CROSS ROAD ディール急襲 第2部 3章 9話9
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 戸口で軽く背を屈め、靴を脱いで上がり込んだ二人が、ドサリと無造作にあぐらをかいた。戸口のフェルトは上げられて、心地良い涼風が入ってくる。ゲル中央の天窓からは日差しがさんさん降り注ぎ、靴が雑然と散らばる靴脱ぎ場には、片方転げた革靴の上、明るい日差しが当たっている。蝶がひらひら入ってきて、戸口付近の壁をさまよい、又ひらひらと出て行った。横座りのエレーンは、チラと向かいに目を上げる。
「おう、ちょっと来いやコラ」と首根っこ掴まれ連れ込まれたゲルの中、いつもの二人と対峙していた。向かって右はジト目のファレス、例によって例の如くに無駄に柄悪くやぶ睨みし、あぐらで身を乗り出している。いつにも増して不機嫌そうだ。左には、膝に無造作に手を置いたケネル。ファレスに呼ばれて最後に戸口を潜ったケネルは、こちらの顔を見た途端、何故だか( あ )の形に口をあけ、三秒そのまま停止した後、こほん、と咳払いして靴を脱ぎ、あぐらで座り込んでもそもそ落ちつかな気に身じろいだ。不審に思い「なに?」と訊いたが、やはり、どこか煮え切らない態度で「──いや」と横を向いて生返事をするばかり。場所は戸口を入って左側、土間より南のケネルの陣地だ。ファレスが何か胡散臭げにジロジロ顔を眺めている。ついに腹立たしげに切り出した。
「てめえ、何を持っている」
 窺うような尖った声だ。どきん、と心臓が飛び跳ねた。もしや指輪の所持がばれたのか……!?
 左手をさりげなく隠しつつ、エレーンは引きつり笑いで見返した。「な、なんで、いきなり、そんなことを〜?」
「とぼけてんじゃねえ」
 ファレスは胡乱に下から視線をすくい上げる。「昨日のネズミが口を割ったぞ。そもそもヤツら、あの時から、" お宝 " がどうとかほざいていたよなあ?」
 ほう。鎌をかけるような曖昧な口振り。" ブツ " は特定されてない、とみた。エレーンは愛想笑いで、ひょい、と手を振る。「やー。それってただの追い剥ぎとかじゃないの〜? あ、ほら、口から出任せ言ったのよ。きっとそーよ」
 うん、あたしはそーだと思う、とそっぽをむいて空口笛を吹く。ファレスがたるそうに舌打ちした。
「街道の旅人狙いってんなら話はまだしも、ここらは獣しかいねえ原生林だぜ。不自然すぎんだろ、そんなもん。そもそも、こんなに出るなんてのは尋常じゃねえ。隠し立てすると為になんねえぞコラ」
 単なる質問である筈だが、柄が悪いので尋問のようだ。無礼な言い方にカチンときたので、むぅっと乗り出し、俄然対抗。
「事情があるなら聞いておきたい。知らずにいるのは不都合だ」
「……う、ケネル」
 張り合う気勢が一気にそがれる。ケネルが淡々と目を向けていた。視線に晒され、エレーンはたじろぎ、俯いた。ケネルの声だ。ずっと聞きたかったケネルの声だ。面と向かって話すのは、どれくらい久し振りのことだろう。何故こんなにも安心してしまうのだろう。でも──。
 膝で拳を握り締めた。ギクシャクして、なんだか上手く反応出来ない。だって昨日の今日なのだ。目の前にいるこの彼が " あんな事 " を命じただなんて。
 身を硬くし黙り込んだ脳裏に、野草にポツンと落ちている切断された片腕が浮んだ。たぶんケネルは気づいていないが、あの、、場面を目撃している。捕らえた賊を皆で囲んで相談していた剣呑な場面を。問い質したい衝動に駆られるが、その後の経緯が経緯だけに確認することは憚られる。
 目のやり場に困ってしまいコソコソ顔を窺えば、当のケネルは小首を傾げて、こちらの返事を待っている。何事もない表情だ。あまりに普段通りの顔で見るから、やっぱり信じられなくなってしまう。
 ならば、やっぱりあれは夢? 肩で揺られて気付いた時には、太陽もまだ高かった。つまり気絶していたのは僅かの間、襲撃が収束してから大した時間は経ってない。なのに、何故かセレスタン達が勢揃いしていた。遠く離れた樹海の中でケインの捜索に当たっていた筈の彼らが。キャンプ内でも誰の姿も見ていなかったのに。仮に、知らせを受けて駆けつけたのだとしても、ほんの僅か数十分の間に現場に来られる筈がない。 けれど──。
 気分がどうにも落ちつかない。そわそわもぞもぞしていると、ファレスが堪りかねたように片眉を上げた。「おい、聞いてんのかよ。心当たりをとっとと吐けや」
「……あー……やー……えっとお、そのお〜」
 カリカリしている野良猫と ( あんたねー、それが人にものを訊く態度なわけえ? ) と密かに憮然と渡り合い、チラとケネルを窺えば、淡々と見ているこちらの方も「白状しろよ」との言い聞かせるような面持ち。頻発に出没する賊の狙い、彼らの関心はそこなのだ。
 向かいの左右からじっとり目線で促され、エレーンは曖昧に引きつり笑った。賊の目的はわかっている。左の薬指の結婚指輪だ。領家の紋入りのお値打ち品。しかし、だからといって、それをバラす事には抵抗がある。万一チラとでも話が漏れて、あまつさえ悪用されでもすれば、天下国家を揺るがす大事。嫁いで間もないこともあり自覚はあんまりないけれど、自分も一応三大領家の一員なれば、死守すべき極秘事項である訳で──。はっ、と唐突に気がついた。そういや、もう一つあったではないか、指輪に匹敵する代物が。いや、知名度だけなら断然上だ。
「……んーと、実はねー」
 二人の顔を上目使いでチラと見て、エレーンは襟首に手を突っ込んだ。服の中をまさぐって、細い鎖をたぐり寄せる。二人の顔をちらと見て渋々といった風を装いつつも、掌に載せて差し出した。
「……ユメノイシ?」
 ファレスが胡散臭げに見返した。実のところお伽話のアイテムであるが「たぶん、これのことだと思うんだけどー」と力強く頷いてやる。キラキラ瞬くペンダントヘッドを、ファレスは指先で摘み上げ、しげしげ見やって小首を傾げた。「 " 人の世の望み、須らく叶える " って例のアレかよ」
 すぐさま胡散臭げに放り出す。「馬鹿言ってんじゃねえ。いい年こいて、な〜にが 《 夢の石 》 だ。迷信だろうが、そんなもん」
「でもお、ダドの執務室にあったもおん」
 エレーンは断固、うむ、と頷く。そう、嘘じゃない。厳かなる事実だ。確かに執務室の棚からガメたのだ。妾宅発覚の嫌がらせに。
 元あった場所が ( 事もあろうに ) 領主の執務室の棚と聞き、左右の男は ( まじかよ…… ) と互いの顔を見合わせた。話の信憑性は抜群のようだ。場所が場所であるだけに。
 ケネルが何事か思い出したようで、小首を傾げて瞬いた。「──そういや、ジャックが欲しがっていたな」
「──ああ、ジャックっていや」
 ファレスも気付いたように相槌を打つ。「そういや見たな。ぶちめして吊ってやったが」
 実に苦しい言い抜けだったが、意外や意外食いついたようだ。実のところ何の話かさっぱりだし、図らずも話が思わぬ方へと転がり出した感がないでもないが、餌を投げたエレーンは、あはは、と空虚な合いの手で足並みを揃える。「チ、チョビひげってば物好きなのねえ〜( 変てこりんな見かけの通りに )」
 ファレスが呆れたように目を向けた。
「痩せても枯れても " 調達屋 " だぜ。ああ見えてヤツは一級の目利きだ。下手なもんは狙わねえよ」
 ……マジで? 
 でも、ということは──?
 ぱちくり固まり、エレーンはチラと手元を見る。なら、これって、まさか、
 
 ほんもの?
 
 一瞬の微妙な沈黙後、三つの頭が、ツツツ──と中央に近寄った。顎を突き出し、互いの顔をジトリと見合う。
「──おい、何か願をかけてみろ」
 ファレスがぞんざいに顎をしゃくった。ケネルを見やると、こちらも、うむ、と頷いている。「ゆけ」と言っているらしい。
 お守りにしている翠石の欠片は、吊り上げられた鎖の先で日差しをキラキラ弾いている。エレーンは改めてまじまじ眺め、だが、首を振って嘆息した。「どうせ無駄だと思うけどー? ぜんぜん何にもなかったしぃ」
 あぐらの二人は( やったのか…… )と唖然とした顔。おう、やったとも、やらいでか。もちろん何度もやったとも。でも、成果たるやさっぱりで、なんにも起こらなかったのだ。ファレスが苛々顎をしゃくった。「念の為だ念の為! 今度はイケるかもしんねえだろうが!」
 エレーンはケネルをチラと見る。「ケネルも見たい?」
「見たい」
 うむ、とケネルは腕組みで頷く。相変わらず率直にして簡潔である。
 二人に目線で促され、エレーンは、ふうむ、と石を見た。首を捻って上目使いで思案。「……そうねえ。じゃあ、今度は何がいいかなあ〜──あ、そうだっ!」
 キッと振り向き、真顔で懇願。
「あたし、マドモアゼル・イコのサマー・バッグが欲しいっ! 一番高いヤツねっ!」
 呪いでもかけるが如き勢いで食い入るように見つめていると、ファレスがげんなり嘆息した。「……いじましいな、お前」
 てめえで買えよ、と言いたげだ。いや実際、呆れた顔でそう言った。エレーンは、むぅ、と口の先を尖らせる。「う、うっさいわね、黙んなさいよ。あんたがなんか言えって言ったんじゃん!」
 ともあれ、再び額を寄せ合って、石の変化をじぃっと観察。じぃっと、じぃっと穴のあくほど。
 石はキラキラ煌めいている。変化と言えるほどのものはない。むく、とファレスが身を起こした。焦れったそうに苛々舌打ち。「てめえ、真面目にやってんのかよ」
 もう飽きたらしい。野良ってのはこれだから困る。
「いや、全然マジだから、あたし」
 エレーンはきっぱり、うむ、と頷く。真面目も真面目、大真面目。そういう願かけに手は抜かない。言うまでもない。
 ひっそり明るいゲルの中、透き通った萌黄が穏やかに揺らぐ。割っ欠いた欠片は、天窓から降り注ぐ陽光の筋に反射して、キラキラ硬質に瞬いている。ファレスが乗り出した体を再び起こした。あぐらを崩して片膝を立て、ケッとだれたようにそっぽを向く。「なんだ。やっぱり紛い物じゃねえかよ」
「ほ〜らね、ほらね。だっからあたしが言ったじゃないよ、無駄だって」
 エレーンは膨れっ面で抗弁した。「あんたが言うからやったんでしょー」と石の欠片を、ぽい、と投げ出す。石は依然としてそのまんま、何の反応も示さない。待てど暮らせど何も起こりはしなかった。別段、要求のハードルは高くない。無闇に壮大な無理難題を吹っかけたという訳でもない。つまりは単なる石のカケラ、そんな力は元々ないのだ。ケネルも肩から力を抜いて、コキコキ首を回している。ファレスがギロリと振り向いた。
「なんで、てめえは余計なことを!」
 ゴチンと拳固が降ってきた。痛打の跡を涙目で押さえて、エレーンはファレスを睨み上げる。「なあにすんのよ! 痛いじゃないぃっ!」
「なんでわざわざ、そんな厄介なもんを持ってくる。返す返すも人騒がせなヤツだな。早ええ話が、てめえが賊に狙われるのも、ぶん殴られてボコボコになるのも自業自得ってもんじゃねえかよ」
「えー違うますぅぅー。全部が全部じゃありませんんー」
 顎を突き出して対抗し、ぷい、とエレーンはそっぽを向いた。「残念でしたー。ぶたれた時はたまたまだもん。あっち行けって初めは追い払われたもん。なのに、たまたま又会って、それでいきなり目ぇつけられてー」
「やかましいっ!」
 憮然と睨んで、ファレスがかったるそうに後ろ手をついた。「次、要求されたら、さっさと賊に引き渡せ」
「──はあ? やーよ! 冗談じゃないわ!」
「 "やーよ " じゃねえだろ! 冗談なのはてめえの頭だ!」
 むんず、と翠石を握り締め、エレーンは、むぅっ、と膨れっ面。「なあんで、あげなくちゃなんないのおー! せっかく、お守り仕様にしたのにさあ」
 拳を握って厳重抗議。そうだ。爺(ジイ)にバレたらどうしてくれる。実は無断で持ち出してきたのに。いや、そもそもこれは"お守り"なのだ。己を守ってもらう有り難い代物。そんな罰当たりな真似をした日には、ご利益がたちまちパーになり、災難がわんさと降りかかる。そうだ、そうなったら、どうしてくれる! 激化していく攻防を、ケネルは面倒そうに眺めていたが、げんなりした顔で後ろ頭を掻いた。「ファレスに従え」
「……え?」
 野良猫との言い合いの名残りで、眦(まなじり)吊り上げ、ぐるり、と振り向く。ケネルが大きく嘆息した。「それで済むなら安いものだ。命を取られるより、ましだろう」
「──で、でも、」
「どうせ、偽物なんだしな」
 痛いところを突かれてしまい、エレーンは「う゛」と引きつった。ならば、賊にくれてやれと言うのか? 「くれ」と言われたら「どうぞ」って? どれほど大事か彼らは知らない。その後に控える爺(ジイ)とのガチンコ対決を。でも、普段は野良猫をたしなめるケネルが、あっちの肩を持つなんて──。
( ……ヤバい )
 むくむく暗雲が立ち込めて、唖然と思考が停止した。嵐の如くにぐるぐる不気味に渦巻く脳裏で、ガミガミ雷を落とす爺(ジイ)の顔が思い浮かぶ。身近な従者であるだけに、弱みを握られるとたいそう痛い。領邸内での立ち位置を日々つつがなく確保するには、水面下での綱引きだとか熾烈な足の引っ張り合いだとか、権謀術数色々あるのだ。しかし、ケネルは野良猫の味方……。
 一気に敗色が濃くなって、ぶちぶち口を恨みがましく尖らせる。「で、で、でもお〜……これはぁ〜、だいたい、あたしのでぇ〜……それに、せっかくぅ〜……」
「いいな」
 ケネルが有無を言わさず打ち切った。すかさず、ぷい、とそっぽを向いたところを見ると、タヌキのヤツ、どうも面倒臭くなったらしい。孤立無援で、しゅん、とエレーンはうなだれた。ああ、なんという理不尽な──。俯いた顔が、ぎょっと引きつる。だってブラウスの前が、
 ──開いている?
 飛び上がって、あわあわ前を掻き合わせた。第二ボタンまでバッチリだ。いったい何故にこんな事態に!? てか、正面に座った二人からはバッチリ見えていた筈なのに。だったら何故に、
 注意をしない!
 あたふた驚愕、一人でジタバタしていると、ファレスがたるそうに手を振った。「たく。つくづく、つまんねー女だな」
 すっくと立って、並んだ頭をグーの連打でぶちのめす。無論、ケネルも同罪だ。今の不届きな口振りでは、一応目には入っていたが、どうでもいい、と思ったらしい。頭をぶたれた双方は釈然としない面持ちで不服気に口を尖らせている。子供のように頑なに( 自分は悪くない )と被害者面。もっとも結局、文句を言うでもなく渋々ながらも取り下げた。まずった自覚はあるらしい。
 
 
 近頃にしては珍しく、ケネルが未だにこっちにいたので、逃げられないよう足を掛け、シッカと両手で捕まえた。戸口で靴を履き終えたケネルは、口を尖らせ迷惑顔。上がったフェルトを更に退け、キョロキョロ外を見回している。
「……遅いな、あいつ」
 ファレスを待っているらしい。だが、お生憎さま、色々持って井戸の方に行ったから、たぶん洗濯に行ったのだ。つまり、当分戻らない。ケネルは自分の腕時計を見、林の向こうを爪先立って眺めやり、「そろそろ出ないとな──」などとこれ見よがしにそわそわしている。脱出を強行しそうな雲行きだ。いや、構わず外へと歩き出した。全力でしがみ付いたケネルの腹が移動して、伴いずりずり引きずられる。くたびれたサンダルを踏ん付けて引き寄せ、はっし、と爪先に突っかけた。て、こっちに構わず強行突破か! 早く何か言わないと!
「──ねー、ケネルぅーっ!……こないだねー!」
 サンダルの下には疎らな野草。結局、外に引き出されてしまった。意外とケネルはせっかちだ。そして、一度言い出すと絶対きかない。お陰でこっちは危うく裸足で引き出されるところだ。とっさの機転でサンダルを突っかけといて正解だった。
「ねー、こないだ、クリスがねー──」
 ケネルからの返事はないが、とりあえず勝手に話を始める。言いたい事は山ほどあるが、ケネルを相手に部下の悪口はどうかと思うし、ケインの話はNGだし、あんまり立ち入った話というのも色々差し障りがありそうだし──と消去法でよけていくと、無難なクリスの話くらいしか思いつかない。上着の袖を引っ張って、エレーンはあくせく話しかける。クリスが異様に懐いてきて、一緒に森に入った話、けれど、クリスの言う「見せたい物」が結局のところ見つからなくて──。
「てか、なんで、こっち見ないわけえ?」
 むう、と口を尖らせた。何故かケネルが目を合わせようとしない。
「──別に」
 ケネルはそわそわ目を逸らす。
( 怪しい…… )
 何かありげな不審な態度だ。ふと、ケネル絡みのあの言い合いを思い出した。間近な横顔をチラと仰げば、まるで興味がないらしく、困ったように野営地の方角を眺めている。泰然自若のこの男、あれを聞いたら、どんな顔をするだろう。慌てるだろうか、困るだろうか、それとも──。
 むくむく興味が湧いてきた。当人の反応が見てみたい。なにせ事が事だけに気恥ずかしくはあるけれど、ケネルだっていい大人だ。冗談めかして切り出せば、まともに取ったりしないだろう。一抹のためらいを振りきって、笑顔で顔を振り上げた。
「ねー。あたし、ケネルの " 恋人 " とかって言っちゃったー」
 目を逸らしていた横顔がピクリと強張り停止した。唖然として振り向く。ケネルは凝視して絶句している。随分過剰な反応だ。しばらくそうして困惑したように黙り込んでいたが、苦々しげに舌打ちした。「──馬鹿なことを。誰かにそれを聞かれたか」
「あっ、ううん! 他には誰もいなかったけど」
 エレーンは戸惑いながらも、慌てて首を横に振る。ケネルが真顔で見返した。
「そんなことは二度と言うなよ」
 言葉が鋭く突き刺さる。
「いいな」
 言葉を返せず、エレーンは呆然と見返した。つまりそれって、
 迷惑、ってこと?
 胸が激しく打っていた。唇を強く噛み締める。どうして、そんなひどいことを言うの……?
「──ケネ、ル」
 自分の呟きで我に返った。慌ててケネルから顔を背ける。傷ついた顔をしてしまっていただろう。他ならぬ本人が見ている前で。
「あ、──ねーねー聞いてよー、女男ってばねー!」
 努めて明るく話を代えた。何でもない顔をして。とっさに口を突いたのはファレスに関する愚痴だった。膨れっ面を目一杯作って不届きな所業を言いつける。そもそもファレスは身勝手だ。昨日襲撃された時だって、こっちが人質になっているのにお構いなしで、ちんたらいつまでも喋ってて、ちっとも助けてくれなかった。お陰でこっちはとっても恐い思いをして──。いつだって短気で、横暴で──。
「……ファレスが賊と話をしたのか」
 ケネルが面食らったように呟いた。本当に驚いたようで、まじまじと絶句している。曰く、普段であれば、賊と認識した途端、問答無用でぶちのめす。人質がいようがいまいが関係ない。つまり、強盗などはまともに相手にしない筈だが──。
「でもお! あいつ、ぐだぐだダラダラ喋ってたもん。ちっとも助けてくれなかったもん」
 勢い込んで、いつもより過剰に首を振る。さっきの失態を上手く誤魔化せているだろうか。ケネルはもう何事もない顔だ。今しがたの話題など、もうすっかり忘れたようだ。苦笑いで付け足した。
「あんたの足を止めない為だろ」
 いざ脱出となった段、怯えてしまって動けなくなったりせぬように。そうなれば、敵につけ込まれる隙を作ってしまう等々うんぬんかんぬん──。一頻り簡単に説明すると、ぶっきらぼうに締め括った。「だから恐くなかったろう、、、、、、、、。大勢の賊に囲まれていても」
「──え?」
 心ここに在らずで聞き流していた意識が、唐突に強く引き戻された。毒気を抜かれて口をつぐむ。ファレスの意図を推し量るケネルの言葉に戸惑いを感じる。当人がいるであろう井戸の方向を呆然と振り向いた。
「……恐く、なかった」
 そうだ。全然恐くなかった。あんなに大勢に囲まれていたのに。身柄を拘束されもしたのに。棍棒で殴りかかられもしたのに。やり取りしている間中、ずっとどこかで安心していた。それはファレスが、
 普段の調子で、、、、、、話していたから。
 その事実をどう捉えて良いのか分からない。頭の中が混乱している。ケネルは無言で見つめている。反応を窺っているように。ゆっくり噛み締めるように口を開いた。「──あんたも、行っちまうんだな」
 予期せぬ言葉が飛び込んで、え? と面食らって見返した。ケネルはそれには応えずに、ふい、とよそへ目を逸らした。
「そういう訳だ」
 投げやりな調子で話を切り上げ、面白くなさげに踵を返す。エレーンは呆然と立ち尽くしていた。かったるそうに歩み去るその背を追いかける事ができなかった。野営地にいるクリスを迎えに行くのだろうと分かっていても。動けなかった。一歩たりとも。
 ケネルを呆然と見送る脳裏に、賊とやり取りをする昨日のファレスが蘇っていた。平然と話す横顔の裏で、そんな事を考えていたとは全く微塵も気付かなかった。怪我したファレスを心底真面目に気遣ったのに、あいつときたらば悪口ばかりで小馬鹿にされて腹立たしかった。今になって思い起せば、心当たりは色々ある。普段は無駄話をしないファレスが、いつまでもちんたら喋っていた事。賊の不意打ちは蹴り飛ばせるのに、奇声で振り下ろされた棍棒はまるで避けようとしなかった事。普段より荒っぽく引き戻した手。眉をひそめた舌打ち。腕を引っ張る苛ついた横顔。吐き捨てられたあの愚痴が不機嫌な横顔と共に蘇る。
『 たく、俺が敵をびびらせてる間に、なんで、とっととズラからねえ 』
 息を呑んで絶句した。まさしくそう言っていたではないか。だが、それならそうと、何故分かるように言わないのだ。そうだ、彼らはいつだって、自分だけで了解するのだ。ましてやあの野良猫は憎まれ口ばかり叩いていて、口も態度も悪いから、真意がひどく分かり難い。
 いても立ってもいられずに、踵を返して駆け出した。脳が目まぐるしく働いて、一連の細かな場面を再生する。逸る脳裏に紛れもない結論が浮かび上がっていた。
 ──気遣ってくれていたのはファレスの方、、、、、、だ。
 もどかしい思いを噛み締めて、切り立った野原をサンダルで走る。尽力に対する見返りを、ファレスはまるで求めない。持ち込まれた問題を収めた事だけに満足して。そうか、と唐突に気がついた。ファレスは端から、何も期待していない、、、、、、、、、のだ。相手から受けて然るべき好意も謝意も労いも。そして、保身を図る何物をも欲していない。地位も交流も友情も。
 ファレスは予め、全てのものを捨てている。何のしがらみもファレスは持たない。自分の心の領分を僅かにも他人に明け渡さない。彼の心は彼一人のもの、他人を迎え入れる余地を作らない。誰の手をも求めずに、長い道のりを一人歩いて、野垂れ死にしようが構わない、そういう了見で生きているのだ。だから、ファレスは誰とも群れない。集団に属せば付きものの気兼ねやしがらみや牽制等と無関係でいる為に。己が欲する通りに振る舞う為に。自分自身である為に、、、、、、、、、
 だが、孤高というには痛々しい。ファレスのそれは必然的で頑なだ。それは殺伐と乾いている。肩で風切る捻くれ果てた野良猫にだって、素直な幼い頃があったのだろうに。
 胸が嫌な感じにモヤモヤした。そこに地歩を固めた理由を恐らく自分は知っている。何だろう、とたぐっていくと、幼い時分のファレスの姿が意外にも容易く思い浮かんだ。彼は誰かを待っている。待って待って待ちくたびれて、そうしてすっかり諦めてしまった。歩き続けた道の途中で足を止め、膝を抱えてうずくまってしまった。精も根も尽き果てて膝にうなだれた横顔の下で、幼いファレスは思ったろう。
 " ……もう、いいよ "
 それは諦観だった。全ては無駄、と諦めきってしまっている。誰をそんなにも待っていたのだろう。隙を見せない野良猫が。
 ……お母さん?
 ファレスの拘泥する深い根が、不意に表層に浮上した。やっとの事で思い出した。いつぞやの晩、昔語りで聞いた事を。夜毎出かける母親を朝まで一人待ち侘びた話。母子家庭の子にとって、その母親は世界の全てだ。振り向いて欲しくて、微笑んで欲しくて、ファレスも恐らく母親の気を引こうと躍起になったに違いない。持てる力の全てを尽くして母親に尽くしたに違いない。母の腕の温もりを求めて。安眠できる居場所を求めて。
 けれど、世界は無反応だった。やっとの事で奮い起こしたなけなしの期待。それは希望と言ってもいい。一人ぼっちで白々とした朝を迎える度に、灯した希望が打ち砕かれてしまう度に、かじかんだその手で繕って、気まぐれな笑顔で補って、けれど、僅かに保ったそれさえ壊れて、ついにすっかりなくなってしまった。
 かつて渇望したものを、ファレスは与えてもらえなかった。母親は一人で行ってしまったから、未来永劫手に入らない。渇望は成就されず未消化で、だから一歩も進めない。苦い原体験を心の底に刻み付け、ファレスは一人で生きてきた。尽力の見返りは得られぬものと全てを諦めきっているから、もう誰も寄せ付けない。だって何をしようが全ては無駄な事、、、、、、、なのだ。野良猫の瞳の奥底に冷ややかに横たわる不信の眼差し。
「──まったく。馬鹿なんだから!」
 歯がゆかった。忌々しかった。気付けなかった自分自身が。
 息せき切って走る内、見慣れた薄茶の長髪が視界の先に飛び込んできた。井戸の縁にいる。石積みの縁に足をかけ、井戸から汲み上げた水入りの桶を濡れた地面に下ろしている。その姿を見た途端、胸が詰まって声が出なくなった。せめて全力で傍に駆け寄る。
 気配に気付いて、ファレスが振り向く。駆け寄る姿を認めた途端、ぎょっと顔を引きつらせた。すぐに顎を突き出して「──あんだコラやんのかコラ」と喧嘩腰で威嚇する。あがった息を喘がせて、ファレスの手前で足を止めた。身を屈め、膝に手を置き、荒い呼吸を整える。干上がった喉を唾で湿して、もどかしく顔を振り上げた。
「子守り歌、歌う?」
 ファレスが顔を引きつらせて後退った。一秒後、ごちん、と脳天に由々しき衝撃。両手で抱えて沈没し、エレーンは涙目で顔を上げる。何故にぶつのだ。この上なく自分がすべき事なのに。いささか唐突だったかも知れないが。
 ファレスがぶっきらぼうに踵を返した。エレーンは慌てて後を追う。「──待って!」
「今度はなんだ」
 ファレスは既に不機嫌そうだ。歩く背越しに、振り向きもせずに眉をひそめている。
「あ、あの、昨日のことなんだけど──」
「昨日?」
 憮然と復唱、あからさまに胡散臭げな態度で顔を見た。
「あ、だからー、あたし昨日、森ん中で襲われたでしょー。そん時あんたさー──」
「ちゃあんと助けてやっただろうがよっ!」
 エレーンは、むっ、と見返した。
「だったら、なんで、すぐに助けに来ないわけえ!」
 ずい、と胸で腕を組み、反射的に言い返す。ファレスは眉をひそめてかったるそうに頭を掻いた。「人質に価値なんか見出した日にゃ、敵がつけあがって執着すんだろ。お涙頂戴の茶番なんぞは、どこぞの阿呆のするこった」
「そんなの言わなきゃ分かる訳ないじゃん」
言ったら敵にばれるだろうがよ!
 ファレスが面倒臭げに踵を返した。「たく。もう済んだこったろうが」
 いつものように無駄に睥睨しながら歩いていく。エレーンは、はた、と我に返った。いつもの調子でうっかり険悪になっちまったが、喧嘩をしに来た訳ではないのだ。どんどんファレスが行ってしまう。何も受け取らぬまま。行ってしまう。
 また。
「待ってってば!」
 離れつつある長髪に駆け寄り、強く地面を踏み切った。両手を伸ばして背中から飛びつく。ファレスは後ろに引っ張られ、カクリと膝を折って、バランスを崩した。
「──てめえ、何しやがるコラ!」
 苛立ち紛れに鋭く振り向き、肩を揺らして振り払おうとする。最後になったあの日の晩、部屋を出て行く亡父の顔がもどかしい脳裏をふと過ぎった。排除しようと暴れるファレスに、胸が痛いほどに共鳴する。そんな風に牽制しても、全力で払い退けはしないくせに!
「唸らないでよっ! あたしはあんたを傷つけないから!」
 面食らったように動きが止まった。その一瞬の間を捉え、ファレスの首にしがみ付く。凍り付いたその場所から、歩き出していい頃だ。そう、彼はそろそろ知るべきだ。他人に尽くせば相応の見返りがある事を。
 有無を言わせずカレリア式のお礼をした。首を引き寄せ、しなやかに落ちかかる長髪の耳元で言葉を紡ぐ。
「ありがとう、ファレス」
 地面に、とん、と爪先を付いた。我知らず胴を両手で支えていたファレスは、ゆっくり地面に体を下ろして、ぽかん、と顔を見返した。一見滑らかそうに見える頬だが、唇で触れると硬く冷たくざらついていた。
 ファレスは何が違うのか分からぬ様子で、頬に手を置き固まっている。やがて、「……おう」と拍子抜けしたように一言応え、しきりに首を捻りつつ、のたのたゲルへと歩いて行った。
 
 
 
 
 

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