CROSS ROAD ディール急襲 第2部 3章 11話5
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 ケネルと目がかち合った。その目が軽く見開かれる。エレーンは弾かれたように踵を返した。今戻ってきたばかりだが、平坦な草原では、身の隠し所がどこにもない。
 風道を引き返して、ひたすら走る。見通しの良い風道にいるのは無防備な気がして、右の樹海に飛び込んだ。風道の左にはバリーやザイやウォードがいるから、そちら側はとっさに避けた。草木を掻き分け、闇雲に進む。二人の姿を見たくなかった。じゃれつくクリスの幸せそうな顔を。照れるであろうケネルの顔を。ここ最近のケネルの様子が動転した脳裏を過ぎった。変わったところなど少しもなかった。それなのに──
 " クリスがケネルの子供を身篭った "
 この事実が呑み込めず、驚きやら苛立ちやらで胸が掻き回されている。心に突き刺さった鋭い棘に、胸に広がる喪失感に、エレーンは唇を噛み締める。そういえば、クリスはケネルの元カノ。ならば、おかしな話じゃない。むしろ当然のなりゆきだろう。だからこそ彼女は、ケネルに何度も会いに来たのではないか。人目のない深夜のゲルに。懐妊の事実を伝える為に。
 そういえば、さっき脇道に逸れる時、クリスがもじもじ何か言いたそうにしていたではないか。今にして思えば、この事を打ち明けようとしていたに違いない。なのに自分は的外れにも、ケネルの名など不用意に出して彼女の機嫌を損ねてしまった。自分自身が腹立たしかった。嫌悪と羞恥で居たたまれない。そんな事とは露知らず、ケネルに対する思い上がりを得々と語っていたなんて──。
 後ろから肩を掴まれた。憤然として振り払い、勢い込んで振り返る。深緑の丸首の綿シャツと黒革のベルトが目に飛び込む。予想外の相手だった。エレーンは怒鳴りかけて絶句する。
「どこへ行くんだ。いきなり引き返して」
 肩を掴んでいたのは他ならぬケネルだった。丸首シャツにズボンというさばけた身形。今、草原で見たのと同じ、休憩する時の格好だ。大抵着ている革ジャンさえも羽織っていない。 つまり、取るものも取りあえず追ってきた、ということらしい。訳が分からなくなり、エレーンは目を逸らして唇を噛む。
「一人でうろつくなと言ったろう。人の言うことを本当に聞かないな、あんたは。──さ、戻るぞ」
 エレーンはカチンときて、そっぽを向いた。「ケネルはさっさと戻ればいいでしょー。あの子がケネルのこと待ってるわよ」
 ケネルは戸惑った顔で頭を掻いた。「──聞いたのか」
「聞いたわよっ!」 
 おっ被せるようにして怒鳴りつけ、すぐさま直ちに言い返す。おめでとう、なんて、とても言える気分じゃない。髪を払って踵を返せば、ケネルは後をついてくる。何事か考えているような気配がする。こんな鈍感な無神経男でも言葉を選ぶことがあるのか。気兼ねされているのがありあり分かって、余計に苛々ムシャクシャする。だって、相手は他ならぬケネルだ。ケネルはおもむろに口を開いた。「あー、あれは違うから」
「何がどう違うのよ!」
 前をずかずか歩きつつ、エレーンはカリカリ言い返した。てか、この期に及んで責任逃れか!
 ケネルは更に言い足した。「勝手に言ってるだけだから」
「──はあっ!?」
 堪忍袋の緒が切れた。憮然として振り向けば、ケネルは腕を組み、片脚に重心を預けて何食わぬ顔だ。険悪に眦(まなじり)吊り上げた。「何を今更! クリスが可哀想じゃない! そーゆーのは卑怯でしょ!」
「卑怯じゃない」
「卑怯よ! そういうのを卑怯って言うの!」
「卑怯じゃない」
 あくまでケネルは肩をすくめて言ってのける。「あれと会ったのはノースカレリアを出てからだ」
「はあ!? なにいい加減なこと言ってんの! まだ一月も経ってないでしょ! そんなんで妊娠なんてわかる訳ないじゃん!」
「わかる訳ない」
「──はああっ!?」
 からかっているのかこのタヌキは!
 突っかかろうとした肩に、ケネルが、ぽん、と手を置いた。「だから、まずは落ち着け。な?」
誰のせいだと思ってんのよっ!
 ぬけぬけ諭すその手を払い、エレーンはギロリと睨めつけた。「いつ会ったかなんて、どうだっていいわよ!」
「なんで」
「なっ、なんでってクリスは元カノでしょうが!」
「もとかの?」
 ケネルは、はて、と首を捻った。( "モトカノ"ってなに )と見返している。ぐっ、と詰まって脱力した。
( ……そっからかい )
 そういう略語は通じないらしい。だが、それでは話が進まないので、かくかくしかじか説明した。ケネルは、ほう? と腕を組み、新たな情報を瞬きながら咀嚼している。彼は色んなことを知っているようだが、基本が抜けてるフシがある。なにせ興味の方向が著しく偏っているから。一通り説明すると、ケネルは「で、オレ?」と自分の顔を指さした。そして、つくづく、といった感じで嘆息する。「休憩中に襲撃されて賊の身元を調べていたら、あいつがひょっこり出てきてな。あの付近の《 マヌーシュ 》で、隠れて見ていたらしいんだが、まあ、アレとはその時が初対面だ」
 うむ、ときっぱり断言し、( つか、もっと前なら、あいついくつだ…… )と"元カノ"の定義に早速当てはめ、上目使いで計算している。案外無邪気だ。
 腹で腕を組んだまま、エレーンは、むむう、とたじろいだ。釈然としない。何食わぬ顔をしているが、やっぱり、どうにも信じられない。これが他の相手であるのなら、或いは信じていたかもしれないが、こと相手が"クリス"では、そんな事などあろう筈もないのだ。何故そうまで引っ掛かるのか、理由はとんと思い出せないが──。只今精査中の頭の中を不審と邪推がぐるぐる回る。ケネルの言い分が本当ならば、妊娠なんてありえない。でも、それこそ勝手に言っているだけで、こっちとしては預かり知らぬ事なのだ。そもそも男は嘘をつく生き物、それが仕様だ。おまけに相手はこのタヌキ──。
 うむ、とエレーンは頷いた。いいや、やっぱりケネルは "黒" だ。女の勘が「気を許すな」と言っている。断固追及の決意も新たに、更に念入りに警戒態勢。
「じゃあ、絶対絶対ケネルじゃないわけえ?」
 腹の赤子の父親は。
「そんなことがあってたまるか」
 うむ、とケネルも断固頷く。俺は潔白、と殊更に主張。む。そうくるか。
「だったらなんで、クリスがわざわざ、あんなこと言うのよ!」
「俺に訊くな」
 今度もあっさりケネルは応える。知るわけないだろ、と不貞腐り始めた様子。知らぬ存ぜぬ無関係。むむっ。そうくるか。
「だったらなんで、何度もゲルに来たりすんのよっ!」
 めくら滅法ぶつけてやると、ケネルが怯んで言葉に詰まった。おお、図らずもヒットしたらしい。ケネルは困った顔で目を逸らし、上目使いで窺ってくる。「言わなきゃ駄目か?」
「あったりまえでしょーっ!」
 エレーンは踏ん反り返って鼻の穴を膨らませた。申告義務などある筈もないが、破れかぶれってやつである。ケネルはれやれと嘆息した。見るからに気が進まなそうな顔ではあるが、訊かれた事に対しては答える主義であるらしい。渋りながらも口を開いた。
「持ち物を拾われてな。そいつをゲルに届けにきた」
 それでも未練がましく言葉を濁す。出し惜しんでいる"持ち物"ってなんだ──。はたと思い立って振り向いた。
「もしかして、手紙?」
 ギクリ、とケネルが実に分かりやすく飛び上がった。万歳三唱でもしそうな勢い。まさかの効き目だ。ぱちくり瞬き、ケネルを見返す。ここか! と直感、じっとり見つめて自白を促す。ケネルはダメージを蒙ったらしく口をつぐんで抵抗したが、目線で供述を催促すると、不本意そうにぶっきらぼうに答えた。「──そうだ」
 よし。ついに陥落。すかさず追求。
「あ、ねえケネル、それってさー」
「あんたには関係ない。私信だ」
 ケネルはすげなく追求を打ち切る。むむむっ。そうくるか!
「だったらなんで、何度も来たのよー」
 クリスのゲルへの訪問は一度や二度のことではないのだ。ケネルは言いたくなさげな迷惑そうな顔で、やはり難色を示している。散々渋ったその挙句、独り言のように嫌々ごちた。「──返してくれなかった」
「なんでよ」
「知らない」
 今度は即答。ちょっぴり怒り始めたらしい。エレーンは、ふ〜む、と算段した。自供強要を目論む脳裏で、これまでの二人の態度のあれこれ、クリス関連のあれやこれやがむくむく急速に結び付く。おお、と瞬いて、ケネルを見た。
「あー、だからケネル、言いなりになってたんだー」
 むっ、とケネルが見返した。図星らしい。
「もう済んだ。取り返したからな」
 ぷい、とたちまちそっぽを向く。最終的には勝ったから、とそこを強調したいらしい。ケネルって案外負けず嫌いだ。ともあれ、そういやクリスは「ケネルに何かを取りあげられた」と言っていた。あれはつまり、そのことだったのか……。
 どうも嘘ではないようだ。つまり、ケネルは弱みを握られ、クリスの我がままを許していた、とかような次第であったらしい。だったらクリスは──
「だったらあの子、キャンプに帰るの?」
「──いや」
 意外にもケネルは、渋い顔で首を振った。
「えーなんでよー。手紙は取り返したって言ったじゃん。だったら、用なんてもうないでしょー。──あっ! あの妊娠、やっぱ本当のことなんじゃ!」
 そうだ。用件が一つだったとは限らないではないか。
「そうじゃない」
「だったら何よ」
「事情が変わった」
 ぶっきらぼうにケネルが言った。半ば怒ったような口振りだ。もっとも、その矛先を敢えて辿れば、懐妊を暴露した軽率なクリスであるような──。話を切り上げ、ケネルが目を逸らして歩き出した。はっと気づいて慌てて追う。「ねー、事情ってなによー」
 纏わりついて何度も訊くが、ケネルは憮然としたまま応えようとしない。だが、隠し立てされると、ますますそこが引っかかる。潔白ならば、さっさと白状してすっきりしたらいいのに。もどかしさが募って拳を握った。「ねーケネル、事情って──」
「あんたには関係ない」
 けんもほろろに拒まれた。そうくるか。
 エレーンは、むむむ、と口の先を尖らせる。そういや門前払いはケネルの得意技だった。にしても、都合が悪くなると、すぐこれだ。往生際が悪いったら──。むう、と口を尖らせた。「やっぱり嘘だ。嘘なんだ。クリスが嘘つく理由なんてないもん!」
「理由はある」
「なによ」
「……あんたには関係ない」
 ケネルが一瞬、応えに詰まった。僅かな弱腰を見破って、エレーンは、ぷい、と踵を返す。
「ほ〜ら嘘じゃん! 嘘なんだ。信じらんない、あの子をいくつだと思ってんのよ! いい年をして恥を知りなさい!」
「──だから違うって。今、説明しただろう」
 急な針路変更に反応し、ケネルも急転、すたすた後をついてくる。回収係が一人で戻る訳にはいかないらしい。エレーンは憮然と腕を組み、口を尖らせ、ぷりぷり歩く。
「せめて責任とんなさいよ! ケネルのハレンチ! ケネルの不潔! ケネルのスケベ!」
 罵詈雑言てんこ盛り。
「どうすりゃ信じてくれるんだ」
 ケネルの口調は自棄っぱち混じりの嘆願調。エレーンはチロと肩越しに見た。なあにを仰るウサギさん。ほいほい騙されてなるものか。この男のその手の前科は一度や二度のことではないのだ。そうだ、いつかのあの晩だって、見知らぬ綺麗な女の人を藪の向こうで押し倒していたではないか。そうだ。ちゃあんと目撃したのだ。
 誤魔化しようのない確たる濡れ場を。
 野草をぞんざいに蹴り飛ばし、エレーンは苛々前進する。
( すっとぼけんじゃないわよ色ぼけタヌキ! そんなにぽんぽこ繁殖するような理由わけでもあるわけ! )
 おしゃぶり咥えた小型のケネルが頭の中にぽこぽこ浮かんで、地面をずかずか踏んづける。危うくタヌキに騙されるところだ。そうだ。澄ました顔でぬけぬけ嘘をついてくるから、この男は油断がならない。ふと、昼下がりの密会シーンを思い出し、荒んだ胸が更にむかむか荒立った。歴とした恋人がいるくせに、いちゃいちゃ笑っていたくせに、こうしている今だって彼女は健気にも群れを追って来ているのだろうに、なのに、どうして、寝言でクリスを呼んだりするのだ! 
 はた、とそこに気がついた。そうか、そこだ。そうなんだ──。
 やっと、やっと思い出した。心にもやもや引っ掛かっていた理由わけを。ケネルの言い分をすんなり信じられなかったその理由を。あの寝言だ。
 いつかの晩のあの寝言。ケネルは間違いなく"クリス"と呼んだ。しかも魘されて泣いてさえいた。面識のある証拠ではないか。ゲルの子供の名前にまで過敏に反応したくせに。あの様子は紛れもなく後ろめたい事をしでかしている。きっと、それはケネルにとって不都合な事。つまりは妊娠? そうでもなければ、なんでクリスが、群れを遥々追って来るのだ。暮らし慣れたキャンプを出てまで。──いや待て。そういや、いつぞやの恋人も常に付近にいるのではないか。身重のクリスと鉢合わせしたら、いったい、どうするつもりなのだ。なのにその上、見知らぬ別の女にまで次から次へと手を出して回るとは……
 ──なんて奴だ。
 猛然と腹が立ってきた。後ろに怒りをぶちまけた。
「ついて来ないでっ!」
「──あ」の形にケネルが小さく口を開けたが、構わず反転、猛ダッシュ。 怒りに任せて地面を蹴りやり、力任せに草木を掻きやる。ケネルはチンタラついてきた。( ……もー、やれやれ )と小さな溜息が聞こえてきたから、タヌキのヤツ嫌々だ。ぬぬう、許せん。なんて小馬鹿にした態度。こうなったら、うんと藪の茂った狭っ苦しい所に潜り込んで、ケネルの追跡をまいてやる。そうだ! なんてとんでもないエロエロタヌキなのだ──! 
 だしぬけに胸倉を掴まれた。体が一瞬宙に浮き、枯葉の地面に叩きつけられる。視界の上下が突如激しく入れ替わり、頬が平らな柔らかいものに押し付けられている。薄目の視界は深緑一色──。
 ケネルのシャツだ。横抱きに飛びかかられ、共に転がっているらしい。下になる都度地面にぶつかる衝撃は、意外にも大して感じない。ごろんごろんと三回転して、巨木にぶつかり、野草の中でようやく止まった。引き千切られた草の匂いが、むっと強く鼻につく。上になったケネルが重い。真横にあったケネルの腕を、顔をしかめてエレーンは叩いた。「……痛たっ。もう! いきなり何すんのよケネル」
 悪ふざけにしてはいささか過激だ。背中の下に枯れ草の地面、目の前にケネルの肩、その向こうに森の緑梢。仰向けに横たわっている。頭の下には広げた掌の枕があった。頭はかばってくれたらしい。
 溜息をついたような息遣いが聞こえた。圧し掛かった左の肩から、ケネルが身じろいで顔を上げる。様子が変だ、とすぐに気づいた。動きがどこかぎこちない。ケネルは起き上がろうとして息を詰め、顔を少ししかめている。何が起きているのか分からない。分かっているのは、ケネルに押し潰された状況だけだ。ケネルが利き手で肘の辺りを掴んでいる。はっとエレーンは息を呑んだ。
「──ケネル! 怪我したの!」
 押さえた指の隙間から鮮血が滴り落ちていた。擦り傷なんて生易しいものじゃない。腕を伝うほどの出血量だ。多分すっぱり切れている。時を移さず、左後ろで藪が鳴った。木立を通り抜ける風の音? いや、こちらに近付く人の気配──
 すぐそこだ。
 反射的に見返した視界を、黒い人影が素早く過ぎった。荒んだ目つきの男が一人、青あざの顔をにやにや歪めて立っている。同行者の身形ではなかった。薄汚れた安っぽい綿シャツ、黒っぽいズボン、不健康そうな顔色、手にはナイフを構えている。
 ──賊だ。
 体が硬直、血の気が引いた。続いて藪が激しく鳴る。足音が複数近付いてくる。あっという間に囲い込まれた。包囲を狭める四人の男。いや、背後の木立にもっといる。人影が所々に散っていて正確な数は分からないが、十人近くいるようだ。はっきり姿の見えている前にいる四人には、顔に殴られたような青あざがある。右端にいる中年の男が嫌な笑いで顎をしゃくった。
「よう。兄ちゃんよお。この前はよくもやってくれたな。お陰でうちのリーダーが、哀れな片腕になっちまったよ」
 顔に見覚えがあった。先日、ゲル付近に出没した賊達だ。ケネルが捕らえ、その後、皆で取り囲んでいた。あの時の報復に来たらしい。仲間を大勢引き連れて。
 とっさにケネルにしがみつく。エレーンはおろおろ顔を見た。「ケ、ケネル……」
「どいていろ」
 端的に命じ、ケネルはゆっくり、苔むす巨木に押しやった。賊を見据えて立ち上がる。直後、僅かに屈んだケネルの姿が、ふっと唐突に掻き消えた。
 風を切る鋭い音。銀光一閃、何が起きたか分からない。全く予期せぬ離れた場所で、ガサリと草木がうごめいた。凄んでいた男の右横だ。人影がゆっくり身を起こす。ケネルだ。一瞬にして跳躍したというのだろうか。いや、賊の間合いは十分だった。
 ぽかんと見返した男の腕から、鮮血が勢いよく吹き上がった。男はぎょっと瞠目し、慌てて後ずさって尻もちをついた。自分の身に何が起きたか、本人にも分かっていないらしい。ごとり、と何かが地面に転がる。肘から先の男の右手。腕だ。まだ短刀を握っている。
「わ、わあっ!」
 素っ頓狂な悲鳴を上げて、男が後ろに仰け反った。血飛沫を上げる右腕を押さえて、歯を食いしばって転げ回る。
「……な、なんだ。どうなってんだ」
 賊は絶句の面持ちでざわめき立った。地面で身を捩る仲間の姿と、淡々と眺めるケネルの顔とを交互に唖然と見比べている。悶絶する男を見ても、ケネルは顔色一つ変えていない。その手に握られているのは抜き払った護身刀。
 出し抜けに現れた白刃に、皆一様に息を呑んだ。躊躇なく一瞬にして振り抜いたらしい。静かなケネルの横顔を、エレーンは愕然と凝視する。怖気が走って唾を飲んだ。息のあがった呻き声だけが、奇妙に沈黙した静寂を、甲高く、とめどなく掻き乱していた。常軌を逸したケネルの速さを見せつけられて、賊は顔色なくして立ち尽くしている。ケネルが視線を巡らせた。
「どうしても、死にたいらしいな」
 ぎょっ、とエレーンは見返した。ケネルらしからぬ剣呑な脅しだ。いや、これは、
 ──脅しじゃ、ない。
 動かぬ証拠がそこで転げ回って泣き叫んでいるではないか。びくり、と一人が我に返った。
「お、覚えてろよ! 《 遊民 》風情が!」
 上擦った怒声で虚勢を吐き捨て、樹海に身を翻す。つられて他の賊も正気に戻った。先頭の後にあたふた続く。慌てて四散するその背を眺めて、ケネルがおもむろに踏み出した。
「だ、だめっ! ケネル!」
 目端の動きに弾かれて、エレーンはとっさに飛びついた。ケネルの腹にしがみ付く。ケネルを行かせてしまったら、一人残らず斬ってしまう。彼らの命を奪ってしまう。必ずそうなるだろうことが不思議とはっきり予測出来た。ケネルはきっと許さない。警告を無視した者達を。既に彼らは猶予している。腹を両手で抱えられ、ケネルは前のめりで見据えている。横顔が苛立ったように眉をひそめた。「──放せ」
「い、いやよっ!」
 エレーンは必死で首を振った。両手を回して縋りつき、全体重をかけて押し留める。だが、どれほど足に力をこめても、踏み出したケネルに引きずられる。しがみ付いた両手が外れそうになってしまう。腕を斬られて取り残された男が抜けめなく動いた。地面に転がった自分の腕を顔をしかめて引っ掴み、よろけながらも藪に飛び込む。ケネルが苛立ちを押し殺して舌打ちした。「──放せ。早くしないと取り逃す」
 うごめく藪に目を据えて、構わず足を踏み出そうとする。エレーンは祈る思いで首を振った。「だ、だめよケネル! 行っちゃだめっ!」
 大きく息を吐き出して、ケネルが鋭く振り向いた。
「どけ!」
 エレーンは息を呑んですくみ上がった。両手が強張って力を失い、へなへな後ろにへたり込む。ケネルの肩が、はっ、としたように硬直した。慌てた顔で向き直る。
 エレーンは呆然とケネルを仰いだ。目がすぐにかち合った。全身の肌が泡立っていた。開いたままの唇が震える。体に力が入らない。食い入るように凝視したまま、金縛りに遭ったように動けない。
「──すまない。立てるか」
 ゆっくり振り向き、身を屈め、ケネルが片手を差し出した。エレーンは、びくり、と体を引く。体がじりじり、意思とは無関係に後ずさった。ケネルが手を差し伸べている。ただ立ち上がらせようとしているだけだ。ケネルは危害を加えない。分かっている。それはちゃんと分かっている。なのに、その手を取る事が何故かできない。どうしても、できない。
 ケネルは前屈みで手を差し伸べ、じっと顔を見つめている。何かを試そうとするかのように。体が言うことを聞かなかった。凝視したまま動けなかった。指先が小刻みに震えている。頬が緊張に震えているのが自分で分かる。重苦しい沈黙が樹海に降りた。高い梢が風にさらわれ、さらさら遠く涼やかに鳴る。
「──そうか」
 ケネルが手を引っ込めた。軽く屈んだ身を起こし、群れのある草原方向をおもむろに振り向く。
 静かな森に、指笛の音が鋭く響いた。ケネルは背を向けたまま、気配を探るように耳を澄ましている。やがて小さく嘆息し、肩越しにゆっくり振り向いた。
「ファレスが来るから、保護してもらえ。いいな、ここを動くなよ」
 言うなり、藪へと踏み出した。はっ、とエレーンは息を呑む。今の賊を追うつもり? でも、捕まえてしまったら今度こそ──。歩行の足を、ケネルが止めた。
「捕らえて事情を訊くだけだ。殺しはしない」
 こちらの懸念を見越したように、背中越しに言い置いた。ガサガサ藪に分け入って行く。ケネルの黒髪が遠ざかり、青葉に紛れて見えなくなる。エレーンはへたり込んだまま見送った。返事の一つも出来なかった。ただ頷くことさえも。
 心臓だけが息苦しいほどに鳴っていた。感覚が戻った手の先がチリチリ痺れたようになっている。身じろぎする事さえも思いつかずに、そのまま放心していると、やがて右手の藪が騒がしく鳴った。誰かの怒鳴り声が聞こえてくる。いや、この声はよく知っている。惰性でぼんやり目をやると、眉をひそめた長髪が藪を掻き分け現れた。
「──おい、どうした!」
 いつものあの仏頂面だ。エレーンは呆然と目を向けた。「……ファ、レス」
「なに頭に葉っぱつけてんだてめえ。つか、まあた、てめえは泥遊びかよ〜」
 呆れたような半眼で凄んで、仁王立ちで嘆息する。エレーンは頭に手をやった。手に触れたそれを髪から取ると、カラカラに乾いた茶色い枯葉だ。ケネルと地面を転がった時、降り積もった地面の枯葉が頭にくっ付いてきたらしい。ファレスは腰に手を当てて、怪訝そうに見回している。「おい、奴はどうした」
 一瞬、何のことやら分からない。頭の中が痺れてしまって、どこかが壊れたように朦朧としている。ぼんやり顔を見ていると、ファレスが苛立って言い直した。「──だから、ケネルは」
 賊が逃げた方角に、エレーンはあたふた指をさす。「お、追っかけてったみたい──あたし、又襲われて、それで──」
「追っかけてったァ? ネズミをか」
 ファレスは呆気に取られたように見返した。示した方向を一瞥し、怪訝そうに首を捻っている。ふと、何かを見咎めた。「おい、お前、怪我してんのか!」
 急に剣幕が飛んできて、エレーンはたじろいで首を振った。「……し、してないけど」
「なら、あれは!」
 受け答えがもどかしいのか、ファレスはせっついて顎をしゃくる。野草の葉先がぐっしょり血に染まっていた。腕が転がったあの場所だ。俄かに込み上げた猛烈な吐き気を、エレーンは唇を噛んで我慢した。ファレスは不審げな顔で促している。やむなく経緯をぼそぼそ説明すると、ファレスは今度こそ絶句した。
「ネズミの腕を斬り落としただァ? ケネルがか」
 頭を片手でガリガリ掻いて、苛立った舌打ちで小さくごちる。「──なにオタついてんだ、あの野郎」
 ケネルが消えた藪を眺め、かったるそうに顎をしゃくった。
「おい、立て。戻るぞ。いつまでそうしてぶっ座ってるつもりだ」
 エレーンは我が身を見下ろした。朦朧としつつも震える膝を片方立てる。自分の体ではないように、ふわふわしていて心許ない。賊が逃げた方向を、ファレスは目を眇めて眺めている。眉をひそめ、どこかそわついた横顔は、自分も追いかけて行きたそうだ。力を入れて立ち上がろうとした途端、ガクリとよろけて横倒しに転んだ。
「──何してんだ」
 ファレスの背中が脱力した。肩越しに一瞥、顎をしゃくる。「ちゃっちゃと立てや。置いてくぞ」
「立てない、みたい……」
 エレーンはへたり込んで首を振った。手足が麻痺してしまっている。ファレスは半分だけ振り向いて、怪訝そうに首を傾げた。「いつまで遊んでんだよ」
「──だって、ケネルが、」
 即座に顔を上げ、言い返した。「あの人の腕をケネルが──」
「向こうが悪い。腕の一本くらい、なんだってんだ。向こうは命とりに来てんだぞ」
 ファレスはすげなく言い切った。考慮する余地さえないというように。へたり込んだまま肩を落として、エレーンは俯いた首を緩々振る。「そういうんじゃなくて……あたしも、ケネルに怒鳴られて、それで……」
「──ああ?」
 ファレスはじれったそうに促した。「そんなの、いつもの事じゃねえかよ」
「違う。ケネル、ものすごい怖い顔で……あたし、全然動けなくなって……」
 声が震えた。喉が詰まる。涙が出そうだ。
「まともに怒鳴り飛ばされたってか」
 言い分を要約し、ファレスがやれやれと歩いてきた。「そりゃあ、腰も抜けちまうか」
 無造作に屈んで手を伸ばし、両脇を掴んで持ち上げる。穀物の袋でも背負うように、よっこらせ、と左の肩に放り上げた。ファレスの肩に両脇をかける格好で、エレーンはのめって乗り出した。枯葉の地面が視界に飛び込み、革ジャンの背中にしがみ付く。体を片腕でしっかり支えて、ファレスは難なく立ち上がった。
 長髪の肩につかまって、エレーンはビクビク顔を埋めた。確かなぬくもりに触れた途端、ほっ、とようやく人心地ついた。自分がどれほど凍えていたのか分かる。体の強張りが解けきて、熱い塊が込み上げた。
「……怖かった」
 ずっと言えなかった本心だった。言葉にすると、震えがきた。一たび認識すると堪らずに、何度も何度も確認するように呟いた。「怖かった──ケネル、怖かった──怖かった──!」
 ぎゅっと固く目を瞑り、首筋に強くしがみ付く。涙がぽろぽろ零れ落ちる。わななく唇を噛み締めて、叫び出しそうな嗚咽を堪えた。ファレスは前を見たまま歩いている。
「だろうな。頭に血がのぼっちまって、ヤツも加減が出来なかったんだろうが。にしたってよ」
 訴えについては受け流し、前を見据えた目の端だけで一瞥した。「お前、奴に何をした」
 声が震えないように気をつけながら、エレーンは途切れ途切れに説明する。ファレスは呆れたように溜息をついた。
「ああ? 進路を妨害しただァ?」
 改悪しつつも要約し、盛大な溜息と共に感想を放る。
「馬鹿かてめえは」
 エレーンはむっと見返した。「だって! 追いかけようとしたんだもん!」
「たりめえだろ。逃せば、又、狙ってくる」
「でもっ!」
「次は十匹じゃ済まねえかもな。まったく執念深いネズミどもだぜ」
「──だけど!」
 言い合いに意味はなかった。何をそんなに訴えたいのか、自分でもまるで分かっていない。それでも自分で自分が止められない。喉が詰まって泣きそうになる。喚けば喚くほど苛立ちはどんどん増していく。気がひどく昂ぶっている。
「もう、いい。戻るぞ」
 喚くだけの捨て鉢な抗議を、ファレスはぶっきらぼうに遮った。藪を掻き分け、歩いていく。進行方向は皆が待機する草原だ。ファレスのシャツの首元を、エレーンは慌てて引っ張った。「ケ、ケネルは? まだ森に残っているのに。置き去りにする気!」
 ファレスは前を見たまま横顔で応えた。「お前の避難が先決だ。奴も適当に切り上げて戻ってくんだろ」
「向こうは大勢なんだから! もし、待ち伏せされて取り囲まれたら!」
「──お前な〜」
 ファレスがげんなり首を振った。
「同情してやる相手が違うぜ。もっとも、お前が気を揉む事でもねえがな。いくら奴が速くても、樹海に散ったネズミなんぞを一人で追いきれるもんじゃねえ」
 生い茂る藪を掻き分け掻き分け、ファレスは淡々と進んでいく。逃げた賊の行方については自分も気になっているのだろうに、背後の道には目もくれない。
 ケネルが消えた緑の藪が歩くにつれて遠ざかる。そこはひっそり静まっていて、彼らが今、どの辺りにいるのか、もう見当もつかなかった。ケネルは、今、何をしているのだろう。賊を探して一人木立の中を駆けているのだろうか。樹海は奇妙なほどに穏やかだ。その光景をじっと見つめて、エレーンは震える息を吐き出した。ケネルのことを恐ろしいと思う日がくるなんて──。
 自分自身に戸惑っていた。いや、本当は薄々気づいていた。何気ない日常のベールの向こうに薄く霞んで見えていた彼の本当の横顔を。けれど、それでも、心配で心配でたまらない。
「……怪我、してるのに」
 ケネルが本気で怒っていた。あんなに苛立ったケネルは、初めて見た。
 
 
 
 
 

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