どしたの? ノッポ君」
呆気に取られて尋ねると、ツカツカ早足で戻ってきた。腕を掴んでもどかしげに引き寄せる。荒い動きに伴って冷気がひんやり打ち寄せる。今度はなんだ、とたじろぐ間もなく頭が肩に覆い被さった。降りかかる薄茶の髪。頬を擦り上げる冷たい頬。大きな体は随分冷たい──。
三秒後、はっと唐突に我に返った。ぎょっ、ととっさにもがいて暴れる。ウォードは素気なく手を放した。再び平然と踵を返す。「じゃあねー」
「え゛?」
白いシャツの長身の背がすたすた何事もなく去って行く。気は済んだようだ。擦り上げられた頬を押さえて、エレーンは呆然と立ち尽くした。
「……び、びっくり、したぁ」
いくら十五の少年とはいえ、見かけは成人男性そのものなのだ。体から力が抜け落ちて、へなへな地面にへたり込んだ。強まる日差しに温められて、草地はしっとり湿っている。強い力で引かれた腕が、掌で掴まれた後ろ頭が、まだ彼の気配を伝えている。歩み去るその背を、ぺったり座ったまま呆然と見送る。えも言われぬ微妙な気分だ。今のハグには意味があるのか? ただの気紛れ? それとも朝のご挨拶? そういやたまに、ひょろりと長い馬の首を顔でスリスリしてたっけ。馬もスリスリお返ししたり──て、
( 馬と同列? )
唖然と口を開け、がっくり脱力、項垂れた。そうか、そういうことなのか。硝子のハートの相手は疲れる。知ってはいたけど、つくづく実感。
──青少年って謎がいっぱい。
ふと気が付いた。彼は冷気を纏っていた。大きな掌は冷たくて、頬もシャツも冷え切っていた。まさか、ずっと待っていた、なんてことは──。
「──てんめえ、じゃじゃ馬、いい加減にしとけよ」
ブチ切れ寸前の呪詛が聞こえた。ばさり、とフェルトが払われて、眦(まなじり)吊り上げた見慣れた顔がフェルトから勢い良く飛び出してくる。
「なめてんのかコラ! さっさと飯を食っちまえ! いつまで油を──」
ふと見やって小言が途切れた。
「──ウォード?」
ファレスが怪訝そうに振り向いた。「何しに来たんだ、あいつ」
四つん這いで来たらしくフェルトの低い位置で顔をぬっと出している。スリスリされた左の頬に引き続き手をやったまま、エレーンは「──さ、さあ」と引きつり笑った。
「……なんだあんの野郎、いつもは蹴飛ばしても起きねえのによ」
ぶつぶつそう言い、ふと何かに気付いた様子で、きょとん、と顔を見返した。「どうした。顔でも食われたか」
エレーンはガックリ項垂れた。どうして、お前はそうなのだ。
毎度の無神経さにげんなりしつつも只今の経緯を説明してやる。最後のハグは紛らわしいから省略したが。木立に紛れる長身の背に目を据えて、ファレスは「……ふーん」と鼻を鳴らして聞いている。思うところがあるようで、しばらく目を眇めて眺めていたが、やがて「おい」と振り向きもせずに呼びかけた。「ぐっちゃぐちゃにしてった卵が皿にこびりついて干乾びてんぞ」
「たまご?」
話の飛躍に付いていけずに、エレーンは、ほけっ、と顔を見る。ファレスがギロリと目を剥いた。
「あんなもん残しやがったら、ただじゃおかねえからなあ!」
むんず、と腕を取られたかと思ったら、問答無用で引っ抱えられ、ゲルに引っ張り込まれていた。「さあ、飯だ飯だ」と体をずるずる引きずられ、「もう、いいってば!」「ざけんな!卵はてめえで食え!卵は栄養あんだぞコラ」と毎度の如くに言い合いしつつ中座した食卓に連行される。因みに、残飯は洗いざらい己で平らげる所存らしい。ファレスは、どかっと胡座(あぐら)をかくなり、ぶっきらぼうにフォークを取った。チーズを口に放り込み、眉をひそめて咀嚼している。顔を見もせず、ぶっきらぼうに言い渡した。「もう、あの野郎を近付けんなよ」
膨れっ面で卵を突付いていたエレーンは、一瞬遅れて顔を見た。
「あんた何を聞いてたわけえ?」
呆れ果てて繰り返す。「だからー、ノッポ君はわざわざあたしに謝りに──」
「いいな」
ファレスが横暴に遮った。口答えを許さぬ強い口調だった。
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