CROSS ROAD ディール急襲 第2部 3章 8話5
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 まどろみからふと覚めたのは、何かの予感だったかもしれない。
 頬を撫でた不意の冷気に身震いし、エレーンは怪訝に見回した。火気はない。ゲルの中はすっかり冷え切り、シンとしていて薄暗い。
 天窓の先に群青の夜空が広がっていた。すっかり夜が更けている。向かいの壁は丸く焼け落ち、焦げた穴が穿たれて、冷気が外から吹き込んでいる。それを寒いと感じなかったのは、ウォードの体が風を防ぐ盾となり覆い被さっていたからだ。けれど、今のこの冷気は別の場所からやってきていた。
 首を伸ばして見回せば、戸口のフェルトが開いていた。四角く切り取られた黒と紺との草原の夜景。暗闇の中、何かが光った。
( ──誰!? )
 人がいる。はっ、と寝起きの目を瞠った。腕の先に鋭利な刃。
 ──侵入者だ。
 眠気がいっぺんに吹っ飛んだ。とっさに見やれば、胡座(あぐら)をかいて蹲ったウォードは肩に重く圧し掛かったまま、背に腕を回して寝入っている。影に悟られぬよう密かに揺するが、熟睡していて目覚めない。影が身じろいだ気配に、慌ててエレーンは目を戻す。
 薄暗い戸口を塞いで男の影が立っていた。逆光で顔は分からない。しばらく無言で室内を眺め、ゆっくり土足のままで入ってくる。警戒するような足取りだ。寝入った体を掻き抱き、エレーンは己を奮い立たせて睨めつけた。
「あんた何っ! 人を呼ぶわよ!」
 影が驚いたように足を止めた。暗闇の中でしばらく停止し、ややあって、ゆっくり身じろいだ。「──悪いが、外してくんねえか」
 意外にも静かな呼びかけは、予期せぬ相手のものだった。
 
 ゆっくりとした足取りで土間に近付いた影の姿が、天窓の星明りに晒される。相手の正体をはっきり認めて、エレーンは戸惑って首を傾げた。
「……バパ、さん」
 件の短髪の首長だった。だが、普段とはまるで雰囲気が違う。警戒するような足取りで、何より手には鋭利な刃。バパが溜息で切っ先を振った。
「どっか行っててくんねえか」
 意味がとっさに分からない。自分を排除するという事は──。唖然とウォードの顔を見た。肩に項垂れた横顔に薄茶の髪が降りかかっている。衰弱したように青白い寝顔。心身共に痛めつけられ、疲れ果ててしまっている。重たい体を掻き抱き、エレーンはどぎまぎ見返した。「……ど、どういうこと? ノッポ君をどうするつもり」
 精悍な顔でじっと見たまま、バパは何も応えない。普段の朗らかな様とは異なり、恐いくらいの真顔。
 ギクリと肩が強張った。大地に脚を投げ出したウォード、ガクリと力なく項垂れる首、胸に突き立った血塗れた刃──。昼の樹海の風道で唐突に立ち現れた幻影は、あの奇妙な白昼夢は、ウォードの身に危機が迫ると告げていた。切迫した不安が蘇る。そういえば、あの時も直後に現れたのは、この──? 不意に悟って息を呑んだ。
「い、嫌よ、行かない!」
 ウォードを抱き締め、首を振る。警戒すべきはこの首長だったのか──。
 バパは軽く嘆息した。「まさか、あんたが起きちまうとはな。さ、早くどいてくれ。あんたに見せたくねえんだよ」
 静かな顔を凝視したまま、エレーンは壁へと後退った。後ろ手に探った掌に水浸しの絨毯がひんやり触れる。焦燥に駆られて見回した。
「……ケ、ケネル、どこ?」
 そういえば、いない。戸口に立っていたあの二人が。ファレスがいない。ケネルがいない。どうして、いない。
 ──こんな時に! 
 バパは静かに首を振る。「ケネルは来ねえよ、ファレスもな」
 愕然と目を瞠った。二人の顔が素早く過ぎる。つまり彼らは黙認している──? 
( どうして…… )
 動揺に胸が打ち鳴った。動転して乱れた脳裏に、とある言葉が蘇る。いつか聞いたケネルの言葉。ウォードを扱いきれなくなったなら、彼の身柄を、
 " 処分、、する権限を付与されている "
「起きてっ! 起きてノッポ君っ!」
 もたれた体を必死で揺すった。肩に項垂れた薄茶の髪が、それに伴い左右に揺れる。目覚める気配は全くなかった。セカイからの逃亡で彼は消耗しきっているのだ。そして、安心しきっている、、、、、、、、
 戦慄して血の気が引いた。後退った背中が冷たい壁に突き当たる。これ以上は後がない。
「な、な、仲間でしょ! なんで、そんな酷いことができるのっ!」
 抗議の声が打ち震えた。辛うじて威嚇はしたものの息が荒く弾んでしまう。バパは哀れむように目を向けて、ゆっくり首を横に振った。
「もう、どうにもならねえんだ。この場にいる俺でさえ、この処分は覆せない」
 少し離れた中央の土間で、バパは足を止めていた。何故かそれ以上は踏み込んで来ない。すっかり寝入った背中を抱えて、エレーンは慌てて見回した。左に進めば出口がある。だが、見逃してくれるとは思えなかった。例え脱出できたとしても、ケネルもファレスもこの件については承知している。逃げ込んだ途端にウォードを取り上げられてしまうだろう。本人は元より疲れきっていて、目覚める気配はまるでない。八方塞だった。味方はいない。
 どこにも。
 胸が早鐘を打っていた。影に佇む目の前の首長が全く見知らぬ男に見えて、体が小刻みに震え出す。掌を強く握っても、震えは全く止まらない。あの短髪の首長がウォードの命を奪おうとしている。それが分かっていて差し出すことなどできなかった。せめて顔を睨みつけ、強く唇を噛み締める。バパは黙って眺めている。
 虚無の目だった。これから人を殺めようというのに、彼の瞳に揺らぎはない。さざ波一つ立っていない。いや、それどころか、その目の中には何もない。凪いだ水の鏡面のように。
 手慣れている。彼にとっては特別なことではない、、、、、、、、、のだ。そう、この人はこうした仕事の──。
「ほんの九つの頃だった」
「……え?」
 はっと我に返ると、バパは身じろぎ、静かな視線を向けていた。
「まだほんの九つの頃に、ヤツは大の大人を抱き潰した。犠牲者は自分の母親だ。ウォードは同年代の子供より一回りも体の小さい華奢で大人しい子供だったが、その細い両腕にはとてつもない力を秘めていた。事件後ウォードは恐慌を起こして、多くの深刻な被害が出た。どうにもならずに記憶を封じた」
「き、記憶を?」
 バパは一瞬先をためらい、苦々しげに続けた。「俺達の中には、特殊な力を持つ者がいる。ただの一睨みで、手向かう相手を昏睡させる事さえ出来る」
「──まさか、そんな」
 エレーンは唖然と絶句した。突拍子もない話だ。他人の記憶を自在に封じる、そんなことが可能だろうか。だが、異能者については似たような話を以前にも聞いた。予言ができる "さきよみ"の話、怪力ガライの迫害の話、それどころか、ケインの脅威の能力を目の当たりにしたではないか。つまり、ウォードはそうした者の手に掛かったということか。ならば、さっき見たあのセカイは、彼らが作りだしたウォードの " 檻 " ということになる。
 バパはしばらく押し黙り、観念したように息をついた。
「暗示ってのは、かけた者でなければ解く事はできない。だが、ウォードは自力で解いちまった。目を覚ませば、また暴れる。次はゲルの破壊くらいじゃ済まないだろう。九つの子供の時分でさえ周囲に甚大な被害が出た。まして、こうまででかくなっちまったら、」
「でも!」
「ヤツは過去、自分の母親を殺めている。次の"的"は間違いなくあんた、、、だ」
「──え?」
 思わぬ名指しに思考が止まった。怯んだ気を取り直し、自分を励まし首を振る。「で、でも、ノッポ君はそんなことしない。酷いことなんか、したことないし──!」
「こいつは男だぞ」
 ビクリと肩が弾かれた。叱咤するような強い語気を改めて、バパは諭すように首を振る。「──あんたが一番危ねえんだよ」
 エレーンは目を瞠った。つまり、ウォードが性急に処分される理由というのは、
「あ、あたしの為ってこと?」
 愕然とした。思いも寄らぬ理由だ。バパは軽い溜息で見返した。「分かったら、そこをどいてくれ。あんたに万一の事でもあれば困るんだよ、奥方様」
「……そんな、ことの為に」
 呆然と凍りついた。浅く震える息を吐く。ならば、自分の安全を担保する為に、予防線を張る為だけに彼の命を奪おうというのか──。怒りが沸々込み上げる。エレーンは顔を振り上げた。
「そんなのおかしい! あたしの命とノッポ君の命の、どこに違いがあるっていうの!」
「あるさ、とてつもなくでかい差が」
 バパは淡々と言い返した。
「あんたはクレスト領家の奥方様だ」
 もどかしい思いで拳を握る。何故、彼らには分からない。一方を生かす為に他を殺す、そんな事には意味がない。彼も自分も、きっと " 同じもの " なのだ。何故なら──。
 何かが見えかかっていた。先の崩壊の情景にも通じる大切な何かが。 今にも掴みかけていたそれは、だが、次の言葉に掻き消されてしまった。
「そんな要人に何かありゃ、ガライの件の二の舞だ。俺達はカレリアと事を構える訳にはいかない。ここで暮らす連中が、それじゃ立ち行かなくなっちまう。悪くすれば全滅だ」
「でも、だからって!」
「制御不能の一人の為に、全体を危機に晒す訳にはいかない」
 厳しい口調にはねのけられた。バパは得物を振って退去を促す。「静かにそこをどいてくれ。せめて楽に送ってやりたい」
 そして、溜息で付け足した「人の命の重みってのは、必ずしも同じじゃねえんだよ」
 エレーンは愕然と凍てついた。全く同じだ、あの時と。全く同じ卑屈な自嘲を以前アドルファスからも聞いていた。明らかに歪な認識を、彼らは根強く持っている。植え付けたのは周囲の者達、他ならぬこの国の者達だ。心が強く反発した。何かがおかしい。間違っている。このままじゃいけない。いい筈がない。けれど、今は──。
「……違う」
 様々な想いが入り乱れ、頭の中が混乱していた。正体のない重たい体を成す術もなく抱き締める。そう、今、守るべきはこの彼なのだ。物思いに気を取られている場合じゃない。鋭く顔を振り上げた。
「違う! ノッポ君はそんなことしない! 絶対しない!」
「確証はねえだろ」
「あるわよ! そんなこと、ある訳ない、、、、、! バパさんだって無闇に暴れたりしないでしょ。ノッポ君だってそれは同じよ。さっきのには理由があるの。ノッポ君はお母さんを捜していただけで、そりゃ、たくさん壊しちゃったけど、誰かを襲った訳じゃないし、なのに──!」
 バパは怪訝そうに眺めている。言葉が全く届いていない。遅まきながら気がついた。彼は知らない。"セカイ"の蝶が砕け散ってしまった事を。ウォードがゲルで捜していたのが「母親の破片」だということを。胸に焦燥が込み上げる。言い募れば言い募るほどに伝わらない。
 ──このままじゃ説得しきれない。
 募るもどかしさを噛み締める。案の定、バパは打ち切るように首を振った。
「このままじゃウォードは、遠からず世間の"敵"になる。周囲をことごとく破壊して、無意識に見境なく殺戮し、恨まれ、謗られ、袋叩きに遭う。知らない連中にまで石を投げられ、刑場に引き出されるその前に──」
「違う! 違う! 違う!」
 エレーンは必死で首を振った。そんな事をしちゃいけない。そんな事をウォードはしない。セカイの呪縛を振り切って、彼は自力で生まれ直した、、、、、、のだ。自分が身を置くこの場所に。どこまでも拓けた広大なる時間の流れに。そう、あの感覚を知っていた、、、、、。セカイが壊れる壮絶な体験。この世に存する誰しもが "それ"を掻い潜ってきた筈だ。何もかも、全てを破壊した虚無の果てに来たるもの、それは、
 再生。
 壮絶な闘いの末に得られるものは、解き放たれた広大なる世界。それを誰もが知っている筈だ。うねり苦しむセカイの光景、あれはまさしく陣痛だった。
 バパは軽く息をついた。話を打ち切るように、ゆっくり、おもむろに土間を踏み出す。
「さあ、そこをどいてくれ。ウォードも化け物として葬られるより、人のままで終わりたいだろう。せめて眠っている内に送ってやりたい」
「や、やめて! 駄目よ!」
 奪われまいと殊更に強く抱き締める。そういう風に、、、、、、生まれてきたのは彼本人のせいじゃない。
 悪夢を見ているようだった。ようやく勝ち取ったこの世界を、ウォードはまだ見ていない。そうだ、まだ何も見ていない。あらゆる可能性に満ちている新たなるこの「世界」を。長くまっさらな拓けた道を。
 ──求め続けてきたものが、ほんのすぐ目の前にあるのに。
「何とかなりませんかね、その処分」
 落ち着いた声が割り込んだ。
 
 
 
 
 

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