CROSS ROAD ディール急襲 第2部 3章 9話8
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 天窓からの外光だけが土間を静かに照らしていた。壁に吊られたロープや水瓶、隅に畳まれた数組の布団──。天窓からの光の筋が停止しているように揺蕩っていた。静まり返った仄明るいゲルは、ひっそり動きを止めている。
 しばし朦朧とそれらを眺め、はっ、と気づいて跳ね起きた。意識を飛ばしていたらしい。あれからどれくらい経ったろう。閑散としたゲルを慌てて見回す。どこに行ったのだろう、子供がいない。ここにいないということは──
「……帰った?」
 膝から力がへなへな抜けて、ぺたりと絨毯に座り込んだ。呆然としつつも考える。"あれ"は一体何だったのだろう……。
 背筋がぞくりと凍り付いた。怖気が押し寄せ、体が動く。床から慌てて立ち上がり、一目散に靴脱ぎ場に駆ける。備え付けのサンダルを前のめりになって突っかけて、あたふた外に転げ出た。
 草原の涼風が顔を撫でた。真っ青で広大な空の下、緑の野原の方々に白いゲルがぽつりぽつりと建っている。見慣れた風景、まだ朝だ。あれからどれ程も経ってない。皆はどこにいるのだろう。彼らに早く伝えなければ。"あれ"が出たということを──。
 広いキャンプの方々で、遊牧民の人達がそれぞれ作業に勤しんでいる。家畜に水をやっていたり、鍋で何か煮ていたり──。どこにいるのだろう彼らは。見渡す限り、姿はない。息せき切って、苛々しながらゲルを回る。
「……なんで、いんのよ」
 ゲルの裏手で膝を抱えて、当の子供がちんまり丸くしゃがんでいた。日向ぼっこをしているらしい。予期せぬ邂逅に顔が引きつる。子供はおもむろに顔だけ向けて、ひょい、とこちらを指さした。( なっ、なによっ! )とビクビクたじろぎ、「……ん?」と指の先に目をやれば、そこには件の首飾り──。子供が抑揚なく口を開いた。「そちが死ぬのを待っている」
「……あーそう」
 臆面もなく、ほけっ、と言われ、ジト目で翠石を握りしめる。どーしても欲しいらしい。
 両手で膝を抱えた子供は、じぃっ、と窺うように見つめている。居心地悪くなって回れ右した。なんというふてぶてしさ。似たような年頃の子供でも素直なケインとは大違いだ。
 両手を振って、見知った顔を急いで捜す。あの子供は絶対に変だ。時代がかった白装束で奇妙な言葉を口走り、そしてあまつさえ空さえ飛んだ。しかも、あろうことか唇まで──。
 捜索の足がピタと止まった。怒りがむくむく込み上げて、利き手の拳をぐぐっと握る。「……あんのガキぃっ!」
 今度会ったら、ぶっ飛ばしてやる!
 もしくはケネルにぶっ飛ばしてもらおうと決意も新たにズンズン進み、キョロキョロ小走りで見回していると、広い間隔のゲルの狭間に、馴染みの顔を発見した。どこへ行くのかあくび交じりだ。黒いランニングとカーキ色のズボン、一際目立つあの長髪。
「女男っ!」
 のたのた歩いていたファレスに向けて、脇目も振らずに駆け寄った。両手を振って死に物狂いで猛ダッシュ。本来であれば手前で停止すべきであろうが、急いでいるのでそのまま突っ込む。見返し、ぎょっとたじろいだファレスは、突進されて尻もちをつき、それでも下敷きになって受け止めた。開口一番「いきなり突っ込んで来んじゃねえ!」と凄んだが、構わず圧し掛かって言いつける。
「……あァ? チュウされたァ?」
 やはり、まずはそこからであろう当然だ。己でコクコク頷いて「ゲルに変なガキが出た──!」とあたふた次第を訴える。尻に敷いた膝下で、ファレスは目を眇めて聞いている。ふてぶてしい仏頂面だが、手はきちんと添えている。ファレスには案外そういう律儀なところがある。こちらもどこかで分かっているから、安心してダイブできる訳なのだが。
 いや、ファレスのそうした対応は自分に対してだけに限らない。誰に対しても恐らくそうだ。けれど、自分に突っ込んでくるもの全て、都度受け止めていたら大変だから、いつもああして渋面を作って予めバリアーを張っている、多分そうに違いない。どんなに煩そうにしていても、最後には必ず受け止めてくれる。皆も薄々分かっているから、ファレスがどんなに無愛想にしていても、付かず離れず寄って来るのだ。そういう意味では、ファレスはとても損をしている。結局は全て受け止めてしまうくせに、そつなく立ち回るという事をしない。そういう細々した事が、近頃ふとした拍子に分かってしまう。でも、それって何か──。ふと、何かが見えかけた気がした。ずっと見ていた筈の野良猫の横顔。しかめっ面の下にある心の深い奥の奥。
 むく、とファレスが起き上がった。まだ腹の上にいるというのに、こちらにはまるきり無配慮で。思わずずり落ちたこちらを押し退け、やはり無配慮に立ち上がり、汚れた服をパンパン叩いて歩き出す。「……いーじゃねえかよ、チュウくれえ」
「はああ!?」
 あほらし、と言わんばかりの、まさかの態度だ。シッシ、とかったるそうに手を振られ、エレーンはぶんぶん首を振る。
「よくないっ! 全然よくなあいっ! てか、いい訳ないでしょっ!」
 そうだ、いい訳ないだろう! 事もあろうに何たる言い草。舌打ちでこちらを振り向いた途端、ファレスは「お?」の形に口を開け、「……まあ、いいか」と何が良いのか頬を掻き、元の様子にすぐに戻った。歩く肩越しにジロリと横目でこっちを見る。「どんなヤツだ」
 突然振られて、答えに詰まった。
「──あー──だからあー、ちっちゃい子供でえー、なんか目ぇ覚めたら枕元にいてえー──あ、それで、そのおー──」
 しばらく口をぱくつかせ、説明すべく努力して、ついに沈黙して首を傾げた。説明しようとすればする程、しどろもどろになってしまう。口が回らないというのではない。訴えたい事は山ほどあるのに、すぐ喉元にまでせり上がっているのに、それがどうしても外に出ない。
( な、なんで? )
 エレーンは愕然とうろたえた。おかしい。あれはつい今しがたの出来事で、もちろん記憶はすこぶる鮮明、はっきり形を成している。他人に説明できぬほど入り組んだ話でも難解な話でもない。なのに言葉にして紡ぎ出せない。あの怖気はこの足元でうずくまり、依然として蠢いているのに──。ぶっきらぼうにファレスが言った。「あの辺りには、誰も居なかった筈だがな」
 あからさまに気のない態度だ。もどかしさが爆発し、目の端でサラサラ揺れていた目障りな長髪を引っ掴んだ。
「んもおおっ! あんた真面目に聞きなさいよねっ! だから、あたしがさっき──!……あれ?」
「なあにが、アレ? だ」
 髪の毛を雑に奪い返して、ファレスが凄んで「痛てえなコラ!」と振り返る。「何かあるなら、とっとと言えや、あ?」
「あ、──あ、だから──いや、その──?」
 エレーンは頬を掻いて首を傾げた。何故、自分は騒いでいるのだ? 
 思い出そうとはするものの、記憶が上手く紡ぎ出せない。何度気合を入れて挑戦しても、気がそぞろになってしまい、不思議なほどに集中できない。ファレスが切り上げるように嘆息した。「ゲルには誰も出入りしてない。こっちで見てたから間違いない。夢でも見たんじゃねえのかよ」
「……ゆめえ?」
 すたすた歩き出したファレスの後に早足でくっついて歩きつつ、エレーンはむっと見返した。野良猫は既に面倒臭げな顔。何たる不届き。ヒシヒシ迫り来る強大な危機をあんたらにも知らせてあげようというのに! エレーンはぶんぶん首を振る。
「ちがーうっ! 違うもん! 違いますぅ! だって、あんな怖かったしぃ!」
 うむ。そこだけは譲れない。なんか論理の欠片もなくて、だだをこねてる子供のようだが。
「だったら詳細を言ってみろや」
 あコラ言ってみろやコラ、とファレスは柄悪く顎を突き出し、三白眼で凄んでくる。「──う゛う゛」と思わずたじろいでいると、片方の眉をジロリと上げた。「ゲルに、ガキが入って来たのか」
 話の要所を事実確認。一応念の為という感じで。
「……ああ、うん。たぶん、ね」
 エレーンは、そそ、と目を逸らした。ほりほり頬を掻いて首を捻る。なんだか上手く思い出せなくなっている。全てが曖昧で漠としていた。ついさっきまで、あんなにはっきり、鮮やかに形があったのに。肌はまだ泡立っているのに。
「そもそもこの辺りにはガキなんぞ居ねえぞ。つか、おめえ、何でそんなにびびってんだ」
 腕組みの不審げな顔。
「……え、えっとぉ」
 疑わしげにジロジロ見られて、エレーンは怯んだ。「──ちょっとタンマ」とファレスに背を向け、緊急作戦タイムで首を捻る。そういや、何がそんなに怖かったのだ? どうした訳だか、さっぱり欠片も思い出せない。未だに体の端々はあの恐怖を覚えているのに。
 目を凝らせば凝らすほど、記憶が掠れて霧散していく。それが分かっていて止められない。" それ " の形を掴んでおくべく注視しようとしているのに、目を向けた傍から消えていく。気配を手元にたぐり寄せても、具体的な何者かになる前に、掴んだ指からするりとすり抜け、指の先から拡散していく。
 食い止めようにも打つ手がなかった。身体機能が己の意思で制御出来ない。確かに今までそこにあった生きた記憶が見る間にどんどん失われていく。それは恐ろしい体験だった。得体の知れぬ底なし沼に引っ張り込まれるような冷え冷えとした恐怖。けれど、修復しようと焦るほど、拾い集めた断片は散り散りになって暗黒の領域へと吸い込まれていく。当の自分の目の前で。
 ジロリとファレスが目をやった。「あのガキが出たんじゃねえだろうな」
 おう、隠し立てすっと為になんねーぞコラ、と凄むファレスに対抗し、「……なによー、あのガキってえー」と不貞腐れて返しかけ、はた、と思い当たって瞠目した。
「ち、違う! 違うって! ケインのことじゃ全然じゃないから!」
 慌てて首を横に振る。とんだやぶ蛇だ。にしても迂闊だった。彼らはケインを捜している。ここで「子供」と言ったりすれば、そっちを連想して当たり前だ。ファレスはしばらく「……おうコラ。隠し立てすると為になんねえぞコラ」とグルグルうろつき凄んでいたが、全否定の姿勢であくまで臨むと、不承不承踵を返した。「ま、いくらガキでも、のこのこ出て来るほど馬鹿でもねえか。たく。寝ぼけてんじゃねえぞタコ」
「ち、違う! そんなんじゃ──!」
 エレーンは口をぱくつかせる。上手く言葉にならなくて焦燥だけが胸にある。ファレスが肩越しにジロリと見た。「どうせ又、馬にでもツラ舐められて、てめえで勝手に寝惚けたんだろ」
ぶっ飛ばすぞコラ、と仏頂面の顎を突き出し、脚をぶん投げ歩き出す。
「ち、違うもん!」
 歩き出したランニングの背中に「ねー、違うからー、夢とかじゃないからー」と両手で全力でぶら下がりつつも、も一度真面目に考えてみた。けれど、どうしても思い出せない。なんだかそこだけ記憶がごっそり失くなってしまっているような──。
「おお、あの時の民草ではないか」
 ギクリ、と肩が跳ね上がった。どこかで聞いたような甲高い声。そう、奇妙な言葉使いと変声期前のこの声は……? 恐る恐る振り向けば、案の定の白装束がすっくと細い手足で立っている。
 ──あの子だ!
 ゲッ、ととっさに飛び退いた。ファレスの背中に、ささ、っと隠れる。ファレスが「──ああん?」と嫌そうに振り向いたが、両手でシッカとしがみ付いた。なのにファレスは無下にその手を振り払う。「てめえ、いきなり何のつもりだ。放せ、こらっ!」
 子供はとてとて上機嫌にやってくる。「放せっつってんだろ!」「やだってば!」とジタバタやってるこっちの事などお構いなしで少し離れて足を止め、鷹揚な笑顔で、やっ、と気さくに手を上げた。「久しいの。達者でおったか」
 タメ口この上ないぞんざいな呼びかけ。ファレスがすぐさま反応した。「あ?」と掬い上げるように睨み上げ、子供の顔を認めた途端、何故か、ぴくり、と停止した。
「あーっ! てめえはあん時のっ!」
 全身の毛を一気に逆立て、人差し指で向かいを指す。いたいけな子供相手に噛みつかんばかりの剣幕だ。エレーンはやれやれと嘆息した。まったくなんて単細胞だ。何にでも全力で反応するのか己は。誰彼構わずどつくのはやめといた方が人生絶対楽だと思う。
 しかしファレスは、「うむ、息災で何より」と鷹揚に手を上げた子供を見咎め、おかっぱ頭をスカンとはたく。たいそう気に触ったらしい。問答無用で叩かれた子供は、口を不服げに尖らせて「まったく、そちは乱暴よの……」と恨みがましい非難の眼差し。
「てめえ、どっから湧いて出た!」
 憎々しげにファレスは詰問。当の子供は涼しい顔で、きょとん、と気にした風もない。食いつかんばかりのファレスの熱さとは対照的な泰然自若、余裕の構えだ。因みに、ひょい、と空を指さしたのは、いったい何の合図なのだ。今にもガンつけに行きそうな野良猫のシャツを「こら、やめなさい! どうどう!」と全体重かけて引っ張り戻す。
「……おはよー、エレーン」
 背後から出し抜けに挨拶されて、エレーンはピタと停止した。あくび混じりのたるそうな呼びかけ。おお、この声は、まさしく──。
 即行そちらを振り向けば、のんびりのどやかな野っ原を、生い茂った青草を長い脚で蹴り分け、ウォードが、くわわ、と大あくびでやってくる。薄茶の頭を背中に倒して晴れた空をのっそり眺め、その目を眩しそうにしばたいている。お気に入りのあの彼だ。取り込み中だが何はともあれ、野良猫をふん捕まえた手はそのままに、にんま、と最上級の笑みを作る。「あっ、ノッポ君、おは──」
 ウォードはあくび混じりで目を返し、ギクリ、と弾かれたように足を止めた。すぐさま慌てて踵を返し、そそくさ早足で逃げていく。挨拶用の笑顔のままで、エレーンは引くに引けずに固まった。何にそんなに驚いているのだ? このところ気怠げにグータラぼんやりしていた彼だが、同一人物とは思えぬ素早い動きだ。今のウォードの視線を追って向かいをソロリと窺えば、突っ立ったままの件の子供は、逃げ去る背中をじっと無言で見送っている。
 ギクリ、と顔が強張った。気づけば子供は一切の表情を消していた。白く幼い横顔は滑らかに硬い。そう、恐ろしく良く出来た人形のような──。あれ? と怪訝に首を捻った。
( ……誰だっけこの子 )
 思い出せない。子供の顔に見覚えなどなかった、、、、。けれど、何者であるのか、はっきり正体を知っている。そりゃもう当然の如くに。朝になれば陽が昇る、それくらい自然で真っ当な事だ。
 困惑がヒシヒシ込み上げた。相反する二つの事象が並び立って併存していた。どちらも正しく、どちらも理にかなっている。矛盾することなく、この上なく確固としている。無論、尋常な状態ではない。焦燥がもどかしく胸を焼く。不可解だった。己で己が分からない。どうなっているのか分からない──。
 ファレスは構う事なくギンギン食いつきそうに凝視している。飄然とした白い子供に憎々しげに舌打ちした。「たく。ガキの分際で俺の頭踏ん付けやがって。けったいな成りしやがってよ!」
 ウォードの行方を見ていた子供は、おもむろに身じろいだ。白装束の肩越しにファレスを一瞥。
「控えよ」
 ファレスが弾かれたように膝をついた。こうべを垂れ、片側の手膝を地に付けて、立て膝の上に利き腕を載せている。忠誠を誓う騎士のように。突如隣でかしずかれ、エレーンはぎょっと見返した。
「……なにやってんの?」
 あんぐり口を開ける。今の簡潔至極な放言は、落ち着き払った声だった。威嚇した訳でも声を荒げた訳でもない。
 はっ、とファレスが我に返った。畏まった体勢をのろのろ起こし、かしずいた地面から立ち上がる。しきりに首を捻って解せなそうな顔。今の己の行動がどうにも合点がいかないらしい。野草揺れる草原では、方々に散った人達がのんびり作業に精を出している。
 それに遅れること三秒後、ガサガサ他所でも音がした。つられて音源を探してみれば、少し離れた右後ろの草原だ。すっくと誰かが野草の海から立ち上がった。黒い髪の見慣れた横顔、ケネルだ。ファレス同様ぱちくり己を点検し、不可解そうにしきりに首を捻っている。あちらも何故かひざまずいてしまったらしい。
 当の子供は、どうもモヤモヤすっきりしない二人の不審などには目もくれず、まったり悠然と懐手にして「──まったく、そちはやかましい」などと嘆かわしげにごちている。ファレスが頬をひくつかせた。ぐるり、と見返し、子供の脳天を、ゴン、と殴る。
「な、何をするっ!」
 打撃の跡を両手で押さえて、子供が涙目で抗議した。野良猫は、ぷい、とぞんざいにそっぽを向いた。誰も強制などはしてないし自分で勝手にしゃがんだ訳だが、やっぱり、なんかムカついたらしい。せめて忌々しげに舌打ちした。「──たく、生意気なクソガキだぜ」
「なによー、知り合い?」
 頭をさする恨みがましげな子供を眺めて、エレーンはやれやれと指さした。ファレスは憮然と腕を組む。「知るわけねえだろ、こんなガキ!」
 殴ったくせに。
 知らない子供でも殴んのね……とやや諦めムードで見ていると、ぶちぶち一人でごちていた子供は、白装束の袖をピンと張り、己をつくづく見回した。「何をそんなに喚いておるのだ。この姿はそんなに奇異か?」
 ……あ?
そっちじゃないわよっ! だって、あんた普通じゃないでしょうが! あの時だって、あんた、ひょいひょい空飛んで──!」
「空?」
 ファレスが怪訝そうに聞き咎めた。後ろ手にしてちんまり澄ました子供を眺め、晴れ渡った空をきょとんと眺め、唖然と口を開けて目を戻す。「なに言ってんだおめえ」
 哀れむような目つきだ。
「い、今のなし」
 エレーンはあわあわ目を逸らした。どーなっているのだ。何を口走っているんだか。それにしても不可解だ。何故、足が震えているのだろう。
「で、見つかったかよ、例の捜してたヤツってのは」
 ファレスが子供にぶっきらぼうに声をかけた。「──おお、それよ」と子供はファレスを淡々と仰ぐ。今叩かれたばかりだが、まるで気にした風もない。おもむろに顎を引き、重々しく頷いた。
「《 月読 ─つくよみ─ 》も《 翅鳥 ─しちょう─ 》も見つからぬな。次代の《 月読 》は既に翼下に収めたが、今生の《 月読 》の方は、さてはて、どこにおるものやら──」
 水を向けられ、子供はペラペラ鷹揚に上機嫌で言葉を紡いだ。それらは押し並べて荒唐無稽としか思えぬ話ばかりだが、ファレスは意外にも聞き入っている。自分の腹までしか身長のない小柄な子供を胡散臭げに眺めつつ、それでも注意深く聞いている。眉をひそめ、しばしそうして、じっと話に耳を傾けていたが、
「……何語で喋ってんだてめえ」
 ついに嘆息して脱力した。ついていけてなかったらしい。そりゃそうだ。
「ああ、そこにいたのか、テンポー」
 野太い声が呼びかけてきた。子供がふと瞬いて、瞳を輝かせて振り返る。「おお、飯か! アドルファス!」
「……あ、あどるふぁすう?」
 思いっきりタメ口かい。
 空いた口が塞がらない。あまりにフレンドリーな呼ばわり方だ。隣のファレスと二人して唖然と絶句していると、黒い蓬髪のアドルファスが苦笑いでやって来た。聞けば、子供が野営地近くをうろついていたのでキャンプまで送ってきたのだという。「どうも方向オンチみたいでな」といがらっぽい声で付け足した。テンポーと呼ばれた白装束の子供は、いそいそアドルファスの方に踵を返し、両手を振って駆けて行く。「飯じゃ! 飯じゃ!」と満面の笑み。駆け寄る子供を、アドルファスは笑顔で抱き上げた。よっ、と逞しい肩の上へと担ぎ上げる。頭にしがみついたテンポーにうきうき笑顔で急かされて、中央のゲルへと足を向けた。仲良く語らう二人の背中は、仲睦まじい親子のそれを見るようだ。ファレスはシゲシゲその光景を眺めていたが、ふと合点したように見返した。「──あー、あのガキのことか」
 で? と振り向き、顎先で促す。エレーンは眉根を寄せて面食らった。「……なによお、ガキって」
 ファレスはげんなり額の髪を掻き上げた。「さっき、てめえで言ったんだろうが。すげえ顔で突っ込んできやがってよ」
「……そ、そーだっけ?」
 尻に敷いて蹂躙した事は覚えているが、話の内容は覚えてない。ファレスは巻き舌で舌打ちし「そーだっけじゃねえだろコラ」と仏頂面だ。エレーンは引きつり笑いで首を捻った。何の話かさっぱりだ。言われてみれば確かに何か、物凄く重要なことを伝えようとしていた筈だが──。
 ファレスはじろじろ胡散臭げに眺めていたが、「お?」と瞬き、面白そうに振り向いた。「──そういや、おめえ」
 肩車のおかっぱ頭を人差し指で、ひょい、とさす。
「おんなじアタマ」
 エレーンは、むっ、と見返した。
「ちょっとお! 子供と一緒にしないでよねー」
 同じだが。しかも、こっちのはケネル作だから、先がギザギザで右下下がり。
「──ああ、あれじゃねえか」
 ファレスがふと気づいたように、ズボンのポケットに手を入れた。ごそごそまさぐり拳を突き出す。開いた掌に載っていたのは、薄青色の一トラスト紙幣。その札の右側に描かれていたのは、
「サディアス国王?」
 エレーンはぽかんと見返した。ファレスはしみじみ札を見る。「あいつのツラには俺も引っかかっていたんだが、道理で見覚えがある訳だぜ」
「……へえ、どれどれ」
 指で紙幣を摘み上げ、ふうむ、とそれを眺めてみた。薄青い札の紙面には、現在二十歳の国王の、幼少のみぎりの顔がある。涼やかな目元と肩までの断髪、その凛とした面持ちが件の子供にそっくりだ。それにしても野良猫のヤツ、よくもこんなお札の片隅になど気づいたものだ。「……なるほどねー」と感心しつつ紙幣をもそもそ折り畳み、自前ズボンの右ポケットに突っ込んで──ギロリとファレスが引ったくった。
「ガメんなコラ!」
 まったく油断も隙もあったもんじゃねえ……と顎を突き出し威嚇しつつも、自分のズボンのポケットに突っ込み直す。やれやれと足を踏み替えた。「つまりは他人の空似ってヤツだ。ま、そもそもよ──」
 白けた顔で、子供に腕組みで顎をしゃくった。
「あんな食い意地張った王がいるかよ」
 " 飯じゃ飯じゃ " だぜ、と肩をすくめる。確かに、あれでは、ご飯を貰ってない欠食児童だ。
「うーん。そっか。そうよね。……ん、と」
 よそ見の隙にさりげなく奪還した件の紙幣を、エレーンは再び、ふうむ、と見やる。やっぱり他人の空似だろうか。朝日を浴びた緑の中、肩車の白装束が離れていく。それを眺めるファレスの髪が緩やかな風にさらさら揺れる。木々のざわめきを聞きながら、エレーンもぼんやりそれを眺めた。
 子供の周りにぶれたまま纏わりついていた輪郭が、すっきり太く、濃くなった気がした。足の震えは止まっていた。妙な気配はもう漂ってこない。子供はすんなり世界に馴染んだ、、、、
 
 
 
 
 

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