CROSS ROAD ディール急襲 第2部 3章 13話6
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「うわ、可愛い小犬ぅ!」
 くんくん鼻を鳴らして寄ってきたふかふかの小さな毛皮を、エレーンは満面の笑みで抱き上げた。たどたどしい動きの小さな獣。何やらとても人懐こい。「──こんな所に犬ぅ?」とクリスが怪訝そうに腕を覗き、げ、と片頬引きつらせて瞠目した。
「ばかっ! 狼よ!」
 毛皮の首を引っ掴み、ぽい、と草むらに投げ捨てた。エレーンはぽかんと軌跡を目で追う。その腕を力任せに引っ張った。「なにしてんの! 逃げるのよ!」
「な、なんで?」
「決まってんでしょう! あれの親が近くにいたら──」
 ガサ、と藪が唐突に揺れた。黒い鼻面が、ぬっと覗く。爛々と輝く金の双眸。
「──でたっ!」
 諸手を上げて、樹海に逃げた。灰褐色の狼だ。裂けた口端ふるふる引き上げ、牙を剥いて唸っている。仔に危害を加えたと思ったらしい。転げそうにわさわさ走って、木立の中を全力で逃げる。
 しばらく走って足を止め、恐る恐る振り向くと、そこには何もいなかった。尖った顔を突き出しただけで、幸い追っては来なかったようだ。クリスは、ほっ、と胸を撫で下ろし、屈んだ膝に脱力したように手を置いた。
「たくぅ! なんでそんなに呑気なわけ?」
 ぜえぜえ息を切らしている。エレーンもぜえぜえ屈み込み、唾を飲み込んで礼を言う。「あ、ありがと、助かったわ」
 クリスが真っ赤になって直立した。どぎまぎたじろぎ、ぷい、と慌ててそっぽを向く。「だって! あんなもん平気で拾うんだもん!」
 そわそわ見回し、怒った顔であたふた言う。爪先をもじもじ動かして、決して目を合わせない。こうして礼を言われることに、どうやら慣れていないらしい。額の汗を腕で拭き、エレーンは改めて笑いかけた。「ありがとう」
「……ど、ど、どういたしまして」
 ようやくのことでそれだけ返し、クリスは真っ赤になって踵を返した。先に立ち、すたすた早足で歩き出す。
 休憩中の樹海の中は、穏やかに静まり返っている。くすくす笑いながらついて行くと、未だ照れを引きずるクリスが、顎を突き上げ、殊更に何食わぬ顔で口を開いた。「ず、随分いいもん食べてんのね。朝っぱらからあんなにたくさん、あたし、びっくりしちゃったわ」
「え? 出されたものを食べてるだけだけど」
 エレーンはぱちくり瞬いて、日々供されるキャンプでの食事内容を思い出す。"いいもん"と言われるほど豪勢な食卓を囲った記憶はないけれど──。ふと気付いて訊いてみた。「もしかして、キャンプの他の人達は別のメニューだったとか?」
「……あのねえ、あったり前でしょー?」
 つくづく呆れたという顔で、クリスが腰に手を当てた。「あんな宴会毎日やったら、三日と食料がもたないわよ」
 そういやキャンプで世話になる都度、ファレスが必ず座長を訪ねて何かを手渡しているような。さては、あれは金品だったのか。毎食豊富な食材で、食べきれないほど皿が並ぶが、よもや、そんなカラクリがあったとは──。
 わっ! とクリスが唐突に叫んで、慌てて背中に回り込んだ。ぴた、と背中に張り付いている。エレーンは面食らって足を止め、クリスが盗み見ている獣道の前方を見た。
 風道の方から、男がぶらぶら歩いてきていた。頭の高い位置で茶髪を括った端整な顔立ち、いつぞやファレスを森の中に連れ込んだあの若い優男だ。男はあからさまに舌打ちし、ジロリとクリスに目を向けた。目障りだ、というように。クリスは飛び上がって背から逃げ、道端の巨木に飛んでいく。呆気に取られて眺める前で、そそくさ裏に隠れてしまった。男は構う事なく歩を進め、目の前までやってきた。隠れたクリスをかったるそうに見やり、その振り向き様、ぶっきらぼうに目を向けた。「蛇は大丈夫すか」
「……いきなり、なんの嫌がらせ?」
 上背のある不遜な優男に対抗し、エレーンは、むぅ、と口の先を尖らせる。事もあろうに蛇とはなんだ。男はまるで動じない。
「なら、鳥なら大丈夫ですかね」
「だから、大丈夫ってなにが?」
 まあ、鳥は嫌いじゃないけどさー、とぶちぶち言いつつ顔を仰ぐ。男はたるそうに身じろいで、空の彼方に口笛を吹いた。誰かと喧嘩でもしたのだろうか。ファレスを連れ込んだあの時既に、顔に傷テープが貼られていたが、更に青あざが増えている。「そんなことより、あんた誰よー」の質問に応え、やる気なさげに名乗ったところによれば、男はミック・ランバー二十二歳。趣味は──
 視界を過ぎった気配に振り向き、ぎょっとエレーンは硬直した。青空の彼方から、黒い鳥が飛んでくる。いや、一直線に突っ込んでくる。
「──又、からすっ!?」
 頭を抱えてしゃがみ込んだ。町で体中に集られて、踏まれて引っ掛かれて揉みくちゃにされたばかりなのだ。もっとも当の鳥どもは、須らくちゃっかり寛いでいたが。すぐに、頭上でばさばさ羽ばたき。
「いや、こいつは青鳥です」
 恐る恐る顔を上げると、ミックが左手に黒い鳥を留まらせていた。指先で鳥の首をあやすように撫でている。「似たようなものだが、鴉とは違う。こいつらの方が数段賢い」
 あの店の二階で見たものより、鳥は随分と小さかった。雀より少し大きいくらいだ。とはいえ、見てくれはあの鳥どもと同じだから、同種の子供版であるらしい。エレーンはしゃがみ込んだまま、ぽかん、と仰いだ。
「ひょっとして、あんたも"鳥師"とかってヤツ?」
 ミックは面食らったように絶句した。しげしげと顔を見る。「──よく知ってますね、そんな呼び名を」
「あ、ルクイーゼに行った時、ハジさんのお店に行って」
 その名を聞いただけで「──ああ」と納得したような顔をする。「いや、俺はもう、そっちの方は本業じゃないんで」
「でも、呼んだら鳥が飛んできたけど?」
 ミックは空を仰いで後ろ頭を掻いた。
「こいつはまあ、趣味みたいなもんですね。それに、こいつはまだ幼鳥でしてね、大陸を横断するほどの体力はない」
 ミックは何やら「本当は蛇の方が、断然攻撃力があるんすけどね……」などと一人ごち、指に留まらせた青鳥に何事か言い含めている。「行きな、ルー」とその手をすくい上げるようにして鳥を放った。
 ルーと呼ばれた青鳥は、羽をばたつかせて飛んできた。頭の上に髪を掻き乱してばさばさ留まり、とっさに首をすくめた顔横を降りて、右の肩に慌しく陣取る。か細い足をよいしょと踏み替え居場所を決めた小鳥を見やり、呆気に取られて向かいを見た。
「……なに、この子は」
 重くはないが、もぞもぞ動く。ミックはどことなく不貞腐った態度で、ぶっきらぼうに返事をした。「そっちに何かあれば、こいつが鳴いて知らせてくれる。俺が近くにいますから」
 つまり、護衛につく、ということらしい。エレーンは怪訝に向かいを見た。
「なんで、あんたなわけ?」
 もっと強そうな人が大勢いるのに、この人選は腑に落ちない。護衛というには見るからにひょろっとした優男だし、同行者の中でも特に弱っちそうな部類だし。野良猫なんかも細っこい体格をしているが、あれは眼光鋭く柄悪く、うっかり睨みつけられた日には、得も言われぬ迫力がある。一見、旅芸人のようなミックに比べ、歩く動作一つ取っても足早で無駄なく硬質な、、、感じだ。しげしげ顔を眺めていると、ミックは素気なく応えた。
「指示なんで」
 青鳥ルーは小首を傾げて顔を覗き、ピーチクパーチク言っている。嘴で軽く頬を突付き、小さな羽をばたつかせ、注意を引こうと懸命だ。嫌々来たような向かいとは、対照的に大喜びな感じ。何かお喋りをしているようだが、当然の事ながら、皆目さっぱり分からない。
 たるそうな感じで片足に重心を預けたミックが、へえ、と瞬いて見返した。先日の"鳥師"諸氏のように絶句の顔で凝視している。硬直したまま幾度か瞬きを繰り返し、あんぐり開けた口を閉じる。ふと目が合うと、肩をすくめて踵を返した。「あんたとは相性が良さそうだ」
 じゃ、そういうことで、と片手を上げて去っていく。ミック・ランバー二十二歳。趣味は、獣と戯れること。
「……行った?」
 隠れていた巨木の裏から、クリスがひょっこり顔を出した。肩に留まった青鳥に気づいて、ぱちくり瞬き、指を差す。「なにこれ」
「あたしの護衛、みたいな?」
「……ふーん」
 怪訝そうにまじまじ見、立ち去るミックを、こちらを盾にしておどおど眺めた。荒っぽい感じの他の者とは違い女の子受けしそうな優男なのに、クリスは彼が苦手らしい。ジロリとかったるそうに睨まれただけで、すくみ上がって逃げ出したくらいだ。そういえば、あのミックの方も、クリスと仲良く喋っているところは見た事がない。他の者は親しげに歓談してるのに。皆とはしゃぐクリスの姿を、冷ややかに白けた顔で眺めていたな、と何とはなしに思い出す。
 ミックはぶらぶら草原方向に歩いていく。びくびくそれを窺っていたクリスは、戻って来ないのを確認し、ほっと胸を撫で下ろした。ミックとは逆方向に早足でツケツケ歩き出す。前後に振れる彼女の両手が、ぎゅっと拳に握られているから、ずっと緊張していたらしい。慌ててクリスについて行きつつ、エレーンはそっと訊いてみた。「もしかして、知り合い?」
 クリスはぶんぶん首を振った。
「《 バード 》は嫌い」
 前を睨み据えて、きっぱり言い切る。唇をきつく引き結んでいた。全てを拒絶するような表情に、理由を訊くのも憚られ、ツケツケ進むクリスの後を気後れしつつもついて行く。今の言い方は、ミック個人が、というよりも、《 バード 》全般を嫌っているように受け取れた。そして、ミックもその一人だと。そういえば以前、クリスは興行の一座にいた筈だ。今は遊牧民のキャンプにいるから、嫌な目に遭って辞めたのだろうか。ともあれ、ミックは広い意味で元の仲間ということか。
 青鳥ルーは肩に大人しく留まっている。風道の先の樹海には、休憩中の野戦服が木立の中にちらほら見えた。休憩の度に森への立ち入りを禁じてしまうと、さすがに支障が出るようで、立ち入り可能区域を男女で分けることになったのだ。風道を境に左が男、右が女。木立の先の同行者達は、体をほぐしているようだった。腕を引っ張って伸ばしたり、体を左右に捻ったり、太い枝で懸垂したり──。どん、と何かにぶつかった。
「わ! ごめんっ!」
 エレーンはとっさに謝った。よそ見をして歩いていたから、急に立ち止まったクリスにぶつかってしまったらしい。たたらを踏んで止まったクリスは、俯いたまま顔を上げない。どうかしたのだろうか。エレーンは慌ててその背に駆け寄る。顔を覗き込んで瞠目した。クリスが辛そうに顔を歪めて、唇を強く噛んでいる。頬に零れた涙の雫。泣いている?
「──ごめんっ! そんなに痛かった?」
 ぐい、とクリスは濡れた目元を腕でぬぐった。困惑してエレーンは見つめる。クリスは唇を噛んで堪えている。震える唇をようやく開いた。「……違うの。さっき、副長さん、が」
 声を震わせ、小さくしゃくりあげている。
「なに? あいつ、あんたに何かしたの?」
「……隊長さんは駄目だ、って、……あたし、言われて」
 そういや、さっき、ファレスがクリスを呼びに来た。細い背中をさすりつつ、エレーンは親身に先を促す。「駄目ってなに? どういうこと?」
 聞けば、ファレスがクリスを追い払おうとしたというのだ。どうも、ケネルの傍にいるのが気に食わないらしい。それできつい事を散々言われ、参ってしまったようなのだ。そういやさっきも、泣きそうな顔で逃げ戻ってきた、と思い出す。野良猫が居るであろう草原方向を、エレーンはむっと睨みつけ、俯いて突っ立ったままの細い背を労わるようにさすってやる。
「もー、あいつってばー! すーぐそうやって弱い者苛めをするんだからー! 大丈夫よクリス。後であたしがとっちめてやるから」
「──お姉さんっ!」
 泣きべその口をへの字にひん曲げ、クリスがしがみ付いてきた。両手でがむしゃらに縋っている。いとけない小さな子供のように。必死な姿に胸が急にいっぱいになり、よしよし、と撫でてやる。「大丈夫よクリス、大丈夫。あたしはあんたの味方だからね」
 クリスはシッカとしがみ付き、顔をぐりぐり擦り付けてくる。ふと不思議に思った。そういえば、何故なのだろう。ケネルのそういう話になると、皆が揃って反対するのは。
 クリスは一頻りめそめそ泣くと、ようやく顔をのろのろ上げた。細い指で涙を拭って、照れ臭そうに、えへへ、と笑う。
「あたし、お姉さんに会えて良かったあ」
 無警戒な人懐こい笑顔。エレーンの頬も自然と緩む。
「もー! 可愛いこと言ってくれちゃうんだからー、この子はー!」
 嬉しい気持ちがこみ上げて、頭をぐりぐり撫でてやった。「ほらあ、可愛い顔が台無しよー? こんなにバッチリ決めたのに」
 皺の寄ったクリスの服を、ぱたぱた軽く叩いてやる。この子は可愛い。本当に。クリスはそわそわ新調した衣装を振り返った。「こ、これ、本当に変じゃない?」
「ちーっとも。よく似合ってるわよ。てか、あたしのセンスを疑う気ぃ?」
 クリスは慌てて瞠目し、ぶんぶん首を横に振った。はにかんだように唇を噛む。「隊長さんも、似合う、って言ってくれるかな……」
「大丈夫だって。あたしが保証するってば」
 クリスが細い眉をふとひそめた。不安で堪らない、というように俯いてしまう。
「でも、──どうしよう。隊長さんも駄目って言ったら。副長さんみたいに帰れって言ったら、そうしたら、あたし、もう、どこにも行くとこなんか──」
「……大丈夫。大丈夫よ」
 細い両腕をしっかり掴んで、エレーンはクリスを励ました。その内心で、意地悪吊り目の心ない仕打ちに憮然とする。妊婦を疎んじるなんて以ての外だ。只でさえしんどい時期なのに。しょげたクリスを何とかして励ましたかった。気づいた時には、胸を叩いて請け負っていた。
「大丈夫! あたし、あんたのこと応援するから!」
「……お姉さん」
 クリスが顔を凝視した。大きな瞳をきらきらさせて、感極まったように薄い唇を噛みしめる。はっ、と顔を強張らせた。何かに唐突に気付いた様子で、途端にそわそわし始める。思い切ったように振り向いた。「あ、あのっ! あたし、隊長さんに見せてくる!」
「え、今?」
 エレーンはいささか面食らった。たった今、こちらに出て来たばかりだ。クリスはおどおど目を逸らした。「……う、うん。早い方がいいの」
「じゃ、一緒に戻ろうか」
「お姉さんはここにいてっ!」
 クリスが慌てて言い返した。呆気に取られて見返すと、はっ、と我に返って、どぎまぎしたように目を逸らす。「あ、だって、あの、……本当は違うの。忘れ物なの。だから、その、すぐに戻ってくると思うし、だから、あの……」
 奥歯に物が挟まったような物言いだ。しどもど言い換える強張った顔。一緒にいられるとやり難いのだろうか。存分に甘えることができなくて。エレーンは苦笑いで手を振った。「わかった。じゃ、あたしはこの辺、そろそろ散歩してるから」
「う、うん」
 クリスはそそくさ頷いて、今来た道を早足で戻り始めた。エレーンは突っ立ったまま、後ろ姿を見送る。何をそんなに急いでいるやら──。クリスが不意に足を止めた。踵を返し、あたふた慌てて戻ってくる。両手を広げて抱きついた。
「なに? どしたの」
 飛び込んできたクリスを受けとめ、エレーンはぱちくり瞬いた。子供が母親に甘えるように、クリスは頭を擦り付けている。しがみ付いた後ろ頭から声がした。「……とらないでね」
「え?」
 クリスがのろのろ顔を上げた。
「隊長さんのこと、とらないでね」
 小首を傾げた不安そうな確認。懇願が胸に突き刺さり、エレーンは唇を噛みしめた。出来る限りの笑顔を作る。
「ば、ばっかねえ。なに変なこと言ってんのよ。ありえないでしょ、そんなことは。あたしには、ダドって人がいるんだもん」
「……そっか。そうよね。旦那さんがいるもんね」
 クリスは肩口にうつ伏せて、顔を押し付け、ぐりぐり拭く。えへへ、と照れ笑いで顔を上げた。
「ありがと、お姉さん。あたし、すぐに戻るから」
 邪気なく笑う。気を許しきった曇りない笑顔で。あたかも世界で只一人の味方のように。
 軽い足取りで踵を返し、クリスは腕を振って駆けていく。見る間にどんどん遠ざかった。すぐに、木立に掻き消える。
「……なくなっちゃった」
 これで全部。
 エレーンは空を仰いで溜息をついた。もう何も残っていない。ダドリーも、ケネルも、楽しげな未来も。梢の先の突き抜けるような青い空。閑散と空虚な夏の空。
 ──ケネルはクリスを娶るだろうか。
 そうだろうと思えた。ケネルは妻帯しないような事を言っていたが、あの露骨な保護振りは尋常ではない。皆もあんなにまでしてケネルの子供を切望している。でも、それでいいのだろうか。クリスは本当にケネルのことが好きなのだ。彼らの打算や思惑とは無関係に純粋に。そこには、ひどい乖離がある。
 苦い違和感が広がった。それでは極端な話、ケネルの血筋さえ確保出来れば、相手の人格などはなんでも良いという事になってしまう。言葉は悪いが、母親の代えは幾らでも利くということだ。そういうのは野蛮だと思う。それでは血統を重視する畜産の繁殖と変わりない。人はそれぞれ個性と能力を発揮して、個々の出自に関わりなく人生を自由に切り開いていくもの、そうした小市民的な常識を有する自分には、人を優良種確保の為の道具として見るような露骨な考え方は馴染まない。そんな風に手に入れたもので彼女が幸せなのかどうかも釈然としない。だが、物差しは人それぞれに異なるものだ。そもそも彼らの問題に、外野の自分は立ち入れない。再三ケネルにも言われたことだ。
『 あんたには関係ない 』
 そうか、と今更ながら実感した。彼らのやり方は自分とは違う。彼らの常識は自分とは違う。彼らは別の常識で囲われた別の世界に住んでいて、これからもそこに住み続けるのだ。先例に倣おうとする彼らの未来を、外野の自分が邪魔してはいけない。ケネルにはケネルの人生があるのだ。そもそも歩いている道が違うのだ。ほんの一時交わった道が、再び分岐に差しかかっている。これからは、自分の足で立たねばならない。その時が来たんだ──。
 ケネルの気配が急速に消え失せ、真っ暗な奈落に突き落とされた気がした。ケネルが背を向け、自分の前から去って行く──いや、違う。他人が他人に戻った、、、だけだ。弱虫なこの自分を、自分はもう葬らねばならない。爪先から気力が抜けて行き、よろめく足を踏み締める。
 息が詰まった。呼吸が上手く吸い込めない。汗がだらだら噴き出して、掻き毟るように胸を押さえる。エレーンはがくりと膝を付いた。苦痛から逃れようと無意識に仰いだ視界には、さわさわ揺れる穏やかな木梢。何が起きたか分からずに、浅い呼吸で必死に喘いだ。いつもの穏やかな上空が、徐々に白く霞んでいく。
 輪郭の滲んだ緑梢の樹海が一瞬にして消し飛んだ。視界一面、発光したように真っ白だ。その眩い背景に、とある光景が浮かび上がった。照り付ける真夏の日差し。誰かが天を仰いで、ゆっくりと登っていく。一段一段、苔むした石の階段を。
 すぐにも取り止めて欲しいのに、そっちに行って欲しくないのに、彼は行ってしまうのだ。一段一段、あたかも天に向かうように。頂上に近付く彼の背を、真夏の日差しが包み込む──。
 視界が真っ白に焼ききれた。朦朧とした意識の中で、喘ぐように名を呼んだ。
「……ダド、リー」
 涙が頬を伝い落ちた。訳が分からず動転し、体がガタガタ震え出す。
『 あの領主ひとたぶん、あっちで死ぬよー? 』
 唐突に声が蘇った。いつかの晩に野営地で聞いた、射竦めるようなウォードの声。
『 要塞の階段、、を登りつめた所で、矢で胸を射抜かれて、、、、、、、、、さ 』 
 それ、もう見えてる、、、、からさ。
 漠然と浮いていた断片が、するり、とひずみなく結び付いた。何度も立ち現れる階段の夢、訃報を受け取る今朝方の夢。予言めいたウォードの言葉。エレーンは愕然と目を見開く。
「……そう、か」
 分かってしまった。ずっと見続けていたあの夢の正体が。
 確かに、たかが夢だった。どんなに辛くても、どんなに怖くても、実際には起こっていない、一時だけの幻だ。けれど、どうしようもなく分かってしまった。ダドリーはトラビアで、
" 死んでしまうのだ " ということが。
「……ケネル、どこ」
 見開いた眼(まなこ)から涙が零れた。唇がわなわな震え出す。地面に手を付き、のろのろと立ち上がる。
 エレーンは一心に歩き出した。両手で交互に顔をぬぐい、親とはぐれた迷子のようにケネルの気配を追い求める。道も何も関係なかった。立ちふさがる木立や草を遮二無二両手で掻き分けて、泣きじゃくりながらひたすら歩く。広大な樹海の微かな気配を無我夢中でたぐり寄せ、のめり、転び、体をぶつけ、けれど、そんなことは構わなかった。ぬかるみに嵌ってブーツは汚れ、スカートの膝に蜘蛛の巣がついても、まるで気付きもしなかった。目はただ前方を、ケネルの気配だけを見据えていた。
 やがて、鬱蒼とした緑の先に、人の頭が垣間見えた。視界が開け、一際明るい。風道に出たらしい。男が二人、倒木に腰かけ、のんびり気の抜けた様子で喫煙している。話を聞いているらしい右の横顔に息を飲んだ。
「──ケネル」
 胸がいっぱいになって足を止めた。その顔だけを凝視して、震える足を夢中で踏み出す。ケネルは全く気付かない。喉が詰まって呼びかけることさえままならず、がむしゃらに手を突き伸ばす。
『 そっか。そうよね。旦那さんがいるもんね 』
 足が止まった。のろのろ手を引っ込める。
 ──ケネルには、頼れない。
 たった今、そう決めたばかりではないか。
 ぽたぽた涙が伝い落ちた。立ち尽くしたまま足が一歩も進めない。近寄れなかった、どうしても。
 エレーンは唇を噛んで踵を返した。肩を落として、とぼとぼ歩く。頭の中が朦朧としていた。もう何も考えられない。何も目に入らない。自分がどこに向かっているのか、これから何をどうしたらいいのか──。
 どこをどう歩いたか、ふと、エレーンは足を止めた。視界の片隅、遠い木陰で、何かが蠢いた気がしたのだ。疲れ果てた心を引きずり、視線をぼんやりそちらに向ける。
「……ファレス」
 藪の向こうにファレスがいた。向かいに、あのワタリがいる。ファレスは厳しい顔つきで話を聞いているようだ。例の内緒話の最中らしい。
 無我夢中で踏み出した。普段ならば近寄りもしないが、今だけは別だった。喘ぎながら、がむしゃらに歩く。邪魔をしたら怒るだろうが、すぐにもファレスに飛びつきたい。
 エレーンは眉をひそめて足を止めた。いや、進めないのだ。何かに押し戻されている。一歩下がって苛々見ると、蔦が藪に絡みつき、壁のように分厚くなってしまっていた。これでは向こうに直進できない。一刻も早く行きたいというのに。すぐに迂回し、左に踏み出す。
「──やはり落ちますかね、ノースカレリアは」
 苦々しげな声がした。馴染み深い地名だった。エレーンは怪訝に足を止める。
「十中八九そうなるだろうな。あの街は何せ無防備すぎる。といって、今更北に取って返せば、ゴチャゴチャやってる最中に突っ込んじまうことになる。となりゃ、市民を盾にした軍服と、今度はやり合うことになる」
「危なかったですね。あのまま北に居残っていたら、姫さんもろとも巻き込まれていたところでしたよ。しかしまさか、ディールが反撃してこようとは。どこに残兵がいたんだか」
「図らずも最も安全な場所は、ケネル指示するところの商都カレリア、か」
 エレーンは愕然と立ち尽くした。
 ──ノースカレリアが、襲撃された?
 膨張した意識の隅で、経過した日数を素早く数える。出立してから一体幾日経っている? ケネル達がいない今、街を守る者はない。街に侵攻した兵達は、真っ先に領邸に向かうだろう。だが、領主も伴侶もそこにはいない。となれば、手ぶらで戻れぬ兵達は、引っ立てるべきクレストの代表を他に求めに行くだろう。暗い獄に繋がれたやつれた義兄の姿が頭を掠めた。
( ……あたしの、せい、だ )
 自分は一体何をした? 啖呵を切って戦端を開いた。ケネルらの力を頼んで交戦した。なのに、頼みの綱の傭兵を、あの街から取り上げてしまった。盾になる唯一の、、、戦力を。
 戦慄が走った。頬がわなわな震え出す。火の海と化したあの街が、逃げ惑う市民の姿が、棒立ちになった頭を占める。あの街を攻撃するのに、兵達は容赦しないだろう。先の戦いで、彼らの同胞を殺めている。仲間を失った怒りと悲しみ。その矛先が向かう先は、今更考えるまでもない。あの街は恨みを買っている、、、、、、、、。原因を作ったのは、この自分、、だ。
 血の気が引いた。心臓はどくどく激しく打ち鳴り、蒼白になってがたがた震える。知らず我が身を掻き抱いた。
「……どう、しよう」
 腕組みで話を聞いていたファレスが、ふと、身じろいで振り向いた。視線がかち合い、その目が驚いたように見開かれる。裏切られたような気がした。ファレスは知っていたくせに。あんなにも毎日傍にいて、なのに一言も教えてくれなかった。ノースカレリアの現状を。
 一瞬、ファレスは狼狽したように目を逸らした。唇を舐め、何事か口を開きかける。エレーンは堪らず踵を返して、森の奥へと駆け出していた。
 
 
 
 
 

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