■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部 3章 7話14
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ゲルの中はいやにガランとして寒々しかった。家具が一切ないからだ。今日は住人を追い出したのではなく、新たに組み立ててもらったらしい。浅い眠りから無理やりのようにして目覚めると、寝具で横になっていた。いつの間に眠ったのだろう。せっつかれ慌しく食べさせられたのは覚えているが、布団に入った記憶はない。
普段であれば、同行者の馬群が出発し、大分してから、ケネルの馬だけが別方向に向かう。けれど今日は、ケネルの馬はクリスを乗せて群れと共に出発した。だから、こちらは樹海の木陰で出発した馬群を見送って、短髪の首長とセレスタンと共に大分してから別方向に向かった。着いた先は樹海の傍の小さな井戸で、大きな石が丸く積まれたその前で、ファレスが一人たるそうにしゃがんで喫煙していた。
送ってくれた彼らと別れ、ファレスと二人でキャンプに向かった。ファレスはゲルに上がり込むと同時に隅っこに畳まれた布団の山に直進し、まだ明るい夕方だというのに、ゲルの北側にぶん投げるようにして布団を敷き、こちらには寝支度を整えるようにと言い渡した。そうこうする内、食事のトレイが運ばれてきて、今日は随分早い時間に夕食になった。
ケネルの到着を待つでもなく、ファレスは「さあ、飯だ飯だ!」と率先して食事を始めた。毎度の事ながらこの野良猫、あれ食えこれ食えとうるさいうるさい。何をそんなに急いでいるのだと呆れるくらいに猛然と食事をさせられて、一通り食べたことを確認すると、一仕事終えたというように、ほっと安堵したような息をついた。そうかといって食後に何があるでもなくて、綺麗に平らげた皿を前に手持ち無沙汰そうに雑誌を広げ、のんびりしているというのだから、野良猫はまったくせっかちだ。因みに、ゲルに入る時にふと気になり、傍らに広がる樹海を見回してみたのだが、あの姿はどこにもなかった。今朝方出し抜けに訪ねてきた、あの大きな少年の姿は。
横臥した頬で押し敷いた髪がべたついているのに気がついた。拭ってみると、指に茶色い色がつく。少し油っぽいこの感触は調味料のようなのだが、そんなものが何故、髪の毛などに付いているのか分からない。胡座(あぐら)の膝で雑誌を眺める見慣れた端整な横顔と顔半分を覆う薄茶のまっすぐな長髪が、土間で炊かれた炎の照り返しに揺れていた。また嫌な夢を見ていたようで軽く呻いて身じろぐと、ファレスはすぐに顔を上げ「──なんだ、起きちまったのかよ」と見ていた雑誌を脇に置いた。土間の火の傍から腰を上げ、かったるそうにやってくる。体温で温くなった寝具の上で、エレーンはもそりと腹這いになった。「……ケネル、来た?」
「来ねえな、まだヤサにいるんだろ」
うとうとして目覚めても、あの姿はまだなかった。むっ、と急に思い出す。ということは──。
「ねー、もしかして、あの娘も向こうに連れて行ったりぃ?」
ファレスは無造作に座り込んだ。「だろ。上手い具合に背格好が丁度いいからな」
「" 丁度いい "? 丁度いいって何の話よ」
ファレスは「──いや別に」と慌てたように目を逸らす。どうも怪しい。追求すべく、ずい、と顎を突き出した。「あの娘が来ると、なんで、あんた逃げんのよー」
そう、クリスの姿を見た途端、ファレスはそそくさ逃亡する。近頃この野良猫は不審なところが色々多い。ファレスは仰け反り返って目を逸らした。「い、いいだろ。色々あんだよ事情がよ」
憮然とした顔を作っているも、動揺しているのがありありだ。
「なによ事情ってえ。バパさんのテントで会った時にも、あんたってば、あの娘の顔見た途端に──」
「待てやコラ。なんでおめえが、んなことまで知ってんだ」
あ? とファレスが気づいて凄む。
「んもう! なんなのよ、あの娘はあ!」
枕を抱えて頬杖をつき、エレーンは口を尖らせた。「あ、もしかして本当に、あんたが言ってた商売女ってやつぅ?」
ファレスは「いや、ありゃ違うな」と首を傾げた。「少なくとも、あん時ゃまだおぼこだったし──」
「あん時って何よ」
「──な、なんでもねえよっ!」
ごそごそファレスが背を向ける。どうも不審だ。エレーンは口を尖らせた。
「ねー、クリスって何なのよ」
ギクリ、とファレスが見返した。唖然と顔を凝視して、眉をひそめて吐き捨てる。 「誰から聞いた、その名前」
「あ、いや! だってケネルが、」
予期せぬ鋭い反問だ。エレーンは慌てて手を振った。「なんか寝言で言ってたし、なんか結構辛そうで、だ、だから、その──」
「そうか。まだ、あの野郎は」
ファレスは苦々しげに口を噤んだ。急にどうしたというのだろう。今の驚いた顔といい、口の重そうな様といい、普段あれほど煩いこのファレスが──。何やら曰くがありそうだった。なんだろう、ケネルの過去。自分が知らないケネルの姿。苛立ちが胸に込み上げた。
「──ねえ女男! クリスってどういう」
「無理もねえか。後味の悪い別れ方をしちまったからな。まあ、あの女はあいつにとって──」
何かに踏ん切りをつけるかのように、ファレスは一気に吐き捨てた。「" 忘れられねえ女 " ってとこだな」
エレーンは息を呑み込んだ。胸が強く鷲掴まれて、鼓動がドキドキ速くなる。あの娘はケネルの、
──忘れられない、女。
はっ、と我に返って、エレーンは慌ててそっぽを向く。「──な、なあによ。あたしのこと " お気に入り " とかって言ってたくせにさあ」
ぴくり、とファレスの肩が震えた。チラと見やって、そわそわ傍らを立ち上がる。「あ、悪りぃ。間違いだったソレ」
あまりにさりげないもの言いに、一瞬「……え?」と聞き逃した。歩く背中で「小便してくら」と言い捨てて、ファレスはすたすた戸口に歩く。一拍置いて我に返った。
「ま、間違いぃ!?」
エレーンは愕然と振り仰いだ。眦(まなじり)吊り上げ慌てて抗議。「なにそれちょっとお! 間違いって何よ! 待ちなさいよこら女男っ!」
ファレスは土間の靴脱ぎ場でそそくさ靴を履いている。せめて枕でもぶん投げてやろうと、ふんぬと大きく振り被る。そっぽを向いて爪先をトントンやってるファレスの向こうで、戸口のフェルトがバサリと動いた。
「──悪い。遅くなった」
ひんやり夜風が吹き込んだ。誰かが頭を屈めて入ってくる。見慣れた黒髪の背格好、ザックを肩に引っ掛けた、やはり見慣れた黒っぽい皮ジャン。すれ違い様、ファレスは「お疲れ」と一瞥し、入れ変わるようにして外に出て行く。ケネルがふと目を向けて、面食らったように立ち止まった。「……まだ起きていたのか」
「──うっ。け、けねる……」
ギクリと固まり、気後れする。手違いの発覚直後とは、なんというタイミングで戻ってくるのだこの男は。何が不思議かケネルは驚いた顔で突っ立っていたが、それも束の間、足元に手を伸ばして背を屈め、編み上げの靴を脱ぎ始めた。何事もないいつもの旋毛(つむじ)。エレーンはギクシャク、冷や汗たらたら混乱した。
( ──ちょおっと! どういうことなのよ! )
逃亡し(やがっ)た野良猫に内心ギリギリ拳を握る。あの"お気に入り"は間違いだった、と今更無責任なこと言われたとて、どう振る舞っていいやら分からない。その上クリスを「忘れられない女」とかって言ってたし──。靴を脱いでいるケネルの作業を凝視しつつも、いや、とエレーンは考える。現にこの目で目撃したのだ、密会女とイチャついてるところを。あんなに仲がいいのなら、やはり、あっちが本命だろう。でも、ケネルはクリスの言いなりで、自分の馬にも乗せてやったし、こっちの事はほったらかしで向こうの野営地にも連れてった。となると、つまりはどういうことなのだ? だったら、やっぱり、クリスがケネルの恋人ってこと? 何せ寝言で呼んでたくらいだ──。はっ、と唐突に合点した。そうか。わかった。話の辻褄がそれなら合う。もしかして、あのクリス、
──ケネルの元カノ。
思わぬ帰着だ。エレーンは、うう〜む、と密かに唸る。密会女が今の彼女で、クリスが元カノ。そういやファレスも「別れた」とか言ってたし、「忘れられない女」とかも言ってたし! いや、それにしたって違和感がある。もうそこそこいい年のケネルがあんな子供を相手にするか? それなら案外密会女もクリスって名前だったりして──。
( ──いや、それはないか )
エレーンは溜息で( いんや、ないない…… )と首を振る。それじゃあ、ちょっと都合が良すぎる。そんな偶然ある訳ない。だったらやっぱりクリスは元カノ、ケネルにとっての「忘れられない女」。でも、それにしたって問題ありあり。だって小娘、年はいくつだ。まだ十五、六が精々ってとこだ。それで元カノというのなら、ケネルと付き合っていた頃は更にずっと幼かった訳で……。
当のケネルはかったるそうに絨毯に上がり、己の定位置・南の陣地にやれやれと歩いていく。それをじっとり目で追いつつも斜め上方を仰いだ脳裏に、細い手足の十の子供とお手々繋いでキャイキャイ歩くケネルの姿がふと過ぎる。
( ケネルのヤツ〜っ! 相手はまんま子供じゃん! )
てか下手すりゃまんま犯罪者だ。エレーンはぷるぷる拳固を握る。そうだ許せん! 道義的に!
すっく、と寝床を立ち上がった。つけつけケネルに歩き出す。
「ねー! さっきのあの娘、みんなの所に連れてったのー?」
ビシッと非難をつきつける。本当は「元カノなわけえ?」と訊きたいとこだが、さすがにそれは不躾だ。ケネルは左肩に引っ掛けたザックを丸壁の隅に放り出し、見向きもせずに胡座(あぐら)をかいた。「──ああ」
このタヌキはぬけぬけと口篭るでもなければ誤魔化すでもない。エレーンは憮然と腕を組む。
「ねーっ! なんであの娘は、みんなの所に行ってもいいわけえっ!」
ケネルは面倒そうに眉をひそめる。「妙な輩がうろついている。周りをうろちょろされるより、群れに置く方が安全だ」
「でもっ! あたしん時には絶対仲間に入れないくせにぃ!」
「あれは俺達の同胞だ」
拳を握って詰め寄った姿勢で、エレーンは「──う゛っ」と反論に詰まる。胡座(あぐら)の背けた肩越しに、ケネルが小ズルそうな顔で一瞥した。「やきもち?」
「な゛っ!?」
かちん、と顔が引きつった。
「なあんであたしがヤキモチ妬かなきゃなんないのよっ!」
怒鳴りつけた途端に手が出ていた。ケネルを突き飛ばすべく振った手が、だが、ケネルは、ひょい、と素早く避ける。
「──わっ!?」
着地点の肩が掻き消えて左の手が空振りし、胡座(あぐら)の膝につまずいた。ガクリ、と前につんのめり、体が仰向けに投げ出された。とっさに固く目を瞑る。刹那、直前で攻撃を避け(やがっ)たケネルが(
あ、しまった )の顔で振り向いた。
ぐい、と腕が引っ張られ、腰とお尻を強かに打った。( んもうっ! 痛いじゃないよ〜! )と当り散らして目を開けて、エレーンは、ぎょっ、と硬直した。至近距離に顔がある。ケネルが顔を覗き込んでいる。胡座(あぐら)の膝に載っていた。馬で移動する時と同じ体勢。だが、誰もいないゲルの中では、それとはいささか事情が異なる。
一気に顔に血が上った。あわあわもがいてケネルの胸を押し退ける。体が引っ張り上げられた。もがいた腕が引っ抱えられ、素早く強く拘束される。
「……な、なに?」
思わぬ事態に唾を飲んで顔を上げれば、ケネルがじっと見つめていた。左の手を持ち上げて、こちらの耳上の髪に掻き入れる。指の先で梳き流し、乾いた掌で頬を包むように撫で下ろし、顎を軽く持ち上げる。ケネルは僅かに目を眇め、覗き込むように顔を傾ける。ビクリ、と頬が強張った。
「なあにすんのよっ!」
はっ、と正気に戻った時には、平手で頬をぶっ飛ばしていた。顔から絨毯に突っ込んだケネルはぶつけたらしき側頭部を擦りつつ、「……なにすんだよ」と涙目でむっくり起き上がる。「あのな、俺はあんたの状態を調べようと──」
「嘘おっしゃい! ケネルのすけべっ! 女誑しっ!」
な、なにおう、とケネルはたじろぎつつも顎を出す。エレーンはすっくと立ち上がり、眦(まなじり)吊り上げ、ずん、と片足踏み込んだ。
「申し開きできるもんならしてみんさいっ!」
バサリ、と戸口で音がした。背を屈め、誰かが夜の草原から入ってくる。
「……エレーン、さすってー。背中痛いー」
能天気な声がした。柔らかそうな薄茶の髪が、左の肩を逆側の手で掴んで気怠そうに立っている。ケネルが不機嫌そうに溜息し、ぞんざい至極に手を振った。「駄目だウォード。向こうに戻れ」
薄暗い靴脱ぎ場で、ウォードは肩越しに一瞥した。見やった先は闇に沈む夜の草原。入った途端けんもほろろに拒絶され、困惑したように突っ立っている。むむっ、とエレーンはケネルを見た。
( あんのタヌキぃ〜、まあたノッポ君を追っ払う気だな )
させるか! やっと懐いてくれたのに。
「なによ意地悪! いーじゃない!」
口を尖らせツケツケ抗議。腕組みしていた意地悪タヌキはげんなりしたように嘆息した。( あんたは引っ込んでてくれ…… )とやりにくそうに顔を見る。ケネルとの険悪なやり取りを、ウォードは突っ立ったままで眺めていたが、やがて怠そうに背を屈め、靴紐に手を伸ばして靴を脱いだ。靴下でぶらぶら突っ切って、どさり、と北壁に腰を下ろす。
「よ、よく来たねえ、ノッポ君っ!」
満面の笑みを素早く湛えて、エレーンはささっと擦り寄った。ウォードは肩を掴んで気怠げに頭をもたせかけ、長い脚を大儀そうに投げ出している。
「あっ、あのねノッポ君、えとね、あのね……」
指の先をいじくり回して、エレーンはもじもじ話しかける。ケネルが堪りかねたように立ち上がった。壁のウォードにツカツカ近付き、問答無用で腕を取る。「出ろ、ウォード」
かったるそうにウォードは仰いだ。
「でもー、さすってもらうと楽になるしさー」
ケネルは「駄目だ」と首を振る。「向こうでバパにでもさすってもらえ」
「バパはやだー」
信じられないものを見た顔で、ウォードは嫌そうに首を振る。どうしても居座るつもりらしい。エレーンはあたふた割って入り、膨れっ面でケネルを睨んだ。「もー、いーじゃないよー。今日はこんなにガランとしてるしー。なんでいっつも、そんな意地悪ばっか言うのよー」
「だが、こいつの布団もないんだし」
「あるじゃないよー、そこに」
西壁の隅を指さすと、ケネルは面食らった顔で目を向けた。丸壁の隅に二人分の布団が積まれている。既に一組敷かれているから、あと二人は寝起き可能ということだ。ケネルが呆気に取られて見返した。「──いや、しかし、」
ばさり、と戸口で音がした。サラリと長髪の頭を屈め、夜の草原から男が一人入ってくる。「やっぱ俺、今夜から、こっちのゲルで寝らあ──」
ファレスが鬱陶しげに長髪を払った。
「ウォード?」
北壁に固まった三人を見て、きょとん、と動きを止める。
「……また来ちまったのかよ」
げんなりと溜息で額を掴み、ギロリ、と顔を振り上げた。「てんめえウォード、いい加減にしとけよ。誰が向こうに連れて行くと思って──」
「わかった、ウォード。いていいぞ」
ケネルが、うむ、と頷いた。今の今まで強硬に排除しようとしていたケネルが、だ。真逆の態度に、一同あんぐりケネルを振り向く。
「──いや、だが、ケネル」
はっと逸早くファレスが我に返った。ケネルはすたすた布団の山へと歩いて行き「副長、頼む。今日からお前、こっちで寝んだろ?」などと気楽な調子でのたまいながら、さっさと布団を敷き始める。西の壁際に一組、南の壁際に一組。おもむろにエレーンを振り返り、「あんたはここ」と西の布団を指さした。
「え? でも、西側は駄目って、前にケネルが──」
だが、以前そのように注意したところの張本人は、うんにゃ、と首を横に振る。「構わない。あんたは部外者だし、別に気にはならないだろ」
きっぱりと態度反転。エレーンはたじろぎつつも「そ、そりゃまあ……」と頬を掻いた。当人は意外と気にしないらしい。そうなると、西にエレーン、南にケネル、ならば、残る北の布団で寝るのは……?
異常事態を唐突に悟って、ケネルを除く一同は、微妙な気分で互いの顔を見合わせる。
「お前と一緒に寝んのかよ!?」
ファレスが瞠目して吐き捨てた。壁で唖然と停止していたウォードも、相方をのんびり牽制する。「狭いんだけどー。オレはやだなー。ファレス、夜中に蹴飛ばすしさー」
「──こっちだって嫌に決まってんだろっ!」
ファレスが絶句でガナる中、ケネルは陣地に引き上げながら、背中で素気なく苦情に応えた。「仕方がないだろ、それしかないってんだから」
「てんめえケネルっ!」
ギロリとファレスが振り向いた。「他人事だと思ってやがるな!」
「というより、どうして余計に用意してあるのか、そっちの方が不思議なんだがな」
う゛、とファレスは文句に詰まった。南の陣地に辿り着き、自分の掛け布を、ばさり、と払って、ケネルはやれやれと横になる。「足りなきゃ、座長に言って都合してもらえよ。──ああ、ウォード。そういうことだから、腹でもどこでもさすってもらえ」
己の分をちゃっかり数に織り込んでおいたファレスは、ぐぬぬ、と靴脱ぎ場に突っ立った。
布団を被って背けた背中が規則正しく上下している。毎度の事だが、ケネルは寝つきがすこぶる良い。やれやれと首を振り、ファレスはたるそうに絨毯に上がる。エレーンは呆気に取られて振り向いた。「ねー本当にいいわけ、西って神聖な方角なんでしょ? ケネルって信心深いのかと思ってたけど」
「信心深い?──まさか!」
ファレスはすぐさま一笑に付した。「神様なんぞ信じるヤツかよ」
「でも、ゲルに入る時、ケネル、お祈りとかしていたし」
「ヤツのそれはそんなんじゃねえよ。あいつが西に向かって祈るのは、かつててめえが手に掛けた多くの連中を弔う為だ」
え? と一瞬聞き咎め、ビクリ、とエレーンは飛び上がった。微妙な気配に慌てて膝を見下ろせば、薄茶の頭が膝にもそもそ這い上がろうとしている。野営地で背中をさすってやった時のあの体勢だ。長い腕が回されたのは白い寝巻きの腹辺り。頭が横に吹っ飛んだ。
「何してやがんだ、てめえはよ!」
靴下の足が宙にある。蹴り飛ばしたのはファレスである。
「……痛いんだけどー」
蹴られた頭を手で押さえ、ウォードが迷惑そうに身を起こした。「ケネルはいいって言ってたろー」
「たあく! あんのタヌキ野郎がっ!」
布団を被ってクークー寝ている黒髪の背を、ファレスは殺気と共に睨め付ける。番犬代わりに使う気らしい。
そうして、夜はどっぷり更けた。腹の掛け布を両手で抱えガーガー寝ているケネルの向かいで、ファレスは隣の足を蹴り飛ばす。ウォードも憮然とやり返す。彼らの密かな攻防は色んな意味で一晩中続いた。
「……やべえよな」
夏虫の鳴く野営地の月夜、バパは大木にもたれて一服しながら、左手を難しい顔で眺めていた。明かりの漏れるテントの中から甲高い声の入り混じる楽しげな喧騒が漏れてくる。梢から漏れ降る月下の道を、首にタオルを引っ掛けた禿頭が、紫煙を燻らせながらやって来る。やれやれといった様子で近付きながら、肩越しにテントを振り向いた。「──まさかヤサまで連れて来るたァね。どうしちまったんすかね隊長は」
隣の幹で足を止め、セレスタンは背をもたせかける。
「その隊長が " 頼む " ってよ」
バパは賑やかなテントに顎をしゃくる。下ろした指先で紫煙を燻らせ、セレスタンは素気なく確認した。「又こっちすか」
「仕方がねえだろ、向こうはバリーんとこが荒れていて、それどころじゃねえってんだから」
「そういや向こうのアーガトンが駆けずり回っていましたっけね」
セレスタンは夜空に紫煙を吐く。「"頭(かしら)の女"云々って噂が拙かったっすね。お陰でバリーんトコ以外の連中も姫さんに興味津々でさ。実はどれほどイイ女なのか、ってとこすかね。で、隊長は?」
「調達班に紛れて今しがた出た。今頃はあっちに向かってんだろ」
広い木立の暗がりで、虫が静かに鳴いている。脇を見て紫煙を吐き、セレスタンは木立の先に目を細めた。「──よく寝てましたねえ、お姫さん。ちょっと目ぇ離したら、もう、ぐっすりでしたもんね」
バパは身じろぎ肩を竦める。「ああ、操り人形の糸が切れたみたいにカクッとな」
「……へえ? そいつは随分寝つきがいいんすね。あー、まだ本調子じゃないんすかね。散歩ん時には結構元気そうでしたけど」
「起きている時は、どういう訳だか元気なんだよな」
セレスタンが怪訝そうに振り向いたのと、バパが背を起こしたのは同時だった。「──よお、副長が目当てじゃなかったのかよ」
笑って声をかけた先には、木立の狭間の月光下、暗がりを歩いてくる一人の娘。
「まあね。でも、ちょっと事情が変わったの」
黒く艶やかな長い髪、町の女が着るような薄い桃色のワンピース。バパは舌を巻いたように肩を竦める。「へえ。副長の方はあっさり袖かよ」
娘は微笑って小首を傾げた。
「ねえ、隊長さんはどこ?」
バパは苦笑いで首を振る。
「悪いが、教えられねえな。あんたみたいに一途なのが一番危ない」
娘はしなやかな手を差し伸ばし、バパの肩にしなだれかかった。「……ねえ、おじさん、お願いよ」
短髪の耳元で甘く囁き、潤んだ瞳で意味ありげに見つめる。隣のセレスタンにはお構いなしだ。バパは苦笑いで身じろいだ。「悪いねえ。おじさん、小便臭いヒヨコちゃんには生憎興味がないんだよねえ」
「──ちょっと! "小便臭い"って何よ!」
娘が、むっ、と顔を上げた。バパは首をこきこき回す。「おじさんを誘惑しようと思ったら、手練手管の一つでも覚えてから出直しておいで」
はい、ご苦労さん、と背中を叩いて追い払らわれて、娘は不敵な首長を睨めつけた。
「なら、いいわよ。自分で捜すから!」
ぷい、と暗がりに踵を返し、憤然として駆けて行く。それを見やって煙草を銜え、バパは嘆息しながら点火した。「まったく、あいつは女にもてるな。口説いてるところなんぞ見たこともねえのによ。──しっかし、女ってのは化けるもんだ」
後ろ姿を同様に見送り、セレスタンもぽっかり紫煙を吐いた。「駆け出しの娼婦すか。質悪りぃすね」
日々食べていくので精一杯の《 マヌーシュ 》に、高価な街着が買える筈もないのだ。南に向かった細いその背は、すぐに木立の暗がりに紛れた。向かった先はアドルファスの島。バパは紫煙を吐きつつ苦笑いした。「──早速商売に行きやがったか、やれやれだな」
隣を一瞥、目配せする。セレスタンが銜え煙草で背を起こした。
「《 マヌーシュ 》でしょ、ありゃ。果たして俺らで追いきれますかね。すばしこいし、土地鑑なんか向こうのがよっぽどあるじゃないすか」
「外に出さない程度に見ておきゃいいさ」
了解っす、と手を上げて、セレスタンはぶらぶら歩き出した。
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