【ディール急襲】 第2部3章 10話「あわい」

CROSS ROAD ディール急襲 第2部 3章 10話
( 前頁 / TOP / 次頁 )


 
 
 エレーンは愕然と凝視した。これ迄の確執を思い起こせば、ここはさっさと逃げるべきだが、あんまり驚いてしまって動けない。てか、なんでキツネがここにいるのだ。いや、ヤツは元々いつも群れから離れている。人嫌いなのか、嫌われているのか、昼に野営地で出くわした時にも、皆に見えない樹の上で昼寝なんか決め込んでいたし──。あの夜の追いかけっこの顛末が、脳裏にむくむく湧いて出た。このキツネに出くわすと碌な目に遭わない。野営地に迷い込んだあの晩だって、キツネに散々追いかけられたお陰で、意図せずバリーに飛び込んでしまったのだ。そうして酷い目に遭わされた。いや、あのままザイに捕まっていても、大した変わりはなかったろう。その本人が、今、目の前にいる──。ゾクリと凍って、あわあわ身を翻す。
「おっと」
 すぐさま腕を掴まれた。「どこ行くんスか」
 前髪下の切れ長の目が、冷ややかに顔を睨めつける。上腕を強く掴まれたまま、エレーンはじりじり後ずさる。素早く振り向き、震える息を吸い込んだ。「──ケネ」
「誰もいませんよ、この辺りには」
 ぶっきらぼうにザイが遮る。「そもそも」と続けた。「そんな蚊の鳴くような声じゃ聞こえやしねえよ」
 うっ、と詰まって、エレーンはザイの横顔を仰いだ。この言い草は、どうやら尾行けてきたらしい。ザイの上役の短髪の首長は「以後、ザイを近づけない」と胸を叩いて請け負ったが、やっぱり全く効いてない。このキツネも上役の前では大人しく尻尾を振るのだろう。群れの一同がケネルの前では殊勝な態度をとるように。にしても、森はこんなに広いのに、なんで無人だと分かるのだ。随分奥まで歩いてきたから「嘘だろう」と言い返す自信は全くないが。
「──こうも見通しが悪くちゃ、身動きが取れねえ」
 嵌っちまったな、と舌打ちし、ザイは濃霧の先を忌々しげに見透かしている。チラと仰いだ横顔は、いつにも増して不機嫌そうだ。腕を掴む強い力に痛みを感じて身じろぐと、煩そうに引っ立てられた。意地でも逃がさぬつもりらしい。拘束する手に取り付いて、エレーンはぶんむくれて抗議した。「ちょっとお、放してよ。どうするつもりよ、こんな所で」
「さあて、どうしますかね。ここらにゃ誰もいねえようだし」
 なおざりな調子で返事をし、ザイは濃霧の先を窺っている。霧が晴れるのを気長に待つか、それとも強引に進んでしまうか、決めかねているようだ。長い前髪下の切れ長の目が進むべき方向を探している。ふと、その目が眇められた。つられて目を凝らしてみるも、立ち込める霧で何も見えない。だが、ザイは何かに目を留めている。ギクリとエレーンは身を引いた。
 ──引っ張り込む樹洞でも見つけたのか。
 最早一刻の猶予もない。ザイの意識が逸れている隙に、拘束する手に噛み付いた。ザイが驚いて振りほどく。その胸を思い切り突き飛ばし、一目散に駆け出した。
 激しくぶつかる音がした。慌てて濃霧に飛び込んだザイが、樹幹にまともに突っ込んだのだろう。忌々しげな舌打ちに次いで、起き上がるような気配がした。蹴り飛ばされる草の音、すぐに後を追ってくる。草木に分け入る速い足音──。
 無我夢中でエレーンは駆けた。足音を消している余裕などない。ザイは執拗に追ってくる。同じように追われても、三バカまとめて三人よりも、ザイ一人の方がよっぽど恐い。声から挙措から視線から、彼の冷ややかな刺すような嫌悪が肌で感じて伝わってくる。何をした覚えもないのだが、顔を合わせた当初から嫌われている。それはたぶん間違いない。そもそも、自分が嫌う相手には大抵嫌われているものだ。壁が急に目前に迫った。
( ──見えない! )
 辛くも樹幹を慌てて避ける。濃霧で前がさっぱり見えない。だが、分厚い霧が今は味方だ。そう、視界が最悪だからこそ、未だ捕まらずに済んでいるのだ。巨木の裏に回り込み、エレーンは息を押し殺す。一拍遅れて速い気配が通り過ぎた。獲物が消えている事に気づかないのか、気配はそのまま離れていく。大分逸れてから物音が消えた。見失って立ち往生しているらしい。もっとも、一寸先も見分けられぬ濃霧でまともに追跡していたというのだから、それだけでも驚嘆ものだが──。エレーンは額の汗を腕で拭って、隠れた樹裏をそろりと出た。胸がドキドキ鳴っている。早く離れてしまおうと逆方向へ足を向ける。
「そこか」
 飛び上がって振り向いた。草が鳴り、気配が動く。
 至近距離だ。
 霧から片手がぬっと突き出た。身を捩ってとっさに払い、後ずさって逃げながら、霧の中から掴みかかる手を無我夢中で払い除ける。と、木の根に足を取られて尻もちをついた。慌てて手をつき起き上がり、四つん這いになって離脱する。左の肩を掴まれた。手荒く力任せに引き戻される。払い除ける暇もない。地面に強かに引き倒れた途端、影が素早く踊りかかった。薄茶の毛先が仰向いた顔に降りかかる。両手を闇雲に振り回し、エレーンは必死で抵抗した。上擦り強張った悲鳴を上げて、落ちかかる髪をがむしゃらに払う。手がどこを叩いているのか、それさえ碌に分からない。腕、肩、服、額──。
「──大人しくしねえか」
 低い苛立った叱責と共に、熱い衝撃が頬にきた。唖然として見返せば、落ちかかる前髪の下、切れ長の鋭い目が息を荒げて睨めつけている。今、頬を張られたらしい、と今更ながら気がついた。とっさに身じろぐも動けない。慌てて見やれば、両方の手首が地面に押さえつけられている。
 ザイに組み敷かれて見下ろされていた。絶望的な状況に力がみるみる抜け落ちて、体ががたがた震え出す。ザイが忌々しげに舌打ちした。左の手首から手を外し、こちらの顎をぞんざいに掴む。「──てこずらせやがって!」
「──や! 放して!」
 とっさに振り回した左手が当たった。圧し掛かっていた薄茶の髪が、不意を突かれて右後ろに仰け反る。エレーンは無我夢中で転げ出た。肘が顔面を直撃したらしい。掌の下の草を掴んで、震える膝を必死で立てる。途端、地面に前のめりに叩きつけられた。慌てて振り向けば、ザイの右手が左の足首を掴んでいる。恐怖に駆られ、足をがむしゃらに蹴りつけた。霧の向こうにザイがいるが、どこを蹴っているのか分からない。すぐに霧から呻き声がして、拘束する手が足から外れた。飛び込むようにして身を起こし、濃霧に向けて地を蹴った。
 後も見ずにひたすら走る。ふっ、と気配が断ち切れた。 それを怪訝に思いつつ、木立の間を駆け抜ける。ザイが何故か追って来ない。霧で姿を見失ったのだろうか。いや、あんなに間近にいて捕まえられぬ筈がない。枝を踏む微かな音を聞きつけただけで、恐ろしい速さで引き返して来る男だ。
 森は白く、冷ややかに静まり返っていた。じっと耳を澄ましても、ザイの足音は聞こえない。霧が深く立ち込めていた。鳥獣も息を潜めているのか、森はひっそりとして、物音一つない。あるのは自分のたてる荒い呼吸と足音だけ。急に不安になってきた。ここは一体どこなのだろう。方角が、いや前後左右さえも判然としない。四方は見渡す限り白霧に沈む木立の影。景色がまるで変わらない。同じ場所をぐるぐる走っているような──。
 どこにいるとも知れぬおぼろな道だった。エレーンはおどおど見回して、逃走の速度を怯んで緩める。なんだか気味が悪くなり、見回した目を前方に戻す。どん、と何かにぶつかった。
( ……ザイ!? )
 ギクリと飛び上がって飛びすさる。ずっとまっすぐ駆けて来たから前にいる筈はないのだが、あの狡猾なキツネのことだ。どんな風に化かすか分からない。逆方向へ踵を返し、「……え?」と逃走の足を止めた。そろり、と影を肩越しに窺う。多分垣間見えたのはザイではない。だって髪が長くて、
 青い。
( ──んなバカな )
 エレーンはゴシゴシ目をこすった。見間違いだろうか、青い髪などある筈もない。そうする間にも、濃霧で霞む人影がゆっくり滑るように近付いてくる。それはすぐにも間近に迫り、相手の姿がはっきり見えた。
 見慣れぬ服を着た背の高い男だ。堀の深い彫刻のように端整な顔立ち、白い額の中央から肩に流れるまっすぐな長髪、見た事もない青髪が頬に滑らかに落ちかかっている。ファレスに似ている、とふと思った。口を開けばたちまち女の敵に豹変する柄の悪い野良猫も、口さえ閉じて黙っておけば綺麗な顔をしているのだ。いや、似たような髪型をしているから似て見えるというだけの事かも知れない。目の前の彼はあれより余程端整だ。妙な言い方だが、まるで体温を感じない。隙なく整えた作り物であるかのように。
「《 月読 ─つくよみ─ 》、か?」
 青髪の麗人が口を開いた。
 顔を凝視していた事に、呼びかけられて気がついた。「──あ、あの!」
「いや、そうではない、か」
 高くもなく低くもない無機質な声。呼びかけは懐疑的だったが、表情に変化は見られない。何事か気づいたように見返した。「──どうしたのだ、その成りは」
 痛ましそうに、眉をひそめて踏み出した。
 肩に、彼の手が伸びる。エレーンはあわてて後ずさった。「──あ、いえ、大丈夫ですから!」
 あまりの大胆さに舌を巻く。相手は見知らぬ者というのに。だが、下心があるようには見えない。膝をすりむいた幼な子に、向けるような慈愛のまなざし。そう、何故なのだろう。親のそれであるかのような。
「呼んだのは、お前か」
「い、いえ……あの、あたしは別に、呼んだりは……」
 そもそも、初対面の相手なのだ。
「お前は我らの末裔か?──いや、しかし、そんな筈はないのだが」
 戸惑ったような面持ちだ。何を困惑しているのか、扱いかねるとでもいうように、まじまじ顔を眺めている。
「お前は " 何 " だ。何故、このような場所にいる」
「──あ、あの、ちょっと散歩してて、それで、なんか迷っちゃって」
「迷って入れる場所ではなかろう」
 咎めるような口調にたじろいだ。
「我らでさえも、ようやく突破できたというのに、まして民草のお前が、どうやって」
「あ、いや、どうやってって、普通に向こうから走ってきて──あ、だって、別に何にもなかったし」
「この場には、強力な結界がある」
「……けっかい?」
 ぽかん、とエレーンは見返した。「けっかいって何」
「聖なる領域を隔てるもの。通常ならば、結界に弾かれ、立ち入れぬ」
「あ、でも、それならなんで……」
 ちら、とエレーンは向かいを見る。そうだ、おかしい。だったら、なんで、あんたが居るのだ。
 彼は往生したように息をついた。白皙の顔に自明の事柄を殊更に問われているかのような苛立ちが過ぎる。
 それでも、律儀に説明した。「我等はそもそも民ではない。言ってもお前には分からぬだろうが、界主の命で、国主に仕える。そして、民を補い、これを守る。民はか弱く、そして非力だ。しかしお前は、一人で境界を越えてきたというし──」 
 不審そうに目を返し、ふと、その目を見開いた。凝視の先を辿っていくと、知らぬ間に握り締めていた件のお守り? 呆気にとられて、彼が見た。「お前は " 鍵 " か」
「へ?」
 エレーンはぱちくり己を指した。一体なんだというのだろう。妙な事ばかり言う。
 ゆるゆる彼は首を振り、にわかに厳しい顔つきになった。指の長いしなやかな手を、こちらへ差し出す。「いや、私に渡せ。お前には無用の長物だ」
「ご、ご冗談をっ!」
 ぎょっとエレーンは胸のお守りを引っ込めた。「会ったばかりの見ず知らずの人に、なんで、あげなくちゃなんないわけ」
「持っていても役には立たん。さあ、私に渡すのだ」
「嫌だってば! わかんない人ね。これはあたしのなのっ!」
 エレーンは口を尖らせて対抗した。哀れむように彼はながめ、不承不承手を引いた。
「ならば、覚えておくがよい。無理に捻じ曲げた代償は、他への皺寄せとなって現れる。それをつゆ忘れるな。世界は常に均衡を保つ」
 青い長髪を翻す。はっ、とエレーンは我に返った。「ま、待って! えっと、そのツクヨミっていうのは──!」
 青髪の背は振り向かなかった。立ち込める霧に紛れ、すぐに覆い隠される。
 何事もなかったような真っ白に煙る視界を前に、エレーンは茫然と立ち尽くした。まるで訳が分からない。分かったのは、奇妙な青い髪のあの彼も、お守りを欲しがっている、という事だけだ。とはいえ、執着するでもなく。
( なんだったの、あの人は…… )
 首をひねりつつ歩き出す。視界は未だ真っ白で、足元さえも覚束ない。もしや、悪い夢でも見たのだろうか。あんな人間いる訳がないのだ。いや、そもそも、今のは
 ──人間、だろうか。
 姿形は、確かに人間そのものだった。だが、思わず訝ってしまうほど、今の彼は無機質なのだ。考え方や行動の基準などケネル達に対して違和感を抱く事はままあるが、それは生活環境の異なる異種族間に根ざすもので、今の彼から放たれていた明確な差異とは比べ物にならない。今のあれは" 絶対的に " 違うのだ。同じように手足があって四つん這いで歩いても犬と猫では異なるように、明らかな差異がそこにはあった。そう、根本的に質が違う。"あれ"は一体なんだろう。上から目線でお前呼ばわりするくせに、訊かれた事にはきちんと応える。声を荒げるでも、暴力をふるおうとするでもない。見知らぬ相手を真摯に労わり、態度は公正で親切だ。喩えるなら子供に諭す親のような寛大さ。そういや妙な事を言っていたような……? "国主"というのは何だろう。つまり王様の事だろうか。諌めるような、哀れむような深い深い青の瞳──。
 靴の中の不快感に気がついた。足の裏がなんだか冷たい。靴の中が濡れているのだ。そういや、少し前からこんな風だったような──。足元に視線をやると、ブーツが踝(くるぶし)の上まで浸かっている。水だ。知らぬ間に水溜まりに踏み込んでいる。ふと、エレーンは気がついた。視界が利く。霧が薄くなっているのだ。だが、周囲の霧は依然として立ち込めているが──? そう、晴れているのは自分のいる周囲だけのようなのだ。
 霧が不意に蠢いた。自分のいる地点を中心に渦を巻いて動き出す。呆気に取られて見つめる間にも、濃霧は速やかに引いていく。ぽたりと落ちた雫の波紋が水面を広がっていくように。上からの風の圧力で霧が押しやられていくように。慌てて見回そうとした途端、瞬く間に視界が開けた。
「……ここ、どこ」
 薄霧のかかる静寂を、エレーンは唖然と見回した。澄んだ水が豊かに広がり、岸辺で梢がそよいでいる。夕暮れにはいささか早い青空と、全てが停止したような穏やかな水。水面の左側を黒く塞いで目を引く巨岩が突き出ている。泉の中央に立っていた。この泉の周囲だけ、霧が払われ、ぽっかり広く開けている。周囲の緑を映し出し、鏡のように光る水面──。
 ちょろっ、と何かが左の岸の草に隠れた。強いコントラストが目に焼きつく。穏やかな緑とは対照的な鮮烈な真っ赤なうろこ。
「──げ! トカゲ!」
 エレーンはぎょっとすくみ上がった。掌ほどの大きさしかないが、ああした爬虫類は得意じゃない。泉の水をバシャバシャ蹴散らし、あたふたしながら岸へと向かう。トカゲが隠れた草むらを恐る恐る盗み見る。低い葉陰からチョロチョロ再び這い出てきた。
 青々とした緑草の上、陽を照り返すうろこの赤が、いやに鮮やかに目を引いた。目がそれに釘付けになる。トカゲのうろこの強烈な赤は、何かを漠然と思い出させた。 以前、身近にあった色だ。そう、あれと同じ類いの色を、確かに自分は知っている。それが何であるのか思い出そうとするのだが、何故だかどうしても思い出せない。もどかしい思いで嘆息すると、ひょい、とトカゲが立ち上がった。二本の短い後ろ脚で。
 エレーンは愕然と息を呑む。直立した小さなトカゲは黒く潤んだ目を向けた。短い足を交互に出して、まっすぐこちらへ歩いて来る。動作は至極自然なものだ。白い腹を突き出して、泉のほとりで足を止めた。
『《 月読 》 か 』
「──喋った!?」
 今度こそ、とてつもなく驚いた。それは聞いたこともない声だった。男のような、女のような、子供のような、それでいて老いてもいるような、同時に幾重にも重なって聞こえる不思議な声──。
 息を呑んで硬直し、はっ、と唐突に思い出した。ここは化け物の棲む森だ。二年前にもレーヌ近郊の樹海の中で、空飛ぶ白い子供に散々追いかけ回された。ようやく駆け込んだ丸太小屋で、皆で朝まで震えて過ごした。二度とここには入るまいと固く誓った筈なのに、何故に今まで忘れていたのか。だが、後悔しても、もう遅い。
『 《 月読 》 ではないな 』
 赤いトカゲは人間のような仕草で怪訝そうに首を傾げた。
『 ならば一体何者だ。国主でもなければ、《 月読 》でもない。この匂いは──お前は《 翅鳥 ─しちょう─ 》か? しかし、鳳凰の庇護下にある者が、何故自国ではなくて " こちら " にいる。しかも容姿は慶寿のそれ。いや、しかし、この匂いと気配はやはり紛れもなく《 翅鳥 》の──』
 赤いトカゲが動きを止めた。
『 そこに何を持っている 』
 表情のない爬虫類の顔が、急激に剣呑に様変わった。徐々に密度を増す空気の重みで、肌で感じてひしひし分かる。
『 お前は誰だ 』
 奇妙な怒声に全身が泡立つ。赤い小さなトカゲの向こうに、靄のような何かが見えた。ぼんやり浮かぶ大きな影、それは赤いうろこの巨大な実体──。
 圧倒されて息を飲む。小さな赤いトカゲの背後で、巨大な竜が蠢めいていた。シュルシュルとぐろを巻いている。カッと双眸を見開いて、巨大な顎門あぎとが大きく開いた。
『 返せ 』
 一目散に逃げていた。水面を蹴散らし、ひたすら駆ける。覚束ぬ足が水底の石につまづいて、バシャン、と顔から突っ込んだ。頭から全身ずぶ濡れだ。つんのめりそうになりつつも震える足をなんとか踏み締め、あたふたしながら岸に上がる。硬い地面を夢中で蹴りやり、濃霧の中に逃げ込んだ。奇妙なトカゲが追って来るような気がして、前だけを見てひたすら駆ける。振り切った右手が強く幹を叩いたが、構ってなんかいられない。木の根につまずき、ぬかるみで滑って、すぐさま手を突き、起き上がる。
 緩やかに揺蕩う白霧の向こうに、木立の影がぼんやり見えた。霧は相変わらず立ち込めているが、幾分薄くなっている。逃げ果せる道を必死で探した。方角がまるで分からない。どちらに向かえばいいのだろう──。
 ふと、左に引っ張られるような感じがした。微かな望みをたぐり寄せ、両手を振って一心に駆ける。ふっ、と影が霧を過ぎった。周囲を慌しく見回している。付近にいるというならザイだが、相手を選べる状況じゃない。
「た、助けて!」
 転びそうに駆けつつも、喘ぐように呼びかける。相手が足を止めて振り向いた。いや、薄茶ではなく黒い髪だ。こちらを一瞥、弾かれたように向き直る。驚いた顔で野草を掻き分け、あの黒髪が駆けて来た。
「──ケネルっ!」
 息せき切って飛び込んだ。しがみついた懐で、エレーンは顔を振り上げる。
「りゅ、りゅ、竜がいたっ!」
 ケネルは唖然と面食らった。「……どういうことだ。何故あんたに、そんなものが見えるんだ」
「だって、いたもん!」
 ケネルは怪訝そうに周囲の霧を見回している。歯がガチガチ鳴っていた。ずぶ濡れの体はガタガタ震え続けている。霧は広く緩やかに、森の底をたゆたっている。呆気にとられて見下ろすケネルに両手で全力でしがみ付いた。
 
 
 
 
 

( 前頁 / TOP / 次頁 )  web拍手


オリジナル小説サイト 《 極楽鳥の夢 》