CROSS ROAD ディール急襲 第2部 3章 9話6
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 胸が苦しかった。いや、苦しいのはお腹の辺りだ。何かに圧迫されている。
 踏みしだかれる野草の音がサクサク規則的に聞こえていた。重たい瞼をこじ開ければ、ぼんやり映し出されたのは鬱蒼とした緑、一面のそれを背景に何か黒い物が動いている。靴だ。誰かの後ろ脚。頬の下には皮ジャンの背中としなやかな薄茶の髪。これは──。
 それでようやく正体が分かった。ファレスの肩に担がれている。視界が揺れて、地面が動く。どこかへ運ばれようとしているらしい。
( ……ケネルは、どこ )
 必死で周囲に視線を巡らす。きっとケネルは後方だ。そうする間にも、視界はどんどん遠ざかる。肩の上から降りたくて暴れようとはするけれど、指の一本も動かなかった。目を開けているだけで精一杯だ。体が痺れたようになっている。それでも途切れそうな意識を研ぎ澄まし、気配を必死で捉え続ける。「止まって欲しい」と伝えようとしても、掠れた呻き声がほんの僅かに出ただけで、それさえ容易く歩行の足音に掻き消されてしまう。
「──とりあえず、こいつを置いてくら」
 体が唐突に振り回されて、顔が背中にぶつかった。どうやら向こうを振り向いたらしいが、配慮なしに振り回したりするから、頭が反動でクラクラする。だが、体の強張りはそれで取れた。抗議を込めて顔を上げる。その矢先、背後の様子が垣間見えた。
 草原の向こうに人垣があった。皆が見下ろす視線の先は、足元にいる数人だ。さっきのあの賊達だ。何れも縄を打たれて地面に直接座らされている。ケネルはこちらに背を向けていた。足元の賊に向け、何か話しているようだ。ぐるりを取り囲む人垣に、見慣れたあの禿頭がある。酔っ払いのロジェの顔も。たまに昼を共にする面々だ。珍しいことに、今日はザイの顔もある。皆で寄り集まって、いったい何をしているのだろう。
 それはほんの一瞬のことで、視界はすぐに奪われた。見えるのはただ、草を踏みしめゆっくり歩くカーキ色の後ろ脚と黒い編み上げ靴ばかり。嫌な予感がした。ケネルがどんどん遠ざかる。焦りが込み上げ力なくもがいた。どうしても、どうしても、今、ケネルの所へ戻りたい──!
「──言った筈だな、二度目はないと」
 唐突に声がした。ケネルの声だ。
「どうします、始末は」
 別の声が無造作に訊いた。これは多分セレスタンの声だ。何やら物騒な物言いで、不安で胸がいっぱいになる。
「腕を斬れ」
 耳を疑った。けれど、確かにケネルの声だ。聞き違える筈がない。
 野草に分け入る編み上げ靴が無造作に動き続けていた。その足で払われる草が揺れる。ケネルからどんどん離れていくのに、肩の上で揺られるがまま身じろぎ一つ叶わない。意識が急速に遠のいて、すぐに闇に閉ざされた。
 
 
 ぼんやり揺らぐ意識の底で、何かがわだかまって聞こえていた。それは大きく小さく、いびつに歪んでは形を変え、途切れ途切れに聞こえてくる。水面へと立ち昇る水底の不規則な泡のように。
 意識を凝らすと、それは話し声のようだった。ぼそぼそぼそぼそ、男の人達の低い声。何を言っているのかは分からない。
 うつ伏せた頬に布の温い感触があった。ぼんやりと目を開ければ、赤い絨毯が目に入る。手前には布団の白っぽいシーツ、頬の下には薄い枕。土間の鉄鍋は暖かそうな湯気を上げ、炎がパチパチ爆ぜている。室内は薄暗い。夕方だろうか、夜だろうか。
 ゲルの寝床でうつ伏せになっているようだった。靄がかかった炉火の向こうに、男達が車座になっている。土間の炎に煽られて、壁で影が不気味に揺れる。体はひどく気怠いが、誰だろうと目を凝らした。
 五人いる。手前はケネルだ。炉火の向こうで背を向けている。その左から時計回りに、ファレス、ウォード、バパ、アドルファス、皆、あまり見たことのない難しい顔だ。何を相談しているのだろう。ケネルが何か話していた。向こうを向いて低く静かに話しているので、車座との間の薪の爆ぜる音に邪魔されて内容までは聞き取れないが、黒髪の背けた肩越しに、あの淡々とした横顔が見える。自分が起きたことを知らせないと。なんだか不安で、心細くて、早く近くに来て欲しい。
 ケネルを呼ぼうと口を開く。途端、喉が張り付いた。声が出ない。それで喉が焼け付くように渇いていることに気がついた。呼吸が浅く息苦しい。けれど、指さえ満足に動かない。喉の渇きを急速に自覚し、動けない体でもがいていると、車座の向かいがふと顔を上げた。薄茶の長い前髪の下、硝子の瞳がじっとこちらを窺っている。碌に動けていない筈だが、その僅かな動きを逸早く察知したのは、図らずも日頃ぼんやりしているウォードだった。
 話が途切れ、円陣が振り向く。今の話の余韻なのか、どの顔も真顔だ。あぐらの膝をウォードが崩した。肩を揺らして立ち上がりかけ、だが、隣のファレスに腕を掴まれ、すぐさま座に引き戻された。ファレスは僅かに眉をひそめ、腕を掴んだままこちらを見ている。背を向けて座っていたケネルは左の手で後ろ手をつき、上半身を捻って振り向いている。だが、席を立って来るでもない。円陣は無言で眺めている。
 思わぬ様子に戸惑った。近寄り難い雰囲気だ。彼らとの間に距離を感じる。自分だけが異質のようで、ひどく居心地が悪い。今日の彼らはいやに余所余所しい。まるで見知らぬ集団を見ているようだ。
 車座の一角がもそりと崩れた。ケネルの隣の人影が、膝に手を置き立ち上がる。逞しい体躯の黒い蓬髪。アドルファスだった。見ているだけで動き出さない一同を後目に、中央の土間を右に回って、のしのし歩いてやって来る。炉火の向こうの車座は無言だ。誰も口を開かない。
「──どうだ、具合は」
 いがらっぽい声で膝を折り、アドルファスが寝床の横に大儀そうにあぐらをかいた。
「辛くねえか。痛いとこはねえか。ああ、なんか欲しいもんは」
 野太い声で労わりながら、厳つい顔で覗き込む。乗り出した顔は相好を崩している。いつもの彼だ。普段通りの様子に背を押され、ようやく緊張を解いて訴えた。「……み、ず」
「ん、なんだって?」
 あぐらのまま乗り出して、アドルファスが耳を寄せてくる。
「みず、ほしい……」
 ひどく喉が乾いていた。アドルファスはようやく聞き取って「──ああ、水な」と頷いた。「よおし、待ってな。今、汲んできてやるからな」
 あぐらの膝に手を置いて、肩を揺らして立ち上がる。枕元を回って北壁の方に歩いて行く。そちら側のゲルの端に、汲み置きの水瓶が置いてあるのだ。
 視界を塞ぐ大きな壁がなくなって、炉火の向こうの車座が見えた。話に戻っているようだ。アドルファスが立てる物音で話の内容は聞き取れない。ケネルも背を向けている。目覚めた事を知っているのに。
 恨みがましく見ていると、アドルファスが水を汲んで戻って来た。再びどっかり座られて、視界があっさり遮られる。アドルファスはコップを脇に置き、うつ伏せていた背に腕を回した。体をゆっくり起こしてくれる。声をかけて気遣いながら、コップの水を飲ませてくれる。病気の子供を労わるように。意外にも手際が良い。ふと気づいた。子供を扱い慣れている手だ。
 大きなその手に安心できた。この人が一番案じてくれる。ずっと心配してくれていた。不意にそれが分かってしまった。彼は自分とは赤の他人で、一人の男の人ではあるけれど、その存在はまるで父親のようだったった。このまま傍にいて欲しかった。けれど、これが済んだなら、彼も車座に戻ってしまうのだろうか。
 独占したい気持ちが込み上げた。今のケネル達は冷たくて、この彼だけが唯一の味方だ。アドルファスが身じろいで、肩越しに車座を振り返る。
「──や!」
 とっさに腕にすがり付いた。寂しくて心細くて、必死の思いで首を振る。「行かないで。ここにいて!」
「……あァ?」
 アドルファスが面食らって見返した。話の続く炉火の向こうを困ったように眺めやり、蓬髪の頭をガリガリ掻く。思案するように息を吐き、どうしたものかと躊躇している様子だ。焦燥が込み上げ、声が震えた。「──お願い、アド。帰らないで」
 いかつい顔が強張った。何ともいえない目で見つめてくる。その思わぬ表情に戸惑った。痛ましいものを見るような、いや、相手を哀れむ目とは少し違う。悲しみや懐かしさや諸々の感情が入り混じった目。胸を突かれたような、何かに胸を抉られたような表情。直感した。傷付いたのは彼の方、、、だ。
 困惑が胸に込み上げた。自分は何か途轍もなく惨い仕打ちをしてしまったのではないか──。慌てて顔を振り上げた。「──あ、あの、ごめんなさい。でも、あたし、」
「わかった。行かねえよ。ここにいる」
 アドルファスがいがらっぽい声で苦笑いした。逞しい腕を伸ばしてくる。うろたえ仰いだ頭の上に、大きな手が下りてきた。あたかも安心させるように。ただそれだけの事に、ほっとした。彼に任せておけば大丈夫、何もかもうまくいく、無条件にそう思わせてくれる。彼は自分の身を案じてくれる。危害を加える筈がない──。安堵して目を閉じた。こうした場合の対処法を、彼はやはり心得ている。
 あぐらを掻いた大きな体で視界はすっかり阻まれていた。だから、炉火の向こうの様子など分かる筈もないのだけれど──。
 肩越しにケネルが一瞥し、舌打ちしたような気が何故かした。
 
 
 
 
 

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