CROSS ROAD ディール急襲 第2部 4章 4話1
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 店内は賑わい、繁盛しているようだった。通常ならば、通りが見渡せる窓側の席は、客に人気があるものだが、ここではさっぱり人けがない。むしろ、窓辺から遠い奥の方の暗がりが遥かに賑わっているようだ。たむろしているのは外套姿の男女である。
 カフェ 《 道化の息ぬき 》 は、貴族達に雇用される使用人の溜まり場である。夜には酒場として営業しているこの店で、貴族の街屋敷に勤める彼ら使用人は、仕事が休憩になった折、主人の使いで外出した折、或いは山積する仕事の合間に抜け出して、他家の同業者と交流を図り、互いの近況を語り合い、愚痴をこぼして憂さを晴らし、情報交換に日々勤しむ。そして、職を、恋を手に入れる。
 木漏れ日降りふる麗らかな午後、彼らは暇を持て余していた。社交シーズンのこの季節は、例年であれば、多忙を極めていて然るべき時期ではあるが、今年はシーズンも半ばというのに、ぱったりと手が空いてしまったのだった。というのも、各々仕えるご主人様が今年は何故か大挙して、所領のある自邸へと早々に引っ込んでしまったからだ。主人がいなければ手間もなく、そうとなればパーティーもない。彼らに残された仕事といえば、広い屋敷を滞りなく管理することくらいのもの。
 これはかつてない変事だった。それで、一体何がどうなっているのだ、とそれぞれが怪訝に情報を持ち寄り、他家の様子を探りに来たという次第。もっとも、何も知らされていない彼らでは、いくつ頭数を揃えたところで、理由は皆目わからなかったが。
「たく、くそジジイが偉そうによお。あんまりむかついたから給仕の時に、落とした肉をジジイの前に置いてやったが、あいつ、まるで気付きもしねえで旨そうに食ってやんの」
 一しきり飛び交った当て推量も一段落し、やがては主人の悪口になり、噂話へと移行するのは、ここでの彼らの常だった。立食形式の丸テーブルで珈琲を啜っていたとある屋敷の従僕が「ああ、そういや」と手にしたカップを突き出した。
「あれは気の毒だったよなあ。この前の夜会に来ていた──ほら、なんてったっけ、今年デビューした例のご令嬢。自邸むこうの連中に聞いたんだが、なんでも一時は手首を切るの切らないのって大変な騒ぎだったらしいぜ」
「まあ、物心つく前から結婚相手と聞かされた相手に振られりゃなあ」
 頬杖で聞いていた別の屋敷の門衛も、珈琲を啜って、したり顔で頷く。「そいつをいきなり反古にするってんだから、都会帰りってのはドライっつうか無慈悲っつうかよ」
 ラッセル伯の妹マルグリッドの話である。これも無論、親同士が決めた政略結婚ではあるのだが、そうした点で、単なるそれとはいささか事情が異なった。幼いマルグリッドは未来の夫を隣に並べて幾度となく思い描き、来るべき新生活への夢と希望と愛情とを密かに育んでいたのだった。ところが、片やダドリーの方は、古い慣習など気にも留めずに、彼女との約束を反故にして別の女を連れ戻った。この突然の婚約破棄が、従順に待っていた少女の心にどれほどの波紋を引き起こしたか、想像するに難くない。ちなみに、当時独身だったダドリーがサビーネを妾として迎えたのは、その身分も然ることながら、既に婚約していた事情による。
 従僕の隣に座った白い髭の園丁が渋い顔で首を振った。「いや、そんくらいなら、まだいいだろうさ。若い娘なら玉の輿に乗るチャンスはまだ幾らでもあるからな。ハーマン卿の未亡人なんか見てみろよ。首尾良く領家に潜り込んで待望の息子を産んだってのに、旦那の急逝でご破算だ」
 両手を広げて天を仰ぐ。この"ハーマン卿"というのは、二年前に急逝したチェスター候の兄である。
「──再婚しようにも三十過ぎじゃな」
 別声の揶揄が割り込んだ。後ろの丸テーブルにいた同胞だ。令嬢は通常、社交界デビューから二、三年もすると、いき遅れとみなされる。自由に振る舞う庶民の感覚とは大きく異なり、貴族の令嬢には一にも二にも跡継ぎをもうける使命がある為、デビューは可能な限り早い十六、七歳、よって二十歳の分岐点を超えてしまうと令嬢の運命は急降下、良縁を掴むのは難しいという、いささかシビアな現実がある。苦笑いの声は続けた。「実家を頼ろうにも、うちの子爵様は金欠だからな〜。節約しろだの無駄にするなだの、もう日頃から細かいのなんのってよ〜」
 彼は未亡人の実家であるアクトン子爵家の使用人なのだった。彼はやれやれと首を振る。「いいよなあ、お前の所は。寛大で優しい旦那様でよ」
 向かいに戻した視線の先には、チェスター家の使用人。彼ら使用人の間では、チェスター家は人気の高い職場だった。夫人はパーティー好きでいささか口煩いのが難点だが、主は寛容で、屋敷内はまずまずアットホームな雰囲気だ。無論、高慢な主にありがちな虐待などは皆無である。又、羽振りの良いチェスター家は他家と比べて待遇が良いので、群を抜いて評判が良かった。宗家が例の奥方を迎えるまでは。
 クレスト領家が行なった使用人に対する一大刷新は、このところの大きな話題となっていた。かの奥方様が嫁す際に、商都の人気デザイナーを拝み倒して作らせたとかいう制服は、他家の使用人のそれを遥かに凌駕する見栄えの良さで、それはそれは目を引いた。そして、一気に垢抜けたクレスト領家のメイドらの株も、それに伴い急上昇。彼女らは今や、男性使用人の密かな羨望の的だった。見栄えの良い侍女などは、この店にいる誰れもが一度は、こっそり口説いてみたほどだ。
「例のお転婆はどうしたかなあ」
 先の戦で遊民を率いて戦った一大変革の功労者のことだ。以来、ここにいる彼らに限らず、何かと注目の御仁である。
「なんでも、ずっと寝込んだままとか。女だてらに張り切りすぎて、さすがに疲れちまったんじゃねえの」
「いや、遊民の一人と駆け落ちしたって、どこかで聞いたぞ」
「はっはあ、なるほどなあ。領家の争いにいきなり傭兵なんかが出てくるから、どうもおかしいと思ったんだ。やっぱり、ありゃ色仕掛けで──」
 下世話に笑う彼らは知らない。後ろの間仕切りの植物の陰で、テーブルを囲む女達が不穏に睨んでいる事に。
 眦(まなじり)吊り上げた彼女らは何れも、クレスト領家に仕えるメイドである。屋敷の当主は視察で不在、奥様も突如"旅に出て"しまい、こちらも体を持て余し、こうしてお茶をしに来ていたのだった。一人が忌々しげに吐き捨てた。「なによ。なんにも知らないくせに!」
 不穏な殺気をみなぎらせ、モダンでハイソな三人のメイドは、ずずずっ、とストローでグラスを啜る。ちなみにメニューはぷくぷく泡の立つ緑のソーダ。
 使用人が主をかばうというのは、ここでは珍しいことだった。だが、この彼女らとて初めから味方だった訳では無論ない。新しい女主が最新の制服をばら撒いたが、それで歓心を買えるほど単純な作りである筈もない。むしろ、浮ついた庶民出の奥方を( 都会の奴はこれだから )と内心冷ややかに蔑んでさえいた。
 クレスト領家の使用人の、特に同性のメイドらの冷ややかな目に変化が生じたのは、先の戦が終わった後、彼女が本来の仕事に目を向けるようになってからのことである。女主の仕事──つまり、使用人の仕事の監督だ。彼女らが一番に指摘されたのは「目線」だった。
「ねえ、なんで、いつも目を逸らすの」
 不愉快そうに突然問われて、メイド達は戸惑った。だが、主に口答えは厳禁である。
「なに。後ろ暗いことでもしてるわけ? すっごい感じ悪いんだけど〜」
 追求されて、メイドらは肘を突付き合い、やむなく、おずおずと説明した。この屋敷のしきたりを。使用人は主の目に触れてはならない。素手でお体に触れてはならない。主と口をきいてはならない。主と目を合わせてはならない。不幸にしてそれを知らなかった新人が即日解雇された例さえ、他家にはあるのだ。女主はげんなりした顔で聞いていたが、説明を終えると、呆れたように腕を組んだ。
「ばっかじゃない。──あんた達ねえ──仕事でそこにいるんでしょうが。なにも壁の方向いて直立しなくたって会釈して通り過ぎりゃ済むことでしょ。きちんと仕事をしてるなら、顔を上げて堂々としなさい。しゃんと胸を張りなさい。もう、そんな卑屈なことでどうすんのよ。自分で選んだ仕事でしょー。志願者いっぱい蹴落として、あんたが採用されたんでしょ。自分に誇りを持ちなさい」
 本当に腹立たしげにそう言った。家政婦が驚いて飛んで来て、「奥様!」とたしなめた。この家政婦というのは、女性使用人を取り仕切る最上級の使用人のことである。その上、彼女は貴族の遠縁に当たる良家の出である為に、前の女主にも対等に意見を述べるなど、家内に対して大きな権限を持っていた。だが、新しい女主は、しきたりだの慣習だのを持ち出してガミガミ意見を始める家政婦に、鬱陶しげに目を向けて、
「くっだらない! 働くって事がどういうことか、根本から分かってないわよ。い〜い? 仕事っていうのはねえ、時間と労力を提供して、代わりに給金を受け取ることよ。その上、媚びへつらう必要がどこにあんのよ」
 中々に気が強いのであった。
 合理的な奥方様と、気位の高い古風な家政婦──火と水ほども異なる両者が、このあと喧々轟々の言い合いを始めたのは、最早言うまでもあるまい。
 屋敷の女達のトップを仕切るこの両者は、たいそう仲が悪かった。古くから屋敷に仕える家政婦は、前のしとやかな女主を引き合いに出しては庶民出のじゃじゃ馬を牽制し、いかにして己が手の内に押さえ込んでやろうかと古株の使用人と策謀を巡らせ、女主は女主で、旧体制に固執する頭の固い家政婦を何とかやり込めてやろうと都会の理屈で奮闘する。あっちでパチパチ、こっちでパチパチ、事ある毎に衝突し、積りに積もった不穏な火種がいつか大爆発を起こすのは、火を見るより明らかだった。
 発端は、手すりを磨いていたメイドの風邪に、女主が気付いたことだった。その晩、女主は何の気まぐれか見舞いに現れ、メイドらは慌てて畏まった。戸口に立った女主は、使用人の大部屋を見渡すなり、呆気にとられたように絶句した。
「──窓の一つもない、こんな薄暗くて湿った場所で、ずっと寝泊りしてたっていうの?」
 そして、信じらんない、と低く呟いたと思ったら、鋭く廊下を指差した。
「全員、客間に移りなさい。今すぐよ!」
 騒ぎを聞きつけ、家政婦が驚いて飛んできた。近くのメイドから事情を聞き、慌てて女主に意見する。「──奥様、客間を使うなど!」
「部屋は十分にある筈よ」
「そういうことではございません! 客室を使用人が使うなど許される事ではありません!」
「そんなこと誰が決めたのよ」
 溜息で、女主は振り向いた。
「あんた馬鹿? なんでわかんないの? 働く人は体が資本よ。きちんと食べて、きちんと眠って、初めてまともに働けるのよ。食事と睡眠が不足すれば、人は誰でも判断が鈍るわ。──見なさい。この精気のない顔を。劣悪な環境で寝泊りさせて、体を壊したらどうするの!」
 そして、不服げな家政婦を睨み据えた。「これは本来、あなたが進言すべき事でしょう。こんなに酷い環境なのに、なんで放置しておくの」
「当家の使用人の環境は、他家には決して劣りません。前の奥様からも、特別なご指示は何も──」
「悪いけどあたしは、なんにも知らないお嬢様とは違うわ。見くびらないで欲しいわね。あたしはこの仕事、素人じゃないのよ。誰がどれだけ働いているか、誰がどれだけ手を抜いているか、一目見れば、大体わかる。もちろん、あなたも、、、、例外じゃないわ」
 女使用人の上に長年君臨していた家政婦は、古株のメイドらを引き連れて、翌日、早々に辞職した。若い女主と意見が合わない、というのが彼女らの表向きの理由である。だが、甘く見ていた女主人に手抜きを見破られたと思ったか、長年の怠慢を暴露され、皆の前で咎を問われるその前に、と思ったか、密かにとっていた袖の下がバレたことを悟ったか、同僚のメイドを勝手に自分用の小間使いにし、左団扇で指図していた事がバレちまったことを悟ったか──いずれにせよ一団は、荷物をまとめて夜逃げするように消えたので、その辺りの実情は定かではない。
 一方、家政婦を始めとする古株使用人を一挙に追い出した当人は、まるで気にしていなかった。むしろ「支障なんか出ないわよー。どうせ碌に働いてないしー」などと、あくびでのたまい、「うちを辞めたって、どこでも働けるって。"領家で働いてた"って看板があるもん」などと、のほほん、とした顔で言うのだった。
 チョロそうな見かけにかかわらず、世の仕組みというものを、よーく分かっている御仁なのであった。確かに彼女は商売の盛んな商都カレリアの出身で、本人も実家の商売に携わった経験があるらしかったが、それにしても、相手を脅しにかかるその手口たるや良家の子女というよりはむしろ、帳場に座った大番頭だのやり手婆だのを連想させる。ともあれ、若いメイドらにしてみれば、この一件で一気に風通しが良くなったことだけは確かだった。そして事実、古株どもが抜けた職場には、大した混乱も起きなかったのであった。女主の言った通りに。
 しかし無論、客室を使用人が占拠するなど言語道断、本末転倒もいいところである。
 翌日、この大移動が発覚し、女主は爺(じい)と呼ばれる家令から、こってり説教を食らったのだった。すると、どうやら爺が苦手であるらしき女主は、ぶつぶつ不貞腐りつつ、とある場所へと赴いた。
 母屋から東に位置する第二政務棟だった。この建物は部屋数が多く、確かに寮にするにはうってつけ。目をつけられた官吏らはしかし、意外にも快く立ち退き要請に応じたのだった。何故に、と訝る使用人一同。後日、仲間が彼らの一人に尋ねたところ、意外な理由が判明した。彼らは先の戦で、彼女に思わぬことを命じられたと言うのだ。戦禍の最中、政務棟に飛び込んできた女主曰く、
「あんた達は隠れてなさい。いいって言うまで、絶対外に出てくんじゃないわよ。あんた達の力がなければ街を再建できないわ!」
 この何の気なしの一言が、これまで貴族の命じるがまま手足として使われるばかりだった官吏らの矜持を大いにくすぐったのであろう事は想像するに難くない。更に、立ち退きの交渉に際しては、彼女はすまなそうに謝ったのだという。
「あなた達には悪いと思う。でも、急ぐの。皆が寝起きしている屋敷の地下は、暗くて窓がなくて風通しが悪くて、あんなジメジメした物置にいたら、絶対病気になっちゃうわ。でも、新しく建てるには時間がかかるし、客室を早く空けろって爺の奴がうるさいし──。母屋に近くて、地下の代わりになるような広さがあるとこ探してみたけど、やっぱり、どうしても、ここしかないの。政務棟は他にもあるし、建物の替えはすぐに探す。もちろん、ただでとは言わないわ。引越しするのは重労働だもの。なんなりと言ってちょうだい」
 官吏らは苦笑いで顔を見合わせ、立ち退き条件をおもむろに出した。
「それなら、ワイン二樽で」
「──ありがと。恩にきるわ」
 その後、彼らは昼夜ぶっ通しで作業に当たり、なんと、たったの二日で館内の荷物を引き払う、という専門の業者も顔負けの恐るべき荒業を総出でやってのけたのだった。
 そうした女主をメイドらが支持するのはしかし、威張り散すばかりの嫌みな家政婦らを追い出してくれたからという訳でも、生活環境が劇的に改善されたからという訳でもない。きっかけは日常的とさえ言っていい、実に些細な出来事だった。
 ある日、又もどこかへ姿を消した奥方様を捜していると、意外な所で見つけたのだった。ドアを極々細く空け、息をつめて覗いたその先、それは風邪をこじらせた例のメイドの部屋だった。
 女主は寝付いた病人に話しかけ、一心不乱に看病していた。「どうせ芝居だろう」と言う者もいた。病人が目覚めているのを知っていて気を引こうとしているのだと。彼女が全快した暁には、仲間内に触れ回る、それを見越しているのだと。だが、膝を抱えて座り込んだ姿と心細げな表情は、こっそり覗き見していたメイドらの穿った推測を鈍らせた。
 そうこうする内、メイドの一人が、ふと、とある噂を思い出した。あの女主はかつての職場のラトキエ領家で、仕事で世話した年下の娘を病気で失ったばかりだと。細く開けた扉の向こうから、祈るような涙声が切れ切れに漏れてくる。
「……大丈夫、ずっと、あんたの傍にいるわ」
 ──あたし達は家族よ。
 これは彼女の口癖だった。彼女はその後も事ある毎にそう言った。ちなみに、高熱でのぼせて目を回していた風邪っぴきの当のメイドは、奥様が近くにいたことにさえ全く気付いていなかった。由々しき事実に、メイドらは顔を見合わせた。あれを芝居とするならば、昏々と眠っているのを知りながら、一人延々演技を続けたことになる。
 追い出した家政婦の代わりに、女主自身が采配を揮った。偏った仕事量を割り振ることで、或いは外注に出すことで、各自の負担が激減した。就業時間がきちんと決められ、自由に使える時間ができた。週に一日、完全な休みをもらえるようになった。お屋敷勤めの奉公人など、普通は無休に近いのに。メイド達の労わりに対して、彼女は「ありがとう」と必ず言った。
 幹部が突然粛清された当初、メイド一同は震え上がった。次は自分の番ではないか、と。だが、しばらくは顔色を窺っていた彼女らも、すぐにそれに気が付いた。新しい女主は、家政婦に任せきりだった前の奥様とは全く違う。もしも懸命に働くならば、すぐに気付いて褒めてくれる。実に適切な指摘の仕方で。だが、その反対に甘く見ると──
「ねー。あの棚の上の、あたしが持ってきた飾り皿。なんでか後ろの方に置いてあるけど、まさか継ぎ目があったりしないわよね〜?」
 こっそり隠しておいた粗相を指摘し、たちまち脅しをかけてくる。実に侮れぬ御仁でもあるのだった。なにせ元同業者である。使用人の実態と手口を知るだけに、要所をよく心得ている。だが、そうした反面、実に頑張り甲斐があるのだった。着付けや髪結いを担当する侍女達は、己のセンスに磨きをかけた。部屋や調度品を美しく保つハウスメイドはあらゆる場所を磨き上げ、キッチンメイドは美味い茶菓を用意すべく苦心さんたん研究を重ねる。屋敷の中には、明るい笑顔が増えていった。
「……いる〜? やー、なんか眠れなくってさ〜」
 こんこんこん、とノックされ、振り返ると、そこにいる。やがて、女主は使用人寮の宴会に混じるようになっていた。
 メイド達は気兼ねなく応じた。奥様のそれは無礼講である。羽目を外して騒いだら、叱咤非難の矢面に……というエセ無礼講というのが世間様にはままあるが、奥様のそれは言葉の額面と毛程も違わぬ正真正銘、実にまっとうな無礼講なのであった。女主は商都で評判の店の噂をして笑い、流行りの服について語り、異性を落とす秘伝のメイクを伝授した。そして、
「えー、まじでー? うっそおーん!」
 隣の背中をばんばん叩き、大口開けてケラケラ笑い、手酌で立て膝、大いに飲む。奥様はたいそう笑い上戸なのであった。だが、そうかと思えば、
「──なによお〜。ダドの嘘つきぃ〜!」
 コップ酒をあおって、おんおん泣く。これ又とんだ泣き上戸なのであった。
 どうやら、当時無爵だった旦那様と商都で雑貨屋を開くのが当初の予定だったらしい。実家の店を買い戻し、天井に張った蜘蛛の巣をとり、埃も綺麗に掃除して、いざ、商品の仕入を始めるか!──と張り切って腕まくりをした途端、当主急逝の訃報が入り、彼は急遽、実家の跡目を継ぐことに。奥様はめそめそ愚痴をこぼす。「そりゃあ正直、しめたっ、てあたしだって思ったわよ。だって領家の奥様なんて雲の上の存在だもん。でも、子供いるなんて聞いてないし、妾いるなんて聞いてないし、こんなのってアリなわけえ〜……」
 彼女の夢は平凡で、親子揃っての家族団らん、商売を拡大し、休みの日には、お弁当持って行楽に──つまりは「こんな筈じゃなかった……」というのだった。
 そうこうする内へべれけにできあがった奥様を、侍女は「ほら、しっかり」と揺り起こす。「もう、ご自分の部屋にお戻りになるんでしょう」
「……うん、戻る」
 いつも必ずそう言うのだ。盛大に船をこぎだして、今にも寝入りそうになっていても。だが、愚図るばかりで、ぐだぐだ起きないのも、いつものこと。
「なんなら、お泊りになってもいいんですよ?」
「やだ、戻るっ! だって──」
 そう水を向けると、何故か決まって激しく抵抗するのだった。そして、ほぼ寝言で呟くのだ。「……だって、帰ってくるかも……しれないから……」
 座を囲むメイドらは誰も、この時には、何のことやら分からなかった。そう、ずっと後で知ったのだった。自室の窓やドアの鍵が、夜間、常に開いていた理由を。
 そして結局、すっかり寝入った奥様を、外でこっそり待機していた黒い髪の隊長が回収する羽目になるのだった。彼はいつも「……すまないな」と苦笑いで受け取ると、よっこらせ、と荷物のごとくにぞんざいに肩に担ぎ上げ、すたすた去って行くのだった。妙に力持ちで、よく見れば中々の優男、この傭兵部隊の隊長は、あれ以来屋敷に出入りしている。身内のように面倒見が良いので「もしかして恋人?」と訊いてみたらば、彼はあからさまに瞠目し「断じて違う」と気合を入れて全否定した。そして、別に訊きもしないのに「領邸に雇われている」のだと左斜め上を見たまま不承不承言い訳する。どうにも釈然としない態度なので、仲間の護衛に探りを入れると、宴会がなくても彼は毎晩やってきて、奥様の寝室に行くのだと言う。「やっぱりヤバい関係じゃん!」と無論一斉に食いついたが、よくよく話を聞いてみれば、部屋の鍵は開けてあるし、夜食を差し入れに寝室のドアをノックすると ( 彼は何故かコックのばばあのお気に入りなのだ )、すぐに扉が開くという。つまり、常に出入り口付近にいるらしい。
 そういえば、この優男の隊長に限らず、終戦してからというもの、夜間の薄暗い敷地内で、荒くれた傭兵姿をよく見かける。やたら愛想の良い短髪でダンディなおじさんやら、見るからに変てこりんな胡散臭いチョビ髭やらが夜の庭をうろうろしている。そうかと思えば、暗がりにぬっと熊が出没したりもする。もっともこの熊は、後にアドルファスという名の人間だったらしい事が判明したが。いずれにせよ、子供並みに早寝の奥様は、どれもご存じなかったらしい。
 それにしても、奥方たるもの、こんなぶったるんでて良いものだろうか……とすたすた立ち去る傭兵の背中で、両手をぷらんぷらんさせて撤収されていく奥様の後ろ姿を眺めつつ、しみじみメイド達は考える。いいや、全然駄目だろう。底意地の悪い夫人連中の顔を思い浮かべて、即座に溜息で首を振る。そう、奥様の日常を顧みるに、ざっくばらんなのは良いのだが、のびのびし過ぎているのが難点だ。
 彼女らは、うむ、と決心した。当主といい奥方といい、この屋敷の主は揃って若い。ともすれば、貴族どもに舐められてしまう。領邸ご奉公プロフェッショナルな彼女らには、それがはっきりと予見できた。そうとなれば、方法は一つ。
 ──うちの奥様に箔をつけねば。
 メイド一同、一致団結、奥様教育が始まった。
「ズボンで外出など、はしたない。きちんとした服をお召しなさいませ」
「ほら、奥様、そのお言葉使い。ちゃんとなさいませ。皆様に笑われますよ」
「礼儀作法の先生がお見えになりました──てこら! 逃げるんじゃありません!」
「半袖は不可です。短パンも不可です。ビーサンも不可ですっ!」
「あぐらをかくんじゃありませんんっ!」
 クドクドがみがみビシバシしごく。これもひとえに奥様にしっかりしてもらおうとの親心ゆえ。だが、注意する人される人、人数比率で五十対一、ちょっと厳しくしすぎたかも知れない。というのも、奥様が、ある朝、忽然と逃亡なさりやがったからだ。しかも「今日ピクニックに行くから、一緒にサンドイッチ作ってえ〜ん」などとお願いするという手の込んだフェイクまで入れて。
 屋敷の中からドロンと消えて、以来さっぱり音沙汰がない。あのはげちゃび──もとい商都から来た例の家令が「すわ誘拐か!」などと騒ぎ立てないのが不思議といえば不思議だが、やはり、これは家出かもしれない。いや家出だろう。そうだそうに違いない。何気に心当たりのあるメイドらは、領邸の廊下のそこかしこで、ぬぬぬ──と腕組みの額を密かに寄せた。
 ちなみに奥様が忽然と消えた朝、「ばあや」という小柄な老女が屋敷に入れ替わるようにして現れた。彼女はなんでも女主と懇意であり、商都で当主の世話をしていたのだが、帰郷を機にめでたく引退、娘の家で孫達に囲まれ、ようやくやれやれと寛いでいたところに、旅支度の奥様が鼻息荒く突如現れ、復職するよう拝み倒され、有無を言わさず屋敷の近所まで引っ張って来られた──とかような次第なのだった。
 新たに家政婦となった品の良い老女は、家出に至った奥様の事情を知っているらしく「その内、お戻りになりますよ」などと澄ました顔で大らかに笑った。そして、彼女の仕事の方針は、最初に発した一言に全てが凝縮されていた。そう、さて仕事にかかろうか、となった段、にこにこ皆を見回して、彼女はこう言ったのだ。
「あなた方はわたしの娘よ。なんでも相談してちょうだい」
 落涙ものの良い人なのであった。
 間仕切りの植物の向こうから、不意に声が飛び込んできた。
「──ああ、奥方様っていや、夜会でも全く見かけないぜ。案外、誰からも誘いがこないんじゃないか〜?」
 げらげら笑う下世話な揶揄に、侍女は思わず椅子を蹴る。突進しそうなその腕を、隣の同僚が慌てて引き戻した。仲間の二人になだめられ、侍女は憮然と腰を下ろす。膨れっ面で爪を噛んだ。「──なによ、あいつら!」
 本人がいないもんだから、言いたい放題なのだ。
「もう。どこ行ったんだろ奥様は。いつまで、あんなこと言わせておく気よ」
 家政婦の老婦人は太鼓判を押すけれど、あんまり帰ってこないから、新聞の尋ね人欄にでも出してみようか、と近頃大真面目に考えている。侍女はコースターを取り上げて、キコキコ下書きを書き記した。
「……早く帰ってこないかな」
 アレがいないと、つまらない。
 グラスの泡をくるくるストローでかき回し、侍女は気鬱にコースターを取る。" 奥方様へ "と綴られたその先の文に目をやった。
《 応相談。とりあえず戻れ。メイド一同 》
 
 
 
 
 

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