■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部 3章 13話4
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深夜から降り出したしとしと雨は、朝にはもう、あがっていた。世話になったキャンプの人達への簡単な挨拶を滞りなく済ませ、ケネルは朝の清々しい草原を背にして、自分の馬に跨っている。その懐から乗り出して、クリスが手を振っていた。屈託のない笑い顔。探るような懐疑の目つきも刺々しい詰問口調も綺麗に払拭されている。はしゃぐクリスをケネルは軽くたしなめて、護衛の二頭に声をかけた。
クリスは白く細い喉を伸ばしてケネルを見上げて寄りかかり、不服そうな顔をした。ケネルのシャツに細い指でしっかり掴まり、もう一方の華奢な指は胸元のペンダントトップを無意識にもてあそんでいる。流行りのハートのネックレス。そして、生成りのあのワンピース。どちらも自分がやったものだ。昨日の自分とクリスはそっくり同じ成りをしている。まるで、すっかり入れ替わってしまったかのように。
ケネルのクリスに対する扱いが、少し優しくなったように思えた。微笑ましいやりとりに力が流れ去るように抜けていく。なんとなく分かってしまった。あの晩ゲルを訪ねたクリスを、ケネルが冷たくあしらった理由が。夜更けの一人歩きを真剣に案じ、腹を立てたからなのだと。こちらが野営地に迷い込んだ時には、怒ってなどくれなかったのに。親密さと真剣さの度合いにそれ程の差があるのだ。自分とクリスとの間には。
朝食後、ゲルの外に出て、エレーンは野営地に引き上げるケネルら一行を見送っていた。馬に揺られる三つの後ろ姿が生い茂った木立に消えていく。いつの間にやら来ていたファレスは、彼らの出発を見届けてしまうと、遠くのゲルに入っていった。ここの人に何か話があるらしい。
朝の冷たい湿った空気が取り残された全身を取り巻いていた。誰もいなくなった草原の林は、さわさわ梢をなびかせている。見るとはなしに眺める脳裏に、それは執拗に残っていた。幸せそうなクリスの顔が。「また後でね!」と手放しで手を振る気を許しきった無邪気な笑顔が。ぬかるんだ足元に目を落とし、エレーンは、ぽつり、と言ってみる。
「……ねえ、クリス。ケネルには他にも、恋人がいるわよ」
とても本人には言えなかった。あんなに幸せそうにしている彼女に、そんなこと言える筈もない。けれど、あの野営地での昼下がり、ケネルは旅装の女と密会し、見た事もないような寛いだ顔で笑っていた。いや、それだけじゃない。キャンプ近くの夜更けの藪で美女を組み敷いていた事さえある。戻ってきたケネルは平気な顔で、取り繕いもしなかった。見間違いだったろうかと疑いたくなる程に。そう、暗かったし焦っていたし、ほんの一瞬見ただけだし、だから──。何度となく自分に言い聞かせてやり過ごそうとはしたものの、気付けば、又思い出している。クリスに、恋人に、謎の美女。
「──ばかケネル。なんでそんなに女がいんのよ」
口に出すと、声が驚くほど尖っていて、その棘で自分が傷ついた。二の腕をさすって我が身を抱いた。嫉妬でがんじがらめになっている。悲しいというより、何か薄ら寒い感じがした。藪越しに睨んだ恋人の顔が、衝撃的な藪の場面が、幸せいっぱいのクリスの顔が、頭に浮んでは消えていく。ケネルはどういうつもりだろう、そう思ったら、ケネルの顔が蘇った。バナナを咥えた横顔のケネル。賊を静かに見据えたケネル。進行方向を眺めるケネル。寝顔だって知っている。何度も何度も何度も見たから。あんなに言い訳したくせに。「傍にいる」って言ったくせに。「ずっと、いる」って言ったくせに。包帯を巻き替えるゲルの中、肩に顔をうつ伏せて、後ろから背中を抱きしめて。
途方に暮れた足元で暗いうねりがざわめいて、立ち尽くした全身を呑み込んだ。ずっと平和にやってきたのに、毎日ケネルと一緒にいたのに、それが当たり前と思ってきたのに、後から割って入った女達が邪魔だった。全てを薙ぎ払いたい衝動に駆られた。ケネルの肩に手を置いて、次々笑いかける女の影を全部根こそぎ払拭したい。次々差し伸ばされる白くしなやかな手を払い──。ずっとケネルを独占したい。もう誰にも取られたくない。
『 そっかあ、旦那さんがいるんだあ…… 』
無邪気な声が脳裏に響いて、ギクリ、と頬が強張った。寝床を並べた深夜のお喋り、目を丸くしたクリスの顔が蘇る。そして、息を詰めたその顔が安堵したようにほころぶ様が。
『 よかったあ 』
息を細く吐き出して、エレーンは唇を噛み締めた。
「……あたし、我がまま、よね」
惨めな自己嫌悪に打ちのめされて、震える息を長くついた。そんな権利、自分にはない。
それは目を逸らし続けてきた自覚だった。常に意識を掠めていたのに、見て見ぬ振りをし続けてきた。目の前にぶら下がったこの平和な現実のみに必死でしがみついてきた。理由は自分でも分かっている。一人になるのが怖かったからだ。
遠く突き放された気分だった。世界でただ一人、自分だけが生き残ってしまったかのようだった。誰もいない大草原にぽつんと置き去りにされた孤児のような。途方もない喪失感が満ちてきて、気持ちがそわそわざわめいた。怯えが足元にうずくまる。
「……誰か、あたしの傍にいてよ」
気付けば、いつも独りでいる。親密な関係を築いても、いつも他人に取られている。出会いの前後は関係ない。正妻の地位も保障にはならない。ひっそり佇む強奪者は、邪気ない顔で、柔らかく軽やかに奪っていくのだ。儚く愛らしい病気の娼婦が。大人しく奥ゆかしい母親が。無邪気に笑う若い娘が。如何にかけがえのない者であろうと、彼女らの振るう銀の大鎌に容赦はない。彼女らの言動に他意はなく、嫌になるほど正当だ。そのある種の善良さに惹きつけられて、彼らは彼女らの肩を抱く。優先順位は引っくり返り、弾き飛ばされた二番手は幸福の膜に疎外され、彼らの世界に立ち入れない。やがては霞んで消えてなくなる。悪意なき善良さは質の悪い強力な武器だ。今も昔も、それに対抗するどんな術をも自分は持っていなかった。無力だった。一人ぼっちで、限りなく。
「……笑わないと、ね」
胸を苛む痛みを堪えて、スカートのポケットからコンパクトを取り出し、震える指で蓋を開けた。小さな鏡に百面相で挑みかかる。いつもの密やかな笑顔の練習。それなら、せめて笑っていないと。気力が尽きたら、そこで終わりだ。
エレーンは嘆息してコンパクトをしまった。真っ青で色鮮やかな草原を端の方から眺めやる。雨に洗われた草原は、風が少し肌寒い。濡れた草を踏みしめて、ぬかるんだ草原をゲルのサンダルでゆっくり歩いた。ピチャピチャ小さな音を立て、ぬかるみに足を踏み入れる。ゆっくりと、丁寧に。昨夜も嫌な夢を見た。それで輪をかけてナーバスになっている。明け方の夢、誰かの訃報を受け取る夢だ。そして、あの階段の夢。
夜毎立ち現れる階段の夢は、ぼやけた輪郭が日を追う毎にはっきりしてくるようだった。どんなに警戒していても、寝入り端の身構えが解けて油断した意識の中に、夢はするりと入り込み、夜毎繰り返し立ち現れる。あたかも警鐘を打ち鳴らすかのように。
「──エレーン」
背後から名を呼ばれ、ギクリと体が強張った。滑らかに澄んだこの声は──
( ……ノッポ君だ )
鬱々としていた今しがたから一転、エレーンはどぎまぎうろたえた。昨日の事件が脳裏を過ぎる。振り返ろうとして足がすくんだ。今、彼の声はどんなだっただろう。しょげていただろうか、怒っていただろうか、それとも平然としていただろうか……とっさに判断がつきかねた。唐突に現れたいつかのあの朝のように、まったく急に現れる。彼は何ものにも頓着しない。だから、心の準備が全くない。
草踏む音はゆっくり確実に近付いてくる。心臓がどきどき激しく打った。こんな早朝からなんだろう。そういえば昨日、引っ叩いて逃げた。あの仕返しに来たのなら──。怖気づいた足が勝手に逃げ出し、はた、とかかとが踏み止まった。
十五の少年に怯えてどうする!
そうだ。ずっとずっと年下ではないか。あの彼の将来の為にも、今こそきちんと諭さねば。ああいう身勝手な抱擁は罷り通らぬ行為であると!
ぐっ、と下腹に力をこめて、深呼吸して口を開いた。「……おはよう、ノッポ君。あのね、昨日のことだけど」
動揺を相手に悟られぬよう、声が上擦らないよう注意して、なんでもなさそうに話を切り出す。いざ往かん! と振り向いた。
「ど、どしたの! 川にでも落ちたの?」
ぎょっ、と固まり、瞠目した。ウォードが両手を下げて立っていた。頭からずぶ濡れだ。ふわふわ靡く薄茶の髪は濡れそぼって首筋に張り付き、しとどに濡れた白シャツは下の肌が透けている。じっと見つめた目線を下げて、ウォードは頭だけを俯けた。「ごめん」
顔を上げて、まっすぐ目を見る。
「オレ、卑怯だった」
「……へ?」
エレーンはぱちくり瞬いた。あまりの潔さに面食らい、不要となった説教の台詞が宙に浮く。予期せぬ展開に成す術がない。腑抜けたように見返すが、ウォードはまるで揺るがない。そして、おもむろに身じろいだ。「て、バパにも言われたー」
「喋っちゃったのノッポ君!?」
ぎょっと引きつり、あんぐり見返す。ウォードは無造作に頷いた。「うん。怒られたー」
「……怒られたー、って……ノッポ君……」
エレーンは赤面、あわあわジタバタうろたえる。脳裏にむくむく、短髪の首長の苦笑いが思い浮かんだ。一体どう思ったろう。つまり、あの首長はみんな知っているということか? つまりは事の一部始終を?
( ……終わった )
あたしの体面。
エレーンはガックリうなだれた。面目失墜。これから、どんな顔して会えばいい……。そりゃ、口止めなんかはしなかった。だが、まさか他人に喋ってしまうとは。ああいうことを平気で逐一報告してしまうほど、彼はまだ子供なのだ。いや、それについては自分も知っていた筈ではないか。それを知りつつ放置したというのだから、つまりは完璧に自業自得ということで……
一気にへこむ。絶望の底まで。悪気なく完膚なきまでに叩きのめしてくれた当のウォードは、しかし、気にした風もない。
「それでオレ、あんたに言わなきゃなんないことがあるんだけどー」
普通の調子でそんなことを言う。まだ続きがあったようだ。げっそりと打ちひしがれて「……なに」と向かいに目を上げると、硝子の瞳がじっと顔を見下ろしていた。珍しく眉をひそめている。
「エレーン、オレ、あんたのことを──」
切羽詰って話を切り出し、だが、戸惑ったように言い淀む。逡巡するその顔が途方に暮れたように苦々しく歪んだ。緊張した顔。思いつめたような真摯な瞳。恐ろしく真剣な顔つきだ。日頃無機的な彼にしては生々しい、破裂しそうな何かの感情がそこにあった。必死で思い切ろうとしているような、それでいてどうしても踏ん切れぬような、苦しげで切なげな躊躇の表情。見ている方まで息苦しくなる。思わず気を呑まれてしまい、エレーンは乗り出し息を飲む。ためらう唇がようやく動いた。
「やっぱ無理―」
それだけの事で力尽きたか、はあ〜、とウォードはうなだれる。エレーンは眉根を寄せて固まった。
「……ねー、ちょっと、なにー? 途中でやめられると気になるんだけどー」
あんた、それはないだろう、とチョイチョイ白シャツの袖を引く。ウォードは既に気が削がれたようで、嫌そうに一瞥し、あからさまに嘆息した。それでもじぃっと見上げていると、どこか渋々といった風に、思い切ったように顔を上げた。
「だからオレさー、あんたのことを──」
同じ台詞で再び試み、ふつり、と再び口を閉じる。やはり、そこで止まってしまう。( よし! 行け! そこだ! )とエレーンは密かに力んで応援。だが、どうしても先に進めない。ウォードは決まり悪げに薄茶の髪を掻いている。何か言い難い話らしく、しばらく居心地悪げにそわそわしたが、ついに脱力したように息をつき、ふい、と素気なくそっぽを向いた。
「やっぱ、いいー」
はらはら乗り出していたエレーンは、又も拍子抜けしてつんのめる。散々気を持たせた挙句に、結局やめることにしたらしい。ああ、無駄に疲れた。なんという徒労。気侭というか勝手というか人騒がせというか──はたとエレーンは我に返った。
「あ! まずは拭く物! 体拭かなくっちゃ、ノッポ君!」
彼は頭からずぶ濡れなのだ。寝泊りしているゲルに向け、エレーンはあたふた走り出す。ぐい、と手首が掴まれた。
「いいー」
見れば、ウォードが首を横に振っている。要らない、との意思表示。大きな手を素気なく放して「じゃあねー」とあっさり踵を返した。エレーンは慌てて腕に取り付く。「でも! そんなびしょびしょじゃ気持ち悪いでしょ」
「悪いけどー」
「ほらあ! ちゃんと拭いた方がいいってば。だいたい風邪ひいちゃうって、それじゃあ」
「──もう、いいよー。面倒―」
ウォードは少しだけ不貞腐った様子で歩き出した。じっと見つめていた凝視から一転、掌返したように素気ない態度だ。腕に取り付いてあたふた歩くが、もう足をさえ止めようとしない。むしろ、構われるのが鬱陶しいとでも言わんばかりにけんもほろろの態度だ。そして、こうなってしまうと、何を言っても聞きはしない。まるっきり、そこらのだだっ子だ。いや、背丈がやたらと大きいだけに只の子供より尚質が悪い。自分の方から来たくせに。むっと腕を引っ張り戻して、エレーンはギロリと睨めつけた。
「拭くのっ! いいわねっ!」
かったるそうに足を止め、ウォードが不服げに振り向いた。何事か言いかけ、だが、視線がかち合った途端に口を閉じる。無言で睨んで抗議してくる。それでも断固たる決意で( 負けないわよ )と捕まえていると、深々と諦めたように嘆息した。「……わかったー」
「おしっ!」
渋々頷いたウォードを引っ張り、早速ゲルに取って返す。因みに、行く手を遮られるのが殊の外嫌いであるようだ。誰かと似ている。誰だっけ。
「あ、どっか適当に座っててね!」
ゲル備え付けのサンダルを、エレーンは靴脱ぎ場で脱ぎ捨てた。あたふた絨毯に上がり込み、自分の荷物に直進する。気の重い問題がすんなり片付いた反動で、うきうき意味なくはしゃいでしまう。旅行鞄をがさがさ漁って、大判のタオルを引っ張り出した。彼の着替えまでは、さすがにない。体のサイズが違いすぎる。ああ、ファレスのザックを漁ったら、シャツの一枚も出てくるか。何事にも細かい野良猫だから、着替えも多めに持っているだろう。
ウォードは中央の土間へとのっそり歩き、絨毯の端にくたびれたように座り込んだ。靴を脱ぐのも億劫なようで、土足で脚を投げ出している。濡れた頭を捕まえるようにして大判のタオルを押っ被せ、エレーンは両手でゴシゴシ拭いた。相手は十五の少年とはいえ、こんなに大きなこの彼が、従順に従ってくれるのが何気に嬉しい。
「……オレさー、やっぱ、言わなきゃなんないんだけどー」
「なに?」
エレーンは作業の傍ら返事をする。やっぱりやめたのかと思っていたら、やっぱり、やっぱり言うらしい。
「オレ、あんたのことを──」
ならば聞くか、と手を止めて、エレーンは、なあに、と顔を覗いた。目が合い、ウォードはたじろいだように口を閉じた。ほんの一瞬、薄茶の綺麗な硝子の瞳を感情の影が素早く掠める。戸惑いと、微かな怯え、のように思えた。ウォードは何かを観察するように注視している。だが、やはりためらい、綺麗な顔を苦々しげに歪めて目を逸らした。
「……やっぱ、いいー」
くたびれたように力なくうなだれ、ゆるゆる首を振っている。
「あっそ」
エレーンはさっさと作業に戻った。やっぱり、やっぱり、やっぱりやめた。案の定、思った通りだ。
タオルを被った大きなウォードは、投げ出した自分の靴を眺めて、意外にも大人しく俯いている。何をされようが、されるがままだ。頭をわしゃわしゃ掻き回しても嫌がらない。もっとも、本当に嫌になったら、さっさと立ち上がって勝手に出て行くこと請け合いだが。
それでもウォードは座っていた。無言でじっと、大人しく。それでも尚、どこかそわそわしていることが濡れたシャツが張り付いた広い背中から伝わってくる。タオルを被った頭の下から、途方に暮れた声がした。「……でもオレ、ちゃんと守るから」
「え?」
エレーンは手を止め、顔を覗いた。ウォードの滑らかな横顔が何やら思いつめている。内容からして、さっきの「ごめん」の続きだろうか。つまり、謝罪の一部ということか? 彼には独特のペースがあるから、聞いている方は、気紛れに放たれた個々のパーツを繋ぎ合わせるのに苦労する。ともあれ、思わぬ深刻な表情に「……い、いやあ、あれしきのことで〜」と照れ笑いでたじろいだ。だが、ウォードの方は大真面目だった。顔を上げ、じっと見つめて、きっぱりと繰り返した。
「最後まで、あんたを守るから」
「……そ、それは、どうも、ありがとう」
並ならぬ気迫に気押されて、引きつり笑いでとりあえず頷く。間に受けていないのが伝わったか、ウォードはどこか苛立った目で見届けると、絨毯に手を付き立ち上がった。
急に目線が高くなり、エレーンはたじろいで顔を仰ぐ。頭にタオルを被ったままで、ウォードがじっと見下ろしていた。業を煮やしたような硝子の瞳。シャツの張り付いたウォードの腕が、素早く動いて手首を掴んだ。
( ──又チュウか!? )
ぎょっとはしたが逃げる間もなく、エレーンは、ぎくり、とすくみ上がる。謝ったそばから性懲りもない。慌てて手を振り払う。ウォードは素早く掴み直した。とんでもない速さだ。もう一方の手も難なく片手で捕まえる。両手の自由を奪われて、エレーンは鋭く睨みつけた。抗議をしかけて、口をつぐむ。
様子が何か違っていた。妙に静かだ。こちらの動転に取り合うでもなく、彼は何かに没頭しているようだった。何をしているのかと見てみると、捕えた両手を見ているのだった。長い指を丁寧に折り込み、こちらの両手を慎重に包む。長い脚をゆっくり折って、左の膝を絨毯についた。
「……な、何してんのー?」
エレーンは困惑して窺った。何故だかウォードにひざまずかれている。さっぱり訳がわからない。ウォードは立て膝に首を垂れ、握手の手に額を押しつけ俯いている。じっとうなだれたその様は、祈りを捧げているかのようだ。実際何事か小さく唱えてもいるようで、タオルを被ったその下で、横顔の口が僅かに動いているのが垣間見える。だが、俯いているのとタオルの壁があるのとで、言葉はよく聞き取れない。「尽くす」だとか「せいれい」だとか途切れ途切れに漏れてくる。
( なんの呪文? )
屈んで聞き耳を立てた途端、ウォードが口をつぐんで顔を上げた。ひょろ長い脚をおもむろに立て、ゆっくりとした動作で立ち上がる。覗こうとした顔がぶつかりそうになり、エレーンは押し退けられるようにして後ずさった。とっさに顔を振り仰げば、硝子のような薄茶の瞳がじっと真摯に見つめている。
「オレ、あんたのこと守るから。最後まで、きっと守るから」
きっぱりと一方的に、ウォードは頑なな面持ちで約束する。何かを決意したかのような。
「……う、うん」
突飛な行動に気圧されつつも、エレーンはがんじがらめの握手のままで頷いた。とてもじゃないが茶化せない。拒絶するなんて以ての外だ。あの人騒がせな"若気の至り"の一件を、彼は随分重く受け止めているらしい。
短い返事を聞き届けると、ウォードは包み込んだ掌を開いた。息を詰めて丁寧に、長い指を一つ一つ、ゆっくりと慎重に開いていく。すくい上げる形になった掌の上からエレーンが両手を引っ込めると、ふい、と目を逸らして踵を返した。戸口へ歩き、潜るように頭を屈めて、明るい屋外へのっそり出て行く。戻された両手を胸で握って、エレーンは呆然と見送った。不器用な手の硬い感触が、放された手にいつまでも残った。
なんてったっけ。そう、確か──
「……"うーん、忠誠がどうとか、セイレイがどうとか、運命神がどうとか……」
「お前、それ、誰から聞いた」
独り言を聞き咎められ、寄っかかって目をやれば、頭上にあるファレスの顔が呆気に取られて口を開けていた。ファレスの馬で集合場所に向かう途中だ。濡れた服の着替えに手間取ったかウォードは戻ってこなかったので、今日はファレスと二人きり、合流地点に向かっている。過剰な反応に面食らい、エレーンはたじたじ首を傾げた。「な、なによー、そんなおっかない顔してさ」
じっと見つめて、ファレスは苦々しく眉をひそめた。「──そいつは誓約だ」
「せいやく?」
ぽかん、とエレーンは復唱する。
「" 我、忠誠を尽くすことを約する。大地と聖霊と運命神の御名において "──こいつだ」
ファレスはすらすら言葉を紡ぎ、革ジャンに覆われた自分の二の腕を顎で差す。そういえば、ファレスの腕には青い入れ墨があった筈だ。いつも、暑いと言っちゃあランニング一丁でふらふらするから、しょっちゅう見ている。確かケネルの腕にも似たような模様があった筈。あの可哀相な髪型にされた際、それについても目撃している。
「へー。あれって文字だったんだー」
大発見に瞠目し、エレーンはつくづく見返した。「てっきり柄だと思ってた」
「読めやしねえよ、てめえには」
ぶっきらぼうにファレスは返す。その革ジャンの襟元を、エレーンはほくほく両手で毟った。「あっ、なんだっけ? " 我、忠誠を尽くすことを約する。大地と……?」
「言わなくていい。お前が覚える必要はないし、復唱する必要もない。むしろ、気安く口にするな」
早速二の腕を確認すべく顔を突っ込むエレーンから「くすぐってえじゃねえかよ!」と毟られた襟を奪い返して、ファレスは続ける。「これは俺達の誓いの言葉だ。口にしたが最後、この誓詞に縛られる。一生だ。だから、宣誓は、重大な決意をした時もしくは、誓いを立てる場合に限られる」
有無を言わさず、ギロリ、と剣呑に目を向けた。「誰が言ってた」
「──うっ、あの、ノッポ君が」
「ウォード? 誰に!」
驚いた顔で畳みかける。意外な名であったようだ。
「あ、……や、だから、あのぉ〜……」
エレーンはもじもじ上目使いで顔を見た。やたらカリカリしていて言い難い。
「──まさか」
怪訝そうに見ていたファレスが慌てた顔で見返した。
「お前に、ってんじゃねえだろうな!」
頭の天辺から怒鳴り付けるように驚愕と恫喝を浴びせかける。取って食いそうな形相で。ファレスは腹立たしげに舌打ちした。「たく、でたらめ野郎が。こんなもん相手になに軽々しく誓ってんだ。つか、なんで、そんなことになってんだコラ!」
「……えー? わかんない」
愚痴の語尾で凄まれて、エレーンは膨れて口の先を尖らせる。どうも軽んじられた気がして承服できない。ファレスがギロリと目を剥いた。「なんで、わかんねえんだ! 当事者だろうが!」
「だあってえ! ノッポ君なんにも言わないし、いきなり前にしゃがんじゃうしさあ!」
「なら! 他に何て言ってた!」
苛々カリカリ見ていたファレスが、ついに癇癪を爆発させた。眦(まなじり)吊り上げた三白眼で「おいコラ隠すと為になんねえぞコラ」と不穏に凄まれ凝視され、エレーンはたじろぎつつも己を指さす。「えー、なんかー、あたしのこと守ってくれるとかってえー」
「まもる?」
唖然とファレスが絶句した。何かが崩壊したかのように驚愕の顔で固まっている。我関せずのファレスの馬が勝手にパカパカ進んでいくのが硬直した主人の様と対照的で、そこはかとなく間抜けな感じだ。揺られるがままにその背で揺られ、ずり落ちそうに脱力しつつも、息も絶え絶えにようやく訊いた。「……お前、あの馬鹿に何をした」
げんなり苦悩の表情だ。なんでだ。エレーンはぱちくり見返した。「えー、何って別に」
「嘘をつけ」
ピリピリカリカリ、ファレスは一蹴。
「なんでてめえは次から次へと問題まき散らかして歩くんだっ!」
「だからー、あれはノッポ君が勝手にー。今、言ったでしょうが。あたしは頭拭いたげただけだもん」
「嘘だろ嘘だな! 何かやったに決まってる! とっとと素直に吐きやがれ! そうでもなけりゃ宣誓なんかする訳ゃねえだろ!」
「もーっ! なんであたしだと思うわけえ? なんにもしてないって言ってんでしょーが!」
むしろ、仕掛けてきたのは向こうなんですけどー、とは、殺気立った野良猫にはとてもではないが言えなかった。ふと、ゲルを立ち去るウォードの様子が言い合いの脳裏に蘇る。
四角く切り取られた戸口の向こうに、草原を歩くひょろ長い背が見えた。雨に濡れて冴えた緑と白いシャツのコントラストが眩しいほどに鮮やかだった。タオルを肩に引っ掛けたままの疲れたような後ろ姿──。
もしかして、と気がついた。彼がずぶ濡れだったのは、昨夜の雨に打たれたせいではないだろうか。しとしと雨が降る一晩中、この草原に立っていた。寝静まった暗闇の中に。朝靄立ち込める肌寒い明け方に。そして、ずっとゲルを眺めていた──。
「……まさか、ね」
そんなことはないだろう、と一笑に付して打ち消した。そんな馬鹿げたことをする理由がない。けれど、心の片隅では、彼が一晩中外にいたのであろう事を不思議なほどに確信していた。
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