CROSS ROAD ディール急襲 第2部 4章5話2
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 庭から入り込んだ遊民を害虫の如くに警戒し、中年の女性教師は眉をひそめ、避難するように遠巻きにしている。本来の目的である子供の身柄は確保したにも拘らず、さっさと部屋を出ないのは、サビーネの様子を見に行ったローイが扉付近に陣取っていて、出口を塞がれているからだ。
 長い廊下の先を曲がってサビーネの姿が消えてしまうと、ローイはやれやれと振り向いた。腕を無意識にさするクリードを、ひょい、と身を折って覗き込む。「よう、坊主。大丈夫か」
「……うん」
 クリードは気もそぞろに返事をした。上気したその顔は、ラッセルが消えた廊下の先を未だ憎々しげに睨めつけている。同様に廊下を見やって、ローイは呆れたように舌打ちした。「たく、大人げねえよな、涼しい顔して女誑しが。お前、まじで大丈夫かよ、結構強く掴まれたろ」
 教師の手に抱えられたまま、クリードはやはり、じっと廊下を睨めつけている。食い入るような横顔は、労わりの言葉も耳に入ってはいないようだ。幼いその口が小さく動いた。
「──私はもう行かねばならぬ。後のことは、お前に頼むぞ」
 え? とローイは瞬いた。思い詰めたような硬い表情、五歳やそこらの子供が口にするには、いささか大仰で硬質な言葉だ。不審に思い、顔を見返す。「お前、それ、どういう意味──」
 尋ねた相手はクリードであるが、ギッと教師に睨まれた。引きつった顔の女教師は壁に張り付き、犬でも追い払う仕草でシッシと手を振っている。眦(まなじり)吊り上げ、近くに寄ると感染する、とでも言わんばかりの剣呑な表情。ローイは「……あァん?」と目をやって、頬を歪めて不敵に笑った。すくい上げるようにじろじろ見ながら、わざわざそちらへ寄って行く。いよいよ睨み据える女教師に、くい、と顎を突き出して、両手をおっ被せるように振り上げた。
「ばあっ!」
 ぅぎゃっ、と教師が逆毛を立てて飛び上がった。クリードの体を引っ抱え、一目散に逃げていく。
 慌てふためいたその様子をローイは、くっく、とおかしそうに笑って、くるりと部屋に踵を返した。誰もいなくなった室内を眺め、壁の長椅子に背を投げる。脚を組み、両腕を背もたれにもたせかけ、寛いだ態勢で眺めていると、開け放った扉の先にサビーネの姿が現れた。物思いにでも浸っているようで、俯き加減で歩いてくる。眺めやる視線を感じたか、ふと、サビーネが顔を上げた。瞠目し、一転、両手を振って駆けてくる。「も、申し訳ありません、ローイさま。あの──!」
「なに? "ツクヨミ"ってのは」
 クリードの消えた廊下の先を、ローイは顎の先で指す。「さっき坊主が言ってたの、あんたのことだろ」
 サビーネは面食らった顔で足を止めた。肩越しに廊下に視線をやり、、困惑顔で微笑む。「ええ、どうも、そうらしいのです。なにやら急に、そのように呼ぶようになりまして」
「なんの名前?」
「……さあ、わたくしには」
 それでも記憶を思い起こすように、サビーネは開け放ったテラスから庭に視線を巡らせる。「公邸から戻って以来、あの子、感じが変わってしまって。いつも何か警戒しているような顔をして、言葉使いもなんだか妙に大人びて──。それが当然なのかもしれませんけれど。だって、あれからしばらくは口も利けなかったくらいですもの。エレーンさんが目の前で、あんな風に怪我をなされば誰だって──」
 よそ見をしていた目を戻し ローイはまじまじサビーネを見た。「怪我したんだ? あの娘」
 へー知らなかったなー、との呟きに、はっ、とサビーネが我に返った。
「あ、──い、いいえ──いいえっ!」
 慌てて懸命に首を振る。すぐに、たどたどしく話題を代えた。「ち、近頃はクリードが傍を離れようとしないもので、少し困っておりますの」
「俺、頼まれちゃってさー、あんたのこと」
 急に話題を切り替えられて、は? とサビーネは首を傾げる。
「だから、あの坊主がよ、俺に後を頼むって」
 ローイは顎で廊下を指して、「なんで俺よ? 初対面だぜ」とサビーネに訊く。サビーネは返答できずに「……さあ」と戸惑いしきりで首を捻った。彼は疑問で一杯なのだろうが、そう続け様に問われても、おっとりしたサビーネにはついていけない。「──あの」とサビーネが腑に落ちない顔で首を傾げた。「お茶のお約束、してました?」
「細かいことは気にすんなよ」
 無論、勝手に予定に入れたんである。ふと気付いたように、ローイは顎で隣を指した。「突っ立ってないで座れば?」
「い、いいえっ!」
 ぎくり、とサビーネが飛びのいた。両手を胸で掻き合わせ、絶対拒絶で首を振る。
「俺と座るの、そんなに嫌?」
 ローイはきょとんと見ていたが、「ま、いっか」とこだわることなく腰を上げた。陽光溢れる緑の庭にさっさと出て行く。「俺も庭の方がいい。狭っ苦しい部屋の中は、どうも息が詰まるしな」
 はっと我に返って、サビーネは瞠目した。
「い、いいえっ! いいえ、違います! そうではないのです! ローイさま──っ!」
 遅れた言い訳をする間もなく部屋に一人取り残されて、サビーネは後を追って、慌てて緑の庭に出る。ぶらぶら先を歩いていたローイが肩越しにサビーネを振り向いた。
「あんたもこっちのが好きだろう?」
 サビーネは面食らって足を止めた。緑の庭に歩み出たローイは青銅のテーブルを素通りし、いつもの出入口へと向かっている。鉄柵の境壁に辿り着くと、立ったままで上体を折り、足元の植栽に手を伸ばした。何やらごそごそ探っている。ひょい、としなやかな体を起こすと、掌の上にはキャベツ一個分ほどの紙袋。ローイはにっこり振り向いた。
「さあさ、お茶会しよう。お茶淹れて」
 お茶請けは今日も、美容の味方、芋である。
 
 ガーデンテーブルでは、先客のティーカップをメイドが盆に片付けていたが、ローイは構わず椅子を引いた。腰をかけつつメイドに目を向け「あ、俺にもお茶ね」と喫茶店の如くに笑顔で注文、大きな態度で脚を組む。メイドが戸惑い顔で一礼し、盆を持って下がってしまうと、サビーネは向かいにおずおず座った。ローイと改めて対座して、真っ赤になって深く俯き、スカートの膝をいじくり回す。ローイは頭の後ろで手を組んで、空を仰いで椅子にだらしなく寄りかかり、靴の爪先をぷらぷらさせている。日頃お喋りなこの彼が、何故だか今日は、まるで口を開こうとしない。
 重い沈黙がしばらく続いた。サビーネは唇を噛んで躊躇している。だが、胸の内の一番の憂慮を、消え入りそうに小さな声で、ようやく尋ねた。「……あ、あの、ローイさま……いつから、あそこに……」
「ずっと前から。つか、むしろ初めっから?」
 平然としたローイに気負いはない。サビーネは身を硬くしてスカートの膝を、ぎゅっ、と掴む。真っ赤にのぼせたその顔を上げることもままならず、しばらくもじもじしていたが、ようやく思い切ったように上目使いで盗み見た。「……ご、ご、ご覧に、なりました?」
「うん、見た、全部」
 ローイはあっさり頷いた。顎で室内の長椅子をさす。「そこのソファーで、あいつとやってた」
「やってませんっ!」
 サビーネは弾かれたように見返した。唇を噛んで涙ぐむ。「……どうして助けて下さらないの」
 ちら、とローイは一瞥した。「そりゃ、あんたがどんな顔するのか見たかったし」
「──なっ!」と赤面、サビーネは硬直。
「それに、フリかもしんねーし。そんなとこ割って入ったら、俺、いい面の皮だろ」
 ローイは首を右に倒して、やれやれと頭を掻いた。「つか、あんなこと目の前でおっ始めたら、誰だってやっぱ、見るだろ普通は」
「見ません普通はっ!」
 普段はおしとやかなサビーネが、拳を握って食ってかかる。とうとう感化されたようだ。
 飄々としたローイの顔を、サビーネは、はあはあ息荒く睨んでいる。はっ、と弾かれたように身を引いた。警戒しきりの面持ちで、じりじり椅子ごと後ずさる。ローイは、ちら、とそれを見咎め、やーれやれと手を振った。
「あー、平気。一仕事してきた後だから、そんな元気ないって」
 ガチガチの警戒をふと解いて、サビーネは目を瞬いた。先日観た彼の激しいステージをふと思い浮かべたか、そそ、と戻って座り直す。無礼な態度を詫びるように、労わりの視線で向かいを見た。「……大変なお仕事ですものね」
「まあね。──たく、クタクタだぜ、あのババア」
 舌打ちでごち、ローイはかったるそうに首を回して、肩をとんとん叩いている。サビーネは「ばばあ?」と腑に落ちなげな顔で固まっている。
「ま、取り込み中なら出直すか、とも思ったけどよ、あのガキ、ばかに怒ってたし、腹黒伯爵のやり口も、キザで嫌みで気に食わなかったし」
 ふと、サビーネが聞き咎めた。「ラッセルさまとご面識が?」
 "腹黒"については、あっさりスルーしたようだ。ローイはきょとんと振り向いた。「いや、知らねーけど?」
「でも今、あの方を伯爵とお呼びになって」
 ──ああ、そっか、と返しつつ、ローイは、ぐるん、とかったるそうに首を回した。「あんたが興行観に来た時に、小屋であいつを見かけたからさ。だから、知らねーけど見たことある。あん時、出口にいた奴だろ。あの妙な伯爵のお仲間の──」
「チェスター候は侯爵様です」
 違う、とサビーネは首を振る。"妙な"との形容だけで相手を特定したようだ。ローイは瞬いて見返した。
「へー、そうなんだ?」
 トップハットとフロックコート。そうした身形でいる者は、全て"伯爵"との認識らしい。
 メイドが盆を掲げて歩いてきた。丁重に茶器を置いていく。ひょい、とローイは土産の芋を持ち上げた。「……あー、あんたも食う?」
 ぎょっ、とメイドが身を引いた。ローイはつくづく芋を見る。「本当はジジイの分だけど、今日はいないみたいだしさ。あんたにやるよ」
 メイドはぶんぶん首を振り、館の中に逃げ戻る。ローイは軽く肩をすくめた。「繊維質は腹にいいのによ」
 事の一部始終を目撃されて実に気まずいサビーネは、俯きがちの赤面でカップを静かに啜っている。ローイは気にした風もなく、土産の芋を食っている。
 会話がまるで弾まぬままに、しばし、もそもそ時が流れた。というのも、一人でも喋る賑やかなローイが、今日はあまり喋らないからだ。そわそわ目を逸らしつつ、しきりに脚を組み替えている。ちら、とサビーネを一瞥した。「──あんた見てると、なんかもやもやすんだよな、なんか妙に疼くっつうか」
 ガタガタ椅子ごと隣に移動し、サビーネの背に腕を回す。にんまり笑って、ひょい、と肩を抱き寄せた。「なー、やっぱ俺にもして」
 ぎょっ、とサビーネは身を引いた。手近な焼いもをあたふた掴み、便乗者の頭を撃退する。ボコっと芋が真っ二つ。正しい対処法を身につけたようだ。ローイは頭を擦ってサビーネを見た。「……さっきと待遇、なんか違わね?」
 だが、サビーネに余裕は微塵もない。引き寄せようとするローイの手と戦っている最中だからだ。肩を抱く手はあくまで放さず、ローイは口を尖らせた。「不公平だよな〜。あいつばっかり」
「不公平じゃありませんっ!」 
 即刻振り向き、サビーネはキリキリ言い返した。肩に張り付く長い指を、指で摘んで一本一本引き剥がしている。一人奮闘しているサビーネを見て、ちぇっ、とローイは手を放した。「先にツバつけたの、俺なのによ」
 不貞腐った顔だ。
「お、お、男の方って、どうしてすぐに、そういうことを──!」
 肩ではーはー息をつき、サビーネは即刻立ちあがる。曰くありげな相手の愚痴を聞き咎める余裕はないようだ。ローイはくったり卓に伸び、嘆息しながら天板を抱えた。即刻避難したサビーネに、ちら、と顔を傾ける。「──俺のこと、覚えているか?」
 サビーネはしどもど見返した。ピンとこないという顔だ。「……まー、ガキだったもんな」とごちながら、ローイはひらひら手を振った。「んーん、いい。なんでもない。──座れば?」
 両手を胸で掻き抱き、サビーネは非難の目で後ずさる。ローイはかったるそうに頭を起こした。「ふざけただけ。もうしない」
 サビーネはしばらくためらって、きっちり椅子を離して腰を下ろした。「──もう。何故そんな悪ふざけをなさるの。どうして、そんな乱暴な──」
 愚痴の途中で瞬いて、細い指先を口元に当てる。くすり、と笑って、遠く南の空を眺めた。「……ファレスは、どうしているかしら」
 ぽかん、とローイが見返した。「なに。知り合い?」
「ええ。遊びに来て下さって」
「遊びに? あいつが? こんな何もないとこに?」
 庭をきょろきょろローイは見回す。サビーネが瞳を輝かせた。「ファレスとお友達でいらっしゃるの?」
 ああ、とローイは見返した。「ガキの頃に一緒でさ、何度もあいつに助けてもらった。いきなりいなくなって、いつの間にか《 ロム 》になってたけどな。つか──」
 ふと気付いたように、サビーネを見た。
「なんでファレスの時だけ呼び捨てなんだ? こっち呼ぶ時は、いつもあんなに馬鹿丁寧なのに」
 不服げに指摘され、サビーネは「え?」と瞬いた。「……そういえば」と首を傾げる。「何故かしら。ファレスは、初めからファレスだわ」
 形の良い眉を、むっとひそめて、ローイは面白くなさげに口の先を尖らせた。又も急に不機嫌になった向かいを、サビーネは戸惑って覗き込む。
「……ローイさま。どうなさったの?」
 ローイが素早く振り向いた。サビーネの肩を引っ掴み、顔を間近に近づける。
「西の最果てに行かないか」
 一瞬警戒して息を詰めたサビーネは、意表をつかれて、ぽかん、と小さく口を開けた。「……西の、最果て?」
「ああ。途轍もなくでっかい世界を、俺があんたに見せてやる。この狭っ苦しい鳥かごから、あんたを外に出してやるよ。俺があんたを自由にしてやる」
「……わたくしを、自由に?」
「そうさ。これっぽっちの箱庭で一生を費やすなんざ馬鹿げてる」
 ローイは間近で凝視して、甘い声で囁いた。
「──サビーネ。世界はあんたが見ているような、こんなシケたもんじゃない。賑やかな街があって、色んな奴がいて、岩だらけの山があって、でっかい川が流れてる。海は抱えきれない程でっかくて、沖からきた荒波が何度も浜に打ち寄せる。薄暗い大地が朝焼けに染まって、黒い山端に陽が昇る。見渡す限り何もない空と大地の大平原で、冷たい風に吹かれていると、人がどんなにちっぽけか、肌身に感じて実感できる。たらふく食って存分に笑って面白おかしく暮らすんだよ。辿り着いた西の大地で、俺の──」
 ふと、ローイは口をつぐんだ。じっと眉をひそめ、薄く開けた唇をためらうように舐めている。サビーネは小首を傾げて促した。「"俺の"──なんですの?」
 ふと気付いたように、ローイは隣を見返した。「俺、の……」
 うわ言のように惰性で続け、しばらく躊躇し、溜息をついて頭を掻いた。
「──あーっ! やめだやめだ!」
 左の足を腿に上げ、どかっと態度悪く寄りかかる。急に話を打ち切られ、サビーネは困惑顔で窺った。「ローイさま?」
 ローイは前方の生垣を睨みつけ、不貞腐ったように口の先を尖らせている。サビーネがおろおろまごついていると、苦々しげに舌打ちした。「──あんたはさ、ここが似合うよ」
 苦虫噛み潰した顔で言い、一気に大きく息をつく。
「あんたには、こういう場所が似合うんだよ、静かな館の綺麗な庭が。食いもんにも寝るとこにも不自由しねえで、優雅にお茶して、水まいて、庭の陽だまりで葉っぱ眺めて──。あんたみたいな女はさ、鳥かごから出ちまったら、生きられない鳥なんだよな」
 噛み締めるようにそう言って、上げた爪先をぷらぷらさせる。苛立ったような横顔を、サビーネは困惑して見つめた。その機嫌を窺うような視線に耐えかねたように、ローイはもどかしげにサビーネを振り向く。開きかけた口をふとつぐんだ。警戒するように動きを止め、目をすがめて庭の一点を凝視している。
「……あの、何か」
 サビーネはおどおど首を傾げた。「あの、何かお気に障りまして?」
「そうじゃない。今、そこに何か──」
 ローイは眉をひそめて首を振る。そう、緑の庭の片隅で、ひらり、と白が翻った。
 
 
 道行く者が怪訝そうな目を向け、肩をすくめて行き過ぎる。街角の人だかりの中心には、二人の警邏を従えたフロックコートの貴族が一人、杖をかざして人垣に熱弁をふるっている。
 チェスター候は街頭に立ち、遠巻きにする市民に呼びかけていた。軍が再び迫っている、力を合わせて追い払おう、と。
 街の抗戦に協力するに当たり、ギイは条件を突きつけた。市民を兵として動員するから、その同意を取り付けてこい、というのだ。
『 国軍を追い払おうにも、兵がなけりゃどうにもならない。あんたにできるかい、キリギリスさん 』
 そして、戦になれば、半数が命を落とすことになるだろう、とも付け足した。
 市民は胡散臭げに遠巻きにしている。チェスター候は訴えた。「──国軍を撃退するのだ! 皆で共に戦おうではないか!」
「どうせ又あんたらは、隠れて見ているんだろうが」
 群集から白けたような野次が飛んだ。慌てて袖を引く女房にも構わず、男は荒んだ目で冷ややかに言う。「お貴族様は屋敷で高みの見物か。まったく、いいご身分だねえ」
「そういや街道が、馬車の行列で渋滞してたぜ」
 一人の罵倒を皮切りに不平不満が噴出した。
「他の貴族はどうしたい! いつもなら、夏が終わるまで居座るくせに! 見捨てて逃げたんじゃねえのかよ」
「あんたらは、いつだってそうだ。他人事だと思ってよ!」
「前の戦の時だって、全部済んでから出てきやがってよ。しかも、助けてくれた連中にひでえ暴言吐きやがって。あの時なんて言ったのか、あんた今でも覚えているかよ!」
「……わ、私は、……皆の為に……」
 チェスター候はたじろいだ。市民達の凄まじい怒りに愕然と目を瞠る。彼にとっての領民とは、我が子も同然の存在だった。一方、何かと問題を起こす遊民とは、言うなれば、可愛い我が子の喧嘩相手のようなもの。だからこそ、あの時も、市民の利益を代弁し、盾になった筈だった。一般の認識では、遊民はならず者の集団だ。物を盗み、諍いを起こし、社会に害悪をまき散らす無法者の集まりだ。だから自分が盾になり、市民達を守ろうとした。そうしたつもりだった。それが──。
 市民からの口汚い罵声に包まれながら、チェスター候はふと思った。あの時、市民は丸腰も同然だった。対する遊民は既に武器を携帯していた。そうだ。それを危険と思えばこそ、早々に武器を取り上げようとしたのだ。派手な衣装の遊民達と街で対峙した、終戦直後を思い出す。彼らに向けられた憎々しげな表情を。
 何故だろう。それ程いがみ合っているというなら、何故、あの武器を使わなかった。積年の恨みを晴らすには絶好の、仕返しするには又とない千載一遇の好機だったろうあの時に。
 
 人だかりから少し離れた街角の物陰、店裏に出された木箱に座り、傭兵姿の男が二人、先程から喫煙しながら、その様子を見物していた。
「……こりゃ、やっぱ無理っぽいですかね」
 街角から様子を一瞥し、アルチバルドは建物の壁に寄りかかった。
 案の定、チェスター候は苦戦していた。本来陣頭に立つべき貴族達は既に街から逃亡しており、先の戦で信用をなくしたチェスター候は、市民からの協力を得られない。むしろ、両脇で警邏が見張っていなければ、たちまち裏路地にでも引っ張り込まれて、袋叩きにでも遭いそうな雰囲気だ。同じく木箱に腰掛けたギイは、偵察するアルチバルドの隣で、指先で紫煙を燻らせている。素気なく口を開いた。
「軍に対抗しようにも、本隊は出払っている。市民は素人ばかりで使い物にならない。暇なバードを狩り出そうにも、すっかりへそを曲げちまっている。ああなっちまっちゃ金輪際協力しねえな。つまり手駒は八十弱のロムのみだ。その上こっちには多数の捕虜、只でさえ少ない人員の内から、そっちの見張りにも人を割かれる。踏んだり蹴ったり。圧倒的に戦況は不利だな」
「なら、なんで手ぇ貸す気になったんです?」
「──そんな約束はしてねえよ」
 ギイは眉をひそめて紫煙を吐いた。街頭演説に精を出すチェスター候を、アルチバルドは親指でさす。「でも、あれ、頭(かしら)の差し金でしょ」
 頭の後ろで手を組んで、ギイは咥え煙草で寄りかかった。
「ガスパルの野郎が店を教えちまいやがってよ。──ほら、おっさん、前に指令棟に来ただろう。でかい鉢持って、くそ真面目な面してよ。あの時、奴が案内してきたんだが、あの珍妙な様が妙にウケちまったらしくてな、俺の居場所をばらしやがった。で、おっさんが乗り込んで来ちまって、流れでそういう羽目になった」
 どうせ、また来るだろうから寂れた酒場に隠れていたのに潜伏場所をばらされたのだ。アルチバルドはくすくす笑った。「ま、俺も、ああいう単純なのは好きですけどね。──だって" 褒めてとらせる、支配人を呼べ! " ですよ。素面じゃとても言えませんよ普通」
 くっくっく、と腹を抱えて笑い出す。街角から顔を出し、街頭でがなるチェスター候を眺めやった。「でも、どうせ勝ち目はないんでしょ」
「ないな」
「でも、市民の協力を取り付けてきたら、この話、受けるんでしょ」
「たぶん、ねえよ。あのざまだ。万が一にも集まっちまったら、まあ、やるしかねえけどな」
 げんなり、アルチバルドが振り向いた。「ねえけどな、って戦は博打じゃないんすよ? 振り回される身にもなって下さいよ」
「それでも、すべき価値ある戦、ってのはあるさ」
 路地の空に紫煙を吐いて、ギイは木箱を立ち上がった。「駒を見捨てない主は貴重だ。生かすに足る」
「……はあ?」
 解散し始めた人だかりを見渡し、ふと、ギイは視線を止めた。
「──今のは、」
 建物の陰になった薄暗い路地で、影が素早く翻ったのだ。しかも、視線が合ったその途端に。一瞬だけ見咎めた体格は、男のそれのようだった。あの素早い身のこなしは、そこらの市民のものではない。思わず視線を捉える程に、男がじっと見つめていたのは──。ギイは怪訝にチェスター候の横顔を見る。
「旦那様! 大変でございます!」
 人が引きつつある街角から、甲高い声が上がった。小太りの黒服が転びそうに駆けてくる。尋常でない慌てぶりだ。それを認めて、チェスター候は小首を傾げた。
「おお、どうした、セバスチャン。そんなに慌てて何事だ」
 息せき切って駆けてきたのはチェスター家に仕える執事のセバスチャンだった。息を整え、唾を飲みこんで顔を上げる。切羽詰った表情だ。
「た、た、大変でございます!」
 セバスチャンから事情を聞いて、チェスター候の表情がみるみる凍り付いていく。その話を漏れ聞いて、ギイとアルチバルドは唖然と顔を見合わせた。領家の嫡男クリードが忽然と姿を消した、というのだ。
 
 
 
 
 

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