CROSS ROAD ディール急襲 第2部 3章 9話1
( 前頁 / TOP / 次頁 )


 
 
 休憩中の草原は、のんびりのどかにざわめいていた。昼寝をする者、たむろす者、馬の世話をしている者──。常に周囲を睥睨し他人を寄せ付けぬこの男にして珍しく、今日は随分無防備だ。夜遊びでも過ぎたのか、仏頂面の頬は削げ落ち、目の下には隈(くま)さえある。普段は驚異的に勘が良く、逃げ足も異様に早いので、寸での所で逃げられ続けてきたのだが、今日は何故か大あくびの無警戒でのたくた草原を歩いていたので、すかさず手をかけ捕まえたのだ。その不貞腐ったような横顔を、クリスは拗ねた顔で窺った。「……もう。どうして、そんなに逃げるんですか」
 相手は腕をかけられて、憮然と柳眉をひそめている。「──さっさと言えよ、用件は何だ。その手を放せよ、鬱陶しい」
あたしの純潔奪ったくせに
 ぎょっ、とファレスが振り向いた。
合意だろ、あれは!
 クリスはみるみる顔を歪めた。
「……ひどい、ひどいわっ! あんな事しといて知らん顔するんですか」
 パッと面伏せ、しくしく首を横に振る。ファレスは脱力して嘆息した。「……お前な〜……今更んなこと言われたってよ〜」
 目を逸らして舌打ちし、往生したように頭を掻く。「だから、あんなに訊いたじゃねえかよ。たく。これだから、おぼこってのは──」
 ブツブツぼやくその顔には( 不覚…… )とあからさまに書いてある。くすん、と鼻をすすり上げ、クリスはチラと盗み見た。「わかりました。もういいです、あの事は」
「──そうか!」
 ほっ、とあからさまに安堵した顔で、ファレスが握手せんばかりに振り向いた。クルリとすぐさま踵を返し、そそくさ上機嫌で解散の手を振る。「なら、その話はこれまでってことで! それじゃあ、お前も達者でなっ!( 一切俺の関知しない所で )」
「でも、その代わり」
 すかさず腕を引き戻し、クリスは満面の笑みで小首を傾げた。
「協力して下さいね」
 ファレスが引きつってたじろいだ。「……協力だァ? 俺に何しろってんだ」
 だから〜、とクリスはくすくす笑い、爪先立って耳打ちする。ファレスはうんざり顔をしかめて内緒話を聞いていたが、途中でぞんざいに振り払った。「ざけんな。んなもん付き合ってられっか。なーんで俺がそんなこと」
逃げるんですか」
 去りかけた足が、ぴくり、と停止。その手の挑発に彼らは実に敏感なのだ。すかさずクリスは詰め寄った。「真面目に聞いて! 真剣なんですっ!」
 ほんの僅かな時間というのに、ファレスはげっそりやつれた顔だ。盛大な溜息で首を振った。「……なんでヤツにこだわんだよ」
「だってっ!──だって、あたし、隊長さんの所に行くしか──!」
 凝視で詰め寄るひたむきな顔を、ファレスはげんなり見ていたが、息を大きく吐き出して、なだめるように手を振った。「ヤツはやめとけ。あれはマジでヤバいって。何せ、あいつは──」
「へ、平気です、あたしはっ!」
 一瞬怯んで言葉を呑み、クリスは上目使いで睨み返す。ファレスはかったるそうに舌打ちした。「人の話は最後まで聞けよ。──いいか。ヤツが "戦神ケネル" だ。そう言やお前にだって分かんだろ」
「あたしは平気ですっ! それに、あのひとだって傍にいるじゃないですか!」
「……あのひとぉ?」
 ファレスは眉をひそめて聞き咎め、考え込むように首を傾げて「……ああ、あれのことか」と興醒めしたように呟いた。やれやれと肩をすくめる。「──あれは、別にそんなんじゃねえよ」
「どうしてですか! あのひとは傍に居てもいいのに、どうして、あたしは駄目なんですか。隊長さんの迷惑になんて、あたし絶対ならないわ」
「とにかく!」
 ファレスが語気を強めて遮った。「ヤツはマジで危ねえんだよ」
「でも!」
「自分の居場所に早く帰れ。関わらねえのがお前の為だ。もう、うろちょろすんじゃねえぞ。──な、わかったな」
 片手で肩を押し退けて、そそくさ「じゃあな」と踵を返す。
「──あっ、副長さんってば!」
 クリスはよろけて唇を噛んだ。長髪の背は振り返らない。集合場所の人込みに足早に紛れ込んでいく。それをもどかしげにじっと見送り、クリスは低く呟いた。「──最っ低」
 腰にさばさば手を置いて忌々しげに息を吐き、野戦服が大挙して犇めくのどかな木陰をクサクサと眺める。
「なあによ、あれ。使えないったら。あの連中も散々大きなこと言っといて、口先だけの体たらくだったし!」
 憮然とごちる罵倒の先には、胡乱にたむろすブルーノらの姿。いつもつるんでいる三人で大口開けて笑っている。クリスは苛々爪を噛んだ。「なあにが " ボスがいなくて調子がでない " よ!」
 男は言い訳ばかりする。広大な草原一面に、数十からの野戦服がワイワイガヤガヤのんびりだらけて広がっている。端から忌々しげに見回して、クリスは舌打ちして踵を返した。
「──ほんとムカつく、あの女、、、!」
 
 
 恋 敵 3
 
 
 ゆさゆさ肩を揺すられて、ふっと気づいて目を開けると、視界が何かで塞がっていた。それらの輪郭の向こうには雲を浮かべた青い空。
「──お、大丈夫か」
 右から左から上から下から、木漏れ日揺れる梢の中に、上から覗き込む四つの顔、皆、知らないおじさんばかりだ。いや、知った顔が一人いる。目線の上側、ゴツい顔の真ん中分け、青々した割れた顎、そう、がっしりとしたこの顎は、
「アーガトンさん?」
 エレーンは唖然と名を呼んだ。体を仰け反らせた上目使いで。( なんでいるのだ? )と見ていると、アーガトンは大きく嘆息し、尻もちをつくように腰を落とした。「……あーしんど。あんまり動き回ってくれんなよ。あんたはまったく馬から下りた途端にうろちょろうろちょろ──」
 投げ出した立て膝に腕を置き、一息ついたように改めて見返す。
「にしても、肝冷やしたぜ、あんた気絶しちまってるしよ」
 冷たい地面に手を付いて、エレーンはもそもそ身を起こした。囲んでいたのは四人の男。見れば、見覚えのある面々だ。ぺったり地面に座り込み、「どなたでしたっけ?」ととりあえず問えば、胡座(あぐら)をかいた円陣の四人は、皆アドルファス配下の班長だということだった。アーガトンの左から、短髪おっ立った顎ひげのおじさん、鉢巻巻いた穏やかそうなおじさん、その筋の人のように目付きの鋭いやや若そうな人、ヴォルター、エドガル、グンターと紹介されたが、そんなの多分覚えられない。話を聞きつつ何気なく周囲を見回すと、少し離れた大木の下にも二人いた。こちらは彼らより大分若い。よくよく見れば、昨日の乱暴男とあの珍しい引っつめ頭だ。こっちを眺めて突っ立っているから、あれらも仲間ということか? 何気に無礼なあの二人は、ハーヴィーとミランというらしい。ハーヴィーはアーガトンの部下、ミランはヴォルターの部下、まあ、彼らの番付などはどうでもいいが。二人ともこっちを見ているが、何を言ってくるでもない。自分の上司が近くにいるから、今日は大人しくしているのかもしれない。それはともかく、何故、彼らの顔に見覚えがあったのか、話を聞いてやっと分かった。彼らはノースカレリアを守ってくれた人達だった。ディールの軍とやり合っていた時、皆が詰めていた街道に何度か足を運んだから、どこかで姿を見かけたり、すれ違ったりしたのだろう。その都度ケネルに見つかって即刻摘み出されたが。
 ところで、何故に自分がここにいるのか肝心なところが謎である。円陣内では唯一話した事のあるアーガトンに事情を問えば、樹海を一人歩行中、何者かに後頭部を強打され、攫われかけていたところを辛くも彼らに助けられた、とかような次第であるらしい。
「それはそれは。どうも、お世話さまでした」
 ぺこりと丁重に頭を下げて、エレーンは後頭部をスリスリさする。さっぱり覚えはないのだけれど、そういや頭がズキズキ痛い。タンコブとかも出来てるような──? この会の主催っぽいのでアーガトンに振り向いた。「犯人は誰?」
「さ、さあ、知らねえ!」
 ぱっ、とアーガトンは目を逸らした。エレーンはまじまじ追求する。「でも、あたしのこと助けてくれたんじゃなかったっけ?」
「あ、生憎、顔は見なかったんだよな。なにぶん相手が素早くてよ」
 ますます深く目を逸らし、左上方を腕組みで眺めて、しきりに首を傾げている。他の三人に目を向けてみるも、何故か途端に同じポーズだ。空口笛を吹く面々を、エレーンは、ちろりん、と横目で見やった。嘘の下手な人達だ。スカートの膝をぱんぱん払って膝を立てる。「ま、いっか。──じゃ、あたしは戻るから。どこも何ともないみたいだし」
 よっ、と弾みをつけて立ち上がると、一同、えっ? と振り向いた。それぞれ、ぽかんと口を開け唖然と顔を見つめている。「なに?」と訊けば、アーガトンが困惑したように頭を掻いた。「前からいっぺん、あんたに訊こうと思ってたんだけどよ」
 腕を組んでまじまじ眺め、訝しげに顎をしゃくる。「なんで、そんなに上の空なんだよ」
「うわのそら? あたしが?」
 エレーンは己を指さした。アーガトンは身じろいで、立て膝の上に腕を置き「そうだろ。だってよ」と面倒そうに言葉を継ぐ。「頭ぶん殴られて気絶しといて、"ま、いっか " とは言わねえだろ普通。男だって若いヤツなら、顔の近くは気にするぜ。まして、あんたは女だろ。それを、なんで、そうも頓着しねえでいられるかな」
 胡座(あぐら)で座った面々も各々楽な体勢で仰いでいる。つくづく不思議といった顔。木陰の二人も同様だ。
「──まあ、そりゃあ、頭痛いし」
 小首を傾げた腕組みで、エレーンは、ふむ、と見返した。
「犯人、追求してもいいけど?」
 ぱっ、と円陣が目を逸らした。木陰の二人は溜息をついて、額を手で掴んでいる。まったく正直な人達だ。エレーンは肩をすくめて踵を返した。「じゃ、そゆことで」
「──あ、おい!」
 慌てて一同が乗り出した。腰を上げかけた円陣を制して、エレーンはすかさず見送りを辞退。「あ、そのままそのまま。大丈夫。セレスタンと一緒に来たから、近くで待っててくれてるし」
 本当は別の理由があって、ついて来られちゃ困るのだが。彼らは素早く見交わした。セレスタンの名を聞いた途端だ。怯んだように、それぞれのろのろ腰を下ろす。だが、まだ何か言いたげだ。
「──よお!」
 案の定、焦れたような声が呼び止めた。
「あ、いや。どうすんだよ、あんた、これから、」
 窺うように問い質してくる。ちょっとハスキーな低めの声。アーガトン、ハーヴィー、ミランの声は以前に聞いて知っているから、円陣の新顔の誰からしい。エレーンは足を止め、振り返らずに応えた。「あー、別にケネルとかには言わないし」
「……あん?」
 声がじれったそうに語尾を上げて促す。ちょっと柄が悪いから、あの恐そうな人かも知れない。エレーンはぴらぴら手だけを振った。「だからさ、報告、、とかはいいんじゃないの?」
 ピタリと背後が口をつぐんだ。身じろいだ気配を背中に感じる。胡座(あぐら)で円陣を組んだまま気まずそうに黙り込む視線。他の二人は離れているので、どんな反応なのか分からない。エレーンは振り返らずにそのまま歩いた。あの野営地の一件でつくづく学習したからだ。
 彼らの間には、なんか色々決め事があって、なんか色々縄張りがあって、なんか色々軋みがあって、平穏な日常の水面下では、常に牽制し合っている、そうした微妙なニュアンスが最近何となく呑み込めてきた。均衡を崩す面倒事を歓迎しない、ということも。
 ひっそり静かな午後の樹海、梢がさわさわ清涼に揺れる。誰も後を追っては来ない。そっと振り返り背伸びして、自分の姿が彼らの視界から消えたことを確認すると、エレーンは口横を手で囲い、声を殺して呼びかけた。
( け・い・んんーっ? どこにいるのおー? おねーさんはこっこよおー? )
 またまた例の呼び出しが来たのだ。ケインはだんだん我がままになる。誰それがぶった、誰それと喧嘩した、と些細なことで呼び出される。その都度即行やりくりし、「用足しに行く!」と言い訳しつつも、そそくさ捜しに来なければならない。顔を見た途端に抱きついてくるのは毎度のことだが、訳なく泣いて愚図ったり、甘えたり、怯えたり、当たり散らしたり、突然癇癪を起こしたり、拗ねて中々出て来ない事だってザラにある。子供の我がままと言ってしまえばそれまでなのだが、ケインの場合は、何かほうっておけない必死さがある。
「──あたっ!」
 後頭部に手を当てて、エレーンは怪訝に振り向いた。コツンと何かが当たったのだ。足元を見れば、木の実が一つ転がっている。ならば、これが木の上から落ちてきたのだろうか。でも、自然に落下したというよりは、今のは真横から、、、、きたような──。
( ……又だ )
 エレーンはげんなり溜息をついた。奇妙な事が起きていた。ゲルの靴脱ぎ場に脱いで置いた靴の紐が切れていたり、自分の荷物だけゲルの外に放り出されていたり、昼食が用意されていなかったり── いや、配給係のチョビ髭は「人伝に渡した」と言い張るのだが。そして、最終的には怒り出してしまった。仕方がないからお昼の時は、皆と同じ折り詰めのいやに盛りだくさんのお弁当をもらって、野良猫と一緒にせっせと食べた。因みに、頼んでおいた小振りのランチボックスは、どうした訳だか樹海の茂みに中身がぶちまけられていた。
 どうにも嫌な感じだった。そんなこんなのトラブルが朝からずっと続いている。見えない相手に裏で意地悪されているような。それに、周囲の目もいっそうギスギス冷ややかになったような気がする。
「──ついてない」
 無人の樹海を見回して、エレーンはごちて嘆息した。呼ばれて来たのに、ケインも来ない。なんやかやで気が滅入った。ケネルに鬱憤をぶつけようにも、碌に話さえしていない。ケネルの傍には常に誰か人がいて、今までみたいに甘えたり、八つ当たりしたり出来ないのだ。夜はずっと野営地だし、朝にはゲルにいるけれどファレスやウォードも一緒だし、馬で草原に出れば出るでケネルの馬にはクリスが同乗、休憩中もずっとクリスが張り付いている。馬も別々、ご飯も別々、そもそもケネルのヤツってば、休憩中の輪の中にクリスがちゃっかり混じっていても見て見ぬ振りを決め込んでいるのだ。こっちが遊びに行った日にゃ、顔見た途端に追っ払うくせに。
( な〜んか、あのだけ、待遇が違うような気がすんのよね〜 )
 やっぱ元カノは特別なのか? 
 エレーンはぶちぶち口の先を尖らせる。ケネルもファレスも何気にクリスの言いなりだ。チクチク傷つけられた繊細な心をこんな時こそまったり癒してもらいたいとこだか、森の小鳥や兔らも、めっきり姿を現さない。そういや最近、柄の悪い連中を森の中で見かけるから、それに怯えて出て来ないのかもしれない。
「──あ、そうか、だから」
 唐突に思い当たった。ケインが中々出てこない理由に。ファレスの声を聞いた時、明らかに怯えた様子だった。たぶん彼らが恐いのだ。あの荒っぽい見てくれが。だから、ケインは──
「ちょっと待ちなさいよ」
 出し抜けに声をかけられた。甲高い声、女だ。振り向けば、右後ろの大木の幹で、腕を組んでこっちを見ている。気の強そうな大きな目、幼さは残るが整った目鼻立ち、二つに結わえた長い髪、流行遅れのワンピース。あのは──
「うっ、……クリス」
 エレーンはげんなり溜息をついた。今日はやっぱりついてない。苦手なのだ、キツいから。だから出来る限り会いたくないのに、こんなにも広い樹海の中で、何故に出会ってしまうのか……。反射的に口に手を置き、エレーンは、おほほ、とお愛想笑い。
「あ、あら〜やだっ、偶然ね。──あっ、それじゃあ、あたしは急ぐからこれでっ!」
 後半早口、回れ右、そそくさ「ごきげんようっ!」と踵を返した。クリスは憮然と足を踏み出す。「あのねえ、耳でも遠いわけ? あたし、待って、って言ったでしょ」
 逃げ足は止めずに、エレーンは引きつり笑いで振り向いた。「な、何のご用かしら〜?」
 てか、なんで、そんなに突っかかってくるのだ。 クリスはツカツカついて来て、ジロリと顔を見返した。「商都に買い物に行くんですって?」
「はあ?」
 初耳だ。エレーンは足を止め、ぽかんと見返す。「そ、そんなこと誰が──」
「あら、みんな、そう言ってるわよ」
「……みんなが?」
 唖然とエレーンは絶句した。いったい何故にそういう話になっているのだ? だが、嘘をつく謂れは、クリスにはない。それに皆とも仲が良い。よく色々な輪の中で笑っている。彼らの方でもクリスであれば、構える事なく受け入れる。距離を置いたり、邪険な扱いをしたりはしない。
 仲間だから、、、、、
 チクリ、と微かに胸が痛んだ。蚊帳の外に置かれた自分の立場を今更ながら認識し、軽く唇を噛み締める。軽く傷付いて口をつぐんでいると、クリスは肩をすくめて手を振った。「ま、そんな事はどうでもいいわ。訊きたい事があんのよね、おばさんに、、、、、
「お──っ!?」
 エレーンはひくりと振り向いた。聞き捨てならない暴言だ。瞠目して己を指さす。「い、言っときますけどね! あたしは、まだ、おばさんて年じゃ──!」
 クリスがすっと目を眇め、細い腕をおもむろに組んだ。「あんた、隊長さんの何?」
「……な、何って」
 エレーンはたじろいで目を逸らした。答えに窮して言葉を呑む。この場合、" 赤の他人 " というのが事実に最も近いのだが、それでは元カノ・クリスに対抗できない。それに、ちゃっかり抜け目ない小娘のことだ、正直に白状した途端、増長するに決まっている。そうでなくてもこの女は、ケネルをずっと独占していて、ずっとむかむかしてたのに──。てか、こいつには意地でも認めたくない!
( ……でも、それなら、どうする? )
 むむう、と窮地に顔をしかめて、エレーンは密かに苦悶する。クリスは横柄に顔を傾け、胡散臭げに眺めている。早く何か答えないと、生意気小娘に負けてしまう。でも、優位な" 元カノ " に対抗できるポジションなんて、おいそれとは転がっていない。血縁じゃないのは明らかだし──。口を尖らせ目を逸らした。「あ、あ、あたしはねえっ! あたしはケネルの……」
「の?」
 ふふん? と勝ち誇って、クリスは促す。可愛い顔をしているくせに、挑戦的な冷ややかな瞳。エレーンは、むっ、と睨み返した。
「だ、だ、だからあ〜、あたしはケネルのお〜──」
 冷や汗だらだら。いよいよ崖っぷちにまで追い詰められる。クリスはうんざり促した。「さっさと言えば? 隊長さんの何だっていうのよ」
「恋人よっ!」
 はっ、と己の声で我に返った。
( 言っちまったー──! )
 あわあわ動転。水増しもいいとこ、ケネルが聞いたら、ぶっ飛びそうなイカサマだ。クリスは息を呑んで瞠目している。
( ……え? )
 エレーンはきょとんと見返した。あのクリスが絶句していた。人を人とも思わぬ不遜な娘が。勝気で小生意気な小娘が。困惑したその顔に罪悪感が込み上げた。今のやり方はちょっと卑怯だ。いくら牽制の為とはいえ、いくら憎たらしかったとはいえ、いくら売り言葉に買い言葉とはいえ、しかし、やはり、事実無根の空疎なホラをでっち上げで捏造するというのは──
( い、いや、いいのだ。これでいいのだ )
 気を取り直し、内心でぶんぶん首を振った。この非常識な失礼女を懲らしめてやるには良い機会だ。それに、ケネルには本当に恋人がいる。なら、悪い虫がつかないように追い払っといてあげないと。そ、そうよ、だから、──だから、──だから、あたしは──
 胸の奥深い場所が鋭く痛んだ。あの日の木陰での戯れが、楽しげに笑うケネルの顔が、彼女の綺麗な横顔が動転した脳裏をぐるぐる回る。クリスは小さく開けた口を閉じ、唇を噛んで睨んでいる。やがて、組んだ腕がゆるりと解け、そのまま力なく滑り落ちた。地面を睨んで俯いている。
「……でも、あたしは、」
 意外にも言い返してはこなかった。下ろした腕の先が拳を握る。漏れ出た声が震えている。話を真に受けている──?
「じょ、冗談! 今のナシっ!」
 とっさに手を振り、引きつり笑いで訂正した。「いや、ごめん、違うの今のは! ケネルの恋人はあたしとかじゃなくて、もっとずぅっと綺麗な人で──だ、だって、あんた、あたしのこと " 何 " とか失礼なこと言うから、だから、あたしもちょっと弾みがついちゃった、っていうか──」
「でも!」
 クリスが顔を振り上げた。憎しみに燃える敵視の瞳に、弁解の口が一瞬怯む。クリスが髪を払って踵を返した。
「あたし、あんたになんか負けないから!」
 駆け去るその背が、樹海の緑にみるみる紛れる。
「あ、いやあの、……だから、その〜……」
 剣幕の凄まじさに気を呑まれ、エレーンは唖然と見送った。ほりほり所在なく頬を掻く。
「……ほんの弾み、だったんだけど」
 聞く者のない言い訳が静かな木立に虚しく響く。木漏れ日落ち降る午後の樹海に、エレーンはぽつねんと取り残された。
 
 
 薄暗い病床で、男が無造作に脚を投げた。女は肩越しに一瞥し、唇を噛み締め、ためらっていた手を思い切ったように胸元にかける。
 薄い肩から長い衣が滑り落ち、一糸纏わぬ滑らかな背が現れた。脚を肩幅に開いて床を踏みつけ、女は毅然と振り返る。挑発するように男を見据え、肩を滑った長い髪を煩そうに払いのけた。「これでどう?」
 男は口笛で囃し立てた。
「──熱心なこったな。こんな所で小遣い稼ぎかよ。ここがどこだか分かっているか」
 深夜の町の病棟は、既に寝静まっている。消灯した薄闇の中、月光射しこむ病室には、簡素なベッドが一つ据えられているきりだ。
「あら、ご挨拶ね。わざわざ来てあげたのに」
 緩めた衣服を手早く掻き寄せ、女は拗ねたように口の先を尖らせた。男は皮肉げな口元を抜け目なく歪める。「俺の方の記憶だと、あんたとは初対面だったと思ったがな。こんな時間に忍び込むたァ、いったい、どういう魂胆なんだ?」
「野暮なことは言いっこなしよ。それとも、あたしじゃ不満なの?」
「とんでもない、陣中見舞いは歓迎するぜ。ほとほと退屈してたんだ」
 男は大袈裟に肩をすくめた。暗く荒んだふてた目で、殺風景な薄暗い部屋を忌々しげに見回している。「たく、シケた所に押し込めやがってよお」
「そ。なら、契約成立ってことよね」
 パイプベッドの背にもたれ、男は苦笑いで懐を探った。「──ああ、買うぜ。いくらだ」
「お金はいいわ。その代わり」
 女はすかさず釘をさす。「さっきの約束、お願いね」
「──約束だ?」
 男は既に上の空だ。背もたれから背を起こし、綿のシャツを脱ぎ出している。
「言ったでしょ、うるさい蝿を、、、、、、追っ払いたいのよ」
 不敵に笑い、クリスはバリーの頬傷を指でなぞった。
「そう、ちょっとあなたに協力、、して欲しいの」

 
 
 
 
 

( 前頁 / TOP / 次頁 )  web拍手


オリジナル小説サイト 《 極楽鳥の夢 》