CROSS ROAD ディール急襲 第2部 3章 8話1
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 「ホーリー」
 ウォードはにっこり紹介した。あたかも大切な家族を引き合わせるかのように。エレーンは引きつった愛想笑いで小首を傾げた。「あっ──よ、よろしくねっ! ほーりーっ!」
 黒目勝ちのまん丸の瞳で、馬はじぃっと顔を見た。長い首を、ひょい、と振り上げ ( えーこれ乗せんのー? ) とウォードの顔を不服気に見る。茶色い尻尾こそ振ってはいるが、そこはかとなく嫌そうな感じだ。馬だから無論、面と向かって抗議なんかはしない訳だが、ジト目の白けた冷ややかな空気がビシバシ肌に伝わってくる。( ……あ、そっか )とエレーンは冷や汗で思い出した。そう、ホーリーがゲルに遊びに来た時、「はじめまして〜」と友好的にご挨拶しに来たというのに、
 ……びっくりさせて逃げ帰らせた前科があった。
 ちろりん、と横目の長い首を、ウォードは丁寧に撫でている。慈しむように、内緒話をするように。彼の馬は綺麗だった。同行者の馬達は皆例外なくよく手入れされているが、そうした中でもホーリーは一際大事にされているのが一目で分かる。友達だから、とウォードは言った。唯一のな、とファレスがぼそっと茶々を入れた。ホーリーの方でもウォードの事を好きらしく、その信頼の程は仕草で分かる。ウォードに体を持ち上げてもらい、艶々の馬の背によいしょと乗っけてもらいつつ、馬と人との友情は成立するものだろうか、としみじみ真面目に考えた。ファレスはどこか苛々とホーリーとウォードを見比べていたが、舌打ちしながら柄悪く凄んだ。「間違っても落とすんじゃねえぞコラ」
 それを言うなら当人が一番面白がって落としそうではあるのだが。
 ウォードは気にした風もなく、ホーリーの首を、ぽん、と撫でた。「んー、たぶん大丈夫―。ホーリーがいいって言ったしねー」
「──そーかよ」
 脱力気味に手綱を取って、ファレスはかったるそうに跨った。
 群れが待機する合流地点へ、かっぽかっぽと二頭で向かう。ホーリーは初めの内こそ嫌な顔をしていたが、ご機嫌な様子で走っている。仲良しこよしのお願いは、ちゃんと聞いてやるようだ。一方、ゲストのエレーンは、
( ──ぐ、ぐぬぬっ! 振り落とされてなるもんかっ! )
 両手を自主的に背に回し、ウォードにヒッシとかぶり付いていたのだった。馬に乗る時ケネルやファレスは適当ながらも支えてくれる。だが、その点ウォードは無頓着。手綱をとる両腕の間に体がある、というだけのことで、座席は一応提供するが、後は落ちようが何しようが自己責任、ということらしい。
 エレーンは必死でしがみ付き、薄茶の髪をなびかせる涼しい顔を窺った。昨夜ファレスに聞いたところによれば、ウォードは夜毎、成長痛に悩まされているとの事だった。だが、さすると楽になる事をあの野営地の一件で学習し、すっかり味をしめたらしい。それで昨夜も、背中をさすってもらうべく夜更けにわざわざ来たらしい。因みに「バパはやだー」とか言っていたから、「誰でも可」ではないらしい。ウォードは「たまごたまごたまご……」だの「そーっとそーっと……」だの「あの肉団子オレのなのになー……」だの一人でブツブツ言っている。最後に出てきた異質な呪文は、仏頂面で馬を並べるファレスに対する愚痴らしい。今朝の賑やかな朝食時、一つの肉団子におのおのフォークを突き立てて、「それどけてー」「あコラ。その手離せやコラ!」などと硬直しつつもバトっていたから。大人げなくも意地汚い野良猫は、十五のいたいけな子供を相手に絶対譲ってやらないのだ。高々肉団子一コのことで。
 ケネルは早々に食べ終わり、一足先に出発していた。皆が寝起きする野営地にクリスを迎えに行ったのだ。今朝方ゲルの壁際で、チラチラ肩越しに盗み見しつつもザックに荷物を詰め込んでいたが、食卓の左右をチラと見て「……ごっそさん」と持っていたフォークをぱたりと置くなり、そそくさ外に出て行って、そのまま戻って来なかったから、どうやら荷物は予め外に移動しておいたものらしい。何をコソコソしてるやら。
 集合場所に着いた途端に、周囲が、ぎょっ、とどよめいた。ある者はあんぐり口を開け、ある者は手綱を取り落とし、そしてある者は、唖然と凝視したまま硬直している。
「……な、なんで、あんな驚いてんのー?」
 エレーンはいささかたじろいだ。ファレスは馬から下りつつ素気なく言う。「ウォードは馬に触らせねえからな。まして他人を乗っけるなんざ論外だ」
「……ふ〜ん?」
 かっぽかっぽ、と平気でホーリーに揺られつつ、その実、突然振り落とされたりしないようシッカとウォードにしがみ付きつつ、唖然と停止した一同と、我関せずの無頓着なウォードと、ご機嫌なホーリーのたてがみとを( へえ〜そんなもん〜? ) と順繰りに見た。そういや暇にあかして「ウォードに馬並みの扱いをされた〜」と愚痴ったら、野良猫は唖然と絶句した後に「……へえ、そいつはすげえな」と妙な感心の仕方をした。ウォードにとって馬というのは価値観の最上に位置するらしい。そうこうする内、バパが呆れた顔で近付いてきて、ファレスを見やって顎をしゃくった。「あいつに任せてきたのかよ」
 その先にいるのはウォードである。ファレスは「──うっせえな、しょうがねえだろ」と巻き舌で煩わしげに舌打ちし、振り向き様にギロリと凄んだ。
ジャンケンで負けたんだからよ!」
 三回勝負、全敗で。
 勝負前、手を組んで腕を捻り、掌の中を首を傾げて覗き込み、「おい、てめえ、なに出すんだよ」と質悪く柄悪く、オラオラ吐けよ、と尋問し、裏の裏の裏の裏をかき、姑息な後出しまでフルに駆使して見事ストレート負けを喫したファレスは、ぷい、と不機嫌にそっぽを向く。因みにウォードは、その都度、無造作に、ほい、と手を出し、いともあっさり心理戦に勝利したのだった。
 賑やかに犇く馬群の中で、ケネルは笑って雑談していた。隣にキャッキャとくっ付いているのは案の定のあのクリス。じっとり視線を送ってやるも、今朝方そそくさ逃亡し(やがっ)たケネルは、どーうしても目を合わせようとしない。因みに、あっさりそれがバレてるところが案外タヌキのヤツ不器用だ。ホーリーのタテガミむんずと掴んで、エレーンは、ぐぬぬ……と爪を噛む。
「なあによ! あんなコソコソするくせに! どこにも行かないって言ったくせに!」
 なのに若い娘が来た途端、デレデレ情けない体たらくだ。ケネルは意地でも目を合わさない。なんだかんだと逃げ回る。ケネルの気持ちが分からない。
 
 
虜 囚
 
 
 ファレスとウォードは張り合いながらの昼食後、クークーあっさり寝入ってしまった。手足を投げ出し、互いの頭をくっ付けて。通りかかった者達は気付いた途端に飛びすさり、唖然と遠巻きにして眺めている。爆睡中のファレスとウォードは肩さえ組みそうな睦まじい体勢、顔見りゃ喧嘩をするくせに。まったく、仲が良いんだか悪いんだか分からない。しかし、それはそれとして、休憩中にちゃんと用足しに行っとかないと、たいそう困った羽目になる。なので、よだれを垂らさんばかりの二人を残して、こうしてやって来たのだが。
「……どゆこと?」
 風道をてくてく歩きつつ、エレーンは首を傾げていた。木立のあちこちに同行者の姿が見受けられる。運動不足解消の為か、重たく硬い皮ジャンを脱いで、体を左右に捻ったり、スクワットをしていたり、木の枝で懸垂していたり──。
 樹海の中は、呆気に取られるほどの賑わいだった。普段とはまるで様子が違う。散歩には何度も来ているが、いつでも森は静まり返り、人っ子一人いなかった。ましてこんな盛況に出くわすなんて一度としてなかったのに。樹海をキョロキョロ見回しながら、先へ先へと足を進める。無論、こんな所で用を足すなど言語道断、無理だから。
 エレーンはてくてく風道を歩く。皆、こちらに気付かないようで、それぞれ修練に没頭している。しばらく一人で先へと歩くと、木立の向こうの人影もだんだん疎らになってきた。さて、ここいらで適当な場所を探すか、と道の先に目を戻す。
「……ど、どうも」
 エレーンは引きつり笑いで足を止めた。道の先から、皮ジャン姿の一団が歩いて来る。全部で四、五人というところ。あんまり知らない面々だが、あの見慣れた身形は同行者だ。
 一団は足を止め、訝しげに振り向いた。こちらの姿を認めた途端、何故だか憮然と目配せする。思わぬ険悪な空気に戸惑っていると、一人が呆れたように腕を組んだ。「──へえ、こいつはお珍しい」
 嫌みったらしい丁寧口調だ。頭の天辺から爪先までをジロジロ不愉快そうに眺めつつ、一団がぶらぶら近付いてくる。口をひん曲げてあざ笑い、別の一人が踏み出した。「そうだ、たまにはこっちと遊ぶか」
「……え? あ、いや、でも、あの」
 お誘いを丁重にお断りすべく、エレーンは愛想笑いで片手を振る。
「いいじゃねえかよ。向こう、、、とばっか遊んでねえでよ」
 突然不躾に腕を取られた。ぎょっと飛び上がって後ずさる。逃げ道を探して身じろぎつつも、エレーンは密かにたじろいだ。彼らの言動には悪意のようなものが感じられる。野営地で取り囲まれた時のあの感じ。どうも初めから嫌われているような──? けれど、何かしたような覚えはない。理由がさっぱり分からない。突然、横から突き飛ばされた。
「──な、なにっ?」
 危うく転びそうになって顔を上げ、ぎょっと後ろを振り返る。ガッシリした体格のボサボサ頭が立っていた。一団とは又別の、どこかで見たような若い男だ。こいつが、今、突き飛ばした張本人か? 
 横から出てきた乱暴な男は「ごめん」でもなければ「大丈夫か」でもない。それどころかボサボサの頭をガリガリ掻いて、舌打ちで面倒そうに見返した。「──あんた、一班は!」
「は?」
 一班てなに。
 ほけっ、と顔を見ていると、ボサボサ頭はじれったそうに言い直す。「だから、セレスタン達は!」
「……さあ、草原にいると思うけど」
 今日のランチはファレス達のグループだった。向こうの人達とは一緒じゃないのだ。てか、この人なんか怒ってる? 咎め立てるような詰問調だが、事情がさっぱり飲み込めない。ボサボサ頭の無礼者の顔を( あんた、なによー )と見ていると、ボサボサ頭はまるっきり無視して、背後に短く呼びかけた。「──ミラン、頼む!」
 ボサボサ頭にむんずと腕を掴まれた──と思ったら、物のようにぶん投げられた。( で、あんた誰? )と問う間もなく、たたらを踏んで今来た道をばく進する。顔から何かにぶつかった。突進した鼻を涙目でさすって、ふと気付く。目の前にあるのは、受け止めてくれたらしき皮ジャンの腕……。
 ぎょっとエレーンは飛びのいた。それは比較的小柄な敏捷そうな男だった。上部だけを伸ばした髪を頭の後ろで括っている。因みに頭の下部は刈上げという結構珍しい引っつめ頭。
( あれ、そういえば、このコンビって…… )
 この珍しい髪形で思い出した。どちらもどこかで見た顔だ。二人の顔を交互に眺め、小首を傾げて思わず訊いた。「あ、あのぉ〜? 前にどこかでお会いしま──?」
 ミランと呼ばれた引っつめ頭が問答無用で腕を取った。「そっちは頼む、ハーヴィー」
 はーびー?
 あの無礼者の名前らしい。だが、( それって向こうの乱暴男のこと? )と問い返している暇もなく、ぐい、とぞんざいに引っ張られた。
 バランスを崩して両手をあたふた振り回し、風道をズルズル引きずられる。ミランは腕を強く掴んで、早足で道を引き返していた。様子がいやにピリピリしていて声をかけることさえ憚られる。前を見つめてずんずん進む横顔は、どうしてなんだか腹立たしげ。一体、こいつらは何なのだ?
「──ねえ、あの、どっかで、」
 気まずさに堪えかねて声をかけようとした矢先、ミランが舌打ちして立ち止まった。「──ブルーノ、ジェスキー」
 急に止まったりするから背中に顔を又もぶつけ涙目で見やると、進行方向に男が二人、ニヤニヤ道を塞いでいる。エレーンはぱちくり瞬いた。
「──あ、昨日の」
 どうも聞いた名前だと思ったら、昨日突如吹っかけてきて、途端にロジェ達に撤去された例のヘナチョコ三人組ではないか。もっとも今日は二人しかいないが。ミランはもう一度舌打ちすると、肩越しに振り向き様、肩を強く押しやった。「走れ!」
「……へ?」
 不意打ちで藪まで突き飛ばされて、エレーンはたたらを踏みつつ、あたふた己に指を差す。「な、なに? あたしっ? 逃げんの? なんでっ?」
 戸惑っておろおろ見返すと、ミランがギロリと恐い顔で睨んだ。とっさに飛び上がって踵を返し、仕方がないから、あたふた逃げる。事情は依然さっぱりだ。けれど一応とりあえず、両手を振って風道を駆けた。人がいない場所を探して結構遠くまで歩いてきたから、草原までは距離がある。喉が焼ける。息が切れる。いきなり走って足がもつれる。戸惑いながらも振り向くと、遠く離れた風道の先で、小さくなったミランの背中が二人の男と対峙していた。一体全体どーなっているのだ。
「待ちな」
 突然呼ばれて目を返す。進行方向の風道に、誰かが唐突に立ち塞がった。
( あれ? この人も確か、三人組の── )
 エレーンは、又かい、と口の先を尖らせる。いがぐり頭の小柄な男が冷ややかに笑って眺めていた。肩肘張った態度と顔に見覚えがある。さっきの三人組の残る一人だ。クチャクチャ何かを噛みながら品定めでもするように軽く首を傾げている。いきがっているが、恐くはない。惰性で歩いて足を止め、( 今度は何用? )と顔を見る。いがぐり頭が腕を取った。「ちょっと、あんたに言いたい事があんだよなァ!」
 掴みかからんばかりに顔を近づけ、いがぐり頭は凄んだ。
「頭(かしら)だけじゃ飽き足らず、向こうの頭(かしら)まで誑し込んだのかよ。まったく大した女狐だぜ!」
「……はあ?」
 痛いくらいの力だ。乱暴ないがぐり頭に、エレーンは顔をしかめて言い返す。「な、なんの話よ。あんた、なんか勘違いしてない? あたしは何も──」
「だったら、なんで特務がいる!」
 突然、いがぐり頭が仰け反った。同時に、掴まれた腕が自由になる。後ろからの突風に髪が遅れて舞い上がり、自分の髪で視界が一瞬奪われる。いがぐり頭の行方を追った顔横に、腕がまっすぐ伸びていた。白い綿シャツの長い腕。
「ノッポ君?」
 意外な相手を唖然と見返す。
「──な、何しやがるてめえっ! 俺は何もしてねえだろ!」
 吹っ飛ばされて尻もちをついたいがぐり頭が、殴られたらしき顔を押さえて噛み付かんばかりに睨んでいる。
「もし、エレーンのことを苛めたら、」
 突き伸ばした腕をゆっくり戻して、ウォードは前傾姿勢を引き起こす。「あんた殺すよー?」
 いがぐり頭が、ギクリ、と尻もちのまま弾かれた。ウォードはポケットに手を突っ込み、のんびり肩越しに振り向いた。「行こうー、エレーン」
「い、行こうって──でも、──」
 いがぐり頭が険しい表情で睨んでいるのだが? エレーンはあたふた見返した。ウォードは全く構わない。皆が待機する草原に向け、ぶらぶら何事もなく歩き出す。
「──いい気になってんじゃねえぞコラ」
 いがぐり頭が片手をついて起き上がり、憎々しげに突っかかった。
「" 親殺し " のくせしてよ!」
 森で蠢く全ての音が、一瞬だけ掻き消えた。
 ──親、殺し?
 不穏な語感に、ぞくり、と背筋が凍りつく。慌ててウォードを振り向くと、罵倒を投げつけられた当人は変わらぬ様子で歩いていた。不自然なほどに反応していない。彼は全く波立っていない。立ち去る背中と睨みつけるいがぐり頭を呆気に取られておろおろ見比べ、エレーンは困惑しきりで駆け寄った。長身の顔を振り仰ぎ、白いシャツの袖を引く。「ノ、ノッポ君、まずいよぶっちゃ。あの人怒って──」
 ウォードは足を止めようとしない。いや、表情の一つも変えなかった。無視しているというのではない。何も聞こえていないのだ。奇異に感じた。変だと思った。何かがおかしい。何かが壊れた、、、
 頭に映像が飛び込んだ。
 瞬時に目の前が切り替わる。砂埃がたっている。どこだろう、ここは。どこかで見たような乾燥した大地。脚を投げ出した薄茶の髪が、ガクリと前のめりにくず折れた。項垂れた白いシャツの胸に、すぐに鮮血が迸る。それが滴り落ちる源には、背から突き立った血塗れの刃。
( な、なんなの、これは…… )
 圧倒的な光景に息を呑む。愕然と目を瞠り、浅く呼吸を繰り返す。
 金縛りの爪先が僅かに動いて、はっ、と現実に引き戻された。ウォードは依然静かな風道を歩いている。胸がざわめき、締め付けられた。もしや、これは何かの予兆? ならば、彼をこの先に行かせてしまってはいけないのではないか。
 ──止めないと。
 とっさに彼にしがみ付き、強く腕を引き止めた。「ま、待ってノッポ君! ちょっと待って!」
「ウォード、ここにいたか」
 出し抜けに声がかかった。進行方向、前方だ。ギクリと飛び上がって見返せば、風道の先から誰かがが小走りにやってくる。
「──よかった、血相変えて飛んで行くから、何事かと思ったぜ」
 近付いてきたのは件の短髪の首長だった。エレーンは、ほっと安堵して、唐突に現状を思い出した。
「あ、いや、あの、全然大丈夫じゃないんだけど。ノッポ君、いきなり、いがぐり頭の人をぶっちゃって、それで、その人、怒っちゃって──」
 肩越しに背後を一瞥し、慌てて首を横に振る。
「ボリスを?」
 言わんとした相手の名を、バパはすぐに特定した。かなり、ぞんざいな説明だったにも拘らず。それが少々腑に落ちなかったが、拘っているような暇はない。あたふた、あっち、と指を差す。
 勢いよく振り向いて、エレーンは「……あれ?」と首を傾げた。いがぐり頭が消えている。今の今まで憎々しげに睨んでいたのに。バパは訝しげに腕を組み、事情を訊くように目を戻す。ウォードは何を言うでもなく、足さえ止めずに通過した。
「──お、おい」
 一顧だにしないその態度は、無視というより無反応だ。やはり、相手の姿が目に入っていない。如何にも様子が変だった。ウォードはぶらぶら歩いていく。いや、しばらく歩いて足を止めた。
 ズボンのポケットに手を入れたまま、首だけカクリと背に倒し、緑梢の先の天を仰ぐ。森が静けさに包まれた。どこかで小鳥が囀っている。目を覆うほどの薄茶の髪が風に吹かれてさらさら揺れる。
「……どこ行ったんだっけー、おかーさん」
 ぽつり、と困惑したような声が落ちた。ずっと考えていたような、何日も前から考え続け、ついにはそれが溢れ出し、何かの拍子に口から零れてしまったかのような、途方に暮れた心許なげな呟き。急いで関連の記憶を当たった。そういや彼の母親は" いなくなった " のではなかったか。失踪したか、置き去りにされたか、どういう経緯かは分からないが。ウォードは空を眺めて立ち尽くしている。バパが足を踏み替え、身じろいだ。「──まずいな。捜し始めたか」
 切迫した暗い口調だった。驚いて隣を振り向くと、バパは苦悩していると言ってよいほどの難しい顔でウォードの後ろ姿を眺めていた。胸騒ぎを覚えて胸を押さえる。バパの呟きは唐突で苦々しいものだった。何より深刻な硬さを持っている。何か取り返しのつかないことでもしてしまったような。
 バパはしばらく眉をひそめて見ていたが、何かの踏ん切りをつけるように、何かをやむなく諦めるように、そして何かの決意をするように、ゆっくり息を吐き出した。訳を訊こうと思ったが、沈痛な様子に憚られた。
 バパは呟いたきり黙りこくり、何も言わずに歩き出した。皆が寛ぐ草原に戻り、ケネルにまっすぐに近付いていく。ケネルはバパに耳打ちされて、驚いたように顔を上げた。いやに大人しいウォードの姿をどこか痛々しげに眺めやり、苦々しげに溜息をつく。それが起きたのは、宿泊先のゲルに着き、しばらく経った後だった。
 
 
 
 
 

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