■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部 3章 8話4
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"セカイ"が声を極めて叫んでいた。入り混じった幾つもの叫び。男の声、女の声、子供の声、老人のしゃがれた甲高い声。声は膨張し、木霊していた。無数の声が吼えるように何かを叫び、飛瀑のような轟音が猛々しい奔流となって世界全てを呑み込んでいく。
一斉に発声を始めたそれらの声は同じ言葉を叫んでいる。それは怒りのように聞こえた。嘆きのようにも聞こえる。悲しみのようにも祈りのようにも聞こえる。
セカイが何を訴えていたのか、今度は分かった。そう、あの言葉だ。ウォードが豹変するきっかけになったボリスが放ったあの罵声。
『 親殺し! 』
血のように赤い大きな月が、どろりと崩れて溶け出した。砂漠の向こうに幾本も、巨大な火柱が立ち上がっていた。燃え上がり、火の粉をまき散らし、所々で爆発し、火礫(つぶて)を四方に跳ね飛ばしている。天空に突き立った竜巻は悶え苦しむように激しくうねり、砂塵を巻き込み巻き上がり、徐々に徐々に近付いてくる。
砂漠の空が焼けていた。底のない常夜の空から数多の火の粉が雨あられと降り注ぐ。顔に押し寄せる熱波に逆らい、荒れ狂うセカイに目を凝らす。それを見つけて鼓動が激しく打ち鳴った。
( ……ノッポ、君 )
焼けただれた夜空を仰いで、ウォードが薄笑いを浮かべて立っていた。足を引きずりふらふら歩いては立ち止まり、緩々と首を振る。すっかり歩き疲れてしまったように。その姿に胸が強く締め付けられる。切迫した危機を察して鼓動が慌しく喚き出す。
( 逃げて。早く逃げてノッポ君っ! )
熱風に抗い、手を必死に突き伸ばした。いや、体は全く動かなかった。少しも彼に近づけない。ウォードは空を仰いで立っている。届かない、声が。全く彼に届いていない。
( ──そうか )
自分の状態に気がついた。" 傍観者 " なのだ、自分は。意識だけがここにある実存しない外側の存在。この燃え盛る光景が見えてはいても、自分の体はここにはない。自分の意思ではどこにもいけず、セカイが崩壊する様を、ただこうして見ていることしか出来ない。
ガクリ、と白シャツがつまずいた。身を投げた白い背中が大儀そうに肘を立て、首を振りつつ四つん這いの姿勢になる。再び大地に立ち上がると、ぽたり、と何かが地に落ちた。彼の足元、自然に下ろした指の先。
( 怪我、してる──? )
シャツを肘までまくった筋張った腕を鮮血が伝い落ちていた。よく見れば、どこもかしこも傷だらけだ。世界の変動の荒波に傷つけられたものもあるのだろうが、それ以前に、ここから出たくて、もがき続けていたに違いなかった。満身創痍の体を引きずり、彼はふらふら歩き続けている。迫り来る危難から逃がれようとしているのではなかった。捜している、何かを。逃げもせず、そんなに傷だらけになってまで、いったい何を──。
( ……お母さん? )
蝶がいない。
赤く美しい巨大な蝶が。セカイを象徴するあの蝶が。発作を起こした苦しい呼吸で話してくれたウォードの言葉が蘇った。
『 父さんは、オレに死んで欲しかったんだよ。でも、九つになってもオレ、死ななかったからさー 』
何かが意識に引っかかった。似たような話を最近どこかで聞いたような──。困惑しつつも頭が目まぐるしく働いて、淡い記憶の浅瀬から共鳴する符合を呼び出してくる。それは小さな声だった。両手でしがみ付いていた、たどたどしいケインの訴え。
『 みんながぼくをこわがって、おとなはだれも、 』
だれも見ないんだよ、ぼくのこと。
殺伐としていた。セカイは荒れ狂っていた。よりくっきりと世界が見えた。隅々まで鮮明に。何もかも理解していた。ここに居るのが彼なのだ。本来の " 真の " 彼なのだ。
寂と広がる広大な砂漠の向こうから、粘着性の高い赤い津波がゆっくりねっとり這い上がるようにせり上がってくる。あれはセカイ、"本能"だ。獣としての剥き出しの野生。動物の一である人間の、手付かずの根っこの部分。「人」という種の核そのもの。
セカイが地平の縁に手を掛けた。巨大な怪物が身を起こす。目鼻もなければ口もないそれは、やがては天を覆う津波となって、全てを呑み込んでしまうだろう。セカイが彼を取り込もうとしている。彼の全てを手に入れる為に。
ウォードはまるで逃げなかった。怒涛の如くに迫り来る怪物を、その場に突っ立ち、ただ見ている。いや、広漠たる光景はどこまで歩いても変わらない。セカイに出口などないのだから。
逃げ場はなかった。彼は歪められ閉じ込められてしまっている。体は " こちら " にありながら、心はセカイに封じ込められ、未だ一人で彷徨っている。途方に暮れて当て所なく。
全てのものが大きく収縮し始めた。荒く猛々しく脈打っている。 その度合いが次第に大きく激しくなる。セカイが壊れるその兆し──。
( ……あ、これって、もしかして、 )
覚えがある、この崩壊の光景に。この感覚を知っている。
それは一筋の光明だった。静かに目を閉じ、記憶の底を探っていく。そうする内にも真紅の世界はドクンドクンと大きく深く息づいている。もうすぐ全てが崩壊する。心を落ち着け、記憶の流れを遡り、深く深く潜っていく。どこにあったろう、この感覚。いつ感じたろう、この痛みを。それは随分と古い記憶だ。人の記憶の最下層に位置し、密かに息づき眠り続ける原始の記憶。誰もが持つ太古の記憶。そう、知っている筈だ。この壮絶な闘いの末に現れるものは──何もかも、全てを破壊した虚無の果てに来たるもの、それは──
( ──そう、か )
愕然と息を呑み込んだ。ならば、これが最後のチャンスだ。何故なら壊れかけたこのセカイは──、世界が壊れるほどの荒々しいうねりは──、今、彼の身に起きている事は──。
けれど、彼をがんじがらめに囚えたら、このセカイは砕け散る。彼を身の内に捕えたままで。逃がさないと、
今すぐ、ここから。
( ノッポ君こっち! こっちを見てっ! )
自分はセカイの外にいる。この手を掴んでくれたなら、きっと彼を引っ張り出せる。声を限りに名を呼んだ。今すぐ彼に駆け寄りたかった。あの手を取って引っ張りたかった。けれど、もがいても、もがいても、宙にふわふわ漂うばかり。彼の世界には介入出来ない。見届けることしか自分には出来ない。ウォードは変わらず歩いている。振り返る素振りは全くない。声はやはり届いていない。
( ──どうしたら、いい! )
なす術もなく凝視した。彼まで距離がありすぎる。彼の心はとてつもなく遠く、分厚い壁に阻まれて全く僅かにも届かない。
無力さをまざまざと思い知らされ、彷徨う姿をただ見つめた。きっと彼はセカイの出口を見つけられない。崩壊するセカイから、彼は決して出ようとしない。捜す相手がまだ見つかっていないから。母親は二度と見つからないから。このままじゃ彼は、
セカイに呑まれる。
非情な結論に凍てついた。セカイの奔流に呑まれたが最後、彼は自分自身を失ってしまう。さ迷い歩く彼の姿は──成長を止めたなけなしの自我は、あの巨大な"本能"に比べ、あまりに弱々しく、あまりに小さい。
( ノッポ君…… )
歩き続ける孤独な姿に胸が詰まった。分かっているのに、何もしてあげられない。せめて彼に教えてあげたい。ここで見守っていることを。せめて彼に伝えたい。一人ぼっちではないことを。ずっと一人ぽっちで彷徨っていた小さく孤独な魂に。
──かわいそうに。
ふと、ウォードが立ち止まった。
目を眇め、聞き耳を立てている。慌てて彼の名を呼ぶと、訝しげに振り向いた。探るように手を伸ばし、硝子の瞳が凝視する。こちらの存在をはっきりと捉えた。
セカイが憤怒と共に牙を剥いた。
裏切りの気配を敏感に察して、" 声 " が一際高まった。彼を責め立てる糾弾の声が轟音となって押し寄せる。燃えたぎる時空はぐんにゃり歪み、地表がざわざわ蠢いた。セカイがウォードを取り込もうとしている。
崩壊は一層激しく進んだ。波打つ地面に足を取られて ウォードが転びそうに駆けてくる。セカイが彼をもぎ取ろうとしている。引き戻そうと。
逃がすまいと。
幾度もよろめき、つまずきながら、荒い息遣いが飛び込んできた。間近に迫った顔が歪む。精一杯に突き伸ばした手を、ウォードの乾いた手が掴み取る。
( お帰り、ノッポ君 )
目が眩む程の光の奔流。刹那、追い縋ったセカイが砕け散った。
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