■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部 3章 12話1
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乾いた、鋭い音がした。
どこかで聞いたような破裂音。
そう、あの日のノースカレリアだ。薄絹を翻して怒鳴っていたローイ達も、街に侵攻していた軍服達も、俄かに戦いの手を止めて、不安げにざわめき、見回した。
耳をつんざく暴力的な大音量は、今も尚、続いている。
頭上が輝き、空を見た。
一点が白く発光し、大きく四散し、光の尾を引き、緩やかに地表に落ちてくる。
明るく煌びやかな打ち上げ花火。
宙にいくつも花が散った。立て続けにいくつもいくつも。
打ち上げられた大輪の数は、全部で二十四だった。
町 の 風
置きっぱなしの雑誌の頁が、ぱらり、ぱらり、とめくれていた。
風を感じて目を開けると、さらりと乾いた敷布の上で、うつ伏せに横たわっていた。肩には褪色した毛布がかかり、少し離れた視界の先には寝転がったファレスの横顔。布団が直に敷いてある。けれど、ゲルの中にいるのではなかった。場所に見覚えは全くない。どこだろう、ここは。
エレーンは戸惑い、室内に視線を巡らせた。床は板張りではなく、絨毯でもなかった。厚みのあるい草の敷物が部屋の隅まで敷きつめてある。ファレスはその上に手足を伸ばして寝転がっている。こういう部屋は見慣れない。
十人の大人が楽に寝起きできる広さがあるが、誰の姿もそこにはない。荷物が隅に寄せて置いてあった。ファレスのザックと自分の手荷物だ。だが、部屋にあるのはそれだけで物も家具も一切ない。こざっぱりとしているので寂れた感じは全くないが、あまりに閑散としている為に、空き部屋に転がっているような印象だ。
上側の頬を涼風が撫で、窓が開け放ってあるのに気がついた。明るい方へと目をやると、頭上側の壁一面が引き戸の腰窓になっていた。そこから風が入ってくるのだ。
硝子窓を透過した正午過ぎの陽が降り注ぎ、静かな部屋はのんびりと明るい。窓先の右手では大木が豊かな梢を揺らし、向かいの景色は赤煉瓦の壁で遮られている。建物の間隔が広いらしく採光は十分過ぎるほどにあるのだが、視界が向かい壁に遮られる感じから、中庭のある民家の二階にいるようだ。
怪訝に首を捻りつつ、エレーンは手をついて身を起こした。肘を立て、隣の昼寝をつくづく眺める。ファレスは大口開けて寝入っている。気の抜けたその寝顔で、何故に自分がこんな所にいるのか、事ここに至った経緯を思い出した。
今朝方キャンプに戻ったファレスが、出し抜けに「花火買いに行くぞー」と言ってきたのだ。"花火"とはつまり、" ヴォルガ
" の晩に勝手に消費された例のアレのことだ。無論「弁償してよね!」と口を酸っぱくして言っておいたのだが、野良猫は感心にも、ちゃんと覚えていたらしい。もっとも、あくまで、自分が街道に出るついでに連れてってやる、という程度の話ではあるらしいのだが。
ともあれ、朝食後、支度を済ませてゲルを出た。このところ馴染みのファレスの馬を取りに行き、樹海の切れ目を街道に向けてひた走り、お日様ぽかぽか風は爽やかなんて気持ちの良い買い物日和──とそこまでは覚えているのだが、以降の記憶がとんとない。そうして気がついたら、知らない部屋で何故か寝ていた、というこの有様。
一人ぽつねんと取り残されて、何やら手持ち無沙汰になってきた。床に流れるファレスの髪を、一房、手慰みに摘んでみる。しっとりとした滑らかな手触り。しなやかな髪だ。意外にも、野良猫は毛並みがいいのだ。あんなに無下に扱うくせに。
ちょっと悔しくなってきて、毛先で寝顔をくすぐってやった。ファレスはうるさそうに眉をひそめ、少しうめいて向こうを向いた。だが、反応といえるものは、それだけだ。
「……ちょっとおー。ねえー」
エレーンは肩を揺さ振ってみる。せっかく馬を飛ばして来たのだから、早く町をぶらつきに行きたい。だが、連れてきた当人がこの有様じゃ、まるで動きようがないではないか。そもそも何か用があったんじゃないのか──。渋るケネルを説き伏せる際に、そんなようなことを言っていたのだ。町で誰だかに会うから、と。
「ねえー、いい加減に起きようよー。早く町をぶらつきに行こうよー。昼寝で一日終わっちゃうよー。ねえー!」
むに、と頬を摘んでみた。だが、敵も然る者、無残な顔になっているのに、しぶとく目を閉じている。そうしてファレスは、己への理不尽な迫害をしばし「ぐぬぬ……」と耐え忍んでいたが、ついに煩そうに手を払った。しかも、その手でランニングを持ち上げて、ぼりぼり腹まで掻き出す始末。梃子でも起きないつもりらしい。
「……もおー!」
努力が全く報われず、エレーンはぶんむくれて頬杖をついた。まったく、なんというふてぶてしさ。本人に起きようという気がまるでない。馬を駆って来て疲れているのか、大の字でガーガー熟睡している。窓の外から、遠い声が微かに聞こえた。気負いのない呼びかけだ。路地裏を行く人達だろうか。部屋は穏やかに静かだった。そして、何も起こらない。全く何も起こらない──。
寝顔をやれやれと眺めていたら、昨日の出来事が脳裏を掠めた。ケネルに一喝されたあの時も、ファレスが迎えにやって来た。腰が抜けてしまって立ち上がれず、担いでもらって草原に戻った。その間ずっと、ファレスは珍しく無口だった。日頃辛辣な野良猫にして、ついにそれには触れなかった。本当は震えていた事に。ちょっぴり泣いていた事に。すっかり怯えていた事に。とうに気づいていたろうに。
この野良猫は、気づくと、いつも傍にいる。普段はまるで知らんぷりして鬱陶しそうにするくせに、何だかんだと傍にいる。昨夜の深夜にも、炉火の落ちたゲルの中、一人でしゃがみ込んで眺めていた。本人は内緒のつもりだろうが。
「……起こしちゃ可哀相か」
無防備な寝顔に心が和んだ。無理に起こすのは断念し、ごろりと仰向けに寝転がる。見るともなしに眺めた視界に、風が通る民家の木作りの天井。毛布を腹にかけたまま、ぼんやり眺めて嘆息した。返す返すも悔やまれる。何故、あの時、あんな嫌な態度を取ってしまったのだろう。ケネルはかばってくれたのに。怪我をしてまで賊から助けてくれたのに。なのに自分は、
──ケネルの手を拒んでしまった。
片手を差し出し じっと待っていたケネルの顔がどうしようもなく思い出されて、後ろめたい思いが広がる。なんと心ない仕打ちをしたのだ。ケネルは何も言わないけれど、我が身を挺して庇護した相手に突如不審を突き返されたら、心中如何ばかりだったろう。どれほど不愉快な目に遭わせたかと思うと、今になって居たたまれない。
思えば、あれが軋みを生じるきっかけだった。培ってきた信頼に亀裂が入った瞬間だった。そして、群れに於けるクリスの処遇が、あれを境に一変した。
クリスは馬には一人で乗れるが、いや、むしろ手慣れていると誰かに聞いたが、手紙の弱みがなくなって尚、ケネルはクリスを自分の馬から下ろさなかった。むしろ、同乗している彼女の姿をわざわざ殊更に見せつけているような節さえある。ケネルの馬をセレスタンらが取り囲んで走るようになり、誰も容易に寄り付けなくなった。夜は夜でゲルに呼び寄せ、一つ屋根の下で寝泊りさせた。夕方ゲルに到着するなり、ファレスは早々に出かけてしまった。その直後に、一度は野営地に向かったクリスがケネルと共にやって来た。
驚いた事に、二人の見張りがゲルの入口に夜通し立った。クリスの身柄が野営地からキャンプへと移動した事に伴う措置らしい。確かに、仲間が身重になったのだから何某かの計らいはするだろうが、それにしても大仰だ。勝手に押しかけてきた居候から一転、どこぞの要人のような警戒ぶり、傍が呆気に取られるほどのあからさまな豹変ぶりだ。
出かけたファレスは、夜が明け、朝食の時間になっても現れなかった。ウォードもとうとう姿を見せず、結局三人で食事をとった。その間クリスはケネルを独占、嬉々として世話を焼いていた。ケネルは何を言うでもない。疎むどころか付かず離れず傍にいた。むしろ、当然だろう。待遇の一変も夜通しの見張りも、全てはケネルの指示なのだから。
可能な限りの力を尽くして、クリスの身柄を保護している──そうした一連の措置を通して懐妊を知らしめようとするケネルの意図は、火を見るより明らかだった。森で否定した時は、あんなに見苦しく言い訳したのに。けれど、ケネルの不実をなじるどころか、嫌みの一つも言えなかった。
ケネルとの仲がギクシャクしていた。手ぶらで追跡から戻ったケネルは普段の淡々とした様子だったし、夕刻キャンプに着いた頃には、こちらの恐慌も落ち着いていたが、荒唐無稽な波乱が収まり日々の営みに戻ってみれば、台風一過の索漠と白んだ平穏には、荒んだシコリが置き土産のように残っていた。ケネルは奇妙にシンとして、ただ淡々としているばかりで何の反応も示さない。恩知らずな仕打ちに腹を立てるでもなければ、迎合しておもねるでもない。すっかり突き放されてしまった感じだった。いや、あんな態度を取られた後に、彼に何が出来るというのだ。
ケネルは意地悪になった訳でも、殊更に嫌な態度を取る訳でもないけれど、何をしていてもよそよそしく感じられた。反目している訳ではないけれど、不調和が拭い難く通底し、どうしようもなく息苦しかった。あまりの気まずさに、いっそ謝ってしまいたかったが、クリスが常に傍にいる。
関係修復を焦れば焦るほど、言葉は上滑りになって空転し、振る舞いがぎこちなくなってしまう。ひどい不安に陥った。ようやく築き上げた心地良い居場所は、既に損なわれてしまっていた。軽口を叩き合う気さくな仲に一刻も早く戻りたかった。けれど、口をきく事さえままならぬ状況で、無口なケネルとの歓談がまともに成立しよう筈もなかった。クリスがこれ見よがしに張り付いていても、黙って食事を取るしかなかった。
事ここに至って、ようやく嫌というほど思い知った。自分が何をしたのかを。森での過ちの重大さを。だが、後悔しても遅かった。全ては自分のせいだった。まったく、なんと愚かな真似をしたのだ。あの森での過ちがきっとケネルを傷つけた。あの手を取るべきだったのだ。如何に彼が怖くても。
気鬱な思いで嘆息し、隣の寝顔をぼんやり眺めた。ケネルの姿勢の一変を見ても、ファレスも何を言うでもなかった。積極的に関与こそしないが、そうした変化を当然の如くに受け入れているようだった。どうやら彼らの間には、暗黙の了解があるようなのだ。
彼らの厳重な警戒振りや大仰な見張りは、単に"妊婦を保護する"という以上の、より切実な意図を感じさせた。もっとも、相手が身重でありさえすれば分け隔てなく手厚く保護する、などという清浄で親切で高邁な理念を彼らが掲げているとは思えない。彼らには恐らく、子の父親が誰であるのか、その一点が重要なのだ。以前、短髪の首長が教えてくれたではないか。ケネルの器量は別格なのだと。つまり、彼らは切望しているのだ。傑出した才を持つ"ケネル"の跡継ぎの誕生を──。
廊下への引き戸がスッと開いた。誰かが部屋に入ろうとしている。
物思いから引き戻されて、エレーンは慌てて振り向いた。ファレスはじっと動きを止めて、既に聞き耳を立てるように目を眇めていた。驚いて声をかけるより早く、素早く起き上がり、膝を立てる。低い態勢で戸口を睨み、利き手は既に腰の刀柄に触れている。戸の向こうの人物が余所見をしながら踏み込んだ。
「──お前かよ、ワタリ」
ファレスが脱力して息をついた。刀柄に触れた手を離し、男を見ながら立ち上がる。ワタリと呼ばれた戸口の男は、ぎょっとしたように居すくんだ。「──すいません、副長。お疲れのようでしたんで、起こしちまっちゃ、まずいかと思って」
今更ながら部屋を見回し、申し訳なさそうに頭を掻いている。どうやら知り合いであるようだ。ファレスは、くわっ、と大あくびした。「たく、ノックくらいしろよ、不躾な野郎だな。取り込み中だったら、どうすんだ」
ぱっ、とワタリが見返した。
「取り込み中でしたか」
「──いや、そーゆーんじゃねえけどよ」
ファレスは如何にもたるそうに頭をガリガリ掻いている。ワタリは腕組みで寝起きの顔をつくづく見やり、呆れたように首を捻った。「しかし、副長。よく平気で眠れますね。食っちまいたくならないんすか」
「おう、食いてえよ、たりめえだろ」
ファレスはあくびで事もなげに応える。ワタリは苦笑いで後ろ頭を掻いた。「でも、ま、さすがに、後が色々まずいっすもんね」
「あ? 知るかよ、そんなもん」
男二人でくだけた雑談を始めている。エレーンは横臥したまま目だけを動かし、二人の様子をぽかんと見た。空気の如くに無視されている。こちらが目覚めている事に全く気づいていないらしい。高い目線同士で話しているから、可視範囲から逸れているのか。にしても、会うなり飯の話とは。欠食児童か己らは。
寝床の敷布に手をついて、エレーンはむっくり身を起こす。「気にならないんすか、副長は」と戸口のワタリに問われたファレスが「──大体よー」と応えたのが、それと同時だった。
「ペット可愛がるのに、犬猫の都合気にする奴がいんのかよ。そういうんじゃなくてよ──」
やれやれと足を踏み替え、ピタリと停止。ファレスが肩越しに振り向いた。起き上がりかけた四つん這いの姿勢でバッチリ目が合う。
「……お?」
顔だけ不自然に振り向いたまま、ファレスが眼(まなこ)を瞬いた。その向こうで、ワタリが、げっ、と何故かたちまち目を逸らす。エレーンはもそもそ座り込み、交互に二人の顔を見た。乾いた風が吹きすさぶ微妙なこの間はなんなのだ?
ファレスはしばし全面停止していたが、おもむろに身じろぎ向き直り、いつもの如くに踏ん反り返った。そして、
「おう、起きたか」
エレーンは眉根を寄せて首を傾げた。「なんで、そこで犬猫なワケ?」
「おう、なんでもねえ」
チラ、とワタリが盗み見た横で、ファレスはきっぱり言い放つ。ずい、と腹で腕を組んだ。「やーっと起きたか、寝坊助が」
相も変わらず不遜な態度だ。普段以上に見下ろされている不愉快な目線の位置を是正しがてら、むっ、とエレーンは立ち上がった。
「あたしはとっくに起きてましたー。あんたの方が寝坊助なんでしょー。何度も何度も起こしてみたけど、グーグー寝てて、あんた全然起きなかったじゃないのよー」
そうだ、なんという身の程知らずだ。ほっぺ引っ張っても起きなかったくせに。
寝起きでまだ気怠いのか、ファレスはたるそうに膝に手を置き「──よっこらせ」と緩いあぐらで座り込んだ。尻ポケットから紙箱を取り出し、眉をひそめて一本咥える。寝起きの一服を見咎めて、エレーンはすかさず分捕った。ブツはもちろん没収である。
「もー。あんた、何してくれてんのよ。花火買いに行くんじゃなかったのー。だいたい、あんたってば全然起きようとしないしさー。お陰であたしはずぅっと一人で天井の模様を色々数えて──」
眼下の旋毛(つむじ)に不満炸裂。ファレスは煩そうに顔をしかめて、両手の人差し指で耳栓している。やがて「──うっせーな、忘れてねえよ」と舌打ちで退散するように立ち上がった。廊下で突っ立ったワタリの方へ、かったるそうに歩いていく。
「ハジは」
ぞんざいこの上なく所在を訊く。ワタリは廊下の先を顎で指した。「飯食いに出てます。そろそろ戻ると思いますが」
「ああ? なに飯なんか食いに行ってんだよ、あの野郎」
ファレスはげんなりした顔で「しょうがねえな」と舌打ちしている。エレーンはあんぐり顔を見た。
( あんたがグースカ寝てたんでしょーが )
寝汚く寝ていた奴の言うことか。今は昼時なのだから、その"ハジ"とかいう人の行動は妥当だ。ワタリもそう思ったか、ファレスの向こうで苦笑いしている。
( あれ? あの人って── )
ふと、エレーンは見直した。ワタリとかいうあの男、どうも見たことがある気がする。キビキビした身のこなし、抜け目のない窺うような目、癖毛なのか頭の天辺がちょっとだけ尖がっている。
──そうか、とようやく思い当たった。今日は軽装なので気づかなかったが、ファレスをしょっちゅう訪ねて来る仲良しこよしの密談男ではないか。いつも、こいつが来る度に問答無用で追い払われて、セレスタン達の輪の中に突っ込まれる。そうして二人はこそこそ密談。何の話か知らないが、絶対聞かせてくれないのだ。あまりに人目を避けるから、もしや怪しい仲ではないかと一時は本気で勘繰ったほどだ。それにしても、
( なんで、あんたがここにいるのよー? )
エレーンは唖然とワタリを見返す。まさか、こんな町中にまで出没するとは──。いや、しつこく尾行て来たとかそういう事か? てことは、やっぱり二人はのっぴきならない仲なのか?
そういや以前にも、ファレスが森に連れ込まれるという由々しき事件が勃発した。即刻救出に向かおうとしたが、ケネルもセレスタン達も短髪の首長も、てんで頼りにならなくて、こちらの協力要請を事もあろうに拒んだ。いや、あまつさえ面白がって賭けまで始める薄情さだ。あの時は幸運にも事なきを得たが、この短期間にして、よもや次の男が出現しようとは。
この野良猫は同性にいたく人気があるらしい。そして、当人に嫌がる素振りは微塵もない。むしろ、このワタリとは定期的に会っている。しかも密会。人目を忍んで。確かに野良猫は野放図で、率直で赤裸々で奔放だが、よもやそうした趣味があろうとは──。いやいや、超個人的な事柄をつべこべ言うのは野暮だろう。思慕恋愛は各人の権利、道ならぬ恋でも当人の自由だ。どちらも歴とした大人なのだし──いやだがしかし、野良猫の健全な発育の為にはそういう方面の人選というのはやはり若干問題があるといえないこともないようなあるような──
一人悶々と唸りつつ、じっとりワタリを凝視する。ねばっこい視線を感じたか、ふとワタリが振り向いた。ばっちり目が合い、向こうがそそくさ目を逸らす。ワタリは居心地悪そうに頭を掻き掻き、しきりに首を傾げている。何やら気まずそうな面持ちだ。ぬぬ。やはり黒かこの男。不審を募らせ、尚もねちっこくジロジロ観察していると、ファレスがくるりと振り向いた。
「おう。こいつと話があるからよ。お前、ちっと、ここで待ってろ」
有無を言わさず半眼で命じ、顎先でぞんざいに部屋をさす。
「えー! またあ〜?」
エレーンはぶんむくれて抗議した。せっかく気晴らしに来たというのに、こんな所でまで内緒話か? しかし、ファレスは了解の返事を待つでもなく、ワタリを促し、廊下に出ていく。そうして、いともあっさり取り残された。
「……なによー、仲間外れにしちゃってさあー」
エレーンはぷりぷり、開け放った窓辺に踵を返した。仕方がないから、用が済むのを待つ事にする。というより、そもそも他の選択肢がない。なにせ、出かけようにも、ここがどこだか分からない。
窓の手摺りに乗り出して、身をよじって見渡せば、向かいの屋根の遥か向こうに、人の行き来する路地裏が見えた。連なる建物の壁の向こうに、町の目抜き通りが垣間見える。陽を遮る石造りの建物。連なる商店。久し振りの石畳だ。店頭路上の商品を眺めて無造作に歩く人の波。わりと大きな町らしい。いや、あの景色には見覚えがある。──そうか。なんだ、ここって、
「ルクイーゼ?」
ルクイーゼは南北に長いレグルス大陸の中程より南に位置し、商都〜ノースカレリア間を結ぶ幹線道路・カレリア街道の中間地点にある地方都市だ。町中が綺麗に整備され、宿も店舗も多いので、商都から北方に遊びに行くなら、大抵ここで一泊する。
「こんな所まで来てたんだ……」
つまり、地理的には商都寄りの町であり、商都までの行程を既に半分以上消化していた事になる。
( よくやったあたし…… )と軽い感動を覚えつつ、活気ある町をつくづく眺める。首都圏とまではいかないまでも、商都に近い立地である為、雰囲気は十分垢抜けている。ルクイーゼならば、見たい店はたくさんあるのだ。あの店にも寄ろう、この店にも行こう、と一人ほくほく算段し、エレーンは顔をほころばせた。スカートの長い裾を蹴り飛ばし、後ろ手にして部屋中ぐるぐる──。ああ、俄然楽しくなってきた!
しかし、であった。
「──遅いっ! もー、なにやってんのよ!」
エレーンは腕組みで床を踏み込む。待てど暮らせど音沙汰がない。終了の気配がまるでないのだ。痺れを切らして部屋を突っ切り、戸から顔を出して覗いてみる。そこは板廊下になっていて、二つの部屋が面していた。この部屋の右に、引き戸の閉じた入口がもう一つ。左手の廊下の突き当りには四角い木格子の窓があり、硝子越しに日差しを取り入れている。その手前は下の階へと続く階段。問題の二人は右側の、廊下の突き辺りの隅っこで、人目を憚るようにして話し込んでいた。いつものようにワタリが話し、ファレスはただ聞いているらしい。結構真面目な面持ちだ。やっぱり全然終わりそうにない。
「……うむ。やむなし!」
エレーンはそそくさ取って返した。自分の手荷物のポシェットを取り上げ、右の肩から斜めにかける。久し振りの町の活気に気持ちがそわそわ疼いていた。天気もこんなに良いのだし、無為に閉じこもるばかりでは勿体ない。なに、地理なら、ちゃんと心得ている。てか何度も泊まった事あるし。
しゃがんでブーツを取り上げて、忍び足で部屋を出た。幸い引き戸は開けっ放しで、出入りするのに音はしない。薄暗い壁に執拗に向かいヒソヒソやってる男二人を盗み見て、裸足のままで抜き足差し足忍び足──辿り着いた階段を、見咎められぬようそそくさ降りる。だって、「先に行く」などと断った日には、眦(まなじり)吊り上げた野良猫に「終わるまで待ってろ!」とたちまち部屋にぶち込まれるのは目に見えているではないか。
話に夢中になっているのか、壁に張り付いた男二人に気づく様子はまるでない。あの背の丸め具合が、やはり、どことなく疚しい感じだ。そんなに誰にも聞かれたくないのか?
間違っても音を立てぬよう、注意の上にも注意を払って、古い階段を慎重に降りる。降りきったそこは石床で、店舗の体裁になっていた。工具の散らばる雑多な感じからして、何かの修理屋というところだろうか。
前面の硝子戸はいっぱいに開け放ってあった。正午過ぎの気怠い日差しが、やんわり石床に差し込んでいる。客はいない。店員はおろか店主の姿さえも見当たらない。二階の窓から広い中庭が見えたから、廊下の先が向こうの建物に続いていて、そちらにいるのかも知れないが。そう、商売をしているというのなら、倉庫なんかがあるのかもしれない。それにしたって、随分ずさんな経営だが。
「……まったくもー。戸締りもしないで無用心ねー」
ついつい口を出したくなる。自分の店ではないのだが。両手を腰に押し当てて、エレーンはやれやれと見回した。こんなにあっけらかんとほったらかしで泥棒が入ったら、どうするのだ──。はっ、と己の立場に気がついた。ちんたらしている場合じゃない。こんな所でぐずぐずしてたら、とっ捕まる危険性がある!
店の観察はそこそこで切り上げ、そそくさしゃがんで、持ってきた靴に足を突っ込む。それを履ききるのももどかしく、明るい戸外に飛び出した。
建物の陰で薄暗い細い路地裏を大通りに向かう。居場所の見当はついていた。恐らくは、街道を一本奥に入った商店街の一角というところ。馬を預かる都合上、宿は大抵、街道沿いに集中している。なに大丈夫。迷子になどなりはしない。この町には土地鑑があるし、目抜き通りのどこかに居れば、探しに来ても、すぐ見つかる。警邏が常時巡回しているし、危ない事など何もない。カレリアは基本、一人歩きできる国なのだ。
北方へ向かうカレリア街道は内陸ではなく大陸の西を走っており、カレリアの町村は、主に街道から西側が栄えている。街道の東側は、街道沿いの商店を除けば、牧歌的な住宅地で占められている。東に向かうにつれ、それが田園風景に変わり、雑木林や山が現れ、やがては大草原と樹海に辿り着く。ここルクイーゼも同様だ。そして、街道から西に進んでルクイーゼの町に入り、町を突っ切って繁華街を出、民家を眺めながらひたすら行くと、切り立った断崖に突き当たることになる。その向こうは内海だ。連なる店舗を鼻歌混じりに眺めて歩き、路地の先の大通りに出る。狭い視界が一気に開けた。陽を弾く薄灰色の石畳。
「うう、久しぶりっ!」
舗道脇の背の高い街灯、舗装された小奇麗な道、煉瓦壁に連なるアーチ窓。町の入口からすぐに始まる目抜き通りは、馬車二台が並んで通れるほどの道幅があり、道沿いには、飲食店、雑貨屋、服屋、土産物屋等々が軒を連ね、道端に置かれたマガジンラックには、様々な雑誌の最新号が綺麗に斜めに突っ込まれている。植木とベンチが店先に置かれた白い壁のレストラン、緑のパラソルを広げた小洒落たカフェ、雑貨屋の店先をガーデンチェアと籐の籠が涼しげに飾る。髪切りサロンの店先では、洗ったタオルが何枚も干され、各々の店の壁には凝った作りの吊り看板、向かいの石畳の街角には「本日のランチ」の少しくたびれたボードが立ててある。食堂の名は
《 銀の匙 》
午後の町には日差しが穏やかに降り注いでいる。えへへ、と思わず頬を緩めて、エレーンは上機嫌で踏み出した。かれこれ随分久し振りの町だ。明るい日差し、人の往来、自由な空気。これぞ町! これぞ自分の居るべき場所だ。土産物屋の軒先で白い貝殻のディスプレイが微風に揺れてカラカラ軽やかな音を立てる。懐かしく開放的な町の空気を胸いっぱいに吸い込んで、ルクイーゼの目抜き通りをのんびりと歩く。
「──あ、これ可愛い」
雑貨屋の前で足を止め、エレーンは膝を抱えてしゃがみ込んだ。陽の当たる暖かい店先、黒いベルベットを張った縁台に、銀の鎖のネックレスが縦にニ十本ほど並べてある。普段であれば一瞥で通り過ぎる程度のチャチでお粗末な代物であるが、町の開けた雰囲気から長らく離れていたその目には、変哲もないそんな物でも楽しげに目新しく感じられる。
日なたぼっこしがてら、背を丸めてしげしげ眺め、中央に掛かった鎖を一本、指の先ですくい上げた。目の高さに持ち上げてみる。どれも全て同じ作りだ。銀のチェーンにハートの形のペンダントトップ。シンプルにして品の良いデザイン。そうか、今、若い女性の間では、こういうタイプが流行っているのか──。
「あっ、この野郎っ!」
ビクリ、とエレーンは手を止めた。唖然と怒声を振り向けば、禿げ頭の太っちょ親父が店から半身乗り出して、憤然と眦(まなじり)吊り上げている。エレーンは「……え?」と自分をさした。とっさに左右を見てみるが、やはり、というべきか誰もいない。店主らしき太っちょ親父はつかつかサンダルで歩いてくる。目の前まで来て足を止め、出し抜けにネックレスを引ったくった。
「あっちに行け! 泥棒猫が!」
しっし! とぞんざいに手を払う。エレーンはあんぐり口を開けた。あまりの無体に思考が停止。はっ、と唐突に我に返った。
「──はああっ!? 何よいきなり、どーゆーことよ! すんごい失礼なんですけどっ!」
一転、憤然と立ち上がる。泥棒などと言いがかりも甚だしい。ただ眺めていただけだ。こんな見ず知らずのハゲ親父に罵られる謂れなど全くない。親父は胡散臭げに目を眇め、分厚い手を突き出した。「なら、身分証を見せてみろ」
「……身分証?」
エレーンは面食らって訊き返した。確かに携帯すべき物ではあろうが、こんな田舎の安っぽい店舗で提示を求められた事などない。商都カレリアの高級商館での売買時でさえ、未だかつて一度としてない。そもそも余程の事でもなければ、身分証など必要にはならない。例えば、警邏が逮捕者に提示を求める等の犯罪捜査に関わるような場合だけだ。エレーンは憮然と腰に手を置き、親父の血色の良い顔を睨み返した。「いったい、あたしが何したって言うのよ!」
「身分証」
悪びれるでもなく平然と、親父は、ずい、と手を突き出す。梃子でも引かぬ強硬な態度、まるで聞き耳持たぬ構えだ。エレーンは、う゛──と返事に詰まった。実は、ないのだ。領主のダドリーと結婚し、身分が"市民"ではなくなったから。まあ、代わる物がないでもないが──。
しかし、提示するには問題がある。エレーンはチラと左手の薬指に意識をやった。そう、つまりは例の指輪だ。領家の一員たる厳然たる証。だが、これを狙われ散々襲われた経緯を思えば、こんな場末の雑貨屋如きに、しかも、こんなどうしようもなく下らない理由で、軽々に見せるのはためらわれる。
「どうした。やっぱり、ないんだろうが!」
太っちょ店主は吊りズボンの腹を突き出し、勝ち誇ったように笑っている。エレーンは引きつり笑いで小首を傾げた。
「あっ、いやっ、あのっ!──ちょっと、今は、その──」
やっぱ見せるべき? この指輪……。
「まあ、《 遊民 》風情が持てる道理もないんだがな」
「……は?」
ゆうみんふぜい?
エレーンはぱちくり親父を見た。「……え、いえ、あの、あたしはただの庶民の出で──」
「まったく太てえ盗人だ! 来い! 詰め所に突き出してやる」
ぐい、と店主が問答無用で引っ立てる。エレーンは瞠目、両手をあたふた振り回す。
「ちょ、ちょっと、待っておじさん! 違う! 違うって! 誤解だって!」
もしやまさかの万引き容疑か!?
爺(じい)の渋面が脳裏に浮かんで、顔から血の気がざっと引いた。むう、なんと外聞の悪い。全くの誤解であるにせよ、番屋にしょっ引かれたなどと爺(じい)に知れたら、何を言われるか知れたものではない。そうだ、その事実こそが重大だ。そして、人の口に戸は立てられない……。
万が一にも 「 領家の奥方、万引き容疑で逮捕さる!? 」 などと号外が飛んではエライ騒ぎだ。まずい。如何にもまずい事態だ。指輪の露出もかなーりまずいが、しかし、こうとなっては是非に及ばず。この際、背に腹は代えられぬではないか!
( ──うむ。やむなし! )と即断し、左手の指輪を一瞥する。
エレーンは憤然と顔を上げ、親父の拘束を振り払った。
「ちょっと、あんた。そんなこと言っちゃって本当にいいわけえ?」
両手を腰に、啖呵を切って仁王立ち。左手をおもむろに持ち上げる。さあ、とくと御覧じろ。
「いーい? あたし、本当はねえ──!」
「俺の連れだよ」
ぽん、と肩を抱かれた。頭の上から降ってきたのは、全く知らない男の声だ。
エレーンは「え゛?」と振り向いた。柔らかな綿の上質な白シャツが目に入った。ボタンの開いた立襟の首に金の鎖が品良く見える。三十半ばから後半といった年代だろうか、小奇麗な成りの壮年の男だ。真ん中分けの、肩で切り揃えたウェーブの髪。どことなく羊を連想させる細面に丸眼鏡。その小洒落た風貌から画家だとか音楽家だとかの芸術家方面を連想させる。もっとも、まるで全く知らない顔だが。てか誰だ。
「ああ、俺が払うよ。幾らだって?」
ぽかん、と顔を見ていると、男はチェーンに付いた値札を見、札入れから一枚抜いた。「ああ、包まなくていい。釣りはいいから」と店主の手に握らせる。
札を受け取らされた渋面を後目に、男は引っ立てるようにして歩き出した。店先から強引に連れ出され、エレーンは慌てて仰ぎ見る。「──あ! ちょっと、あのっ! あたし自分で払いますっ! 払いますからっ! てか──」
金より何より、あんた誰。
「おう、ハジ」
背後から声がかかった。よおく知ってるあれの声だ。もしや、と思い、振り向けば、案の定、たるそうな仏頂面で立っている。不良の三白眼は、「……んん?」と今更気づくなり、みるみる眦(まなじり)吊り上げた。
「あっ! この野郎! こーんな所にいやがったな!」
今更、喚く。隣の男で見えなかったらしい。
「てんめえアホタレ! 勝手に歩くなと何べん言ったら──!」
「なに。知り合い?」
カリカリしているファレスを後目に、エレーンは横を指さした。そんな事より、問題は隣だ。正体不明のこの男。一体全体誰なのだ? 今来た道を、ファレスは苛々顎でさした。
「あの店の主だ。ほら、ついさっきまで二階で昼寝してただろ。んなことより、てめえに耳は付いてねえのか。一人でどっか行くなと何べん言ったら──」
「んねえー、ちょっと聞いてよー。今、あそこの店でさあ。すんごい失礼な目に遭ったんだからあ!」
エレーンはじたばた指をさす。「なあによ今の! ひとを泥棒扱いしちゃってさあ! ふざけんじゃないわよ、あたし見てただけなのに! だいたいねー、あの程度のはした金、誰だって普通持ってるっつーの! なのに、あのハゲちゃびんときたら──!」
「金さえ払えば売ってくれる、とは限らない」
割り込んだ声を見返すと、ハジと呼ばれたあの男だ。つくづくといった風に顔を見て、やれやれと腕を組んだ。「あんたの格好に問題がある」
「……あたしの、格好?」
己をまじまじ眺めやり、カッコがなによ、とエレーンは見返す。ハジが面倒そうに溜息をついた。「なんで《 マヌーシュ 》の格好なんかしてるんだ。あんた、歴としたカレリア人だろう」
「──あっ、やっぱ、わかるぅー?」
「まー、色々あって、今はこっちの方が都合がよくてよ」
ぶっきらぼうにファレスが割り込む。
「ああ、そう」
ハジは拘ることなく肩をすくめた。「そちらさんの事情は、別にどうでもいいけどね。だが、買い物に行くなら、着替えた方がいいと思うぜ。あんた、着替えは持っているか」
いきなり訊かれて面食らい、エレーンは「いいえぇ?」と首を振る。ハジは「だろうな」とあっさり応えて踵を返した。「店で待ってな、見繕ってきてやるよ」
「──おい、ハジ」
一瞬ためらい、ファレスがその背を呼び止めた。「ああ、その事なんだがよ。出来るだけ──」
「わかってる。出来るだけ目立たないヤツな」
ハジは見向きもせずに片手を上げた。
「今のと合わせて、お代はまとめて請求するよ」
目抜き通りの石畳に、正午過ぎの陽がさしている。疎らに歩く人波を、ほっそりしたウェーブの背がぶらぶら歩いて遠ざかった。
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