CROSS ROAD ディール急襲 第2部 4章 5話1
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 梢を揺らす高い樹上で、ピーピーか細い鳥声がする。太い幹には梯子(はしご)がかかり、梢の下にはすらりと伸びた二本の脚、黒い革靴の靴裏が見える。その足が段を踏んで精一杯伸び上がる都度、木段が鳴いてギシギシ軋む。両手を胸で握りしめ、サビーネははらはら庭の大木を見上げていた。
「……あ、あの、お気をつけて」
 ザッ、と梢が激しく鳴った。根元にドサリと白いシャツが転げ落ちる。ガランと打ちつける木造の梯子。
「ラッセルさまっ!」
 悲鳴をあげて瞠目し、サビーネはおろおろ駆け寄った。「ま、まあ、どうしましょう あの、お怪我は!」
「──ああ、大丈夫ですよ。落ち着いて。雛は巣に戻しましたから」
 腰を強かに打ちつけて、ラッセルは身を起こしながら苦笑いした。足場の設置が甘かったらしい。脚を投げ出し、後ろ手をついたまま、地面にぺたりと膝をついた傍らのサビーネに、眦(まなじり)下げた情けない顔で笑いかけた。「面目ない。お恥ずかしいところをお見せしまして」
「い、いいえ! いいえっ! そんなことはありません!」
 サビーネは思い切り首を振り、おろおろしながら頭を下げた。「──あの、ありがとう存じました。この樹はとても背が高くて、梯子をかけたまで良いのですが、上ろうとすると、どうしても恐くて、ラッセルさまが戻して下さらなかったら、わたくし、あの雛をどうして良いか──あの、なんとお詫び申し上げたら」
 服を払う手を止めて、ラッセルは目を細めてそれを眺めた。困惑しきりのサビーネは、今にも泣き出しそうに俯いている。その頭に手を伸ばし、なだめるように掌を置く。ふと、サビーネが顔を上げた。ラッセルは小狡そうな顔で片眉を上げた。「そんな顔をして下さるなら、もう一度くらい、落ちてもいい」
「……まあ」
 サビーネは小さな口をぽかんと開けた。
 うふふ、と小さくサビーネが微笑った。あはは、とラッセルが気負いなく笑った。緑の芝にぺたりと座り、二人、顔を見合わせ、ひとしきり笑い合った。
 閑静な館の煉瓦の壁に、午後の陽が揺れている。陽光溢れる緑梢の中、サビーネの庭には、今日はラッセルが訪れていた。お目付け役がいない為か、今日の服装は白いシャツにズボンのみというくだけたものだ。手袋もステッキもトップハットもない。思い立って寄ってみた、と屈託なく言うラッセルは、相手の戸惑った反応に気付いて自分の服装を見下ろすと「商都ではいつも、この格好だったもので」などと照れ臭そうに笑った。そして、内緒の話でも打ち明けるように、こっそり肩をすくめた。「ああした服は肩が凝ってしまってね」
 肩にまでつく薄茶の髪と異性受けする清廉そうな風貌が、上品で物柔らかな印象を見る者に与えるが、そうしたさばけた身形をすれば、街行く青年と変わらない。
 自室に続くテラスから単身現れたラッセルを見て、サビーネは当初戸惑った。執事が困惑顔で控えていたので、ごり押しされたものらしい。彼は二十代半ばと年こそ若いが、クレスト門閥を代表する有力貴族の一、この館の所有者である宗家の次子が先日連れてきたご友人でもある。そして、柔和な印象でありつつも、上流の出自ゆえの強引な一面もやはりある。
 執事が困惑した一方で、今日のラッセルはさっぱりと陽気で、まるで気負った風はない。大木にかかった梯子を見て、サビーネの手から雛を受け取り、高枝の巣の中に戻してやった。財布を忘れて外出し散々な目に遭った話をし、緊張していたサビーネの顔をほころばせた。商都で出会った愉快な仲間の話をし、寮に酒を持ち込んで共に酔っ払った悪友の話をし、風のように足の速い幼馴染みの話をし、サビーネをくすくす笑わせた。
 風が吹き、香草の放つ芳香が、ざわり、と庭にたゆたった。ラッセルは如何にも場慣れしていた。初めの内こそ困惑するばかりだったサビーネも、庭の卓につく頃には、すっかり彼と打ち解けていた。
 吹き攫われた長い髪を白いその手でそっと押さえて、サビーネは陽光に包まれた庭の緑を眺めている。おっとりした相槌をふとつぐみ、梢のそよぎに耳を澄ませた。風のお喋りを聞くかのように軽く瞼を閉じている。ラッセルも四方山話の口を閉じ、白く滑らかな指を組み、その様を眩しげに眺めた。
 白く愛らしい横顔は瑞々しい緑によく映えた。二十歳を少し越している筈だが、瞳が大きく額の広い童顔の為か、十代後半の娘にしか見えない。白い頬には木漏れ日がまだらに降りかかり、ちらちら柔らかに揺らめいていた。頼りなげな肩の線、たおやかな細い体。儚げな、それでいて凛と顔を上げた、全て悟りきったかのような穏やかな横顔。あたかも永遠を生きるが如きの。
 一人で庭を眺めることに慣れすぎているサビーネは、気付いていないようだった。客を置いてけぼりにしている事に。差し向かいに座った青年が先程からじっと見つめ、その目を逸らしては、時折溜息をついている事に。
 飽きることなく、ラッセルは向かいを眺めていた。彼女の粛々とした表情は、いやに索漠として刹那的で、この時だけのものであるかのような、儚くも脆い、今にも消え入りそうな華奢な体を不意に掻き抱きたくなるような、得も言われぬ衝動を湧き上がらせる。長いまつ毛が瞬いて、ふと、サビーネが振り向いた。
「──ま、まあ、申し訳ございません」
 放置した非礼を慌てて詫びた。黙ったままの向かいの客を、おどおど窺う。「あの、お気に障りまして?」
「いいえ」
 ラッセルは鷹揚に微笑んで、庭に視線を巡らせた。「本当に、ここは気持ちがいい。時を忘れてしまいます」
 メイドが盆を掲げて入ってきた。執事は所用で出かけたらしい。受け皿ごと茶碗を受け取り、ラッセルはメイドに笑いかけた。「ありがとう。……よろしく頼むよ」
 受け渡しの手を素早く握り、依頼分のチップを滑り込ませる。メイドは顔を赤らめて、飛び上がるようにして一礼した。テラスから館内に下がり、慌てた様子で廊下へ出て行く。庭を眺めていたサビーネが怪訝そうにそれを見送る。ラッセルは苦笑いで呟いた。「──まったく他愛のないものだ」
 ふと、サビーネが不思議そうに振り向いた。「あの、何か。どうかなさいまして」
「いいえ、なんでもありません」
 ラッセルは柔和な笑みで首を振った。おもむろにカップを取りあげる。「サビーネ様は商都からお出でになったとか。学び舎はもしや、ロマリアですか」
「ええ」
 サビーネも微笑んで紅茶のカップを取りあげる。
「実は、僕もロマリアで学びましてね」
「まあ、そうですの。奇遇ですわね」
 サビーネは軽く目を瞠り、明るく笑ってそれに応えた。ロマリアには、貴族や富豪の子弟を集めて教育する寄宿舎や修道院が数多く集まっている。商都の南、レーヌの北に位置するこの街が学園都市と呼ばれる所以だ。お喋りを不意にとりやめて、ラッセルはサビーネの笑顔をじっと見つめた。「かねがね、お会いしたいと思っていたのですよ、噂の麗しの姫君に」
「……ま、まあ」
 サビーネは戸惑い顔で目を逸らし、しどもどしながら俯いた。
 気まずい沈黙が立ち込めた。赤面している向かいの様子を、ラッセルは溜息で眺めやる。いかにも不慣れな様が見て取れた。こうした話題に踏み込むと、途端に空気が凍り付いてしまう。恋の駆け引きを適当に楽しむご夫人方との戯れとは、いささか事情が異なった。いつものようには、いかない。卓を指先でゆっくり叩いて、ラッセルは思案するように見ていたが、やがて、決心したように顔を上げた。「──サビーネ」
 卓に身を乗り出して、膝に置かれたたおやかな手を取る。彼女の顔をじっと見つめた。「あいつが何故、貴女をほうっておくのか分からない」
 サビーネはビクリと手を引いた。あからさまに慌てて立ち上がる。「し、失礼致します」
「急に、どちらへ?」
 ラッセルはゆっくりと席を立った。
「──い、いえ、あの」
 無作法をやんわり咎められ、サビーネは唇を噛んで立ち尽くした。視線を落ち着きなくさまよわせ、しどもど取りとめなく言い訳する。その途中で、ぎこちなく踵を返した。長いスカートを翻した先は館内に通じる唯一の扉。彼女が向かうその先へ、ラッセルは足早に回り込んだ。
 出口を素早く塞がれて、サビーネが驚いたように顔を上げた。向かい壁まで後ずさり、愕然と瞠目している。開け放った室内をおろおろ見回し、背後の壁を掌で伝って、よろめくように庭を目指す。ラッセルは笑みを浮かべて歩み寄った。「何故、お逃げになるのです。僕のことがお嫌いですか」
「──い、いえ、決してそのような」
 言いつつ、サビーネは目を逸らす。
「僕は貴女をもっと知りたい」
 ラッセルはつかつか近付いて、細い手首を素早く掴んだ。驚いて振り向いたサビーネを抱え、壁際の長椅子に倒れ込む。サビーネは瞠目し、震える声で抗議した。「──な、何をなさるの。人を呼びますよ」
「お呼びになればいい」
 サビーネは言葉を飲み込んだ。驚いて見開いたその瞳に、ラッセルは微笑って囁きかける。「呼んでも誰も来ませんよ。執事は使いに出しました。しばらく戻りはしないでしょう。──大丈夫。メイド達にも言い含め、人払いをしてあります。館の奥まったこの部屋に残っているのは我々だけです」
 髪を撫でてなだめるその手を、サビーネは必死に押しのけた。「わ、わたくしには旦那様がおります!」
「だからどうだと言うのです」
 苛立たしげにラッセルは遮る。「それと恋愛は別ものだ。周知のことではありませんか」
 抵抗して暴れる顎を、ラッセルの白い手が引っ掴んだ。言い聞かせるように目を見据える。「理由が要るなら、私が作って差しあげる。先ほど貴女は、私に詫びていらっしゃいましたね」
 サビーネは愕然と目を瞠った。構わず体を抱きすくめ、ラッセルは唇を近づける。「──サビーネ」
 唇を塞がれて尚、サビーネは押しのけようともがいている。力の限りを振り絞り、抗っているのは明白だ。ラッセルはしばらく押さえ込み、怪訝そうに顔を上げた。「……冗談でしょう。本気で怯えているのですか」
 サビーネは唇を噛んで涙ぐみ、張り詰めた顔で凝視している。
「──まったく、貴女という方は」
 拍子抜けしたように動きを止めて、ラッセルは溜息をついて苦笑いした。怯え震えるサビーネの額から髪を指先でどけてやる。「──こんなに健気な貴女をどうして、あいつはほうっておくんだか」
「無礼者っ!」
 甲高い声が割り込んだ。叩き付けるような子供の声だ。ふと、ラッセルは顔を上げ、声の方向を振り返る。
居間の扉を開け放ち、男児が瞳を怒らせていた。小さな拳を握りしめ、肩で息をついている。ラッセルは苦笑いして、サビーネの上から身を起こした。「──どなたかと思えば」
 はっと息を詰め、サビーネも慌てて起きあがった。落ち着き払ったラッセルの顔と、今にも飛び掛りそうな幼い姿をおろおろと見る。
「これはこれは、クリード様」
 胸に手を当て、ラッセルは慇懃に一礼した。逆上したクリードは今にも飛び掛りそうに睨み据え、幼い声を震わせる。
「貴様、月読(つくよみ)に何をする!」
「何故こちらに? 勉学の時間かと思いましたが」
 相手の激高には取り合わず、ラッセルは冷ややかな目を向ける。
 静かな廊下から、女の呼び声が遠く聞こえる。クリードを捜しているらしい。ラッセルが声をかけると、すぐに女の声で応答があった。ややあって、髪をきっちり結い上げた中年の女が厳しい顔を覗かせる。少しの非難を言葉に含ませ、ラッセルは笑顔で目を向けた。「遊びに来ていましたよ。しっかり監督して下さい」
「──これは申し訳ございません。さ、行きますよ、クリード様」
 教師は恭しく頭を下げ、クリードの細い腕を問答無用で掴み取った。
「放せ! 戻らぬ!」
 クリードは暴れて振り解いた。長椅子にへたり込んだサビーネに駆け寄り、両手で胴にしがみ付く。縋るように顔を上げた。「私は参りません! 月読!」
「……クリード」
 サビーネは呆然と見下ろした。必死に仰ぐその頭に、戸惑ったように白い手を置く。踏み出しかけた教師を制して、ラッセルがやれやれと足を向けた。それに気付いて、クリードは牽制して細い腕を振り回す。ラッセルは難なくそれを掴んで、軽い体を引きはがした。「だだをこねるものではありません。早く部屋へお戻りなさい。先生が待っていらっしゃる」
「放せ! 無礼者っ!」
「聞き分けのない」
 暴れるクリードを取り押さえ、ラッセルは僅か身を屈めた。「──子供の見るものではありませんよ」
 突き放すように叱咤して、教師の方へと引きずっていく。クリードは足を踏ん張って、がむしゃらに抗った。だが、大人の腕力と子供の抵抗、力の差は明白だった。部屋へ踏み込んでいた女性教師に難なく身柄を引き渡す。
「お部屋へ」
 目線で廊下を指し示し、ラッセルは退室を促した。クリードは手足を振り回して暴れたが、今度は教師も強く掴んで放さない。
「さあ、クリード様、参りますよ」
 後ろから強く抱きすくめられ、足が宙に浮いていた。クリードは喚き散らし、両の手足を力の限りにばたつかせるが、抵抗空しく徐々に廊下へと引きずられていく。ラッセルは目を眇め、冷然とそれを眺めている。
「──貴様、──貴様、」
 クリードは瞳を怒らせて、憤然と顔を振り上げた。
「──許さんぞ! 貴様あっ!」
「お邪魔しますよお!」
 張りのある大声が轟いた。庭──いや、テラスの方だ。
 一同怪訝に振り向くと、いつからいたのか男が一人、開け放ったテラス戸にもたれていた。整った顔立ち、長い茶髪を背で一つに束ねている。呆気に取られた面々を眺めて、その頬を不敵に歪めた。
「ゆ、遊民!」
 ぎょっ、と女性教師が顔を強張らせて後ずさった。
「……ローイさま」
 長椅子にへたり込んだまま、サビーネは唇をわななかせる。ローイはそれを一瞥し、中央のラッセルに目を戻す。ラッセルは憮然と口を開いた。「──なんだ、君は」
「俺? 俺はこの方のお友達さ。今日はこちらさんとお茶をご一緒する約束でしてね」
 扉にもたれた背を起こし、ローイは軽く肩をすくめる。つかつか室内に踏み込んで、サビーネの横に脚を組んでドサリと座った。「なっ、サビーネちゃん」
 肩を素早く抱き寄せて、驚いて見返したサビーネに、にっこりと笑いかける。その目を冷ややかにラッセルに戻した。「そうしたら、妙な輩が入り込んで無作法を働いたみてえじゃねえか。驚いたのはこっちだぜ」
 ラッセルは眉をひそめ、腹立たしげにローイを睨んだ。「口のきき方に気をつけたまえ。私を誰だと──」
「あー知ってるよ、あんたのことは」
 相手の威嚇を挑発的に遮り、ローイは辟易したように吐き捨てる。「野心家の伯爵様だろ」
 隣のサビーネを振り向いた。
「おやおや、可哀相に。姫君はすっかりお疲れのようだ。申し訳ありませんが、とっととお引き取り願えますかね、伯爵?」
 芝居がかった調子で茶化すが、その目は決して笑っていない。ラッセルは冷ややかに見返した。
「君に言われなくても帰るところだよ、クラウン卿、、、、、。──では、サビーネ」
 冷ややかな皮肉を投げつけて、開け放った扉に踵を返した。クリードを抱いて突っ立ったままの教師の脇を「失礼」とすり抜け、薄暗い廊下に憤然と出て行く。
「──あ、お見送りを」
 ややあって、サビーネが我に返って立ち上がった。慌てて小走りで部屋を出る。
「お待ちになって、ラッセルさま」
 玄関に向かうラッセルを追い、サビーネはおどおど呼びかけた。当然気付いているのだろうに、ラッセルは足さえ止めず、振り向くことなく歩いていく。大股で歩くラッセルは速く、長いスカートのサビーネは中々その背に追いつけない。長い廊下を通り抜け、玄関ホールに辿り着き、やっとの事で掴まえた。
「ラッセルさま!」
 勢い込んで声をかけ、サビーネは平身低頭身を折った。「も、申し訳ございません。ご無礼を」
「何故、貴女が謝るのです」
 ラッセルは背中で答えた。腹立たしげなその声音に、サビーネはおどおど背けられた背を窺う。「あ、あの、クリードが失礼なことを」
「構いませんよ。いとけない子供の言うことです。このところ周囲が慌しいので、気が昂ぶっているのでしょう」
「──ですが、あの、ローイさまも」
「あなたが詫びる必要はない。あの男が勝手にしたことです」
 くるり、とラッセルが振り向いた。
「まったく貴女という方は──。そんな顔をなさらないで下さい。むしろ、詫びねばならないのは私の方です」
 降参するように両手を上げて、にっこりと笑う。
「お許し下さい。無体な真似をして申し訳ありませんでした。あなたが良いと仰るまで二度としないと誓います。この私の誇りにかけて」
 相手の豹変振りについていけずに、サビーネは唖然と立ち尽くしている。ラッセルは「──けれど、サビーネ」と言葉を続け、一瞬、真剣な顔をした。
「わたしは諦めませんよ」
 間近で真摯に見据えられ、サビーネは小さく息を詰める。ラッセルはにっこり笑って身を折った。
「では、ごきげんよう、麗しの姫君。近い内にいずれ又」
 優美な仕草で会釈をし、悠然と館を出て行った。
 
 
 
 
 

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