CROSS ROAD ディール急襲 第2部 3章 11話4
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 エレーンは慌てて振り向いた。皆が集合している草原は、この道の先、すぐそこだ。
「──おっと。喚き散らすのは勘弁しろよ」
 悲鳴の口を開いた途端、掌がそつなく口を塞いだ。肩が手荒く抱え込まれる。バリーは風道を外れて樹海の中へと踏み込んだ。息苦しさに首を振りつつ、エレーンは強引に引きずられる。なんとか逃げようと全力でもがくが、強い力で締め付けられて蹴ろうが首を振ろうがビクともしない。群れが待機している草原がどんどん後ろに遠ざかる。必死でもがいて抵抗しながら、引っ立てられて、しばらく歩いた。
 やがて、随分深く分け入ったところで、バリーはようやく足を止めた。途端、手荒く突き飛ばされる。枯葉の上に転がって、エレーンは慌てて振り仰いだ。「──な、何すんのよ。なんでそんなに目の仇にすんのよ! あたし、あんたに何かした!」
 怯えで喉が引きつって、声さえ碌に出てこない。あのザイの言い草ではないが、蚊の鳴くようなか細い声だ。心の中で助けを呼ぶも、既に樹海の只中だ。当然の如くに人けはない。尻もちで後ずさる足先を、バリーは口元を笑いに歪め、黒い編み上げ靴の爪先で、甚振るように追い立てる。
「べぇつに? ただよ──」
 見下ろすその目に憎々しげな色が宿った。「上手くやってるヤツを見てるとムカつくんだよな。人生バラ色みたいなツラしやがってよ!」
 エレーンは唖然と見返した。あまりに理不尽な言い草だ。内心むっとし、震える声で言い返す。「そ、そんなの、あたしのせいじゃ──!」
「てめえらのせいだよ」
 バリーは冷ややかに吐き捨てた。「ああ、みんな、てめえらのせいだ。てめえばっかり良い思いしようってな身勝手のツケがこのザマだ。てめえばっかり楽な暮らししやがって! チャラチャラチャラチャラ笑いやがってよ!」
 見下ろすバリーを凝視して、エレーンは尻もちで後ずさった。下草を掴んだ指の先が震えている。謂れのない憤懣をぶつけられているとしか思えない。──そうか、とようやく気がついた。あの晩、野営地でファレスから聞いたあの事情に。本来シャンバール人であるところの彼らが、ああして群れに身を置く経緯に。
 彼は落ち度もなく故郷を追われた。売り渡したのは自国民だ。だから彼には、そちら側にいる人間が、" 上手くやってる " 世間全般が、どうしようもなく許せない。楽しそうに笑っただけで腹立たしくて堪らないのだ。だが、今となっては成す術もない。全てが済んでしまった今となっては。公式には、彼が育った小さな村は"敵"の急襲で全滅し、ここにいる彼も又、既にこの世の者とは認められない存在なのだ。どこにも持っていきようのない鬱憤を、バリーは腹いせにぶつけようとしている。故なく貶められた者達の、当然の権利であるかのように。奪われた真っ当な人生に対して抗議の声を上げる為に。自分は今、彼の"根源"と対峙しているのだ──。
 それを悟って、急速に緊張が込み上げた。憎悪の対象になってしまっている。自分は無論、無関係だが、彼の目には、"こちら"側にいる者全ては、皆須らく同一なのだ。
 我が身に降りかかる理不尽さを、ここで論じてみても始まらなかった。正論を吐きさえすれば、常に通るとは限らない。むしろ理屈が通る場合の方が稀だ。そうした揉め事の大抵は、両者の"力"の多寡を以て決する。そして、現に今、彼の持つ腕力に自分が敵う筈もない。
「……あ、あたしを一体どうする気よ」
 せめて虚勢を張って睨みつけ、エレーンはじりじり、萎えた手足で後ずさった。彼が舐めてきた辛酸は、自分の月並みな経験などとは想像もつかぬ程にかけ離れていて、なだめようにも取っ掛かりさえ見つからない。
「さあて、どうすっかな」
 バリーは目を細めて値踏みした。腹立たしい優位の者を同じ立場に貶める為に。あわよくば、それより更に沈める為に。蔑むようにバリーが笑った。「淫売宿にでも売っ払って、一稼ぎするとするか」
「そ、そんなことしたら、ケネル達が黙ってないわよ!」
「バレやしねえよ」
 事もなげに、バリーは笑った。「俺がここにいるなんざ、誰も知らねえ事なんだから。だって今頃、こんな所に、俺がいる訳ねえだろう? ああ、だったら念の為、シャンバールの隅っこにでもぶち込んどくか。二度と戻って来れねえようによ。ま、元より国境は越えるつもりだがな。だが、その前に──」
 意味ありげに見返した眼に、野卑な光が浮かび上がる。舌舐めずりの意味を悟って、エレーンは全身を強張らせた。慌てて身を翻し、立ち上がろうとはするのだが、踏み込む足が萎えてしまって、まるで力が入らない。震える膝を何とか立てて、四つん這いで藪を目指した。
「──おっと」
 エレーンは小さく悲鳴を上げた。後頭部に激痛、髪の毛だ。後ろに強く引っ張られている。掴まれた拍子に顎先が上がり、伸びきった喉元に皮ジャンの腕が滑り込む。
「どこへ行くんだ奥方様、ああ?」
 容赦なく喉を締め上げられて、エレーンは腕に両手で取り付き、歯を食いしばって首を振った。気道を塞がれ、汗が全身に滲み出てくる。息苦しさに仰向いた視界に、さわさわ揺れる森の樹梢。場違いに穏やかな光景だ。それも次第次第に遠のいていく。
 意識が薄れ、それを手放しそうになった時、地面に手荒く突き飛ばされた。投げ出されるままに座り込み、喉を抑えて激しく咳き込む。バリーの片手が無造作に伸び、ブラウスの胸倉を掴み上げた。
「その前に精々楽しませてもらうぜ」
 陰惨な笑みが間近に迫って、エレーンは固く目を瞑る。この辺りには誰もいない。逃げても、すぐに追いつかれる。
 木立を渡って風が立った。草木が騒いだその刹那、服が毟り取られるような衝撃がきた。続いて頭上で激しい物音。ふっ、と体が軽くなった。僅かに遅れて、突風が横から押し寄せる。
 地面に唐突に投げ出され、エレーンは咳き込みながら目を開けた。視界には、さわさわ揺れる何事もない樹梢──。
 激突音が頭上でした。続いて上がる呻き声、そして罵倒。バリーの声だ。バリーが誰かを罵っている。エレーンは慌てて振り向いた。白シャツの背が獣のようにのしかかり、押し倒した相手の胸倉を掴んでいた。バリーを地面に組み敷いている。
 息苦しさに咳き込みつつも、エレーンは呆然と呟いた。ウォードだ。踊りかかった白シャツの背が燃え盛るような殺気を放っている。いつもののんびりした彼ではなかった。殴打の音、バリーの罵倒、バリーがウォードを殴りつけ、ウォードがバリーを殴りつけ、それをかわしてバリーが蹴りつけ、自分の上から跳ね飛ばそうともがいている。掴み合い、揉み合い、凄まじい応酬だ。エレーンは身を強張らせて凝視した。止めるべきなのは分かっていたが、荒々しい姿を目の当たりにして、圧倒されて動けないのだ。見ていることしか出来なかった。何も出来ない。掠れ声さえ出てこない──。
「よせ!」
 吠えるような制止が、荒れ狂う乱闘に割り込んだ。バリーでもウォードでもない、新たな別の声だ。聞き覚えがあるような気もしたが、なにぶん目の前の事態に動揺していて、声の主を思い出せない。
 拳を振り上げた白シャツの肩を、喧騒の向こうのその手が掴む。乱闘の向こう側にいる為に、座り込んだ体勢からでは相手を確認できないが、騒ぎの向こうで垣間見える薄茶の髪が辛うじて見えた。動きが速い、それだけは分かった。知らぬ間に、こんなにも近づいていたのだから。
「よせ、ウォード! 殺す気か!」
 男の声で叱責が飛ぶ。肩に手をかけた邪魔者を、ウォードが肩越しに鋭く見た。振り向き様、反射的とも言えるような速さで白シャツの腕が振り抜かれる。引き離そうとした薄茶の髪が、右の巨木まで吹っ飛んだ。鈍く嫌な音がして、叩きつけられたその体が根元にずるずるずり落ちる。あれは──。
 その正体にようやく気付いて、エレーンは息を呑んで瞠目した。地面に流れた薄茶の髪、ぐったり横たわる細身の体。ザイだ。枯葉の地面にうつ伏せたまま、その肩はピクリとも動かない。硬直して見入った脳裏で、瞬時に目に焼きついた今の場面が再生される。ぶつけたのは恐らく
 ──頭だ。
 はっと気づいて、エレーンは慌てて振り向いた。
「やめて! ちょっとやめてよ! あの人、頭を──!」
 声を張り上げ、制止する。喧嘩しているどころの騒ぎじゃない。打ちどころが悪ければ、ただでは済まない危険な場所だ。
 上になり、下になり、殴り合いは続いている。乱闘は止まなかった。制止がまるで届いていない。目の前の相手を如何に殴るかに二人は夢中で、まるで聞いていないのだ。荒れ狂う様を凝視して、エレーンは拳を握り締めた。
「やめなさい、ウォード! 暴力はだめって言ったでしょ! あたしとの約束、どうして聞いてくれないの!」
 ビクリ、と白シャツの背が動きを止めた。だが、振り上げた拳が止まっただけだ。攻撃が止んだその隙に、バリーが素早く這い出した。よろけた足を踏み締めて、肩越しに睨みつけて樹海へ逃げる。ウォードはそれを追わなかった。拳こそのろのろ下ろしたものの、依然として不自然な中腰のまま、じっと背を向けている。やがて、長い脚を投げ出して、放心したように座り込んだ。
「──キ、キツネ男!」
 はっと我に返って、エレーンは巨木の根元を慌てて見た。倒れ伏した相手にそろそろ近づく。目を閉じたその顔を認めた途端、ビクリ、と震えて足が止まった。
( ……ど、どうしよう )
 エレーンは唇を噛み締めた。どくん、どくん、と胸が鳴る。足がすくみ、指先が震えた。脳裏に蘇ったのっぴきならないあの恐怖に、腕が我が身を掻き抱く。ザイから逃げたのは一度きりのことではない。つい昨日だって、樹海で散々追い回されて、押し倒されて頬までぶたれた。その他ならぬ相手が目の前にいるのだ。足の裏に根が生えたように動けなかった。殊更に我慢していなければ、足が勝手に逃げ出しそうだ。すぐ近くにザイがいる。霧の中、襲いかかってきたあのザイが──。いや、
( ──違う )
 すぐにも逃げ出しそうな自分のブーツの爪先を見つめて、ようやく唾を呑み込んだ。いや、違う。ここにいるのは怪我人だ。失神しているただの怪我人。だから、逃げてはいけない。もしもの事があったら、どうするのだ。今、彼をみることが出来るのは、自分をおいてはいないのだ。ここで見捨てて逃げるのは、人としての信義にもとる。いくら彼が嫌いでも、いくら彼が、
 怖くても!
 震える拳を強く握って、エレーンは顔を振り上げた。
「──キツネ男! キツネ男しっかりしてっ!」
 つかつか近寄り、倒れた傍らにしゃがみ込む。屈み込んで肩を揺すると、意識のないザイの体はされるがままに仰向いた。青あざの顔がカクリと力なく地面に落ちる。ザイの体に触れた手を、エレーンはギクリと強張らせた。右の額がぐっしょりと赤い。これはもしや──
( 頭が割れた……!? )
 血の気が引いて唾を呑んだ。額から流れる出血は、薄茶の髪と枯葉とを濡らし、今も赤く溢れ出ている。眉をひそめて目を閉じたザイは、ぐったりしたまま動かない。ハンカチを取り出し、ザイの額に押し当てた。白いハンカチが血を吸って、みるみる赤く染まっていく。こんな薄い布ではどうにもならない。焼け石に水だ。どうしたらいい──。
 やきもき見回し、気がついた。頭が体より下がっていては、出血が余計に止まらないのではないか。頭の位置を上げれば、少しは──。
 ひとまず膝に頭を載せた。枕になりそうな物を探して、おろおろしながら周囲を見る。小枝や石ころなら幾らでもあるが、枕にするには高さが足りない。適当な物が見当たらなかった。そうこうする間にも、血色の悪いザイの顔が又一段と白くなった気がする。不安に胸がどきどき鳴った。身の内の怖気が、ざわり、と騒いだ。人がどれほど呆気ない生き物であるのか、これまでの体験で知っている。そうだ。あれから、、、、まだ、、たったの二年だ、、、、、、、。 この出血が止まらなければ、彼もこのまま、
 ──死んでしまう。
「そ、そうだっ!」
 はっ、と "それ" に気がついた。横たわった脚に慌てて取り付く。焦りに強張る指先を動かし、悪戦苦闘してようやく抜き取る。途端、
「うっ、ちょっと!……なんでこんなに重いのよっ!」
 エレーンは思わず毒づいた。だって法外な重量だ。いや、この際、そんな事はどうでもいい。膝の代わりに頭の下へと差し入れて、ずり落ちそうなハンカチを額の傷に当て直す。
「──ノッポ君!」
 込み上げる不安を押し殺し、蒼白な顔を凝視したまま、後ろにいる彼を呼んだ。
「誰か呼んで。ほら、指笛ってヤツ、ノッポ君もできるんでしょ。ね、そっちはお願い」
 森はひっそり静まっている。待てど暮らせど返事はない。動き出す気配さえない。怪訝に思い、肩越しに見やれば、ウォードは背を向けて座ったきりだ。反応のなさに苛立った。彼は確かにマイペースだが、こんな時にまで我関せずとは! いささか呆れて、あてつけがましく嘆息する。
「だったら、もういいっ!──キツネ男! キツネ男しっかりっ! だ、大丈夫、傷は浅いわよっ!……あ、たぶん……」
 呼びかけ、肩を恐る恐る揺すると、ザイがうめいて目を開けた。うるさそうに眉をひそめ、焦点を合わせるようにして眩しそうに顔を見る。こちらの姿を認めた途端、訝しそうに瞬いた。目を開けた途端に表情が戻って、この男が誰であるのか思い出す。ギクリ、とエレーンは硬直した。
( い、いや、違う! これは怪我人! ただの怪我人っ! )
 自分自身に言い聞かせ、怖気を振り払うように首を振る。そうだ。こんな状態では是非もない。ほんの一瞬怯みかけるも、胸に手を置き、乗り出した。
「わ、分かる? あたしのこと分かる? 今、ノッポ君にぶたれて、木にぶつけて頭が──」
 気怠そうに身じろいで、ザイが片手を持ち上げた。
「──触るな」
 ぞんざいに手が払われた。額のハンカチが弾き飛ばされ、少し離れた地面に落ちる。ザイはそれには見向きもせずに、じっと目を眇めている。敵意剥き出しの腹立たしげな視線だ。エレーンは戸惑って唇を噛んだ。「で、でも、頭から、こんなに血が──」
 エレーンは膝立ちで腰を浮かせた。いや、腕が後ろに強く引かれて、否応なく引っ張り上げられたのだ。引きずられるようにして立たされる。犯人は無論、ザイではない。ザイは右腕をついて半身を起こし、目の前で横たわっているのだから。
 ギョッとそちらを振り向くと、白シャツの背が腕を取って歩いていた。エレーンは慌てて引っ張り返す。
「ちょっとノッポ君、駄目だって! 怪我人がいるのよ! 見捨ててどっか行くつもりっ!?」
 どういうつもりか、ウォードは足を止めようとしない。とっさに脱出を試みるも、ウォードの手は大きくて、振り解くことさえ叶わない。片手で掴まれた腕が痛いが、それに頓着するでもない。手に取り付いて必死でもがくが、ずるずる虚しく引きずられるばかりだ。
「ね、せめて誰かに連絡しないと! だって、あの人、頭から血が──」
 てか、あのまま死んだらどうするのだ!
 ウォードは無反応だった。ザイのことなど見向きもしない。エレーンはおろおろ振り向きつつも、引きずられて森を歩く。爪先立って窺うが、木立が邪魔でザイの様子がよく見えない。生い茂った青葉の先に、あの薄茶の髪が見え隠れしているから、自分で起き上がりはしたようだ。動けるのなら大丈夫だろうか。血を見てすっかり動転したが、最悪の事態は避けられたようだ、とエレーンは密かに安堵する。気になり引き続き見ていたが、微かに見えていた片鱗さえも遠ざかるに伴い虚ろになり、やがて木立にすっかり覆われ、見分けられなくなってしまった。
 白シャツの背は相変わらず無言だ。どこへ行くのか振り向きもしない。血気にはやって地面を見境なく転がっていたから、白いシャツは薄汚れている。懸念がチラと頭を掠めた。もしや怒っているのだろうか。焦っていたから叱りつけるような口調になっていたかも知れない。
 エレーンは足を速めて前に回った。頭上のウォードをおろおろ仰ぐ。「ごめんね、ノッポ君。さっきはあたし焦ってて、でも──」
 構う事なく歩かれて、真正面からぶつかった。軽く跳ね飛ばされたエレーンは、( ちょっとお! 止まるくらいはしなさいよっ! )とぶつけた顔を涙目で押さえる。見返し、ふと気がついた。腕を掴んだ彼の右手は傷だらけだ。指の付け根辺りが特にひどくて血と土にまみれている。激しい掴み合いでとれたのかシャツのボタンがなくなって、胸がはだけてしまっている。ぼろぼろの有様だ。
 一拍遅れて、ウォードがふと足を止めた。ゆっくり瞬き、顔を見下ろす。たった今、気がついたというように。
 硝子の瞳が凝視して、眉が僅かにひそめられた。怒っているのかと思ったが、そうではなかった。戸惑ったような、焦ったような、傷ついたような硝子の瞳。その面持ちが苛立ったように歪められる。長い腕が素早く伸びた。引っ張り込まれて爪先立ちになり、俯いたウォードの髪が右の肩に覆い被さる。とっさに仰いだ唇を、冷たい唇が乱暴に塞ぐ。
 ぎょっとエレーンは硬直した。一瞬後、我に返って、むがむがもがくが、その凄まじい力からは逃れられない。長い腕が背中を覆って抱きすくめていた。指の長い大きな掌が後頭部をすっぽりと掴んでいる。もう一方の手が腰を撫で、舌が唇を強引に割り込む。
「──なあにすんのよっ!」
 利き手をなんとか抜き出して、ふんぬっ! と反射的に振り抜いた。
 ばっちん、と轟く制裁の音。張られた横顔をゆっくり戻して、ウォードは自分の掌を眺めた。驚いたように目を向ける。
「なんでー? 痛かったー?」
 そして、困惑顔で小首を傾げる。
「そっ、──そっ、そーゆーことじゃなくってね!」
 おのれ。やたら無邪気だな。
 エレーンは気勢を削がれてたじろいだ。思ってもみない切り返しだ。ウォードはやはり戸惑い顔で、何が悪いのか、という顔だ。何故自分が叱られているのか、何故相手が憤慨したのか、さっぱり分かっていないらしい。途方に暮れたようなその様子を見ていると、今のこちらの言動こそが如何にも大仰な、見当外れな反応だったようにさえ思えてきて頭の中が混乱する。驚愕と羞恥が空転した。呆気に取られて口をぱくぱく開閉するも、返す言葉が見つからない。成す術もなく、ぷるぷる唸る。挙句、
「──ノッポ君のばか!」
 踵を返して駆け出した。
 手の甲で唇を拭って、エレーンは一心不乱に逃げ戻る。今になって心臓が喚いた。思い出しただけで赤面する。いくら、まだ子供とはいえ──。いや、そのこと自体は、それほど大した事でもないのだ。こちらだっていい年なのだから、その手の経験もそれなりにある。
 そうか、きちんと諭すべきだった、と今更のように気がついた。手前勝手な抱擁は罷り通らぬ行為であるときっちり教えるべきだった。驚愕に任せ問答無用でぶちのめすというのでは、要点が何も伝わらない。年上の取るべき態度としては、あのお粗末な対応は如何なものか。成りは人並み以上に大きくても、相手はまだ、大人の世界に足を踏み入れたばかりの、ほんの子供に過ぎないのだ。けれど、今となっては何れも遅い。自分自身が情けなかった。あまりに慌てていて、罵倒して逃げ出す事しか出来なかったというなら、せめて──
 せめて、もう一発くらい、ぶん殴ってやればよかった!
「──どういうつもりよ」
 様々な想いが交差して、複雑な想いが胸を掠める。ムードもへったくれもない唐突な接吻。苦しいだけの稚拙な抱擁。平然としたあの様子、もしや、彼らが暮らすシャンバールでは、ああいうのは当たり前の挨拶程度のことなのか?
 唇を噛み締め、木立を抜けて風道を走る。道の先に、草原で待機している同行者達の姿が見えてきた。どうかしたのか、いつもより、ざわついているように感じられる。ザイが戻って、さっきの騒ぎが伝わったのだろうか──。
 嫌な予感に捉われた。近付けば近付くほどに、ざわめきは深く大きくなる。ザイが強打したのは他ならぬ頭なのだ。巨木の幹に叩きつけられた時、何か嫌な音もした。置き去りにしてきてしまったが、もしや、あの後、何か異変が──? 
 風道が途切れて、草原の端に駆け込んだ。息を切らして慌てて探すが、同じような風体ばかりの集団の中で、ザイの姿は見分けられない。草原は騒然としていた。何かに驚いたような奇妙なざわめき。重大発表があったかのような。
 空気が暗く、重苦しかった。誰もが絶句したような表情で、一様に同じ方向を見つめている。エレーンも不安に駆られてそちらを見る。そこにいたのはザイではなかった。中央にいるケネルとクリスだ。ケネルは困惑したような面持ちで、クリスはその腕に手をかけて、どことなくはしゃいだ様子だ。あの二人に何かあったのだろうか。
 怪訝に思い、ざわめきを見回す。知らず澄ましたその耳に、それについて話しているらしき彼らの会話が飛び込んできた。エレーンは、ビクリ、と硬直する。それは予期せぬものだった。クリスがこちらを見つけたらしく、思わせ振りに一瞥した。軽く顎を上げ、得意げな顔。漏れ聞こえた内容に、エレーンは愕然と立ち尽くした。
 " クリスがケネルの子供を身篭った "
 
 
 
 
 

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