CROSS ROAD ディール急襲 第2部 3章 9話3
( 前頁 / TOP / 次頁 )


 
 
 背後からも気配が近付く。顔こそ判別できないが、柄の悪い雰囲気がいつぞやの盗賊とそっくりだ。その姿を睨みつけ、エレーンはじりじり後ずさる。視線は正面から逸らさずに、素早く隣に耳打ちした。( ── 一、二の、三で逃げるわよ )
( ……え? )
 ぽかん、とクリスが瞬いて振り向く。その手首を引っ掴み、脱兎の如くに駆け出した。すぐに、クリスの顔が真横に突き出る。案外速い。足にはいささか自信があるが、遅れる事なく、いや、それ以上のペースでついてくる。へえ、と感心していると、並んで腕を振りながら、クリスがギッと振り向いた。
「ちょっとお! おばさんっ!  " 一、二の三 " はどしたのよっ! あんたの方が言ったんじゃないっ!」
( ……あ、いけね ) と思い出しつつ、エレーンも負けじと口の先を尖らせた。
「あんたがモタモタ振り向くからでしょー! あれじゃあ作戦バレバレじゃん。もうちょっとクールにやれないわけえ?」
「クールって何よ?」
 すかさず冷たく突っ込まれ、文句の口が、う゛……とたじろぐ。他人の不当は意地でも絶対見逃さないヤツだ。
「だ、だ、だからあっ! ほら、"以心伝心"みたいなさあ! ピンチの時とか、よくあるでしょー? あーゆー時は、もっとこう、さりげなくさあ!」
 苦し紛れに力業で引用。しらっとクリスは冷たい眼差し。エレーンは、むむむ、とドツボにはまった。急遽、要・話題転換!
「だ、だいたい何よ、どーゆーことよー! 見せたかった物ってコレなわけ!」
「はあ? そんな訳ないでしょ、あんた馬鹿?」
 ツン、とクリスがそっぽを向いた。昨日の敵は今日も敵。形勢極めて不利である。エレーンは、むっかあ、と拳を握る。
「馬鹿とは何よ馬鹿とは! あのねー知ってるー? 馬鹿って人が本当は一番──! そっ、そもそもあんた、口のきき方がなってないわよ! 仮にもあんた女の子でしょー! もっとおしとやかにしたらどうなのよ! まして目上に向かって馬鹿なんて!」
「悪かったわねえ、おばさんっ!」
「──ぁあんですってえええっ!」
 互いにギャンギャン罵り合いつつ、両手を振ってあたふた逃げる。刃物をぎらつかせた集団がすぐ真後ろに迫っているのだ。野太い罵倒と喚き声。捕まったら何をされるか考えたくもない。走る肩越しに窺えば、四人だった追撃者は六人にまで膨れ上がっていた。道を蹴散らし駆けてくる。何れも凄みのあるご面相だが、追いつくまでには至らない。見るからに不健全そうな面々だから、案外運動不足なのかもしれない。
「──なんで、あたしが、こんな目にっ!」
 途切れ途切れの呟きが聞こえた。前を睨んで駆けながら、クリスが首を捻っている。ふと、こちらを振り向いた。「……もしかして、あんた?」
 逃走の肩が、ぎくり、と強張る。
「誰かに恨みでも買ってんの?」
 ジトリ、と眺め、クリスは冷ややかに追求してくる。さりげなく視線をかわすも目が泳いだ。理由は皆目不明だが、心当たりは色々ある。
「あ〜らそう」
 得心したように、ふふん、と嘲笑い、クリスが意味ありげに一瞥した。「なら、あたしには関係ないわよね」
 さよなら、と手を振って、スカートをひょいと引っ摘み ( イチぬけたっ ) とあっさり遁走。
「あっ!?──ちょっと! 一人で逃げる気!? 薄情者っ!」
 ぎょっとエレーンは瞠目した。見捨てて逃げるかあの女!? 
 そして、あっという間に取り残された。なんという素早さ。そう、クリスの足はたいそう速い……。
 反射的に肩越しに窺う。「あれ?」 と拍子抜けして首を傾げた。追っ手が大挙して風道から樹海に逸れていく。つまり、狙いはあっちの──
「クリス?」
 ぽかん、と足を止め、樹海を見た。追跡の喧騒に入り混じり 「──ちょっと! なんでこっちにくんのよっ!?」 と驚愕の威嚇が聞こえてくる。
「……どゆこと?」
 肩で息をつきながら、エレーンは呆気にとられて首を捻った。どうも何かが腑に落ちない。クリスも身に覚えはないようだったし。もっとも、普通に暮らしているのなら、こんな目に遭うなど、まずないが。
 高音が静寂を貫いた。ビクリ、と震え上がってキョロキョロ見回す。なんだ、今のは。鳥の声? 木立に木霊す独特の抑揚、以前にもどこかで聞いたような……?
 はっ、と唐突に我に返った。こんな所で、のんびり突っ立っている場合じゃない。おろおろ草原方向を振り向いた。風道は無人で閑散としている。こちらに向かう気配さえない。
「──なんで誰もいないのよっ!」
 地団駄踏んで爪を噛んだ。耳を澄ませば、草原方面がざわめき出したような気がしないでもない。助けを乞おうと歩きかける。脳裏にふと、盗賊に襲われた先日の記憶が蘇った。賊はためらうでもなく平気でこちらを手にかけようとした。嘲笑って見下した野卑なあの声。

『 《 遊民 》 風情殺したところで、何の罪にもならねえんだぜ? 』

 顔を振り上げ、踵を返した。悲鳴を聞きつけ、誰かが向かっているのかもしれない。けれど、確認する間も助けを呼びに行く間も、今はない。草原までの道のりは遠く、クリスは今、まさに今この時に、理不尽な襲撃を受けているのだ。
 奥歯を食いしばり、喧騒を見据えて走り出す。幸い音源はまだ近い。苛々しながら下草を蹴る。しばらく走ると、生い茂る木立の向こうに追いかけっこが見えてきた。長い髪が振り向き振り向き、木立の間をジグザグに縫って逃げている。後に続くは刃を振りかざす凶暴な一団。
 エレーンは進行方向に目を向けた。あの集団に先回りすべく、賊に見つからぬよう全力で走る。駆け急ぐ視界で梢が揺れる。足場が悪くつまづきそうになる。胸が熱く息が切れるが、構ってなんかいられない。助けが来るまで、なんとかして逃がさないと。けれど、どこへ逃げたらいい。せめて武器になりそうな物でもあれば──。
 逸る気持ちで周囲を見回す。木々が静かに佇んでいた。辺りには藪と蔦と木立しかない。ここは人の手の入らぬ樹海なのだ。樹齢数百年とも数千年とも知れぬ幹周り十メートルを優に超える巨木が、太い幹を幾本も天に向かって突き上げていた。枯葉に覆われた至る所で、太い木の根がうねっている。黒土が無秩序に暴かれて、樹皮が剥がれそうにぷらぷらしている。枝から垂れ下がる紐のような蔦、岩のような苔むした巨木──。
 血相変えて探す目に、とある物が引っかかった。慌てて喧騒を振り向けば、集団はまだやって来ない。急いで駆け寄り、身を隠した。クリスが顔を引きつらせ、両手を振って駆けてくる。逃げている内にまた少し後続を引き離したようで、追っ手とは幾分距離がある。通過する手首を素早く掴んだ。
( こっち! 早く! )
 力任せに引っ張り込む。樹洞うろに転げ込んだクリスの体をすぐさま両手で引っ抱えた。クリスが驚いて暴れたが、喚きそうな口を片手で塞ぎ、力尽くで押さえつける。
 ややあって、追っ手が忙しなく通過した。足音と罵倒が遠ざかるのを聞きながら、クリスの頭を抱きすくめ、身を固くして息を潜める。
「……大丈夫……大丈夫よ!」
 胸の高鳴りだけが大きく聞こえる。突然止めた息が苦しい。こんな風に追いかけられた経験などないのだろう、クリスはガタガタ震えている。ませた口をきいたとて、所詮はまだ子供なのだ。
( ここは、あたしがしっかりしないと! )
 萎えそうな気持ちを無理やり鼓舞して、震える頭をゆっくり撫でた。自慢じゃないが、このところ、こういう場数は踏んでいる。祈る気持ちで唇を噛んだ。神経を張り詰め耳を澄ますも、助けはまだやって来ない。悲鳴が止んでしまったから、広い樹海の只中で居場所が特定できないのかも知れない。しばし、そうしてじっとして、無音が耳に痛くなった頃、そっと外を窺った。
 喧騒一過、森はひっそりと静まっていた。辺りは一面木立の海で、誰の姿もそこにはない。声もしない。
「……行った、かな」
 脱力の溜息と共に腕を緩めた。両手で強くしがみ付いていたクリスが、はっ、と弾かれたように顔を上げた。
「は、放してよっ!」
 途端にあたふた暴れ出した。不意打ちで手荒く突き飛ばされて、後頭部を強かにぶつける。涙目でそれをさすりつつ、エレーンは口を尖らせた。
( んもうっ! なにすんのよ! 可愛くないわね。せっかく助けてあげたのにぃ! )
 誰もいないが念の為、ここは小声で厳重抗議。クリスは一瞬たじろいで、グイと顎を突き出した。( 助けてなんて、誰が頼んだのよ )
( ──あんたねえっ! )
 ぴったり抱き合っていたのも束の間で、樹洞うろからモソモソ順番に出ながら、声を殺してブチブチ言い合う。エレーンはぷりぷりクリスを見た。
( なによ。さっきだって、一人でさっさと逃げちゃってさあ! )
 言われてクリスは、むむ、とたじろぐ。ぷい、と明後日の方向にそっぽを向いた。
( た、助けを呼びに行こうと思ったのよっ! )
( ……へえ〜 )
( 本当よっ! しょうがないでしょ! 《 ロム 》と違って指笛なんかできないんだからっ! )
( はあ〜? 指笛ぇ? あんた何言ってんの )
 面倒そうな舌打ちで、クリスが渋々説明したところによれば、ケネルらは指笛という特殊な連絡手段を持っていて、仲間内だけに通じるそうした排他的な暗号を時折用いているのだという。曰く、声の通らぬ騒がしい戦場で。敵前の水面下で意思疎通を図る為に。声の届かぬ遠い相手に意思や指示を伝える為に。
 森は静寂を取り戻していた。深い樹海には誰もいない。賊はすっかり通過したらしい。エレーンはやれやれと踵を返した。「まー、それはそうと、今の内に皆の所に戻んないとね。──さ、行くわよ」
「なによ偉そうに。命令しないでよ」
 べええっ、と憎たらしくも舌を出し、クリスは、ぷい、と歩き出す。一難去った途端にこれだ。現金な態度にむっとしつつも、エレーンはスカートの埃をパンパン払った。「で、結局何だったわけ? あんたが言ってた用っていうのは」
 クリスが、うっ──と返答につまった。落ち着かない素振りでどこかそわそわと目を逸らし、挙句、苛立った顔で振り向いた。「うっ、うるさいわねっ! なんでもないわよ、おばさんっ!」
「そこか」
 野太い声が割り込んだ。嫌な予感が背を撫でて、そろり、と二人、振り返る。
「──でたっ!」
 万歳三唱で飛び退いた。右手の藪を片手で押し退け、小太りの無精髭が立っている。無精髭が振り向いて「こっちだ!」と腕を振った。途端、あちらこちらで藪が鳴り、わらわら仲間が駆けてくる。瞬く間に六人の賊がバラバラ周囲を取り囲んだ。
「こーんな所にいやがった。なんてすばしこいウサギちゃんだ」
 一人が笑って刃を振った。取り囲んだ賊達は舌舐めずりせんばかりの下衆な笑み。手に手に鋭い刃を構え、ゆっくり包囲を狭めてくる。あっという間の出来事だった。逃げ道を探す暇などどこにもなかった。正面の賊のにやけた顔を、エレーンは唇を噛んで睨めつける。硬直して立ち尽くしたクリスの左の手を掴み、肩でかばってじりじり後退。背後には四方に枝を広げる古い巨樹──。正面の賊が怪訝そうに左を見た。「──おい、本当にこの女かよ。二十代半ばにしちゃ、なんかいやにガキっぽくねえか」
 左隣は苦笑いし、唇を舐めて一瞥した。「間違いねえよ、この女だ。馬群の中央にいるのを見たからな」
「だがよ、始末してから、間違いでした、じゃ済まねえぞ。別人を殺っちまったら面倒だ」
「あのとんでもねえ逃げっぷり、あんただって見たろうが。堅気じゃああはいかねえさ。それによ──」
 クリスの握った左手に向け、意味ありげに顎をしゃくった。正面の賊も視線を向け、クリスの顔を胡散臭そうに眺める。アバタ面の小男がおどけた調子で肩をすくめた。「悪りィなあ、姉ちゃん。俺達に見つかっちまったのが年貢の納め時ってことで、ここはひとつ潔く観念してくれや、な?」
 からかうような猫撫で声。すっかり取り囲んだ今となっては、万が一にもしくじるなどとは微塵も考えてはいないようだ。クリスが腕にしがみ付き ガタガタ震えてうつ伏せた。「……な、なんで、あたしなんかを、」
「覚えがあんだろ、盗人が」
 アバタ面の小男が蔑み笑いで吐き捨てた。「人様の物を失敬したりするから、こういう目に遭うんだよ。精々てめえの手癖の悪さを後悔しな」
 クリスの肩を引っ抱え、エレーンは狭まる包囲を睨み据える。固い樹幹が踵(かかと)に当たった。これ以上は後がない。素早く肩越しを窺えば、賊は背後にも回っている。比較的手薄な場所を必死で探すが、どの男も手強そうで、踏み込もうとする足がすくんでしまう。正面の男が業を煮やしたように舌打ちした。
「おい、どけや羊飼い! なんだ、てめえはさっきから。邪魔立てばっかりしやがってよ。そこにいると道連れにするぞ」
 鬱陶しげに刃を振られ、名指しされたエレーンは唇を強く噛みしめる。
 巨木の梢がさらさら鳴った。助けを求めて耳を澄ませば、樹海がざわついているようにも感じられる。だが、音源は依然として遠く、広大な樹海のどの辺りにいるのかさえ定かでない。一か八か助けを呼ぼうか。いや、そんなことをすれば、たちまち飛びかかってくるだろう。それでは遅い。腕尽くでこられたら、抵抗しようが勝ち目はない。
 出方を巡り葛藤する。クリスを抱いた左の手に力がこもる。もう一方の手が知らぬ間に何かを握っていた。ふと気付いて視線をやれば、揺らめく木漏れ日に反射して手の中のそれがキラリと光った。
( ……夢の、石 )
 首飾りの翠石、お守りにしているあの欠片だった。賊の動きを睨みつつ、震える掌を強く握る。エレーンは、ゴクリ、と唾を呑んだ。汗ばんだ右手を握りしめ、祈りを込めて息を詰める。人の世の望み、須らく叶える夢の石よ。お前が本物だというのなら、今この時にこそ奇跡を起こして──
( 助けて! お願い! )
 巨木の梢がさらさら揺れた。包囲された足元で、うねった木の根に木漏れ日が揺れる。嘲笑って近付く包囲の足は止まらない。
 変わらなかった、何一つ。反応しない、何もかも。遠くで誰か怒鳴っていた。気配が慌しく近付いてくる。けれど、もう手遅れだ。刃が木漏れ日に煌めいた。ついに野太い蛮声をあげ、包囲が一斉に地を蹴った。クリスの体を引っ抱え、とっさにしゃがんで首をすくめる。
 空気が背後に流れたのを、張り詰めた頬に微かに感じた。遠くで地鳴りを聞いた気がする。
 がくん、と体が大きく揺れた。一瞬、耳が聞こえなくなる。いっぱいに膨らませた紙袋を突如耳元で割られたような衝撃。顔に突風がまともに当たり、前髪が激しく舞い上がる。全身に押し寄せる風の奔流。
 足を踏ん張り、呼吸をとっさに止めていた。知らぬ間に目を瞑っていた。何が起きたか分からない。頭といわず肩といわずバラバラ何かがぶつかってくる。痛いくらいに。これは──
 怪訝に思い、目を開けた。視界に森が映し出された。閑散としている。誰もいない。今の今まで、あんなに大勢の賊がいたのに。
 誰一人いなくなっていた。深い樹海の背景も、今しがたとは明らかに違う。ひっそりとした森の景色を、エレーンはただただ唖然と見回す。クリスが腕の下で身じろいだ。
「な、なに?……どういう、こと……?」
 恐る恐る立ち上がり、胸で手を握って、おどとおど様子を見回している。
「……だいじょう、ぶ?」
 息を切らした囁きが聞こえた。甲高い子供の声。後ろだ──。
 はっ、とエレーンは振り向いた。巨木のうろから何かが出てくる。塗り潰したような漆黒の中、大きな瞳がじっと見ていた。荒く息をついている。青ざめた顔、滑らかな頬、細い手足、ぶかぶかの白っぽい服。華奢な肩がグラリとよろける。転げ込んだ小さな体を膝をついて抱き取った。
「──ケイン、あんた、」
 体を揺り動かそうと身じろいで、はっ、と息を呑んで振り向いた。服地が肩に張り付いている。何かでぐっしょり濡れているのだ。いや、自分の服だけじゃない。この嫌な感覚には覚えがある、、、、、
 濡れた枯葉の足元に、指が一本落ちていた。血溜まりの中に転がって──。一瞬にして血の気が引いた。急激に募る緊張に体が一気に強張っていく。"あの時"と同じだ。木々も、地面も、下草も。そこだけ雷雨に見舞われたような濡れそぼった木立の木々、滴る葉先、下草にできた方々の血溜まり──。
 呆然とした。恐怖も悲しみも何もない。頭の中はぽっかりと空虚だった。こんなにも凄惨な光景が目の前に厳然として在るというのに、夢の一シーンを見ているかのように、まるで現実味を伴わない。頭が受け入れを拒絶して、感情が呼び覚まされるのを阻害している──
「ひ、ひ、人殺しぃっ!」
 取り乱した掠れた悲鳴が、動転した混沌を貫いた。はっ、と傍らの声を振り向く。
「あ! ク、クリス、これは、」
 取り繕おうとするも遅かった。クリスはそれ以上ないくらいに瞠目し、口を押さえて首を振っている。凝視の先は腕の中のケインだ。蒼白な顔で眦(まなじり)を上げた。
「……あんたね。……あんたがこれをやったのね! こ、この化け物っ!」
 気が触れたように金切り声で罵倒して、止める間もなく飛び退いた。腰が砕けたかのように踵を返し、木々の間を転げるようにして駆けて行く。エレーンはケインを抱き抱えてへたり込んだ。呆然と腕を見る。ケインは肩で息をつき、蒼白な顔で目を閉じている。
「……ケイン、どうして」
 子供の額の汗で張り付いた湿った髪を、なす術もなく指先で退けた。何が起こったのかは分かっていた。下草の中に物体がバラバラと散乱していた。それは恐らく千切れた手足、そして服に包まれた肉体の一部。下草に覆われていて視認こそは出来ないが、それが何であるのかは見るまでもなく分かってしまった。
 ケインが放った奔流は凄まじい爪跡を残していた。およそ信じ難い光景だった。まるで悪夢だ。いや、夢ならどんなに良かったろう。浅い呼吸で懐を見た。ケインはぐったり腕にもたれて薄い瞼を閉じている。その縁が時折震える。乾いた唇を薄く開け、熱に浮かされたように喘いでいる。小さな体はとても熱くて、自力で立っている事さえ叶わない。エレーンは強く唇を噛んだ。この場を一体、どうしたら、いい。あの大勢の賊達を、この子が一度に吹き飛ばしてしまったのだ。
 頭の中が朦朧としていた。途方に暮れてへたり込み、子供の額をただただ撫でる。どうしていいのか分かりかねた。いや、どうする事もできなかった。ケインは青色吐息で、か細い呼吸を繰り返している。頭の中には濃霧が立ち込め、思考はすっかり停止している。何も考えられはしなかった。あるのはただ、何もかも、全てが一掃された森──。
「どうした!」
 ギクリ、と心臓が飛び跳ねた。どこかで聞いた厳しい声だが、誰だかとっさに分からない。速い足音。草を薙ぎ払う荒い音。誰かがここにやって来る。どうしたらいい、この場を。どうしたらいい、
 この子を──。
 右手の藪が激しく鳴った。慌てて体を捩った時には、踏み込んできた編み上げ靴は、既に藪を踏み越えていた。皮ジャン、黒髪、真剣な眼差し。
「──これは」
 下草を鳴らして、ケネルが絶句で足を止めた。無言で端から見回している。
( どう、しよう…… )
 心臓が早鐘のように打ち出した。すぐに事情を訊かれるだろう。いや、申し開きのしようがない。膝をついたまま前屈みになり、ケインの体をさりげなく隠す。ケネルは気付いてしまうだろうか。この惨状にこの子が関与することを。静かに長く息を吐き、ケネルがゆっくり振り向いた。
「お前がしたのか」
 エレーンは唇を噛み締めた。自分に訊いたのではないことは、確認するまでもなく明らかだった。ケネルの視線はまっすぐケインを捉えている。ケインが弱々しく身じろいで、眩しそうに顔を上げた。
「……タイ、チョー」
 だが、ケネルと視線がかち合った途端、怯えたように目を逸らす。ケネルがツカツカ近付いた。ケインの腕をすぐさま掴んで、手荒く体を引っ立てる。とっさに取り縋るも叶わなかった。容赦なくケインをもぎ取られ、弾みで前のめりに手を突いた。慌てて振り仰げば、片腕で吊り上げた華奢なケインを、ケネルが下草に押しつけている。肩を掴んで膝をつかせ、スラリ、と短刀を抜き払った。
「な、何するのっ!」
 とっさに地を蹴り、短刀の腕にしがみ付いた。ケネルはまるで目もくれない。項垂れたケインの華奢な肩のみを見下ろしている。ケネルが顎だけをぞんざいに振った。「あんたは向こうに行ってくれ」
「でもっ! ケインはあたし達を助けようと──!」
 取り付いた腕を無下に振られて、勢いのまま転がった。気付けば、目の前に下草があった。打ち付けた肩が鈍く痛む。
「早く行け」
 苛立ったように叱咤され、慌てて手を突き、起き上がった。ケネルは座らせたケインを見下ろし、その細い首に鋭い切っ先を当てている。
「言い残すことはあるか」
 静かな声でケネルが尋ねた。無表情だ。あの朝ゲルに踏み込んできた短髪の首長のそれのように。ケインはビクリと体を震わせ、観念したように項垂れた。「……い、いたく、しないで」
「希望に沿うよう努力する」
 ケネルの切っ先がすぐさま動いた。華奢な肩を片手で掴んで、慎重に刃を振り上げる。
「……だ、だめ」
 制止する声が上擦り、掠れた。予想だにせぬ最悪の事態が、今、目の前で起きていた。ケネルがケインを殺そうとしている──。
「ケネルっ! だめっ!」
 とっさに大地を踏み込んだ。日差しに刃が一瞬煌めく。ケネルが驚いた顔で振り返り、不意を突かれてたたらを踏んだ。傾いだケネルにしがみ付き、横倒しに転げ込む。仰向けに倒れたケネルの上によじ登り、急いでうつ伏せ、押さえつけた。弾みで地面に投げ出されたらしく、ケインは少し離れた所でうつ伏せになって倒れている。腕を立てようとケネルが身じろぐ。エレーンは夢中で押さえつけた。
「逃げて!」
 ケインがのろのろ体を起こした。だが、尻もちをついたまま、呆気にとられて凝視している。
「何してるの! 早くしなさい!」
 ケインがもたもた立ち上がった。
「──ご、ごめんなさい、タイチョー」
 おろおろ引きつった顔で踵を返し、小さな体を前後に揺らして足を引きずり走り出す。先へ先へと突っかかるように。大気の中に切り込むように。懸命に走る小さな体が端からさらさら消えていく。濃霧が引いていくように。
 ケインが持つ特異な力。それを目の当たりにして慄然とした。今更ながら動揺が逆巻く。ケインはやはり、並みの少年などではないのだ……。
「どいてくれ」
 落ち着いた声に我に返った。慌てて下を向いた途端、至近距離でケネルと目が合う。
「──ご、ごめんケネルっ!」
 すっかり下に敷いていた。体の上から下りようとあたふたしながら身じろぐが、手足に力が入らない。今頃になってすくんでしまったらしいのだ。焦って手足を動かすも、氷の上で立ち上がれずに無様に泳いでいるような格好だ。ケネルが地面に寝たまま嘆息した。それに急かされ、起き上がろうと慌ててもがく。平手で後ろ頭を掴まれた。と思った時には、顔を胸に押し付けられていた。とっさに体を仰け反らせ、あたふた逃れるべく顔を上げれば、ケネルはすぐさま捕え直す。ギクリとエレーンは硬直した。
( ケ、ケネル……? )
 胸に頬を押し付けられて、絶句の赤面でなす術もなく固まる。頭の中は真っ白だ。ケネルの静かな息遣いを感じた。あの気配を間近に感じて、苦しいほどにどぎまぎする。ケネルは幾度か深い呼吸を繰り返し、片腕で体を抱きかかえると、ゆっくり慎重に上体を起こした。妙な角度で乗りかかっていた脚が、それに伴いずり落ちて、硬い地面を無防備に叩く。
「……あんたに体当たりされるとは思わなかった」
 脚を投げ出して座ったままで、ケネルは溜息で脱力した。伸ばした脚の上に成り行きでへたり込んでしまいつつ、ぼうっとしなから見ていると、ケネルがおもむろに顔を上げた。顔に手を伸ばしてくる。「大丈夫か」
「──痛たっ!」
 エレーンは悲鳴を上げて飛びすさった。頬にケネルの指が触れた途端、鋭い痛みが走ったのだ。恐る恐る触ってみると、指の先が赤く染まった。──切れて、いる?
「無茶な真似をするものだ」
 ケネルがこちらに両手を伸ばして、脇の下に差し入れた。そのまま体を持ち上げられて、脚横に造作もなく押し退けられる。見れば、少し離れた下草の上に、ケネルの短刀が転がっていた。無我夢中で飛び込んだあの時、とっさに引いた切っ先に掠ってしまったらしかった。そのまま押し倒されて、されるがままになっていたところをみると、ケネルは意外にも、こちらの頬を切った事によほど驚いてしまったらしい。押し退ける気があるのなら、すぐにもできただろうから。自由になった脚を投げ出し、ケネルは舌打ちで首を振った。「……逃げられちまったな」
「な、なんで、ケネルがここに」
 それについては応えずに、疲れたように嘆息する。「何故、俺の邪魔をする」
「だ、だって!」
「馬鹿野郎。ここで終わらせてやる方が、あいつには余程楽だったろうに、、、、、、、
 え? とエレーンは面食らった。言っている意味が分からなかった。この先どんな苦労があったとて、死ぬよりましには違いない。
 冷たい下草に尻を落として、しばらく座り込んでいた。腰が抜けてしまって立てそうにない。ほんの短い数十分の間に様々な事件が一度に起きて、頭の中は混乱し、何も考えられない状態だ。賊に襲われ、クリスと逃げて、ケインがそれを粉砕し、ケネルがケインを殺そうと──。
 視界の隅に、あの横顔があった。そう、ほんのすぐ傍に。とくん、と胸が高鳴った。
( ──ケネル、だ )
 ケネルがいる。こんなに近くにケネルがいる。そんな場合じゃないのは分かっているが、何かひどく久し振りな気がして、切なさが胸いっぱいに込み上げる。「あ、あの、ケネル──」
「何故、すぐに逃げて来ない」
 伸ばしかけた手がビクリとすくんだ。日頃物事に動じないケネルにして珍しいことに、咎める声はいつになく厳しい。芽生えかけていた感傷が、その一言で吹っ飛んだ。慌てて渋面から目を逸らし、しどもどしながらエレーンは応える。「──だ、だって、クリスが捕まりそうになって、だから、あたしは、」
「身の程知らずが。そんなものは捨て置いて逃げろ」
 苦々しげなケネルの言葉の意外な冷たさに戸惑いを覚えた。よく知るケネルの別の面を見た気がする。うろたえ、まごつき、返事に詰まった。「──で、できる訳ないでしょー! そんなこと!」
 それでもようやく応えると、ケネルは真顔で目を向けた。
「少しは立場を考えろ。あんた、自分が誰だか分かっているのか」
「……ケネル」
 怒ってる?
 エレーンは当惑して口をつぐんだ。ケネルは自分が声を荒げた事に急に気付いたように口をつぐみ、溜息をついて目を逸らした。「無事で済んだから良かったようなものの。どうしてあんたは、いつも自分一人で対処しようとする」
「だ、だって、間に合わないと思ったから。それじゃ駄目だと思ったから! だって、あたしは──!」
 激しい反発が込み上げた。譲れない答えが胸にあった。けれど、容易に取り出して見せられるような、そんな生易しい事柄でもなかった。口には出せずに、込み上げたもどかしさを噛み締める。
 取りやめてしまったその先を、ケネルは怪訝そうに待っている。やがて、小さく嘆息した。「せめて大声で助けを呼べ。ああした輩は、あんたの手には負えない」
 梢がさらさら鳴っていた。木漏れ日がのどかに下草に揺れ、鳥の囀りが戻っていた。いやに穏やかで奇妙だった。どれほど凄惨な出来事も、森は平穏に何事もなく、深い懐に包み込んでしまう──。藪を掻き分けるはっきりとした気配が近付いてきた。
「──隊長」
 ややあって、藪を掻き分け、男が出てきた。落ち着いた声、見慣れた皮ジャン、長い前髪のキツネ目の男。逸早く駆けつけたのはザイだった。ケネルは膝に手を置いて、大儀そうに立ち上がる。
「……こいつは」
 ザイが面食らったように足を止めた。絶句で周囲を見回している。ケネルは短刀を拾い上げ、そちらに淡々と目を向けた。
「例の " 特種 " がカレリア人を殺害、逃亡した。速やかに確保、処分しろ」
「ケ、ケネルっ!」
 エレーンは瞠目して見返した。耳慣れない言葉だったが、ケインのことだとすぐに分かった。
「ケネル待って! ケネル!」
 ケネルは一瞥しただけで取り合わなかった。「六歳男児、左足先欠損。対象を破壊する能力があるから、接触の際には注意しろ」
「すぐに向かいます」
 ザイは一礼して速やかに離れた。深い樹海に鋭い高音が木霊する。
( ……指笛? )
 木立の狭間で、ザイが足を止めていた。僅かに見える横顔の輪郭の口元に手を宛がっている。これが指笛。クリスが言っていたケネル達の連絡手段。高く鋭い独特の音律。
 一瞬、ざわめきが沈黙した。森にある全ての気配が耳を澄ましているような、ぽっかり抜けた唐突な空白。すぐに四方のざわめきが蘇った。喧騒がどんどん大きくなる。樹海に散った幾十もの傭兵が、明確な指示と意思に従い、動き出す──。
「何してんだ、てめえ!」
 怒鳴り声が唐突にかかった。ギクリと体を震わせて、エレーンはそろりと振り返る。苛立ちを隠そうともしない横柄で直線的な柄の悪さ。この声は──。
 両手を憤然と腰に当て、ファレスが眦(まなじり)吊り上げ、仁王立ちしていた。騒然とし始めた樹海の様子に訝しげに眉をひそめ、ぶらぶら見回しながら歩いてくる。ふと余所見の視線を慌てたように戻した。「──顔どうしたんだ、お前!」
 怒鳴りつけるなり、足早にツカツカ近付いてくる。逃げる間もなく肩を掴まれ、片手で顎を掴まれた。
「切れてんじゃねえかよ、誰にやられた!」
 顔の直前、唾を飛ばしてファレスががなる。二本の指で挟まれた弾みで唇を、むに、と尖(とん)がらせ、エレーンは涙目で飛び上がった。
「い、い、痛いっ! 痛いって女男っ!( = だから触るなっ! )」
 ファレスのこめかみに苛立ちの符丁、眦(まなじり)吊り上げ、目を剥いた。
「やかましいっ! ピーピー喚くな! 誰がやったか、さっさと言え!」
「──ああ、俺だ」
 鋭くファレスが振り向いた。
「ケネル、てめえ……」
 顔色が変わった。すぐさま長髪を翻し、大股でケネルに歩き出す。険悪だ。この声の剣呑さは、絶対ぶん殴ろうとするに違いない。この野良猫は誰より短気だ。エレーンは驚いて取り付いた。
「ち、違う! 違うの女男! わざと切ったって訳じゃなくって! これは事故で、あたしの方が飛び込んじゃって、ケネルはそれを避けようとして──て、まずは、あんた、止まんなさいよっ!」
 腕を掴んで、ふんぬ、と体重をかけて踏ん張るも、ファレスの前進は止まらない。結果無残に引きずられ、地面を掘り返す二本の轍(わだち)……。一足飛びで前に回って、胸に両手を突っ張った。顎から歩くファレスの歩行を、脳天すり付け全力で阻止。「あ?」とファレスが今更ながら見下ろした。と思ったのも束の間で、
「おう、退けやコラ」
 ギロリと凄んで不穏に威嚇、苛立った顔で顎をしゃくる。断固嫌だと拒否すると、苛立ちがすぐに爆発した。
「どけってんだ! 鬱陶しい!」
 ……お前は誰の味方なのだ!?
 エレーンはあんぐり口を開ける。血を見て理性がぶっ飛んだのか? なんで頭に血が上っているのか、もう分からなくなってるな? 喧嘩っ早いのは知ってたが、こんなに激しやすいヤツだとは思わなかった。もっとも、見知らぬ他人の喧嘩であっても、参戦しようとするヤツだ。
「だから違うんだって! あのねー!」
 鼻息も荒い見境ないファレスに、エレーンはあたふた経緯を説明。澄ました顔で聞いているケネルを憎々しげに睨みつつ、ファレスは辛うじて踏み止まっている。危機は脱したと思ったか、ケネルが嘆息混じりに手を振った。「手当てをしてやれ」
 その時、遅れてセレスタンらが到着した。それを見てケネルは、さっさとそちらへ踵を返す。新たな指示を出しに行く気なのだ──。はっ、とエレーンは我に返った。
「と、止めて女男! ケネルを止めて!」
 そう、顔切ったどころの騒ぎじゃないのだ。
「違うの! ケインはあたしを助けようとして! でも相手は大勢で、刃物持ってて、クリスと二人きりで襲われてて、だから、ケインは仕方なく──」
 ファレスが眉をひそめて見下ろした。「理由はどうあれ、やっちまったもんは、やっちまったもんだ。今更どうにも、」
「そんなのおかしい! 襲ってきたのはあの人達の方じゃない! なのに──!」
「善人だろうが悪人だろうが関係ない」
 ファレスがピシャリと言い捨てた。
「問題なのは、そいつがカレリア人かどうか、、、、、、、、、ってことだ」
 エレーンは虚を突かれて口をつぐんだ。思わぬ理由だった。アドルファスやバパからも、そうした台詞を聞いてはいた。だが、日頃野放図なファレスまでもが、そんな卑屈なことを言うなんて──。はっ、と我に返って振り仰いだ。今は、そんな事はどうでもいい。
「お願い女男っ! お願い! お願い! お願い!」
「──もう、遅せえよ」
 ファレスは苦虫噛み潰した顔で目を逸らした。「人が、死んでる」
 彼らは指示に従い、迅速に動いた。捜索隊が組織され、森狩りが大々的に行われた。樹海に散った大勢が随所で一斉に蠢いていた。広大な樹海が端からざわめき立っていく様は、あたかも大波に呑まれていくようだった。
 エレーンは固唾を飲んで、それを見ていた。事態は刻一刻と深刻さを増し、悪化の一途を辿っていく。一たび動き出した動静は坂道を転げ出した車輪のようにみるみる加速し、止めようがなかった。ケネルは何も訊かなかった。事情を説明するまでもなく全てを分かっているようだった。
 高く青い午後の空を、雲が早く流れていた。数十という刃が藪を払い、数十という編み上げ靴が生い茂る野草を踏みしだいた。
 ケインは捕まらなかった。
 
 
 
 
 

( 前頁TOP次頁 )  web拍手


オリジナル小説サイト 《 極楽鳥の夢 》