【ディール急襲】 第2部3章 13話 【不協和音】7

CROSS ROAD ディール急襲 第2部 3章 13話 7
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 草原方向に向かったクリスは途中で密かに折り返し、森の深部に向かっていた。鬱蒼と生い茂る樹海の中、息を切らしてひた走る。あの男を捜していた。早く見つけて撤回しないと大変な事になってしまう。依頼をしてしまったからだ。彼女を群れから摘み出し、どこか遠くへ追いやって欲しいと。胸で握った拳の中には、肌身離さずつけている銀のハートのネックレス。初めてできた友からの、大切な大切な宝物だ。
「──どこにいるのかしら、あいつ」
 クリスは苛々爪を噛んだ。仲間に姿を見咎められる事なく彼女を待ち伏せできる場所、彼女の行動範囲から離れ過ぎず、待機する群れから近過ぎず──風道の左は《 ロム 》が大勢立ち入っているから、草原から少し奥まった風道の右側、彼女の進行方向のこの付近だろうと思われた。だが、見当をつけて出向いたものの、木立はひっそり静まり返り、誰の姿もそこにはない。向こうがこちらを見つければ、いぶかしんで声をかけてくる筈だ。到着していないのだろうか。それとも、群れの誰かに見つかったか。そういえば、こちら側にも《 ロム 》がいる。《 バード 》からの転身らしい、鳥を使うあの男。先程の獣使いの冷ややかな顔つきを思い出し、クリスは唇を噛んで顔を歪める。
 《 遊民 》の女児が大抵そうであるように、かつてはクリスも巡業興行に加わっていた。一座に女性はクリス一人、同年代の男児が三人、後の十数人は全て一端の成人芸能者、いわゆる《 バード 》と呼ばれる男達だった。そもそも《 遊民 》の血を引く子孫には、女性の誕生自体が極めて少ない。
 クリスの日課は、稽古が終わったと見た途端、すぐさま逃げることだった。そして、皆が確かに寝静まるまで息を殺して隠れていた。初めて興行に加わった日に、とんでもない目に遭わされたからだ。一日の終わりの薄暗い天幕、歓迎会と称して呼びつけた男が、いきなりクリスを向かいの股間に突き飛ばしたのだ。狂乱の宴は長らく続き、彼らが酔い潰れて眠った後に、クリスは朝まで泣き明かした。彼らは強かに飲んでいた。薄暗い天幕は酒気と獣臭、麻薬の煙で淀んでいた。稽古後の秘事を知り、一座の男児はクリスを疎み、蔑んだ。同年代の少年達はクリスを仲間になど入れなかった。むしろ、逃げるクリスを捕えては我先にと突き出して、ご機嫌伺いに躍起になった。
 只でさえ疲弊している旅芸人にとって、子供は愛護すべき対象などではない。半人前の無駄飯食い、足手纏いの同僚だ。その存在は興行パートナーの獣以下と認識された。神を呪い、世界を罵り、道に唾を吐きかけて、彼らは常に荒んでいた。出口のない人生に誰もが疲れ、倦んでいた。そうした鬱憤の捌け口は、いきおい非力な子供に向かった。事ある毎に罵り、蹴りつけ、稽古と称して甚振った。だが、子らの母親は同行せず、座長は面倒事には介入しない。そして、それらは一族を束ねる族長ら上位の者には悟られぬよう、全て水面下で行なわれた。
 一座を追い出されれば行き場のない子供らは、耐え忍ぶより方法はなかった。大人に媚びる少年達も、他人ばかりの一座の中で立ち位置を死守するだけで精一杯で、他を顧みる余裕などなかったのだ。まして助け合う仲間もいない女児ともなれば、そうした事情は苛酷を極めた。日々逃げ回ったその挙句、クリスの足はいつしか誰より速くなった。
 そうしたある日、クリスはついに脱走し、遊牧民の群れに保護された。だが、獣使いのあの男はすぐに過去に気付いたろう。大半が巡業に出る同胞の女が、世捨て人の吹き溜まり、遊牧民のキャンプに混じっているというのだから。
 女を置かぬ《 ロム 》の群れでは、物珍しさも相まってクリスを鷹揚に扱った。格下の旅芸人の内部事情になど、彼らには端から関心がない。だが、少年時代に理不尽な憂き目に一通り耐え、一端になったあの男は違う。《 バード 》の女がどれほどのものかを身を以て正確に知っている。試練から逃げ出した落伍者を乾いた気持ちで見下している。かつての姿を知るだけに、そうした腐った落ち零れがさも一端のように振る舞うのが、上役や同輩に親しげに構われるのが、あの獣使いには目障りなのだ。
 深い森で、高い梢がさわさわ鳴った。バリーはまだ現れない。クリスは後ろ手にして、足元に積もった枯葉を蹴り、手持ち無沙汰にぼんやり歩く。
『 俺んとこに来るか 』
 言葉が不意に蘇り、クリスは赤面して唇を噛んだ。真っ向から見つめる端整な面持ち。気遣うような真摯な眼差し。確かに初めは彼を追い、《 ロム 》の馬群を追いかけた。初めての相手だったから。彼は事を終えると、金を握らせ、足早にその場を立ち去った。もう興味はないのだと、それははっきり分かっていた。それでもクリスは切に願った。彼にもう一度会いたいと。あんなにも優しく慈しむ手を、それまで知らなかったから。けれど、相手は格上の《 ロム 》で、自分は《 バード 》の落ち零れ、高嶺の花というものだった。
 ところが、あの夜、奇跡が起きた。あろうことか彼から訪ねてくれたのだ。顔色を窺う周囲の態度で《 ロム 》の中でも大物なのだと、その時になってようやく気付いた。実際、彼は部隊を仕切る副長だった。そんな組織の要人が自分を囲ってくれるというのだ。
 願ってもない話だった。彼の庇護がありさえすれば、誰も手出しをできなくなる。追っ手に見つかり連れ戻される心配もなくなる。むしろ、散々虐げた一座の者は媚びへつらってくるだろう。それこそ日々夢見た願望だった。そうなれば、怯える事なく暮らせる日々が手に入る。しかも、端整な実力者の庇護の元で。以前の自分であったなら、一も二もなく飛びついたろう。あの彼と出会う前ならば。
 あの日、森で《 ロム 》を見た。数人で連れ立つ《 ロム 》の姿は常々遠くから見かけていたから、その雰囲気ですぐに分かった。《 ロム 》は気の荒い集団だが、《 バード 》や《 マヌーシュ 》などとは比べ物にならぬほど、いや隣国の正規兵などより余程金持ちだと知っていた。傭兵稼業で身を立てる彼らは、モンデスワールを盟主とする都市同盟と契約している。そして、都市同盟の防衛は、今や彼らなくして立ち行かない。休戦中であろうとも、前線付近の町々は常に用心棒を必要とする。《 ロム 》は町からの条件を吟味して、高値の報酬を示した順に、要員を町に割り振れば良いのだ。内戦の続く国の中では、技術も実績もある傭兵はいつでもどこでも引く手数多だ。
 風道には男が三人倒れていて、若い《 ロム 》が彼らの衣服を検めていた。クリスは彼が怖かった。彼らはつまるところ人殺しの集団だ。けれど、小遣いが欲しかった。
 勇気を出して話しかけた。初めての客引きで、へっぴり腰で声が震えた。それでも彼は、みすぼらしい様を笑ったり蔑んだりはしなかった。そつなく断られ、いたたまれずに逃げ出したのを気遣って、幾ばくかの金まで手渡した。勇名を馳せる戦神ケネル、けれど、物騒な評判にも拘らず、意外にもきさくで優しかった。
 それは初めての恋だった。ゲルで意図せず再会し、どれほど驚き、嬉しかったか。ゲルの中には連れがいて、追い返されるかと思ったが、彼は変わらず優しかった。夜更けというのに嫌な顔一つせず、笑って話を聞いてくれた。
『 あいつは多分、町に出たと思うんだが 』
 そう副長の行方を教えてくれた。夜風の肌寒さにそっと身をすくませながら。あの手をどうしても放したくない。唇を噛み、仰向いて、クリスは緑梢の先を眺めた。
「……だって、あの人だけだったもの。優しくしてくれたのは」
 副長からの提案は分不相応の幸運だ。彼を追うため誘いを蹴るなど身の程をわきまえぬ高望み。けれど、どん底に落ちた者だって、一つくらいは望んでもいい。真にどうしても欲しいものを。
 世界は静かで穏やかだった。逃げ回った日々からはまるで想像もつかぬ程に。夢想だにしなかった雲の上の存在に、今、この手が届きかけている。一生一度の奇跡的な機会だ。彼はきっと追い出したりしない。きっと自分を庇護してくれる。ずっと傍にいてくれる。あの懐に抱かれてずっと──
 カサ、と微かな音がした。枝を踏む靴音。獣ではない。
 物思いを中断し、クリスは慌てて振り向いた。果たして木立に人影があった。樹幹にもたれ、小首を傾げて眺めている。文句を言いかけた口をつぐんで、クリスはとっさに目を逸らした。バリーでは、ない。
 それは思わぬ相手だった。積もった枯葉を踏み締めて、男は悠然と歩み寄る。顎をしゃくって問い質した。「何をしているんだ。こんな所で」
「──あ、あの、あたしは別に」
 後ろ暗さを取り繕い、クリスは作り笑いで振り返る。刹那、鋭く息を呑んだ。



 話を聞かれてしまった事に、ファレスはすぐに気が付いた。わななく唇。立ち尽くした蒼白な顔。エレーンは慌てて踵を返し、森の奥へと駆けて行く。
 後を追おうと踏み出して、ファレスは眉をひそめて足元を見た。蔓が絡まって層になり、広く障害を成している。だが、算段している間にも、黒髪は奥へ奥へと駆けて行く。やむなく右に迂回して、少し遅れて向かいに出た。
「おい、待て!──待てってんだよ、こら!」
 黒髪の背は止まらない。舌打ちで足を踏み出して、とっさにファレスは飛び退いた。視界を過ぎった銀の軌道。
 今正に飛び退いた場所で、屈んだ男が軽い舌打ちで背を起こした。忌々しげに目を眇め、ナイフを振って口端で笑う。「へえ、綺麗な顔した兄ちゃんだな。あいつら、こんなお姫様、、、にやられたのかよ」
 前方の右に二人、左に三人が並び立った。どれも初顔。何れの顔にも哀れみ混じりの苦笑いがある。事情を知った物言いからして、先日の賊の助っ人らしい。ファレスは苦々しく睨み据え、はっ、と気付いて左を見た。
 案の定、黒髪が怯えて逃げていた。柄の悪そうな大男が口元を冷笑に歪めて追い立てている。鋭い鳥声が唐突に上がった。見れば、黒髪の肩に鳥がいる。小型の鳥、青鳥のようだ。鳥は異様に興奮し、バサバサ羽ばたいては鳴き散らし、忙しなく危機を訴えている。ファレスは賊を見据えて備えつつ、肩越しの藪に声をかけた。「──おい、ワタリ! ここを頼む!」
「無駄だよ」
 左の賊がからかうように遮った。「あっちもあっちで大童だろうからなァ」
「──ああ?」
 ファレスは不機嫌に睨みつけ、向こうの物音に耳を澄ました。ふと眉をひそめる。野草を踏み荒らして駆ける音。男の罵声と剣戟の音。向こうも襲撃に遭っているらしい。素早く視線を巡らせば、木立に蠢く幾つもの影。既に七人がこの場にいるから、敵は少なくとも十数人。薄笑いを浮かべた五人の賊は、値踏みをするように眺めやり、じりじり円陣を狭めてくる。
「逃げようったって、そうはいかねえ。お姫様一人じゃ心細いだろうが、精々泣いて喚くんだな。皆てめえらで撒いた種だ。──さてと、そろそろ覚悟しな。かたきはきっちり取らせてもらうぜ」
 にじり寄る無造作な足取り。気負いや用心はまるでない。勝利を確信しているらしい。
「やっちまえ!」
 円陣が一斉に地を蹴った。
 ファレスは四方からの切っ先を避け、腹を蹴り飛ばして応戦し、護身刀を引き抜いた。腹を押さえてうずくまる賊、殴られ大木に叩きつけられた賊、狐につままれたように、賊らは呆然と見交わしている。予期せぬ手酷い反撃に遭い、怯んだ様子だ。ファレスは端から冷ややかに眺めた。いっそ仕留められれば排除も早いが、今は殺生厳禁だ。戦時下でもないこんな樹海で死体が大量に見つかれば、一大騒動に発展する。牽制する目の端で、左の危なっかしい動きを見咎めた。黒髪の足がよろめいて、後ずさった拍子に尻もちをついた。のろのろ起き上がりはしたものの、擦りむいた腕を痛そうにさすって、へたり込んだまま顔をしかめている。手足を投げ出した無防備な体勢。
「走れ! 何してんだ!」
 ファレスはやきもき怒鳴りつけた。痛みに不慣れな堅気のこと、刃が少しでも皮膚を裂けば、たちまち動けなくなるだろう。自分に宛がわれた華奢な獲物を殊更に甚振ろうとでもいうように、動きの鈍そうな大男は笑って得物を弄び、座り込んだ的に近付いていく。一撃で仕留めようというのだろう、殊更にゆっくり、大きく白刃を振り被った。ふと、黒髪が顔を上げる。得物が重く振り抜かれる。ファレスは息を呑んで瞠目した。
「──よけろ!」
 硬い高音が轟いた。止めの刃を打ち払い、藪から影が踊り出る。油断していた大男は返す刀で斬り返されて、太い腕を振り上げたまま野草の中に沈み込んだ。傍ら、男が身を起こす。
 逆手に握った袖口が返り血を浴びて濡れている。靴先で突付いて相手の様子を見ているのは、見慣れた革の野戦服だった。茶髪を一つに括った若い男、例の《 バード 》上がりの新入りだ。起き上がる気配の全くない賊の様子を確認すると、茶髪は軽く嘆息し、足元の野草に背を屈めた。黒髪の腕を取り、無造作に体を引っ張り上げる。腕を回して背をかばい、周囲を見回し引っ立てるようにして歩き出した。早々に離脱しようというのだろう。ようやくファレスは息をつく。だが、それで終わった訳ではなかった。
 新手がバラバラ殺到した。仲間がやられたと見て取るや、二人の周囲を鼻息荒く取り囲む。ファレスは苛立って舌打ちした。軽業で鍛えた《 バード 》上がりは如何にも身軽で器用だが、あれは訓練不足の新入りだ。一度に複数では荷が重い。さっきは的に気取られた大男が油断したから上手くもいったが、奇襲はもう通用しない。
 この場を手早く片付けて、救出を急ぐ必要があった。だが、致命傷を負わせることはできない為に、一度は沈めた相手でも時間を置くと復帰する。この五人を下しても、控えが後ろに幾らでもいる。
 怯んで動きを止めていた五人が、刀柄に唾つけ斬りかかった。慢心していた今しがたとは一転、殺気立った憤怒の形相。勇み立った大振りをさばいて、ファレスは素早く指を咥える。
 鋭い指笛が轟いた。広く鳴り渡る緊急警報。
 ──敵襲。多数。排除せよ。
 ざわり、と森が動きを止める。刹那、大きくどよめいた。賊らは怪訝そうに顔を上げ、気味悪そうに見回している。地鳴りにも似た唐突な地響き。幾十もの編み上げ靴が、急ぎ地面を蹴る音だ。
 《 ロム 》は合図を受け取った。左手では相変わらず、新入りが一人奮戦している。新入りの背にかばわれながら、彼女は蒼白な顔で立ち尽くしていた。荒っぽい乱闘を目の当たりにして、すっかり怯えてしまっている。あの場を上手く切り抜けても、あれではまともに動けない。となれば、餌食になるのは時間の問題──。ファレスは目の前の五人に目を戻した。早くしないと、向こうがもたない。樹海に散った同胞が発信源を特定し、到着するには、まだ間がある。
 四方からの攻撃を片っ端から払い除けた。斬り、蹴り、殴る。だが、きりがない。退けても退けても木立の先から補充が乱入、むしろ敵の数が膨れ上がる。悲鳴が喧騒を貫いた。女の悲鳴──。
 素早く左を一瞥すれば、新入りが背を丸めてうずくまっていた。首をうなだれ、肩を震わせたまま動かない。腕か何かを斬られたらしい。その背に黒髪が取り付いて、おろおろ覗き込んでいる。いや、他人を構っている場合じゃない。
 ──盾が、ない。
 彼女を守る盾がない。しかも丸腰、身を守る武器の一つも持っていない。
 孤立無援で座り込んだ黒髪を、ファレスは愕然と凝視した。あれは何もできない素人なのだ。身の処し方さえ碌に知らない。どうすればいいのか、どこへ逃げれば助かるのか。新入りの得物を取り上げれば、とりあえずの武器は入手できるが、恐らく気付きもしないだろう。だが、手引きしている暇はない。ファレスは顔を振り上げた。
「もたもたすんな! 走れ! 逃げろ!」
 新入りの背に取り付いたまま、黒髪は全く動かない。あの負けん気の強いじゃじゃ馬が何も言い返してはこなかった。こちらに助けを求めもしない。即ち、まるで聞こえていないのだ。相手の姿は見えるのだ、聞こえていて然るべき距離だ。既に頭の中が真っ白なのか、恐怖で我を失ったか。二人を取り巻く包囲が狭まる。苛立ち紛れに踏み出した刹那、視界を遮る新たな影。
「──邪魔だ! どけ!」
 ファレスは苛立って怒鳴りつけた。斬っても斬っても際限がない。しかも、先日の賊より腕が立つ。賊は格段に場慣れしていた。向こうが気になり気ばかり揉めるが、一歩も先に進めない。取り囲む顔をギリギリ睨み、ファレスは奥歯を噛みしめる。
 視界の端で、黒髪が動いた。ようやく新入りの背を離れ、あたふた慌てて逃げていく。悲鳴のように甲高く鳴いて、肩の鳥がバサバサ飛び立つ。舞い上がった青鳥はくず折れた茶髪に降下した。うつ伏せた頬を気遣わしげに突付いている。主人の様子が気になるらしい。陰惨な"狩り"はそこから左手に移動している。
 逃げ惑う黒髪の背を、二人の賊が追い立てていた。笑いながら、甚振りながら。どちらも面白半分だ。彼女は振り向き振り向き、必死の形相で逃げている。案外足が速いのが救いだ。もっとも、懸命に逃げてはいるが、あれでは何れ追いつかれる。
 突き出た刃を打ち払い、最後の賊を蹴り飛ばし、ファレスは慌てて保護に向かう。危うい追いかけっこの最後尾、後ろの賊を引き剥がすべく、片手をその背に突き伸ばす。横から新手が現れた。無傷の三人。
 動けない。
「おい! 誰かいねえか!」
 ファレスは焦れた。深い森のあちこちで罵り合いが始まっていた。打ち鳴らされる剣戟の響き。罵声、咆哮、怒鳴り声。草木を散らして駆ける音。報復に出向いた総数は十や二十ではないようだ。返り討ちに遭い業を煮やして、大挙して報復に来たらしい。その喧騒も未だ遠い。皆、進路を阻む手近な敵と当たっている。これでは、いつ到着するものやら分からない。飛びかかる賊を蹴り飛ばし、ファレスは舌打ちで黒髪を捜す。
 ガサリ、と藪が唐突に鳴った。黒髪が向かう右手の藪だ。素早く何かが飛び出した。見慣れた革の野戦服。
 ──味方。
 賊の追撃をかわしつつ、ファレスはほっと安堵した。又とない戦力だ。足の速さも然ることながら、一人で複数を相手にし、捻じ伏せられるだけの実力もある。機敏な痩身。色素の薄い肩までの茶髪。
「おう! そいつを頼む!」
 逸早く現れたのはザイだった。ザイは一瞥、動きを止める。だが、それは一瞬の事で、すぐさま足を踏み出した。後ろの賊から振り向いた彼女が、途端びくりと足を止めた。急遽左折し、あたふた慌てて逃げて行く。
「──何故、急に向きを変える!」
 ファレスは愕然と瞠目した。黒髪はひどく慌てた様子で東へ東へ走って行く。追い縋る賊にザイが取り付き、ザイは難なく二人を仕留め、危なかしい対象を保護すべく後を追って走り出す。行く手に別の賊が立ちふさがった。
 ファレスは二人を斬り伏せて、やや遅れて確保に向かう。木立の遠くにちらつく黒髪。賊の排除に手間取った為、距離が大分離れている。ザイが追跡しているが、追い縋る賊を引き剥がしつつ進む為、中々その背に追いつけない。二人を視野に入れながら、前集団をファレスも追う。今の場面が頭を過ぎった。何故ああも逃げ回る。自分の味方のザイを見て尚──
ザイを、、、、見て? )
 ザイが躊躇したのは遠目でも分かった。判断の早いあの男なら、只の一目で見て取った筈だ。一刻の猶予もない事は。彼女は東へ逃げている。切羽詰った有様で。
「──東?」
 はっ、とファレスは瞠目した。何故、彼女の行く手からは賊が来ない。何故、進路を妨げる妨害がない。潜伏場所がない、、からだ。レグルス大陸は南北に長い。この近辺は樹海が浅い。大陸の東は、
 ──断崖だ。
「待て! だめだ! そっちは──!」
 制止と共に地を蹴った。
 道の先は切り立った断崖、下は一面険しい岩礁、崖から水面までかなりの高さ。万一落ちれば、命は
 ──ない。
「よせ! 行くな! 引き返せ!」
 ファレスは声を嗄らして呼びかけた。今や森には剣呑な喧騒が充満していた。敵対する幾十もの兵員が、いや、事によると百をも越える兵力が互いを潰すべく闘う音だ。制止の声が掻き消され、動転した背は止まらない。樹梢が途切れた。広大な青空が不意に飛び込む。
 大陸の端だ。
 青く輝く大海が見えた。青と黒との鮮やかな対照。海と陸との厳然たる境だ。のどかに続いた樹海の景色が唐突に分断されている。ザイもそれに気付いたらしく、賊を仕留めて振り向いた背を、ギクリ、と一瞬強張らせた。追跡の足を一段と速める。だが、動転した彼女は気付いていない。大陸の終点が近い事に。
 全力疾走のザイを抜き去り、一瞬で黒髪の背に追いついた。大陸の端が迫っている。ぐんぐん迫る彼女の黒髪。もう少し──。
 あの襟首に手さえ届けば!
 いっぱいに広げた指の先、突き伸ばした片手の先で、ふっ、と的が掻き消えた。短い悲鳴が空に呑まれる。
 ──落ちた。
 頭が素早く可能性を弾く。飛べば、岩礁に激突する。そんな事は馬鹿でも分かる。ファレスは躊躇しなかった。切り立った崖を踏み切った。
 彼女は空中で反転し、背中から落ちていた。長いスカートを翻し、仰向けに手足を投げ出している。かくなる上は入水時の衝撃を極力減らし、海面に対して垂直に突っ込む他はない。
「来い!」
 宙に浮いた細い手首を、ファレスは手荒く引っ掴む。キィン、と高音が耳元で鳴った。遠くから来た突風が真横を通過したように。
 どくん、と何かが息づいた。仰向いた黒髪の驚いた顔の左の肩に、ちろり、と揺らぎが翻る。宙を舐める炎のようなそれは瞬く間に膨張し、ぐん、と腕を駆け上った。掴んだ片手を遡り、光の奔流が押し寄せる。
 凄まじい閃光が迸った。圧倒的な萌黄の光輝。ぐっ、と圧が全身にかかった。俄かにやんわり押し戻される。落下速度が減速した──?
 はっ、とファレスは我に返った。向かいの体をたぐり寄せ、力尽くで引っ抱える。不穏な轟音が耳に届いて、ふと視線を巡らせた。
( ──馬鹿な )
 海面が一面沸き立っていた。高波が叫び、断崖に砕け、怒濤が荒れ狂い、逆巻いている。海上が荒れていた。海が鳴動している。
 ──時化しけ
 ファレスは愕然と息を呑んだ。ほんのつい今しがたまで、遠く潮騒を奏でていた筈だ。風雨の気配もないというのに。
 大海が、水平線からせり上がる。至るところで、海が触手を伸ばしていた。待ち焦がれた己の獲物を絡め取ろうというように。
 彼女の頭を片手で掴んで、ファレスは懐に押さえこむ。
「──ようし、大丈夫だ。少しだけ息を止めていろ」
 逆まく波頭。禍々しい波。はたして命があるかどうか──。
 荒ぶ海面がぐんぐん迫る。
「突っこむぞ」
 着水まで、あと、わずか。
 抱き込む腕に力がこもる。選択肢は、ない。
 重い落下音がとどろいた。もえぎの閃光が海面をはしり、ひろく四方に拡散した。
 
 
 

*2010.08.08 第2部 3章 完結
 
 
 
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