CROSS ROAD ディール急襲 第2部 3章 8話6
( 前頁 / TOP / 次頁 )


 
 
 恐る恐る目を開けると、戸口に男が立っていた。ズボンのポケットに手を入れた逆光を浴びたシルエット。皮ジャンの長身、直線的な細身の体躯、何より特徴的なあの禿頭。
 顔の傍らで紫煙がうっすら揺らいでいた。銜え煙草で背を屈め、ゲルの戸口を無造作に潜る。草原からの逆光を抜け出し、ゆっくりゲルに踏み込んでくる。
「こんなこったろうと思いましたよ。こいつが相手じゃ、姫さんどけてる余裕はないすからね」
 現れたのは全く予期せぬ人物だった。「──にしても、随分派手にやりましたね」と荒れ果てた部屋を見回して、ぶらぶら苦笑いで歩いてくる。
 バパの黒っぽい靴先に天窓からの星明りが当たっていた。差し込む光を僅かに避けて影の中に立ったまま、バパは黙って眺めている。
「覚えてますか、頭(かしら)。ウォードが連れて来られた日のことを」
 ゆっくりゲルを見回して、セレスタンは長く紫煙を吐いた。
「細っこい手足のちっこいガキで、向こうの連中に詰られて、いつも怯えて逃げ回ってた。なのに、こんなにデカくなっちまいやがって。ついこの間まで、俺の腰辺りまでしかなかったのになあ──」
「何の真似だ」
 バパの隣まで歩いて足を止めた。
「俺はこいつが可愛いんすよ。とうとう馬にしか懐きませんでしたけどね。隊長だって、ガキを始末するのが嫌だから、こっちに連れて来たんでしょ。もっとも、こんな真似をさせられるなら、すっぱり処分されてた方が、よほど楽だったかも知れねえが」
 ウォードの背を眺めやり、苦々しげに吐き捨てた。「十歳とうのガキに得物持たせて、生き延びたければ人を狩れ、なんて、あんまりだ」
 思わぬ話に息を呑んだ。彼らは僅か十歳とうの子供を戦地に送り込んだのだ。襲いくる凶刃に何れ淘汰されると知りながら。良からぬ兆候が現れた際には速やかに処分できるよう、常に手練れを傍に置き──。
「それでもケネルは、ヤツが生き延びる唯一のチャンスを、ウォードに与えてやったんだ」
 バパの静かな声が不服を諌めた。
「こんな風に生まれついたヤツは不憫だな。飛び抜けたその才を、周りからあてにされちまう」
「でも俺は、初めて仕事場に連れて来られた時の、怯えた面が忘れられねえ」
 一筋長く紫煙を吐いて、セレスタンはバパを一瞥した。
「ガキに得物ヤッパなんか持たせちゃいけねえ。ガキにあんなもん見せちゃいけねえ。拠り所がなくなって、綺麗なまあるいガキの世界がどんどん壊れていっちまう。人をのも鶏締めるのも区別がつかなくなっちまう。──ねえ、頭(かしら)、ガキはやっぱりガキですよ。そりゃ俺だって、産んで育ててくれた母ちゃん殺っちまったのは許せねえが──。でも、それでも、女子供ってのは守ってやるもんですよ。どんなに強くても、どんなにデカくても、例えそいつが " 親殺し " でも」
 語気を強めて言い切って、ウォードを庇うように立ち塞がった。「暴走したら、俺が止めます」
「止められるかよ」 
「俺が盾になってでも」
 真正面から向き直られて、バパは目を眇めて見返した。
「早速盾になる訳か。だが、いくらお前が庇ってやっても、こいつは助けちゃくれねえぞ。お前が敵に囲まれて、目の前でくたばりそうになろうがな」
「お構いなく。てめえのケツはてめえで拭きまさ。これは俺の流儀の問題すから」
 ぽい、とセレスタンが煙草を捨てた。「あ、母ちゃんの面倒だけは頼んます」
「……まったく無類のお人好しだな。腕の方はピカ一なのによ」
 視界を塞ぐ禿頭の背を、淡々としたやり取りを、エレーンははらはら凝視していた。ふと事情を理解する。こうして庇って逃がし続けてきたからこそ、何も知らない幼子が殺し合いの現場に放り込まれて尚、生き延びてこられたのだ。そして、彼は小さなその手に刃を持たせ、使い方、、、を教え、生き残る術、、、、、を教えた。
 胸が潰れるようなやりきれない思いで、眠りこけたウォードの青白い顔を見た。周囲の誰もが死を願い、命を繋ぐ為に早く成長するしかなかった子供。誰よりも大きく、誰よりも強く。味方は誰もいないから、誰にも気を許せずに、だから、友達の馬にだけ心を開いた。そうして、母親の不在に囚われたまま、ウォードの心は時を止めた。子供の殻を被ったままで。だが、誤算が起きた。戦場で死ぬと思われた子供は、大方の予想と思惑を裏切り、生き残ってしまったのだ。
 ウォードが得たのは子供の殻を被った心と、誰にも害されぬよう他人より大きく育った体。日々乖離が深まる二つの岸に引き裂かれそうになりながら、だが、体の成長に引きずられ、心が成長し始めて、ついには暗示の封印を突き破った。大人へと変化する抗い難い激動期を迎えて。
 バパは淡々と相手を眺めた。「──問題は、刺し違えたところで、ヤツを止められるかどうかだな」
「食い止めますよ、どうあってもね」
 やはり、セレスタンは気負いなく返す。「ガキのやんちゃを叱ってやるのは大人の務めだ、そうでしょう?」
 土間まで転がった赤い火種がチリチリ闇を焦がしていた。バパは得物を構えるでもなく、短髪の頭を僅かに傾け、静かに相手を眺めている。セレスタンは背を向けていて、どんな表情をしているのか見ることはできない。
 エレーンは固唾を飲んで見守った。禿頭の背を凝視しすぎて、頭の中が膨張する。自分の鼓動が大きく聞こえ、無性に喉が渇いて何度も唾を飲み込んだ。もたれかかったウォードの温かな体温が、今まさにここにある彼の命の存在を、静かに確かに伝えている。背を抱く両手に力を込めた。引けなかった、
 絶対に。
 呑み込まれそうな薄闇が、息苦しい沈黙が立ち込めていた。二人の男は対峙したまま微動だにしない。その輪郭を色濃い闇が侵食していく。やがて、バパが身じろいだ。視線をゆっくりこちらに向ける。
「後悔しても知らねえぞ」
 殊更に覚悟を促すような真面目な口調の念押しだった。エレーンは大きくそれに頷く。
 バパが手にした刃を鞘へと戻した。キン、と鋭い音がして、途端、空気がはっきりと緩む。
 立ちはだかったセレスタンの肩が、軽く上下して嘆息した。ゆっくり振り向き、あの禿頭が小首を傾げる。「──大丈夫、すか」
 ビクリ、とエレーンは我に返った。
「せ、せ、せれすたんっ!」
 あたふた彼に手を伸ばす。ポケットに突っ込んだままの皮ジャンの腕に、ガタガタ涙目で縋りついた。「……あ、あ、ありがと……ありがとっ、せれすたんっ!」
 ウォードの体を抱えたままで、脚に片手でしがみ付く。セレスタンは苦笑いで見下ろした。「──大丈夫すよ。済みましたから」
 呆れるほどに普段通りの声だった。今の今まで睨み合っていたのが、まるで嘘であるかのような。セレスタンは苦笑いで背を屈め、何度も「大丈夫すよ」と繰り返した。手慣れた仕草で宥めてくれる。エレーンはガタガタ張り付いていた。張り詰めた緊張が一気に解けて足腰が立たない。ウォードは膝で眠っていた。長い脚を投げ出して疲れきった顔のまま。バパはやれやれと無邪気な寝顔を見ていたが、肩を竦めて踵を返した。「──命拾いしたな、ウォード」
「バ、バパさん、あのっ!」
 とっさに背を呼び止めていた。口からでかかったその言葉が謝意なのか罵倒なのかは分からない。バパは肩越しにウインクした。「そのハゲ、中々やるんだよ」
「……え?」
 面食らって口をつぐんだ。一転すっかりお気軽な仕草だ。「──セレスタン」と口調を改め、バパはぶらぶら戸口に進む。落ちかかったフェルトをバサリと払った。
「一緒に盾になってやる。お前だけじゃ力不足だ」
 そりゃどうも、とセレスタンは身じろいだ。「ま、頭(かしら)なら、そう言うと思ってましたがね」
 飄々とした禿頭の背を、エレーンは戸惑って仰ぎ見る。本当は知っていた。宥めてくれた彼の手が微かに震えていたことを。
 未明の空は薄明るくなっていた。明け方の冷たい風がひんやり絨毯に吹き込んでくる。薄暗い戸口に立ったまま、バパは白み始めた暗い空を眺めている。
「──案外ヤツは、哀れんで欲しかったのかも知れねえな」
 朝焼けの空を眺める背から、独り言のような呟きが落ちた。
 
 薄暗かった壊れかけのゲルに、新たな日差しが差し込んだ。室内が急速に明るくなる。セレスタンは壁際でくたびれたように脚を投げ出している。ケネルとファレスは戻って来ない。あの短髪の首長から経緯を聞いているのかもしれない。
 明るくなった天窓の下、白々としたゲルの土間に暖かな日差しが降り注いでいた。セレスタンが掛けてくれた毛布に包まり、エレーンは光を振り仰ぐ。毛布から覗く膝上の髪を、手を伸ばしてそっと撫でた。新たな一日がやってくる。
 やがて、膝の髪が身じろいで、ウォードがようやく起床した。絨毯に手をつき、かったるそうに起き上がる。ずり下がった毛布に座り、怪訝そうに見回して「なんでオレ、ここにいるんだっけー?」などととぼけた事を言っている。何か言うかと思ったら、セレスタンは壁に寄っかかって知らん顔。ウォードは、何故セレスタンがここにいるのかと言わんばかりに不思議そうに眺めて「……まあ、いいかー」と目を戻した。そして、
「おはよー、エレーン」
 ごくごく普通に朝の挨拶。本来お椀型のゲルの壁にはある筈もない窓が開き、家財道具は散乱し、絨毯はぐっしょり浸水し、と己が今まで寝ていた場所が惨憺たる有様であるのだが、全く気にしてないようだ。
「──ね、ねえ、ノッポ君」
 朝の挨拶もそこそこに、エレーンは厳重に言い含めた。
「もう、ああいう荒っぽい真似はしないでね。人をぶったりとか、喧嘩したりとか──」
「なんでー?」
「……え?」
 なんで、と訊くか? そっからか? 果てなく遠い苦難の道のり……。はたと我に返って、エレーンはぶんぶん首を振る。
「や、やっぱ駄目でしょ暴力は! ノッポ君て馬鹿力なんだし! あ、だいたい、あたし、そういうのって嫌いだし!」
 寝起きのウォードは力の抜けた胡座(あぐら)で座り、首を傾げて怪訝そうな顔。「ふーん……」と大あくびで目を擦り、若干煩そうな顔で聞いている。そして、
「エレーンは、そーゆーの嫌いなんだー?」
 話の要所は全部はしょって、最後のところだけ、かったるそうに復唱した。だが、これは投げやりながらも、彼が関心を示した証。エレーンはここぞとばかりに頷いた。
「そ、そうよっ! 当たり前でしょ! ほ、ほらあ、森でぶったいがぐり頭も、すんごい顔で睨んでたでしょ! だから、ねっ!」
 ここは一番膝詰めで、にじり寄ってとくと力説。だらけた胡座(あぐら)で座ったままで、ウォードはそっぽを向いて大あくび。そっち方面の話には全く興味がないようだ。それでも、やきもき重要項目を説いていると、気のないあくびで頭を掻いた。「いいよー。あんたがそう言うんならー」
「……"言うんならー"って……ノッポ君、あのね……」
 エレーンは笑顔のままで引きつった。ものすごい適当、どうでも良さげだ。他人をボコボコに殴った後で、「忘れてたー」とか平気な顔で言いそうだ。そう、のんびりした見かけによらず、ウォードは意外と喧嘩っ早い。不安に駆られ、指を振り振り念押しした。
「ね、ノッポ君、わかってるー? くれぐれーも言っとくけど、無闇にぶっちゃ駄目なのよ? 他の人ぶっちゃ駄目なのよ、、、、、、、、、、、、? わかった?」
 ウォードが驚いたように見返した。面食らったように目を逸らし、何かを探すように目を眇め、硝子の瞳にもどかしさをたたえて口をつぐむ。しばしそうして黙っていたが、やがて首だけ倒して天窓を仰ぎ、「……わかったー」と返事をした。いつもの、どうでもよさげな応え方で。
 飄々としたウォードの顔を、エレーンは密かに盗み見た。ふと、胸が痛む。彼の瞳を過ぎった影は懐古だろうか、思慕だろうか。
 ウォードがのっそり腰を上げた。「顔洗ってくるー」と外に出て行く。それを見たセレスタンも「んじゃ、俺もこれで」とすたすた長い脚で出て行った。なんでも「陣中見舞いに行く」 のだそうだ。
 誰もいなくなったゲルを見回し、エレーンは一人あくびした。あれほど殺伐と暗かったゲルは、のんびりと暖かく、ガランと明るい。
 世界は平常を取り戻していた。すっかり気が抜けてしまい、うつらうつらしていると、静まり返った草原が俄かに賑わしくなってきた。微かな遠い音源は少し離れた隣のゲルであるらしい。元より口数が多いせいか、低く揺蕩うざわめきに野良猫の声が混じっている。そろそろ戻ってくるらしい。
 はた、とエレーンは思い出した。そういやウォードが戻って来ない。たかだか顔を洗うのに、そんなに時間がかかるだろうか──。心配になって戸口から覗けば、なんの事はない、樹海の木陰で長い脚を投げ出していた。いつも彼がそうするように。
 周囲が懸念したように、無闇に荒れたり、攻撃的になるような兆しはなかった。ぼうっとしているウォードの顔は、今までと何ら変わらない。ただ時折、遠くを眺めて目を眇めた。失ってしまったものを探すかのように。
 自分の身に何があったのか、ウォードには分かっていないようだった。細かに揺れる木漏れ日の下、自分の長い手足を持て余したように見ていたが、先の潰れたやいばを捨てて、立ち上がって歩いて行った。
 
 
 
 
 

( 前頁TOP次頁 )  web拍手


オリジナル小説サイト 《 極楽鳥の夢 》