CROSS ROAD ディール急襲 第2部 3章 13話5
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 あの日の失態を思い出し、ファレスは苦々しく舌打ちしていた。
 同衾した女の顔などファレスは碌に覚えていないが、さすがに、あれだけは覚えていた。無論、知っていれば誘わない。そうした類いを好む者もいるのだろうが、そうした趣味は生憎となかった。ファレスの場合、煩わしさが先に立った。そんなものに手を出した日には後々執拗に付き纏われた挙句、面倒事に巻き込まれること請け合いだからだ。寝床を共にした女と二度と会うつもりのないファレスには、一途な想いも鬱陶しいだけだ。
 あの時も結局、相場の金を押し付けて、ほうほうの態で逃げ戻った。まったく、あんな所で拾わずに、然るべき店に行けば良かったのだ。けれど、おどおどした弱気な仕草がどこか似て見えたから。清楚で愛らしいあの女に。毎日一人で草木を見ていた儚げに微笑うあの妾に。明るい雨上がりの草原では、馬群がのんびり休憩している。
 掴んだ腕を突き放し、ファレスは大きく溜息した。「──滅多なことを言うもんじゃねえよ。そもそも、てめえが孕む訳ねえだろ」
「う、嘘じゃないわ、本当よ!」
 むっ、とクリスは睨めつける。移動の休憩中に寛いでいたら、「ちょっと来い」と突然引っ張ってこられたのだ。
 休憩中の野戦服の群れから少し離れた大木の下だった。木陰に広がった群れはざわめき、誰も気にした風もない。放された馬達がのんびり草を食んでいた。雨上がりの風が清々しい。ファレスは舌打ちでジロリと睨んだ。
「あの時お前、おぼこ、、、だったじゃねえかよ。あれから半月も経ってねえだろ」
 クリスはたじろいだ様子で目を彷徨わせた。怪訝そうに眉をひそめて、そわそわ何事か考えている。すぐに思い切ったように顔を上げた。「そ、それが何だっていうのよ!」
 口を尖らせ対抗する。ファレスは半眼で腕を組んだ。
「懐妊の兆候てのは、そうすぐに現れるもんじゃねえ」
 げっ、とクリスの顔が引きつった。ぱっ、と他所に目を逸らす。
「……そ、そうなの?」
 顔には( やばい )と書いてある。ファレスはやれやれと嘆息した。
「すぐにバレる嘘をつくんじゃねえよ。いざ産み月となったら、どう捻出するつもりだった、居もしねえ腹のガキをよ」
 むっ、とクリスが顔を上げた。
「う、産めるわよっ。だって、赤ちゃんはコウノトリが運んでくるって母さんが──」
「あァ?」
 ファレスは胡乱に振り返る。途端クリスは、ビクリ、と怯み、おどおど上目使いで窺った。「……あ、だから、その、……コウノトリ、が」
「馬鹿かてめえは。んな訳ねえだろ」
 かったるそうにファレスは一蹴、舌打ちして「とにかく」と続けた。「さっさと行って訂正してこい。懐妊の話は冗談だってな」
「い、嫌よ」
 クリスは身を硬くして睨みつけ、じりじり後ずさって距離を取る。ファレスは顎を突き出して、その分ズカズカ追い詰める。「嫌だったって嘘だろうがよ」
「嫌ったら嫌! 絶対嫌よ!」
 首を振って怒鳴り返し、クリスは、ぷい、と横を向いた。細い眉をひそめて、ペンダントヘッドを指の先でいじっている。「でも、隊長さんは何も言わずに受け入れてくれたわ。あたしを傍に置いてくれたわ」
「てめえが大ぼら吹くからじゃねえかよ」
「違うわ! 隊長さんは優しいのよ。副長さんなんか、あたしと会ってもくれなかったくせに! あの人は優しいもの。副長さんと違って優しいもの。だから、このまま──」
「無駄だな。俺がバラす」
 クリスが絶句で振り向いた。ファレスは素気なく続ける。「懐妊騒動が嘘だとなれば、ケネルの庇護もそこまでだ」
「なんで、そんな意地悪すんのよ! お姉さんに言いつけてやるからっ!」
 ひくり、とファレスが片頬憎々しげに引きつらせた。"お姉さん"とは無論、件の客のことである。すぐさま眦(まなじり)吊り上げた。
「おう! 勝手に言えやコラ! あのじゃじゃ馬が何だってんだ!」
 クリスは口を尖らせ対抗したが、すぐに、ぷい、と背を向けた。地面にぼそりと吐き捨てる。「言いなりのくせに」
「あんだとコラ」
 すぐさま直ちに聞き咎め、ファレスは細い肩越しを胡乱に覗く。くるり、とクリスが振り向いた。
「関係ないでしょ、副長さんには。なのに、なんでそんなに邪魔すんのよ。──あ、わかった! あたしが隊長さんの所に行ったから面白くないんでしょー。だから焼きもちやいてるんでしょー最低っ!」
 ファレスはげんなり額を掴んだ。「……なんで女ってのは色恋の話ばっかしたがるんだ。いいか、耳の穴かっぽじいて、よく聞けよ」
 ギロリと顔を振り上げた。
「てめえがヤバいっつってんだよ!」
「なんだってのよそれがっ!」
 倍する音量で怒鳴り返し、クリスは抜かりなく身構える。
「あたしは絶対に言わないわ! 副長さんが言ったって、そんなの嘘だって、すぐに言って回るから!」
「死ぬ覚悟はあるか」
 クリスが言葉を呑み込んだ。ファレスはおもむろに顔を見据える。「だから、命までくれてやる覚悟がお前にあるかと訊いてんだ」
「──あ、あるわよっ!」
 一瞬怯んで怒鳴り返し、クリスは憤然とそっぽを向く。ファレスはやれやれと嘆息した。
「なんで群れに近付いた」
 警戒態勢は緩めることなく、クリスは斜めに向かいを見据え、相手の出方を窺っている。ゆっくりと用心深く応えた。「《 ロム 》は、お金を持っているもの」
 ファレスは苦々しげに吐き捨てる。「──金が全てじゃねえだろう」
「全てよ」
 言下に切り捨て、クリスは蔑むように一瞥した。目を細めて梢を仰ぐ。
「勇気を出して話しかけたら、、隊長さんはお金をくれたわ。あんなに沢山のお金、初めてだった。だから、町に行って服を買ったの。靴も買って、首飾りも買った。貰ったお金、全部使っちゃったわ。でも、いいの。だって、冴えない成りなんかしていたら、誰にも見向きもされないもの」
 ファレスは投げやりに嘆息する。「で、足りなくなって客引きかよ」
「悪い?」
 鋭くクリスは直視した。
「誰でも所詮はする事じゃない。それを売ってどこが悪いの? あたしは見返りを貰っただけだわ。なんで今更そんなこと言われなきゃなんないの。副長さんだって買ったじゃない」
 言い返しかけるも反論できず、ファレスは苦々しげに口をつぐむ。クリスは歌うように言葉を紡いだ。
「綺麗な指輪が欲しかったの。綺麗な服が着たかったの。だって、つましい暮らしなんかしていたら、いつまで経っても碌に物も買えやしないわ。あたしを認めて欲しかった。あたしを褒めて欲しかった。綺麗って言って欲しかった。あたしは、お金が要るの。こつこつ働いて貯めてからじゃ全然遅いわ。だって、こうしている間にも、どんどん年をとっていくもの」
 ファレスは舌打ちして嘆息した。「──お前は十分綺麗だよ」
 クリスは息を呑んで唇を噛み、そわそわと後ろ手にして、はにかんだように笑った。
「ありがと副長さん。口先だけでも嬉しいわ。でも、ハージを着ているあたしには、誰もまるで見向きもしないわ。隊長さんもそうだった。だから嫌なの。誰も知らない原っぱで、埋もれていくのは、あたしは嫌なの」
「俺んとこに来るか」
 足元の小石を蹴り飛ばしていたクリスが面食らったように見返した。話の飛躍に怯んだ様子だ。ファレスは嘆息しながら頭を掻いた。
「要するに、食えりゃいいって話だろうが。飢えない程度には養ってやる」
 クリスは怪訝そうに窺って、用心深く見つめている。抜け目なく、そして推し量るように。緩々首を横に振った。「……あたしは隊長さんと一緒にいるわ」
「奴は駄目だって言ってんだろうが!」
 ファレスが舌打ちで怒鳴りつける。
「嫌ったら嫌よ! 絶対に嫌!」
 クリスは激しく首を振った。荒い息を肩でついて睨みつける。細いその指はペンダントトップを握りしめている。
 無言の睨み合いが剣呑に続いた。引き下がる気配をどちらも見せない。梢を揺らして風が吹いた。寛いだ喧騒が満ちてくる。クリスが眉をひそめて、目を逸らした。「……隊長さんと一緒にいたいの。あの人はあたしの全てなの。だから」
「言っておくが、奴はお前なんか見ちゃいねえぞ」
 ファレスは容赦なく口を挟む。「奴が見ているのは、昔の女だ」
「だからなに」
「──なにって、お前よ」
 いささか面食らって向かいを見返す。クリスが強い視線で睨め付けた。
「他に女がいるから、だから何よ。そんなの、あたしには関係ない。だって、あたしは隊長さんが好きだわ!」
 ぷい、とクリスが踵を返した。のんびり歩く野戦服に、その華奢な背が紛れていく。ファレスは苦々しげに嘆息した。
「逃げられちまいましたね」
 眉をひそめてファレスは振り向く。背後の巨木の向こうから、誰かがぶらぶら現れた。長身痩躯、禿頭に黒のサングラス。革ジャンの懐を探りつつ、駆け去るクリスを眺めている。「珍しく面倒見がいいじゃないすか。忠告してやろうだなんて」
 苦笑いで煙草を取り出し、一本咥えて火を点ける。ファレスは苦虫噛み潰した顔で吐き捨てた。「忠告じゃねえよ、警告だ」
「……警告ねえ」
 隣の大木に寄りかかり、セレスタンはおかしそうに笑っている。どうも一部始終を見ていたらしい。ファレスも腕組みで寄りかかる。「いつから、いた」
 指先で紫煙をくゆらせて、セレスタンは、そうすねえ、と考えた。ちら、とファレスを一瞥する。
「"俺んとこに来るか"」
 口調を真似て眉をあげる。ギロリとファレスが睨め付けた。
「いい度胸だなコラ」
 ぱっ、とセレスタンは両手を上げた。悪びれもせずに肩をすくめる。「どういう風の吹き回しです? 今まで散々逃げてたくせに」
「──うっせーな。いいだろ、なんでも」
 ファレスは鬱陶しげに舌打ちし、向かいの胸ポケットから煙草の紙箱を引ったくった。一本取り出し、苦々しげに咥える。「あ」と手を出しかけて、セレスタンは溜息で諦めた。草原を眺め、くすり、と思い出したように苦笑いする。「しかし、"コウノトリ"とは恐れ入りましたね。いや、なんともメルヘンなことで」
 クスクス小さく笑っている。のんびり眺める視線の先は、憤然と駆け去る華奢な背中。ファレスが直ちに振り向いた。
「なんで、てめえが知ってんだよ」
「……え?」
 煙草を箱ごと没収されて、ついでにポカリとぶん殴られて、セレスタンはがっくりうなだれた。緩々禿頭を振っている。ファレスは腹立たしげに紫煙を吐いた。「だったら聞いたろ。あれの懐妊は嘘っぱちだ」
「……へえ」
 顔を上げかけて一瞬詰まり、セレスタンは小首を傾げてクリスを見た。「そうなんすか」
「そうなんすか、って」
 ファレスが胡散臭げに見返した。「たった今 "聞いてた"っつったばかりじゃねえかよ」
「" コウノトリ "のとこからです」
 ええ、俺はあくまでもそっからで、とセレスタンは真面目な顔で断固頷く。
「つまり、あらかた全部って話じゃねえかよ」
 " コウノトリ " の登場は、彼女との会話の初めの方だ。飄然とした禿頭の顔を、ファレスはジロジロ半ば脅しで睨めつける。「てめえ、何か他にもすっ惚けてんじゃねえだろうな」
「いえ、決して」
 セレスタンは即答した。最敬礼でもしそうな勢い。そのくせ、のらくら軽々しい。肚の中は真っ黒だが、隠す気さえもないらしい。そして、こうなると、どうあっても口を割らないのがこの男、いや、彼が所属するかの班の要員の常だった。それをファレスはよく知っている。故に、苦々しげに切り上げた。「──たく。特務ってのはこれだからよ」
 指示には表向き従うが、真に忠誠を誓う相手は一人直属の親方のみ、つまりはあの短髪の首長だ。セレスタンは肩をすくめてファレスの罵りをやり過し、草原のクリスに目を戻した。指先で紫煙を燻らせて、復唱するように口の中で呟く。「……懐妊は嘘、ね」
 ふと、気付いたように身じろいだ。隣のファレスにくるりと振り向き、「やっぱ乙女心って奴っすかね。ね、副長?」と気さくこの上なく笑いかける。憮然としたファレスには「知るか」と素気なくあしらわれたが。
 クリスはどこにも寄らずに、一心にまっすぐに駆けていた。行く手にいるのは件の客人、中央付近の木陰のシートで、のんびりジョエルらと休憩している。甘えて呼びかけたクリスに気づいて、彼女は伸び上がるようにして手を振って応えた。屈託のない満面の笑みだ。セレスタンは苦笑いして紫煙を吐いた。「元気っすねえ、姫さんは。つか、いつも元気いっぱいですけど。──しかし、女ってのは、柔そうに見えて案外逞しいもんすよね、領主は捕まったままだってのに」
「考えなしに浮かれていると思うかよ」
 セレスタンが面食らった顔で振り向いた。この毒舌家にして意外にも素気ない応答だった。この手の話題には、同調するなり便乗するなり輪をかけて辛辣な反応が返ってくるのが常なのだ。まじまじ顔を見ていると、ファレスは眉をひそめて紫煙を吐いた。
「確かにあれはド阿呆だ。馬鹿で間抜けで煩くて、姑息で意地っ張りで我がままで、泣き虫で甘ったれで、どうしようもねえじゃじゃ馬だ。何も満足に出来ねえくせに鼻っ柱ばっかり強くてよ、てめえの思った通りに生きていやがる。あの行き当たりばったりのデタラメさときたら、道理を弁えねえガキ並みだ。構ってやらなきゃ膨れやがるわ──」
「あ、いや副長」
 セレスタンは困惑したように引きつり笑った。「いや、俺は何もそこまで──」
「それでも」
 ファレスは鋭く言葉を遮る。
「てめえの不安を撒き散らかして他人の手を煩わせるほど、あの阿呆はガキじゃねえ。こんな、どっちつかずの瀬戸際だってんなら尚更だ」
 一服吐いて、目を眇めた。「にしても、いくらてめえが気に入らねえったって、やっちまうこたねえだろうがよ。せっかく買ってやったのに」
 愚痴で眺める視線の先は、件の生成りのワンピースだ。買い物こそハジがしたが、勘定については己の懐から出ている。もっとも、目立つ服にこそ気付いたものの、クリスが履いている真新しい靴や細々した装飾品等々までは、さすがに気が回らなかったようではあるが。
「姫さんられたら、どうします?」
 背に刃を押し当てられたような、ヒヤリと鋭い冷徹な瀬踏み。微かに笑いを含んだ声が不意にくっきり耳に届いて、ファレスは怪訝に振り返る。セレスタンは笑って手を上げた。
「愚問でした。しかし初めて見ました、、、、よ。副長が女に服を買ってやるなんざ」
「──あ?」
 ピクリとファレスは眉をひそめた。揶揄に紛れ込ませた挑発的な毒。流れ去る瑣末な談笑の中で、くっきり存在を主張する棘。目端の凝視に気付いた筈だが、セレスタンは素知らぬ振りで背を起こした。
「さてと、戻りますかね」
 晴れ渡った草原は、休憩のざわめきに包まれていた。似たり寄ったりの色彩が樹海の木陰を縁取っている。ざわざわと寛いだ安楽なざわめき。禿頭の首を大儀そうに回して、セレスタンは気負いなく踏み出していく。
 特徴的な禿頭の背が緩く喧騒を掻い潜り、ゆっくり、ぶらぶら歩いていく。それはやがて、同色のざわめきに紛れて消えた。
 
 
 
 
 

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