CROSS ROAD ディール急襲 第2部 3章 9話7
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 ずっと呼んでいたのは、この声だったろうか。
 いや、違う。が違う。
 親密な気配がした。満ち足りた気分に包まれている。心地良く、幸福だった。この人が好きだ、手放しでそう思う。ここが世界で一番安全な場所だ。荘厳な翼下に庇護されているのだから。けれど、胸が重たく、いやに苦しい。
 首の後ろが強く圧迫されていた。項(うなじ)に硬い物が食い込んでいる。何か紐状の金属のような。顎の下がくすぐったかった。柔らかい何かが顔の近くで動いている。もぞもぞゴソゴソ──。
 ……何か、いる?
 ぼうっとしつつも目を開けると、ぼやけた視界の目の前に、奇妙なものが映し出された。旋毛(つむじ)だ。柔らかな黒髪の小さな頭。
( こ、ども……? )
 見知らぬ子供だ。華奢な脚を無造作に広げ、でんと胸の上に居座っている。俯いて屈み込み、しきりに首を傾げている。静かな室内は穏やかに明るい。素直な黒髪の輪郭の向こうは、建物の屋根がたくさんの細木で覆われている。──そうか、ゲルだ。早朝のゲルの丸天井。ならば、この子はキャンプの子? 
 子供の年齢としはよく分からないが、ケインよりは大きいから八歳やっつかそこらというところか。もっとも、そんなことより奇妙な身形が何より目を引く。ボタンもチャックもついてない、昔の人が着るような簡素な作りの白装束。けれど、生地は抜群に良い。なめらかな厚手の白絹で、光沢のある絹糸の柄が天窓から差し込む光に美しくしなやかに輝いている。こんな腕白盛りに着せるにしては高価すぎる着物に思えた。だが、子供の白衣は下ろしたてのように純白で、幅広の袖にも裾にも土塊一つついていない。それをぼんやり不思議に思う。
 幼い顔はもどかしそうだ。俯いた手元で何かしているようなのだが、どうしても上手くいかないらしい。それにしても、さっきから首の下がスースーする。子供が上に載っているのに──。
 首に何気なく手を伸ばし、緊急事態に気がついた。襟元辺りに生地がない。つまり、服のボタンが、
 あいている?
「な、何してんのよっ!」
 ぎょっと顔を引きつらせ、エレーンは肌蹴たブラウスを掻き合わせた。ずりずり寝たまま後ずさる。途端、首の後ろに強い抵抗。針金か何かで引っ張られでもしたような──。なんだろう硬い感触。動転した視線をふと下げれば、ピンと細い鎖が張っていた。首飾りの銀のチェーンだ。先端に向けて辿っていくと、子供が両手で引っ張っている。
「返せ。我のじゃ」
 ぐい、と甲高い声で引っ張った。眉と肩とで真横に切り揃えた断髪が揺れる。吸い込まれそうな凛とした黒瞳、シミ一つないすべすべの頬、男の子だ。
「はあ? なに言ってんの、あたしのよ!」
 即座にエレーンも引っ張り返す。もっとも正確にはダドリーのだが。にしても、そこをどこだと心得おる。それじゃ夜這いだ子供だが。
 ともあれ、不届きというにも程があろう。うら若き乙女の胸を事もあろうに尻に敷くなどという無礼を働いたのみならず装飾品までせびるとは。もっとも、本人にとっては強奪の方がメインのようだが。てか返す返すも無礼なヤツだ。
 あ、そうか、とピンときた。チェーンを引っ張って何をもぞもぞやっていたのかと思ったら、留め具の外し方が分からなかったらしい。男の子なだけに。ていっ、と子供が引っ張った。
「我の物じゃ。返してもらう」
 ぬぬ、強行する気か図々しい。なんのっ、と負けじと手元に引っ張り戻す。
「冗談じゃないわよ! なんで、あんたにあげなくっちゃなんないわけえ!」
 眦(まなじり)吊り上げ、断固として威嚇。にしても、こんな子供が、まさかこんな物を欲しがるとは。まあ、子供のような生き物は基本キラキラした物が好きそうだが。でも、これと似たような石ならば、地面に幾らでも転がっていように。なのに敢えてこれを狙ってくるとは、目敏いというか、我がままというか、さすが領家の書斎で保管していた石ころだというか。ああ、そういや勝手に持ち出してきたから、案外向こうでも、今頃必死こいて探してたりして──。
 はた、とそこに気がついて、( ……む、まてよ? )と考えた。となると万が一、下手人として挙げられた日には、まずい事態に陥ったりしないか? 無論、悪気なんかはサラサラないし、酔った弾みの可愛い悪戯、こちらはそのつもりでいたのだが……。しかもその上、この手の物の管理者って、確かあの爺(ジイ)だったような──。
 嫌な予感に、ひくり、と引きつる。となると、どんなに少なく見積もっても、爺(ジイ)から大目玉食うのは間違いない。いや待て落ち着け早まるな。書斎には似たような石が他にもたくさんあった筈。ならば、こっそり元に戻しておけば、なんとかバレずに誤魔化せるかも。そうだ、そこはやりよう次第だ!
 お守りにしている翠石の欠片が、鎖の先でキラリと揺れた。ごくり、と唾を飲み込んで、実に実に今更ながら、断固死守の決意を固める。となれば、さしあたっての防衛対象はこのガキだ。
「返せ」「ざけんな」と更に熾烈に引っ張り合う。しかし、床に寝ていて見下ろされる体勢というのは、どうにも不利でよろしくない。チェーンを毟るように引っ掴み、エレーンはむっくり身を起こした。伴い、腹の上までずり落ちた子供が、バランスを崩して面白いように頭から転げる。まだ頭が重たい年頃らしい。子供はぶつけた額をさすりつつ「急に何をするぅ……」と抗議混じりに顔を上げ、よいしょ、と正座で座り直した。まっすぐに切り揃えた前髪の下、凛とした黒瞳がじっと見つめる。
「……な、なによ」
 思わぬ様子にたじろいだ。子供にそぐわぬ無表情だ。作り物の人形か何かのように何の感情も読み取れない。何事か吟味するように、子供は真正面から直視している。しばし、そうして見ていたが、やがて、軽く乗り出していた肩を引き、小さな口をおもむろに開いた。
「この状態では致し方あるまい」
 エレーンは唖然と首を捻った。意味は皆目不明だが、勝手に偉そうなことだけは分かる。子供は正座の膝に手を置いて、白装束の膝をおもむろに立てる。黒い直毛をさらりと揺らして鷹揚な仕草で頷いた。「ならば、死んだら、もらっていいか?」
「──死っ!?」
 なんて思い切った事をのたまうのだ、このガキは!
( な、なにコイツぅ〜? )と二の句が継げずに見ていると、子供は如何にもやれやれと、妥協するように見返した。「ならぱ、しばし待つとしよう。我は、殺生は好まぬ」
「……はあ?」
 今度こそ、あんぐり絶句した。ものすごく変なガキんちょだ。なんだ、高飛車この上ない言い草は。すっくと細い手足で立ち上がり、子供は踏ん反り返っている。そして、
「安心せい。我は慈悲深い」
 哀れむような視線だ。解せない。全く解せない。何か勝手に情けをかけられたような感じになっているが、肝心の理由が分からない。奇妙な子供をしげしげ眺め、ふと、エレーンは見返した。この顔、どこかで見たような──? 
「ねー、どこかであたしと会ったことない?」
 早速、四つん這いですりすり近付く。ふむ、と子供は小首を傾げて見返した。少し考え、おお、と合点したように瞠目する。ひょい、と手を上げ、にっこり笑った。「おお、そちか。久しいの」
「……そち、って、あんたね」
 エレーンは片頬のみで引きつり笑った。どうも釈然としない。このぞんざいな呼ばわり方がまったくもって馴染めない。にしても、いったい誰だこのガキは。
 身に馴染んだ横柄な所作は高貴な生まれということか。該当しそうな関係者といえば、領家の縁戚くらいのものだが、ラトキエ邸でもクレスト邸でも、こんな妙ちきりんな身形のヤツなど、ついぞ見た事はない筈だ。ディールについては知らないが、遠い西のトラビアの子供がこんな所にいる筈もない。因みに、王族なんかは論外だ。一人でふらふら出歩ける訳がない。いや、そもそも、そうした高貴な生まれというなら、なんで今時分原っぱにいるのだ。気を取り直して、もう一度訊いた。「ねー、どこかで──」
「ちと、ものを尋ねたい」
 子供は容赦なくぶった切る。流れというものをいささかも解さず、毅然と涼やかな目を向けた。
「《 月読 ─つくよみ─ 》を捜しておる。何処へ行ったか、そちは知らぬか。《 翅鳥 ─しちょう─ 》がおれば捜させるが、今は生憎と、それも叶わぬ」
「ツクヨミってなに」
 反射的に訊き返した。誰かの消息を捜しているようだが、もうそこからして意味不明だ。胡散臭さ満載の視線でしげしげ顔を見返すと、子供は、やれやれ、と肩を落とした。
「その様子では知らぬようじゃな。最期を見届けた者ならば、或いは知っておるやもと思うたが──。まあ、赤の《 遊鳥 》に訊けば良いのじゃろうが、あれはちと手強いし、あやつには出来れば近寄りとうないし……」
 ぶつぶつ言いつつ白い裾を蹴飛ばし歩き、腕組みで深々と嘆息する。エレーンは眉根を寄せて硬直した。全く話に入れない。どうやら嘆いている模様だが、何が何やら皆目不明。ふと子供が瞬いて「──おお、そうじゃそうじゃ」と思い出したように顔を上げた。とてとて笑顔で寄ってくる。小さな片手で袖を引いてのたまった。「もしくは竹林がある場所でも良いのじゃが」
「ちくりん?」
 なんだそれは、と見返すと、神妙な顔で、うむ、と頷く。
「できれば、枯れたものが良い」
 じっと見つめる乗り気な顔。本人は至極真面目であるようだ。エレーンはげんなり嘆息した。「知らないってば、そんなの。──ねー、そんな事よりさ、前にあたしと会ったことない?」
 見覚えがあるような気がして仕方がないのだ。しかも、あまり良い思い出ではないような──? 
 子供は飄然と澄ましている。つるつる頬っぺの幼い顔をつくづく眺め、はっ、と顔から血の気が引いた。
「……あんた、まさか、あの時の」
 唇の端がひくひく震える。二年前の影切りの森だ。バザール地方の海岸でダドリー達と海水浴中に時化に遭い、命からがら漂着したレーヌ付近の樹海の中。そこで彷徨っている内に、あらぬものに出くわしたのだ。当の子供はまるで興味がないようで、すたすた戸口に向かっている。ごくりと唾を飲み込んで、エレーンはその背を指さした。
「あの時の化け物っ!」
 子供は足を止め、肩越しに一瞥した。
「失敬な。我は化け物などではない」
 口を尖らせ心外そうな顔だ。込み上げた怖気に押し潰されぬよう、エレーンはぶんぶん首を振る。
「だ、だって! だってだってだって! だって、あんた、空飛んで、、、、──」
 ピクリと子供が目を細めた。衣擦れの音を微かに立てて、ゆっくりこちらに向き直る。
 小鳥の囀りが小さく聞こえた。このキャンプの人だろう、おーい、と人を呼ぶ男の声が遠くでする。ガランと鳴る金属音、家畜の首の鈴の音。キャンプの生活の物音が遠く緩やかに聞こえてくる。
 無音のゲルは白々と、水を打ったように静まり返っていた。土間に降り注ぐ陽光の向こうに、白い子供はじっと見据えて立っている。腕にざわりと鳥肌が立った。指の先の感覚は痺れ、怖気が爪先から駆け上がり、頭が焦燥でいっぱいになる。
 風が上空で鳴っていた。ゲルの外で鳥が飛び立つ。子供は凛として立っていた。その輪郭を露わにして。四方八方に散っていたものが一点に凝縮するように、世に在る全てのものどもが"中心"に向かって加速する──。
 白檀の香が強く立ち、地平の果てがざわめいた。子供の純白の装束が、果てしない道の果てに立っている。凝視したまま視線を逸らすことができなかった。魅入られたように動けない。何の感情も映し出さない漆黒でいて透明な瞳。
 白い踝が踏み出した。裾をさばく衣擦れの音。絨毯を踏む白い裸足、悠然と近づく着実な足取り。相手が己から逃げない事を当然の如くに知っている。いや事実、逃れる事などできなかった。怜悧な瞳に見据えられ、体が痺れて動けない──。
 何かが鋭く、ぴしり、と軋んだ。折れた枝が弾けるような、薪が炎で爆ぜたような──ゲルの建材の軋みだろうか。ともあれ、その音で金縛りが解けた。指の先がピクリと動く。視線は子供を捉えたままで、無理に指を動かした。近付いてくる怖気に押されて、後ろ手でギクシャク後ずさる。
 ひょい、と子供が腹の上に載ってきた。先程のように腹に跨り、じっと顔を見つめてくる。幼い顔が目と鼻の先にあった。近い。物凄く近い。──て、いや待て。これではなんだか親しい男女の……?
 はっ、と現実に引き戻された。
「な、何よ何よ何すんのよっ!」
 いくらなんでも近過ぎだ。( こっちに来んなっ! )と逆毛を立ててフーフー牽制。又も夜這いかこのガキは!? 子供は人形のような無表情を崩して、やや不服げに口の先を尖らせた。「……夜這いなどではないわ。繁殖の必要など、我にはない」
 なら、そう言う傍から、にじり寄って来るのは何故なのだ。
 圧し掛かる子供を押し退けようと、華奢な肩をとっさに掴む。白袖から伸びた冷たい手が、ひょい、と項(うなじ)を引っ掴んだ。そう、その手は随分とひんやりしていた。体温のない、あたかも死人の手のような──。
 束の間意識を取られていると、幼い顔が、ぬっ、と迫った。はっと、唐突に我に返る。
「やっぱ絶対夜這いじゃん!」
 飛び上がってあたふた動転。案の定な展開だ。相手は年端もいかぬ子供だが。子供はあくまで首を振る。「違う」
「違わないでしょー!」
 この期に及んで何を言う!
 項(うなじ)の手が強く引かれて、柔らかな子供の唇が、むに……とこちらに押し付けられた。世界が微妙に凍結した。すべすべの頬が目前にあって、素直な黒髪が顔にかかって、唇で呼吸を塞がれている。そう、この状態は正にあの、、──。両手を振り回してジタバタ足掻く。く、く、く──
( 唇を奪われた──!? )
 しかも、十になるかならぬかのオカッパのガキに。
 子供は、むっとしたように見返して「こら、大人しゅうせんか」などと何故だか偉そうにのたまいつつも小さな体で乗りかかってくる。体重は軽いが犬猫の重さでは到底ないから、載っかられると動けない。押し潰されてジタバタわたわた、何がなんだか分からない。
 するり、と懐に入ってきた。見やった視界の片隅を子供の断髪がさらりと過ぎって、すっ、と一瞬、虚無になる。
 それは束の間の出来事だった。肩をようやく押し退けて、しつこい子供をぶん投げた。子供はころころ転がって、家具に当たって、ほてり、と停止、簀巻き状に伸びた手足をもそもそ縮めて回収し、頭を振って、むっくり起きた。見返した顔はあっけらかんとしている。いっそ無邪気と言っていい。
 怒りが沸々込み上げた。子供の前までツカツカ歩き、ごん、と頭をぶちのめす。子供は不服げな涙目で、頭でっかちの頭を押さえた。
「何をするぅ……」
 て、こっちの台詞だ! 
 へたり込んだ子供は更に「……なんという凶暴な娘じゃ」などと怒りを煽る発言をブチブチかまし、恨みがましく口を尖らせ、非難の目付きでチラと見た。
「なんと粗暴な。いとけない童(わらべ)に何をする」
「やかァしいわ!」
 憤然と振り向いたその途端、意識が、すう、と薄らいだ。
 壁沿いに家具の置かれたゲルの丸壁が渦を巻き、視界がどんどん遠ざかる。何かに背中から吸い込まれていくように。
 すとん、と闇に落ちた刹那、遠くで「……これでよし」と声がした。その後に続いた遠く広漠とした囁きは、或いは呼びかけだったかもしれない。そう、天から降り注ぐ慈雨のような、手放しの安らぎを感じていた。
 " 殺めはせぬ。ただ少し── "
 
 
 
 
 

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