CROSS ROAD ディール急襲 第2部 3章 9話11
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 診療所の面々は、ベッドに脚を投げ出した異邦人にビクビクしながら接していた。この患者を万一粗略に扱った日には、彼を担ぎ込んだ剣呑そうな仲間達がどのような手段を以て報いるものか容易く想像がついたからだ。当の患者も鋭い目付きで周囲を威嚇していたし、何より、患者を置いていった者達が多過ぎる費用を即金でぽんと支払った時点で、接客態度にはくれぐれも注意を要する相手と彼らはすぐに了解した。だが、相手は滅多に見かけぬシャンバール人で、どうにも勝手が分からない。何が不満か患者はいつも不機嫌そうで、いつ何時、予期せぬ方面から苦情が捻じ込まれてくるやもしれず、常に戦々恐々として窺っていた。そうした事情があったので、"使い"を名乗る若い女が現れた時には、診療所一同、大歓迎の手放しで、風変わりな患者を引き渡したのだった。
 炎が灯る野営地から少し離れた暗がりで、クリスは苛々しながら不貞腐った横顔を眺めていた。
「ねえ、聞いてるの。そんなのチョロいって言ったわよねえ。自信満々だったわよねえ。なのになによ、いざとなったら、どこにも居やしないんだから!」
「……しょうがねえだろ。見つかる訳にはいかねえんだからよ」
 月光に曝け出された男の顔は、不首尾を詰られ、不機嫌そうだ。
「森にいたのは盗賊よ。《 ロム 》じゃないわ!」
「そんな事まで分かるかよ。こっちは迂闊に近づけねえんだぞ」
 クリスは憮然と腕を組む。
「もう! なんでもいいから、さっさとあの女摘み出してよ。邪魔っけだったらありゃしないわ!」
 何度も繰り返した愚痴を言いかけ、ふと口をつぐんだ。唇に指を押し当てて、しばし、じっと考え込む。瞳を輝かせて目を戻した。「ね、なら、こんなのはどう?」
 ふふっと笑って男の耳に口を寄せる。バリーはかったるそうに見返した。
 
 
「やっぱ、夢かな……」
 静かな樹海の風道を、エレーンは気鬱に歩いていた。そう、あれは夢だったろうか、賊を取り囲んだ人垣の中、ケネルが冷酷にも「腕を斬れ」と命じていたのは。
 ケネルに対して、どのような態度を取るべきか、あれからずっと迷っていた。事によると本当に、彼らは賊の腕を斬り落としてしまったかも知れないのだ。いや、恐らく実行しただろう。一度目の襲撃の折りには見逃したとの話だったし、何よりケネルの最後通告をつきつけるようなあの言葉。
『 言った筈だな、二度目はないと 』
 彼らの気性は頗る荒い。表向きは、こちら側の常識に合わせて控え目に振る舞ってはいるものの、事ある毎に群れの本性が垣間見える。警告を無視すれば許さない、底流にあるのは断固たる態度だ。とはいえ各々が気紛れに、闇雲に突っ掛かるというのではない。集団の統制は見事なまでに取れている。能力があって手慣れている──恐ろしい事だと背筋が凍った。ケネルという長の下、考えもつかぬ非情な事を冷静にやってのけてしまう。微塵も心を動かす事なく。
 初めはノースカレリアでの戦いの時だった。街に押し寄せた兵達が問答無用で爆破された。もっともあれはのっぴきならない戦時下で、止むを得ない対処と言えないこともない。だが、その後もそうした姿勢は変わらない。相手を賊と見なした途端、たちまち荒っぽく格闘し、バリー達をファレスが殴り、バパがウォードを手にかけようとし、ケネルがケインを斬ろうとした。僅かな躊躇も彼らにはない。そして、彼らの行動は日を追う毎にエスカレートする。いや、そうではない。そちらの方が常態なのだ。そうした凄まじいやり方を、彼らは初めから採っている。だが、こんな事を続けていては悲惨な末路は免れない。力尽くで障害を排して、恨みを買わぬ道理がないのだ。人は己一人で生きているのではない。叩きのめされた相手にも当然の如くに親がいて、場合によっては連れ合いや子が、親しい友がいるだろう。彼らはきっと許さない。大切な者を傷つけたケネル達を。ならば、刃をかざして声を荒げ、諍い続けるしかないのだろうか。息が詰まるような構造的な連鎖の中で、心を休めることもなく。老いて力尽き、立ち上がれなくなるその日まで。人生の終焉を迎えるまで。刃を手にして立ちはだかる殺伐とした彼らの横顔──。
 ケネルが死ぬかもしれないと思った途端、涙が頬に零れ落ちた。漠然と思っただけの埒もない想像だ。だが、容易くそこに行き着いてしまう。現実となってしまいそうな予感がする。ケネルを止めたい。取り返しのつかない遠い所に行ってしまう前に。今は雄々しい闘将も、やがては老いて八つ裂きにされる。けれど今、現実には、彼は大群を率いる長であり、大勢を従わせる力を持っていて、彼に率いられる面々も各々強い力を持っていて、引きかえ自分はあまりに非力だ。どうすれば解き放てる。この殺伐とした連鎖から。なんだろう、と考えた。今の自分にできること──。
「おうおうおう! ちょっと待てやコラ!」
 あん……? と後ろを振り向いたらば、口をクチャクチャやりながら、例の三人組が凄んでいた。いつぞや因縁をつけてきたあの三人だ。左から、ゴツい顔のブルーノ、眼帯のジェスキー、顔を腫らしたイガグリ頭のボリス。クリスと用足しに来る際には、皆速やかに引き上げてくれるが、何故だかこの三人だけは、いつまでも森に居たりする。まあ、今日はクリスが隣にいるから、滅多な事はしないだろうが。
「又あんた達ぃ? なんの用よー」
 エレーンは膨れっ面で腕を組んだ。今日も彼らはぐるぐる取り巻き、顎を突き出し凄んでいる。要するに何の話かといったらば、前回同様、アドルファスに近付くな、との例のあれだ。憎々しげに唾を飛ばしてボリスが語ったところによれば、なんでも彼の妻が近辺にいるので女が纏わり付いているのは宜しくない、とかような次第であるらしい。上手く想像できないが、この三人は彼女を慕い、大事にしているようなのだ。とはいえ、アドルファスとは無論、勘繰られるような仲じゃない。彼はただ、怪我をさせた責任を感じて良くしてくれているだけなのだ。だが、何度違うと否定しても、三人はまるで聞く耳を持たない。あんまり煩く吠えるから、
「だったら、なによー。なんか悪いぃー?」
 ついに膨れっ面で開き直った。「いい加減うざいよねー。ねー」と同意を求めて振り返る。「え゛」とエレーンは固まった。いつの間にやらクリスが
 ──いない!?
 三人の剣幕に恐れをなしてコソコソ逃亡したらしい。だが、そうなると……
「あんだとコラァ!」
 向かいはたちまちブチ切れた。言うまでもない。
「い、今のなしっ! 今のは冗談っ! お、穏やかにお話しましょ? それがいいわよ、んねっ?」
 視線を泳がせた引きつり笑いの内心で( くっそー。クリスのヤツぅ〜! )と毒づきつつも、ぱたぱた後ろ手で逃げ道を探り、そろりそろり、と後ずさる。だが、そうしてさりげなく間合いを取ると、向かいにいる三人も腹を空かせた野犬の如くにがるがる唸りながらついてきて、双方の足は徐々に徐々に速くなる。因みに同行者の大抵は二人の首長を頭(かしら)と呼ぶが、何故だかこの三人だけはアドルファスを"親父"と呼び、彼の妻を"お袋"と呼んだ。とはいえ、全員どう見ても二十歳をとうに越えているから、アドルファスの子供の訳はない。そもそも三人ともシャンバール人との触れ込みなのだし、アドルファスには本物の子供が二人いて、まだ幼いと聞いている──と話がそこに及ぶや否や、
「てめえ! 親父になんて事を!」
 三人揃って顔引きつらせ、ぷるぷる絶句で震え出した。そして、ギロリと睨めつけた次の瞬間、
「待ちやがれ!」
 話し合いはついに決裂、追いかけっこは猛ダッシュ。
 のんびりのどかな樹海の中を、エレーンは両手を振りつつ、わっせわっせと駆けていた。尋常ならざるあの剣幕。悪気はさっぱりなかったが、どこかで禁忌に触れたらしい。冷や汗たらたらで考える。もしも、あれに捕まったりしたら──
( ……やばい )
 袋叩きだ。
 ブーツで下草蹴りつつも、スピードアップして木立を抜ける。あたふた藪に滑り込み、しゃかりきに潜って向こうに抜けるが、テキもすぐに回って追って来る。足場の悪さには慣れているらしく、勘も良くて、案外機敏だ。しかもそんなのが三人もいるというのだから、ただ逃げるのも楽じゃない。二手に別れて待ち伏せされたり、水溜りの方に追い込まれたり、藪からズボッと飛び出てきたり。生来の素質と意図せず鍛え上げた"逃亡者スキル"がなかったならば、追撃をかわすのは困難を極めたことだろう。どこで何が幸いするか分からないものだ。掴みかかる六本の腕を身長の高低差で素早くかわして、飛びかった三人の山から、エレーンはそそくさ外に逃げ出す。とはいえ、そろそろ息が切れてきた。
( ──も、もう駄目! )
 ぜーはー駆ける足がよろける。頭をぶつけて重なり合った三人がジタバタやってるその隙に少しは引き離してやった筈だが、さすが体が資本の肉体労働、ヤツらのタフさは並みではない。そして、足の速さは盗賊どもの比ではない。このままでは追いつかれ、手荒く引っ立てられること請け合いだ。そうしたら今度こそ、野営地事件の再来だ。藪を掻き分ける口汚い罵声が背後からどんどん近付いてくる。足がもつれる。息が苦しい。太い木の根に足を取られて、のめった体がぐらりと傾いだ。地面に叩きつけられる事を覚悟して、最早ここまで、と目を瞑る。
 ふっ、と体が浮き上がった。ぐん、と爪先が持ち上がる。視界に迫る高木の緑梢。どすん、と重力が唐突に戻った。
「……な、なに」
 何故かエレーンは座っていた。宙に浮いた足の下、眼下には野草生い茂る緑の地面、恐ろしく高い樹の上だ。左の脇の下に、こちらを抱える腕があった。唖然と下ろした手前の視界で、皮ジャンの片腕が服の上を横切っている。右上方に顎が見えた。背中をすっぽり包み込む気配、これってまさか──。はっ、と後ろを振り向いた。
「けっ──!?」
 むぐ、と口を塞がれた。直後、遥か眼下の足元の地上を、追っ手が三人バタバタわらわら通過する。藪に突っ込み姿を消した喧騒が徐々に遠く離れていく。枝の根元に腰掛けた男は、片腕でこちらを抱えたままで、それを無言で眺めている。
「── 一対五十はさすがにきついか」
 喚き声がすっかり行ってしまってから、彼はやれやれと呟いた。口を塞いだ手が緩む。エレーンは頭を振って振り向いた。「けね──!」
 ん? と見やって、ケネルは、ひょい、と口を塞ぐ。「もうちょっとな」
 あんたいきなりなにすんねん!? とガン見で暴れてやったらば、しかし、ケネルは軽くいなして事もなげな顔。ケネルは追っ手の行方を眺めている。胸を引っ抱えた腕の先で太い蔦を掴んでいるから、後ろの枝からダイブして、こちらを地上から掻っ攫い、そうしてこの枝に着地した、とかような次第であるらしい。いや待て。ケネルが体を支えつつ腕を置いている身体部位は……
( あんた、どこ触ってんのよっ! )
 ぎょっと硬直して見返した。様子を眺めるケネルの横顔は、いたって無自覚、無頓着だ。たぶん──いや、明らかに、彼は全く気づいていない。己の腕が今どこを横断しているか、という由々しき事実に。掻っ攫われる際、ケネルは確かに腹を引 っ抱えていた。だが、引っ張られた拍子に体がずり落ち、するり、と何の障害もなく、、、、、、、、腕が脇までずり上がったらしい。にしても、ケネルは気づく気配さえ皆無の様子。何故に気づかない! とムカムカしながら無神経男を見れば、テキはいつもと変わらぬ涼しい面持ち。追っ手が戻って来ないのを確認し、ケネルはようやく口の手を放した。待ちかねていたエレーンは、ふんがっ、とようやく息をつき、憤然とケネルを振り返る。
「なんで、もっと颯爽と助けてくれないわけえ!」
 しかし、やっぱ言えない、本当のところは。「何故に気づかぬ!」となじるのは、己で言うには虚しすぎる。ケネルは、ん? と目を向けた。きょとんと見返すその顔には ( おれは颯爽と登場したろ? ) と書いてある。もっとも口から出てきたのは、いつもの素気ない言葉だった。「何がそんなに不満なんだ」
 エレーンは、むむ、とたじろぎ、口の先を尖らせる。
「だ、だからー、こういう時は、悪いヤツをバッタバッタと薙ぎ倒してピンチを救うのがセオリーってもんでしょ。なら、やっぱここは大立ち回りっきゃないでしょが」
 ケネルは、ぷい、と横を向いた。「贅沢を言うな。現実はこんなものだ」
「ええー! 地味っ!」
「地味でもいいのっ!」
 エレーンはぶちぶち抗議する。「ねー、なんでケネルがコソコソすんのよ。あいつらケネルの部下なんでしょー。使いっぱの下っ端なんでしょー。なんでビシッと言わないわけえ?」
「あれはアドルファスの配下だ」
 ケネルは違うと即座に訂正、( ちがう、おれのかんかつじゃない ) とそっぽを向いた。いや、その後の呟きもシカと聞こえた。( あとがいろいろめんどくさい ) と小さな声で続けた本音も。
 事なかれな態度にブー垂れて、エレーンは足をぶらぶらさせる。ふと、重大な事実に気が付いた。足元がスースー心許ない。そう、目も眩むような高木の枝に腰を掛けているという事に。
「……お、お、……おろ……」
 抜き差しならない現実に、ギョッと即刻氷結する。地上を見ただけでクラクラする。顔から血の気が一気に引いて、エレーンはあわあわ青ざめる。ケネルにしがみ付いて絶叫した。
「下ろしてえっ! 今すぐここから! いいい今──今──今すぐーっ!」
 いや、絶叫しようとはしたのだが、声が裏返ってヘナチョコな悲鳴しか出なかった。ケネルはぱちくり瞬いた。「なんだよ、いきなり。今迄なんともなかったろ」
「いーから早く下ろしてよっ!」
 ケネルは白けた顔で肩をすくめた。「平気で文句を垂れてたくせに」と面倒そうにぶつくさごちる。「大丈夫だ、この程度なんてことない」
「いーから早くっ!」
 そりゃあ、あんたはそうだろうが、こっちは微塵も余裕はないのだ。
 とやかく言うな! と問答無用で睨みつけると、ケネルはやれやれと見返して、太い蔦を掴み直した。二三度引っ張り、命綱の強度を確かめる。頓着なく枝を蹴り、あっさり空中に身を投じた。今度は当然、
 後ろ向きで。
「──い゛っ!?」
 声にならない悲鳴を上げて、エレーンは目一杯瞠目した。両手両足ケネルに絡めてシッカとかぶり付くようにしてしがみ付く。ぶーん、と体が大きく振れた。巨大な空中ブランコでダイナミックに引き戻されるように。ゆっくり大きな弧を描き、木々の間を横断し、振り子の反動を利用して、ケネルはすとんと着地した。
「ほら、下りたぞ」
 間近で聞こえる事もなげな声。全身よろよろ、足はガクガク、心臓はばくばく張り裂けそうだ。顔を引きつらせて膝に手を置き、ぜーはー肩で息をつく。ケネルが足を踏み替えた。「なんだ、どうした」
 拍子抜けしたような呆れ声。このタヌキはすぐにリアクションがあるものとでも思っていたらしい。
「……ケネル、の、」
「ん?」
 俯いているから聞き取れないのか、ひょい、とケネルが顔を覗く。涙目で顔を振り上げた。
「ケネルのばかあっ!」
 ばっちん、と轟く制裁の音。
 そして、静寂が訪れた。
 
 あのまままっすぐ爆走したのか、うるさい三バカはあれきり戻って来なかった。深い樹海はのんびりと静かだ。
 無神経なタヌキを置き去りに、エレーンはぷりぷり歩いていた。まったく、あのタヌキは乙女を何だと思っているのだ。( おれ、すごくね? )みたいなあの能天気な顔はなんなのだ。ケネルは基本淡々としているし、たまに思慮深そうな顔もするから、うっかり色々案じてしまうが、実は案外、碌な事は考えてないのかも知れない。あれでは、まともにウジウジしたこっちの方がバカみたいではないか。ああ、心配してやってすんごく損した! 
「ケネルのばかたれっ」とぷりぷりしつつ、枯れ草を蹴散らしズカズカ歩く。ぶちのめしてやったケネルのヤツは「あ」の形に口を開けたが、後を追って来るでもない。ぶたれて怒ったというよりは、又ぶたれる事を警戒し二の足を踏んだものらしい。なんて見かけ倒しの不甲斐ないタヌキなのだ!
 足の向くままずんずん進む。そうして、どれくらい歩いたろう。穏やかに静まる樹海の木立に霧が音もなく立ち込めた。エレーンは、あれ? と足を止めた。慌てて周囲をキョロキョロ見回す。
( やばい。迷った…… )
 静まり返った樹海の木々に甲高い鳥声が鋭くこだまし、どこもかししこも枝を張った高木ばかり。踏みしだかれた獣道を辿ってまっすぐ歩いてきた筈なのだが、その間ずっとブー垂れていたから、目印なんかは覚えていない。ひんやり霧に取り巻かれ、冷や汗がドッと全身に吹き出る。当たり前だが、辺りは無人だ。あの風道はどっちだろう。皆が集合している草原は右だろうか、左だろうか──。耳を澄ますも分からない。随分奥まで踏み込んだらしく、どこから来たのか見当もつかない。しかも、泣き面に蜂とはよく言ったもので、こういう困った時に限って、どんどん霧が濃くなったりするのだ。
 おろおろ帰り道を探す内、ついに霧が一面に立ち込め、何も見えなくなってしまった。視界が塞がり、手探りでうろうろさまよい歩く。濃霧の彼方に人影が過ぎった。
( ……ケネル? )
 ほっとエレーンは安堵した。後を追って来ていたらしい。そりゃそうだ。いくら薄情でも放置はない。すぐさま、そちらへ足を向ける。向こうの方でも行方を捜しているようで、慌てた素振りで見回している。急に見当外れの方向に踵を返した。
( あ、ちょっと! どこ行くのよ! )
 エレーンはもどかしい思いで足を速める。呼び止めようと口を開き、ふと、とあるアイデアが閃いた。そうだ。さっきの仕返しに驚かしてやれ──。
 ケネルの驚愕した顔を想像し、くふふ、と忍び笑いを押し殺しつつ、離れゆく人影にそっと近付く。濃霧の中で地を蹴って、皮ジャンの背中に飛びついた。
「だーれだっ!」
 両手で胴を抱き締めた途端、あれ? と違和感に首を捻った。なんだか手触りがさっきと違う。( 変だな…… )と目を上げて、うげっと頬が引きつった。
「──これはこれは」
 普段は大抵無表情だが、いきなり飛びつかれて驚いたらしい。振り向いた相手はいささか面食らった面持ちだ。あだ名が唖然と口から零れる。「……キツネ、男」
 長い前髪下のあの鋭い双眸で、ザイが冷ややかに見下ろしていた。
 
 
 
 
 

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