CROSS ROAD ディール急襲 第2部 4章 4話3
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 閑散として薄暗い、白々とした酒場の底に、遠い潮騒が漂っていた。正面の壁の開け放った窓から、弱い日差しが差している。
 昼の酒場のカウンターで、ギイは一人で飲んでいた。窓から入る自然光のみの灯りのない店内に、客の姿は他にない。キイ……と微かな音がした。店の扉が開く音だ。ギイは眉をひそめて舌打ちした。「──たく。ガスパルの奴」
 やれやれ、と脱力したように肩を落とす。「俺だって、何度も断るのは気が重いんだがな」
 店の床板がギシギシ鳴った。衝立代わりの観葉植物を右に回って、こちらの方へやって来る。
「昼から飲んでいるのかね」
 ややあって、非難混じりの声がかかった。ギイは振り向きもせずに肩をすくめた。「体が空いたもんでね」
 煙草を咥えて点火する。気配は足を止めている。それに背を向けたまま、ギイは紫煙を燻らせた。酒場の荒んだ店内を、気配はもの珍しげに、訝しげに見回している。それが足を踏み出して、右肩の先まで近付いた。ギイは観念して嘆息し、招かざる客を一瞥した。「ガスパルに気に入られたようだな」
「その、ガスパルというのは?」
 訝しげに問い返されて、ギイは面倒そうに説明する。「──ああ、地図屋だよ、俺の部下。あんた、天幕群に行ったんだろ」
「君を捜していた」
「俺は会いたくなかったぜ」
「君は私のことが嫌いかね」
 言葉に詰まり、ギイは眉をひそめた。「……気色の悪いことを言うなよ、おっさん。野郎に告白られても嬉しかねえよ」
 相手も憮然と、口をへの字にひん曲げる。「私にそんな趣味はない」
「そいつは助かる。──ああ、あんたもやるかい?」
 ギイはグラスを持ち上げた。
「金を持っておらん」
 予期せぬ返事に一瞬絶句し、ギイはチェスター候を苦笑いで見た。「敵わねえな、金持ちには。──仕方がねえな、一杯奢るよ。エールでいいな。飲んだら帰りな」
 こっちだってハジにまき上げられてオケラなのによ、と小さくごちて、薄暗い店の奥、カウンターの隅へと振り向いた。「──トーノ、客だぜ」
 ぶっきらぼうに声をかける。
「……いらっしゃい」
 ややあって、カウンターの中の暗がりが動き、もそりと顔を上げて立ち上がった。痩せて背の高い青年だ。育ちの良さそうな顔立ちに銀縁の眼鏡、白いシャツを着ている。だが、こざっぱりとした身形のわりに、肩につくほどに髪が長い。その伸び放題の頭髪だけが、どこかちぐはぐな印象を与えた。暗がりに置いた木箱の上には分厚い本が伏せてある。どうやら木箱に腰をかけ、読みふけっていたらしい。チェスター候は面食らったように振り向いた。「──子供ではないか」
 確かに二十歳には届いていまい。
「ここの親父の隠し子だってさ」
 ギイは天板に肘を突き、面白そうに顎をしゃくる。「ここにも少し前までは、偏屈なジジイがいたんだが、ぶっ倒れちまったらしくてな。にしても、あのジジイ、こんなでかいガキがいるなんて、一言も言ってなかったのによ。──ああ、こいつと同じ物を頼む」
 傍らの瓶を軽く上げ、後の言葉で注文する。無口で無愛想な青年は、一つ頷き、奥の暗がりに引っ込んだ。チェスター候は手前の高椅子に腰をかけつつ、困惑したようにそれを見送る。「彼は、学生なのかね」
「──さあ、どうだろうな」
 関心なさげに、ギイは答える。チェスター候は渋い顔をした。「まだ学業の途中だろう。それを昼から酒場で働かせるなど、親は何を考えているのだ!」
「詮索するなよ、人にはそれぞれ事情があるさ。ま、見た目は青いが、酒のセンスは前のジジイより余程いい。俺が保証するよ」
 ま、エールじゃ関係ないけどな、と、ギイは傍らの瓶を取り、手酌でグラスに酒を注ぐ。
 バー《 無限の終わり 》のカウンターで、ギイとチェスター候は話していた。人けのない昼の酒場はひっそりとして薄暗く、板床の底に漂う遠い潮騒に攫われて、緩やかな時の流れから、ここだけ、ぽかり、と零れ落ちてしまったようだ。
「で、何か進展はあったかい」
 ギイのなおざりな社交辞令に、チェスター候は溜息をつく。ギイは見もせず、素気なく続けた。「貴族どもが逃げ出したらしいな」
 チェスター候は瞠目した。だが、すぐに諦めたように苦笑いした。「──本当に、なんでも知っているんだな、君は」
「馬車があれだけ大行列していりゃ、誰でもわかるさ。で、つまるところ残留組は、二、三の貴族と、あんたの所だけってことか」
「──いや」
 チェスター候は首を振る。翌朝、彼が目覚めると、屋敷から妻子も消えていた。置き手紙には「レーヌまで避暑に参ります」の文字。
「……おい。なんで南へ避暑に行くんだ?」
 この地は大陸最北端だ。グラスを口に持っていったまま、ギイは苦笑いした。「──逃げられたな。家族といっても、いざとなると薄情なもんだ」
「いや、そうではない」
 チェスター候は厳粛な顔で首を振り、慈しむように目を細めた。「私を気遣ってのことなのだ。私の邪魔になってはならぬと。あれはそういう心配りのできる女だ」
「あんたは馬鹿なのか? それとも、とてつもないお人好しか?」
 呆気に取られて、ギイは見返す。じろり、と、チェスター候は目の端で睨みつけた。「失敬な。あさましく勘繰る君の考えが不純なのだ」
「……。ああそう。そいつは失礼」
 一喝されて、ギイは紳士に肩をすくめた。やれやれと退散し、瓶を取り上げ、手酌で注ぐ。グラス一つと栓を抜いた黒瓶を持ち、青年が奥から戻ってきた。チェスター候の前に、それらをそれぞれ、とん、と置き、頓着なく踵を返す。ギイはその瓶を取り上げて、隣のグラスに注いでやった。「まあ、なんにせよ、ご苦労さん」
 チェスター侯はグラスに取り上げ、ふと、左を振り向いた。「一つ、君に訊きたいのだが」
「不純な俺にでも分かることかい? 高潔な騎士さん」
「キリギリスとは何のことだね」
「──キリギリス?」
 煙たそうに顔をしかめて、ギイは逆側に紫煙を吐く。
「天幕の芝居小屋で、座長が私をそう呼んだのだ。私には見当もつかないのだが、座長の仲間の君ならば、心当たりがあるかもしれんと思ってな」
 ギイはかったるそうに向き直った。茶色の瞳をじっと眇めて「──キリギリスね」と観察する。しばし指先で紫煙を燻らせ、「──ああ、なるほど」と合点したように微笑った。手元に灰皿を引き寄せて、灰を指先で軽く落とす。
「" アリとキリギリス " って話を知っているか」
 チェスター候は面食らった。「……なんだね、それは」
 ふぅー、と長く紫煙を吐いて、ギイはおもむろに口を開いた。
「暑い夏、アリ達は、汗水たらして働いた。キリギリスはそれを後目に、歌って踊って遊び呆けた。季節は流れ秋がきて、やがて、冬がやってきた。食料はすっかり尽きちまい、大地は雪で覆われた。夏にせっせと働いたアリは、夏に溜め込んだ食料で、厳しい冬をやり過ごす。だが、夏に歌い暮らしたキリギリスは、冬を越せずに餓死しちまう、つまりはアリどもに見殺しにされる、そういう話さ」
 ま、ガキに聞かせる寓話だけどな、と苦笑いする。憮然と、チェスター侯が見返した。「すると君は、その怠惰なキリギリスとやらが、この私だと言いたいのかね」
「あんたは歌や芝居が好きだろう?」
「──何故、そんなことまで知っているのだ!」
 ぎょっと見返したチェスター候に、ギイは苦笑いでグラスを揺らす。「" 傾国 " を見に行ったんだよな、アルチバルドに言われてさ。──ま、俺は、言い得て妙だと思うがな。昼日中から芝居見物、夜には食事会やら舞踏会、あんたは働いたことなんかないだろう。にしても、さすが生来の皮肉屋だな。中々うまいことを言う」
「私は遊び呆けてなどおらん!」
「嫌な事から目を背け、逃げばかり打ってきたから、あんたに手を貸す者がない。そうじゃないのかい、キリギリスさん」
 チェスター候は反論に詰まった。ギイは一瞥、少し口調を和らげる。「すべき事から逃げてきたから、現に誰もついてこない。ああ、一応訂正しておくが、芝居小屋の曲芸師は、別にこっちの仲間じゃない」
 仏頂面でグラスを掴み、チェスター候は一気に呷った。天板にグラスを叩き付け、前方の酒棚を睨んでいる。ギイは無言で飲んでいた。チェスター候は押し黙り、口をへの字にひん曲げて、手酌で杯を重ねていく。一杯、二杯、三杯──瓶の底がつきかけた頃、ようやく隣を振り向いた。
「私に力を貸してくれ」
「──まあ、用件はそれだよな」
 手にしたグラスをおもむろに置いて、ギイは真面目な顔で向き直った。
「その話は断った筈だぜ」
 チェスター候は食い下がった。
「君は私を非難したが、私の依頼を断るというなら、君とて私と同じではないかね」
「俺の逃げは場合による。俺のは商売でね。悪いが、あんたに手を貸したところで見返りが薄い」
 二人は無言で睨み合った。チェスター候は冷ややかに非難し、ギイはあくまで突っぱねる。どちらも頑固に押し黙り、引く気配を微塵も見せない。
 先に目を逸らしたのは、チェスター候の方だった。カウンターの向こうに振り返る。
「店主、次を頼む」
 意表を突かれ、ギイは怪訝な顔で窺った。「──金、持ってねえんじゃなかったか?」
「君がいる」
 目を瞠って、卓を叩いた。
「ちょっと待った! 一杯だけって俺は言ったぞ!」
「構わん。どんどん持ってこい。勘定はこの男につけておけ」
 チェスター候はギイに対抗、グラスの底で天板を叩き、青年店主に毅然と命じる。
「この話を引き受けると言うまで、私は断じてここを動かん」
 断言して胸を張り、隣の男をじろりと睨んだ。ギイは慌てて店主を見る。青年は素知らぬ顔で肩をすくめた。「どっちの財布からでも、俺は一向に構いませんよ。客は客ですし、金は金です」
「……お前、それはないだろう」
「ああ、奢るとか、さっき確かに言ってましたね。他んところは、すいません。生憎よく聞こえなかったんですが」
 左斜め上を見て、しれっと言う。ギイはうなだれて額を掴んだ。「……守銭奴め」
 紳士と組むと決めたらしい青年店主は、既にとくとく、グラスに酒を注いでいる。しかも、ここぞとばかりに、この店で一等高い酒を。
「たく。情けなんか、かけるんじゃなかったぜ」
 渋面を作った舌打ちで、ギイは不貞腐ってふんぞり返った。この店主、無口なくせに損得勘定にはいやにシビアだ。育ちの良さそうな顔のわりには、妙に肝の座ったところがある。どこか小賢しそうなその顔つきとも相まって、ギイにはそれが気に入ってもいたのだが、敵に回るとなれば、話は別だ。とりあえず、隣に釘をさした。「おい、脅しても、俺は引き受けないからな」
「好きにしたまえ」
 紳士はあっさり素知らぬ顔だ。青年を睨むが無視された。二対一、タッグを組まれちゃ勝ち目はない。ギイは盛大に息を吐き出し、やれやれ、と高椅子に座り直した。「たく。えらいのに見込まれちまったな。──ああ、しくじったついでに、あんたに一つ、忠告しておいてやる」
 いささか自棄気味にグラスを呷り、とん、とその手をカウンターに戻す。
「捕虜は従順な敗者でもなければ、改心したお仲間でもない。敵の活きた戦力、、だ。今でこそ大人しくしているが、味方の進軍が耳に入れば、すぐにも呼応して決起するたつだろう。単にぶち込まれているというだけで、捕縛もしなけりゃ飢えてもいない。そもそも連中の頭数は倉庫番より遥かに多い。何よりあれは訓練を積んだ本職だ。今迄は力づくで捻じ伏せていたが、曲芸師風情じゃ押さえ切れない。出口を突破されたら一巻の終わり、そう覚悟した方がいい」
 口調を一段、厳しいものに改めた。
「わかるか。あんたは、連中にたらふく飯を食わせて、敵を育てちまってる。だが、どんなに餌をやったところで、あんたに連中は飼い慣らせねえよ。どうしても国軍に歯向かいたいなら、毒でも盛って潰しておけ。後顧の憂いは断ち切れる」
 ダン、とグラスが打ち付けられた。ギロリ、とチェスター候は隣を睨む。
「この姑息な若造が! 卑怯な真似など断じてせんわ!」
「……そう言うだろうと思ってたけどよ」
 噛み付きそうに叱り飛ばされ、ギイは降参の両手を上げた。( 卑怯はどっちだ )と言わんばかりの白けた顔で。
 チェスター候は口をへの字に引き結び、グラスの酒を呷っている。片手で握る深緑色の細身の瓶は、頼むには勇気のいる高級酒。一本目が空くや否や、店主がそそっとやって来て、抜かりなく次を天板に置いた。チェスター候は姿勢も正しく、手酌でぐいぐい呷り続けている。グラスを舐める手を止めて、ちら、とギイは横目で見た。「──ほら、いい加減にしときな、おっさん。そんなに飲んだら潰れるぞ」
「案ずるな。迷惑はかけん。セバスチャンを呼ぶ」
「て待て。そいつは誰だ。初耳だぜ」
 ふと眉をひそめて、ギイは鋭く振り返る。その人物の名は把握していない。うむ、とチェスター候は顎を引いた。「セバスチャンは当家の執事だ」
「……使用人を名前で呼ぶなよ、紛らわしい」
 ギイはガクリと肩を落とした。チェスター候は壁の飾り棚を睨み据え、その横顔は頑なだ。引く気は毛頭ないらしい。きっぱり再度、宣言した。
「君が引き受けるまで、私は帰らん」
 ギイは辟易として肩を落とした。「──もー、なんで俺なんだよ。そんなに闘いてえんなら、前に軍が来た時に、存分にやっときゃよかったじゃねえかよ……」
 ピクリ、とチェスター候が動きを止めた。突如、憤然と振り返る。何がそんなに気に触ったか、たじろぐほどの憤怒の表情。一転、烈火の如くに唾を飛ばしてまくし立てる。ギイは呆気に取られて聞き入った。
「……あー、なるほどね」
 事情を聞き終え、ギイは頬杖でしげしげと見た。酔っ払った勢いか、今日はいやに口が軽い。あんなに頑なにひた隠しにしていた極秘事項を洗いざらいぶちまけて、紳士はフーフー、鼻息荒く肩を上下させている。グラスでカウンターを、ドン、と叩いた。
「こうなったら一歩も動かん! そうとも私は動かんぞ! 引き受けると君が言うまで、断じて君を放さんぞっ!」
「……本当に、妙な性癖はないんだろうな」
 思わずそう確認し、ギイはぼりぼり短髪を掻いた。上着の端をむんずと掴んだ頑固な横顔をげんなり眺める。「たく。どうしても解放しないつもりかよ〜」
 こうなると、完全に駄々っ子だ。
「──しょうがねえな。条件を出すか」
 如何にも渋々といった顔で、ギイが折れた。胡乱で盛大なしゃっくりと共に、チェスター候は上気した顔で振り返る。「条件?」
「ああ。そいつを満たせば、俺も協力を考える。それでいいな」
「言ってみたまえ」
 チェスター候は眉をひそめて訝しげな顔で聞き入った。薄暗い酒場の片隅で、壁の古時計がカチコチ静かに時を刻む。条件を提示し、ギイは不敵に笑いかけた。「こっちも命を賭けるんだ。覚悟のほどを見せてもらうぜ」
「よかろう」
 チェスター候はギイの上着から手を放した。グラスの残りを一気に呷る。ふぅー……と荒い息を吐き、両腕を天板にゆるりと置いた。何を考えているものか、そのまま前を睨んでいる。かくり、とカウンターに突っ伏した。
「──お、おい、あんた!」
 ぎょっとギイは振り向いた。うつ伏せた肩を恐々揺する。くかー、と安らかな寝息が聞こえてきた。
「……もう、潰れたのかよ。冗談だろ」
 呆気に取られて酒瓶を見る。開いているのは小洒落た細い瓶が二本だけ。しかも、その内の一本は、まだ半分も残っている。あんなに威勢のいい事を言っていたのに、口ほどにもない。──いや、と苦笑いで手を引いた。
「眠れなかった、か」
 味方の貴族に一斉に去られて一睡もしていないに違いない。カウンターに突っ伏した神経質そうな細面を、目を細めて眺める。「……あんたには荷が重いかな、キリギリスさん」
 ズボンの隠しを探って札を出し、高椅子から立ち上がりがてら、二人分の勘定をカウンターに置いた。「──ごちそうさん」
 声を聞きつけ、青年が奥から顔を出した。カウンターに突っ伏したチェスター候の姿を見るなり、迷惑そうな目を向ける。これはどうするんだ、と言わんばかりに。カウンターを抱えた紳士の背中を、ギイは軽く顎先で指した。
「少し寝かせておいてやれ。適当な迎えを寄越すからよ」
 ま、セバスチャンを呼んでやるか、と呟きながら、店の出口へぶらぶら向かう。ここの勘定の相談もあるしな──ふと、先程の、前回不参戦の「理由」を思い出し、突っ伏した寝顔を肩越しに眺めやった。「男には、後に引けねえことだってあるよな。しかし、まあ──」
 頭を掻いて踵を返した。
「アホか」
 出口のドアノブに手をかけて、それを無造作に引き開ける。
 外から潮風が吹き込んだ。さわり、と衝立の葉が揺れる。真昼の明るさに眩んだように顔をしかめ、ギイは目を細めて呟いた。「──たまに、あんたが分からなくなるぜ。馬鹿なのか間抜けなのか、それとも、とてつもない聖人なのか」
 行く手に広がるは、陽を照り返す石畳。両手を隠しに突っ込むと、閑散と荒んだ無人の倉庫街を、一人ぶらぶら歩いて行った。
 
 
 
 
 

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