■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部 4章5話3
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陽の当たるトタン屋根で、猫が大きくあくびをしていた。それにつられてあくびをしながら、ギイは涙目で首を回した。餌をねだって足元に寄って来た野良猫に、昼飯の残りのパンの耳を投げてやる。
「──それにしたってよ」
広場の様子を街角から覗きつつ、ギイは解せぬ顔で首を傾げた。宗家嫡男が失踪したと聞き、様子見に行った裏庭で、思わぬ場面を目撃していた。子供の母親であるサビーネが全く取り乱してはいなかったのだ。急ぎ駆けつけたチェスター候に、彼女は微笑んでこう言った。
『 あの子は見つけたのだと思います。自分がいるべき本来の居場所を。──それは、わたくしは寂しいけれど、でも、仕方がないわ 』
誘拐ではない、と彼女は思ったようだった。だが、とギイは息をつく。「仕方がない、で済むような話か?」
我が子が失踪したというのに。
か細い声でミャーミャー鳴いて足元に擦り寄る野良猫を「もう、ねえよ。さ、行った行った」と両手を上げて追い払い、ギイは視線をそちらに戻す。街角の向こうの広場では、あのチェスター候が今日も街頭演説に勤しんでいた。もっとも、それを眺める市民は今日も、胡散臭げに遠巻きにし、ともすれば罵声を浴びせかけるという大した歓迎ぶりではあるのだが。一日中声を張り上げ、それが既に二日目ともなれば、演者の声も枯れ始めている。チェスター候は額に汗して見るからに奮闘しているが、護衛と思しき二人の警邏は、こっそり、あくびを噛み殺しているような有様だ。麗らかすぎる午後の日差し、蔓延する白けた空気、演説を取り囲む仏頂面。何もかも空回りしているのが見てとれた。壁に頭をもたせかけ、路地裏の狭い空を仰いで、ギイは長く紫煙を吐いた。「──志は高くても、人は理想ばかりじゃ動かない。世の中は甘くはないな、心根のまっすぐなキリギリスさんよ」
やはり、協力者は現れない。
バラバラ騒がしい靴音がした。指先で灰を落としつつ、ギイは目を眇めて怪訝に窺う。音源は向こうの街角だ。十数人の集団が憤然と手を振り、広場に向けて駆けてくる。先頭の顔に見覚えがあった。口をへの字に引き結んだ小太りの黒服、チェスター邸の執事、セバスチャンだ。後続の服装から察するに、後に続くは従僕、園丁、白服のコック──。
「旦那様っ!」
ぽかん、と見やったチェスター候の周囲に、ぐるり、とかばうように並び立った。広場に群がる野次馬を、一団は憮然と睨みすえる。若い従僕が声を荒げた。「お前ら、なんて恩知らずな真似を!」
「──なあにが恩だよ!」
忌々しげに唾を吐き、恰幅のいい肉屋の店主が憮然と腕組みで言い返す。「その人が一体、俺らに何をして下さったってんだ」
そうだそうだ! と群衆から同意が飛び交う。肉屋に飛びかかりかけた従僕を制して、先頭のセバスチャンが進み出た。冷ややかな一同を見渡して、声をわなわな震わせる。「……お前達は知らないのだ。旦那様が何をして下さっているのかを」
ずい、と進み出、手を広げた。
「旦那様は水道を引き、診療所を作って下さった。学校を作り、警邏を置いて巡回させ、我々の安全に心を砕いて下さっている。ご自分では何も仰らないが、街の公共事業全般は、我々が暮らす生活基盤は、旦那様が私財を投げ打ち、常に整えて下さっているのだ。それもひとえに、我ら領民を愛すればこそのことではないか!」
市民の反応は冷ややかだった。哀訴するもせせら嘲笑われ、だが、それでも執事は小太りの体を乗り出して、真摯に切々とかき口説いている。
「……へえ、驚いたな」
ギイは軽く目を瞠り、賞賛の口笛を吹いた。「援軍が現れたぜ」
旦那様と呼んでいるから、あれらは全てチェスター邸の使用人らしい。主人の連日の窮状を見かね、仕事を放り出して駆けつけたらしい。だが、給金で雇われただけの使用人が、本来ならば対立関係にあろう筈の主人によもや味方しようとは。口端を歪め、ギイは苦笑いで呟いた。「──やってみなければ分からない、か」
世の中、何が起こるか分からない。
「──また見てるんすか。まったく、頭(かしら)も物好きですね」
呆れたようにかかった声に、ギイはふと目を上げる。男が隣に滑り込んだ。向こうの広場をなおざりに窺い、白けた顔で肩をすくめる。「この件からは手を引いたんだし、あんないけ好かない野郎はほうっておけばいいじゃないすか」
部下の言い草に肩をすくめ、ギイは頭の後ろで手を組んだ。「あのおっさんなら、或いは奇跡を起こすんじゃねえかなあ、と思ってよ」
「困った時だけ助けてくれったって、そりゃ甘いってもんですよ。現に、前の時に見捨てたから、ああして突き上げ食らってんでしょうが」
建物の隙間の空を眺めて、ギイは長く紫煙を吐いた。「どんな悪人にも、改心する一瞬てのがある。なんだか分かるか」
のどかな広場を窺いつつも、ギュンターは、さあ、と気のない返事をする。「まあ、ベタですが、他人に優しくされた時だとか?」
「悪夢から覚めた直後と、猛烈に感動した後だ。──もっとも、あれは悪人てんじゃないがな」
苦笑いで背を起こし、ギイは前屈みの腕を膝に置く。「利権に群がり悪事に加担するどころか、むしろ厭うて何も知らない。もっとも、上の無知ってのは罪が重いがな。被害が甚大になるだけに」
真面目な調子に改め、続けた。
「あの男が、最も恐れるのは何だと思う」
ギュンターは面食らった。視線を軽くさ迷わせ、困惑したように小首を傾げる。「さあ。体面を失うことすかね」
「 " 領民が飢えること " さ」
灰を軽く叩き落して、素気なく続ける。「あれは、とてつもなく変わっているが、意外にも他人の上に立つ器だ。ふらふら遊び暮らしてはいても、要所はきっちり押さえている。食うってのは何より大事だ。飢えることがなくなって、人は初めて、まともにものを考えることができる」
腰掛けた木箱から立ち上がり、街角から広場を眺めた。苦笑いして、短髪の頭をぼりぼり掻く。「ナメられてんな、完全に。にしてもよ、」
探すように周囲を見回し、何かに気付いた顔で、目を細めた。「──あれでいくか」
路地を出て、ギイはぶらぶら歩いて行く。足を向けたその先は、チェスター候の元ではなかった。別の路地だ。子供が数人遊んでいる。
まっすぐそこまで歩いていくと、子供の一人を掴まえて、長身の背を屈めた。たちまちバタバタ寄ってきた物珍しげな子供らに何やら話しかけている。子供達は熱心に見上げて、ギイの話を聞いている。ギイは隠しを探って手を出すと、子供の手を取り、手の中の物を渡した。子供は大きく頷いて、一斉に踵を返した。嬌声を上げてバタバタと、我先にと駆けていく。
駆け去る一団を見届けてしまうと、ギイは元の路地にぶらぶら戻った。ギュンターは怪訝そうに、今の路地を顎でさす。「なんです? あのガキどもが何か」
「いや、別に。ちょっとな」
不審そうな視線をやり過し、ギイは散りかけた群衆をやれやれと眺めた。「さて、どうしたもんだかな」
目を細めてしばし思案し、ふと、傍らを振り向いた。「ギュンター。隣の町、何人いるかな」
「……なんです、いきなり」
「市民の数だよ。ああ、正確には成人男性の数な。老いぼれも含んでいい」
「男の数? なんで又」
「ちょっとな。早急に調べてくれ。頼んだぜ」
お? と何かに気付いた様子で、ギイは点火しかけた煙草を踏み消した。広場の様子を眺めたままで、ギュンターの肩をぽんぽん叩き、広場に向けて街角を出ていく。
丁々発止舌戦中の使用人の盾の向こうに、チェスター候はぽつねんと、手持ち無沙汰そうに立ち尽くしている。これが終わらぬ事には、演説を再開できないのだ。喧々諤々主そっちのけで応酬している使用人の盾の横から、ギイはぶらぶら入り込んだ。
「よう。集まったかい、義勇兵は」
ふと、チェスター候が振り向いた。ゆっくり溜息で首を振る。「努力はしているのだが、中々うまくはいかないものだな」
向かいの商店の前に立ち、遠巻きにしているまるで気のない見物人に、ギイは視線を巡らせる。「時間はねえぞ。あと二日やそこらで軍が着く。それまでにどうにもできなけりゃ──」
「私は諦めん」
キャーキャーはしゃぐ楽しげな嬌声が後ろの街角を曲がってきた。子供達の一団だ。ソフトクリームを手に手に掲げ、よそ見をしながらひた走る。ふと、チェスター候は振り向いた。ぎょっと身を引き、後ろのギイにぶつかるようにしてたたらを踏む。
懐目がけて突っ込んだ数人の子供をとっさに抱えて、チェスター候は面食らって見下ろした。その腹の位置で、ぱっ、と顔を上げる子供達。「ごめんなさ〜い!」と口々に言い、わらわら四方に散っていく。
「……あーあー、やっちまったな」
呆れたようなギイの声に、チェスター候は我に返った。我が身を見下ろし、ぎょっ、と瞠目、後ずさる。上着とシャツの胸一面に、べったり何やらくっついていた。色とりどりのクリームだ。今の子供らの仕業らしい。濡れたシャツを指先で摘んで、チェスター候は、ぬぬ、とたじろぐ。ギイがその肩に手をかけた。「ほら、とっとと脱いだ脱いだ。天下の貴族様が人前でそんなもんを着ている訳にはいかないだろう」
「う、うむ……」
チェスター候は言われるがままに、あたふた上着の肩を抜き、シャツのボタンをもたもた外す。今日はいやに協力的なギイにそれをさっさと剥ぎ取られ、あっという間に下着のランニング一丁に。チェスター候は我が身を抱えた。ぶえっくしょんっ! と盛大なクシャミ。ギイは苦笑いで革ジャンを脱ぐ。「あんたは本当にひ弱だな。今は夏だぜ。ほら、これを着てな」
ばさり、とその肩に着せかけた。つられてチェスター候は袖を通す。「──お、おお、すまんな」
「どう致しまして」
チー……とジッパーまで上げてやる親切なギイ。さすがに、チェスター候は怪訝そうに見返した。「はて。今日はばかに親切だな」
「失敬だな。俺はいつでも親切さ」
ギイは喉元までジッパーを引き上げ、裾を引っ張り、身形を甲斐甲斐しく整えている。チェスター候は首を捻った。「何か、随分と重いのだが──?」
「こういう服はこんなもんさ。知っているか、こいつは商都の流行りなんだぜ」
「──なに。この小汚いジャケットがかね」
すぐさま、チェスター候は興味を示した。ギイは片頬引きつらせて舌打ちする。「"小汚"ねえは余計だろ」
「ふうむ。商都では、こうした衣服が流行っているのか」
しかし、チェスター候は聞いてない。それを着用した我が身の様をしげしげ訝しげに見下ろしている。「こんなぼろぼろの衣服が流行り……いやいや、この小汚さ加減が逆に味わいがあって良いのかもしれんな。何やら匂うような気もするが、やはり着古したようなこの感じが風格と渋みをもたらして……それにしても、いやに重いな……」などと一人ぶつぶつ品評している。早速食いついたその肩を、ギイは笑顔でぽんぽん叩いた。「ここで演説している間、なんなら、ずっと着ててもいいぜ。俺からの陣中見舞いだ」
「おお、そうか! すまんな、君!」
らんらん瞳を輝かせ、素直に頷くチェスター候。最先端のジャケットで街頭に立つ己の姿を想像したらしい。存外に気に入ってしまったらしく、革ジャンの表を惚れ惚れとした顔で撫でている。
じゃー精々頑張れや、とギイはなおざりに激励し、白けた顔で踵を返した。両手を隠しに突っ込んで「ほんと、まじで変わってるぜ、あのおっさん……」と一人密かに呟きながら、街角にぶらぶら引き上げる。
それと入れ替わるようにして、広場の背後の街角から、人影が足早に飛び出した。着込んだ上着から目を上げて、チェスター候はふと振り向く。突進してくる真正面、男の手で何かが光った。
銀光一閃。顔をしかめ、後ろによろけるチェスター候。言い合いを続ける市民と使用人は気付いていない。チェスター候は我が身を抱いてうずくまり、ガクリ、と石畳に膝を折った。
「──よし。仕留めた!」
口端を吊り上げニヤリと笑い、男は脱兎の如くにその場を逃げ去る。
絹を裂くような悲鳴が上がった。チェスター候の様子が変だと、ようやく気づいたものらしい。引き上げかけていたギイは、肩越しにそれを一瞥した。目端を過ぎる慌しい影。それ一つだけ明らかに異質、周囲と様子が違っている。隠しから手を抜きざま、護身刀を抜き払い、逃げるその背に踏み込むと同時に、一気に刃を薙ぎ払った。
もんどりを打って賊が倒れた。歯を食いしばった賊の手は自分の腿を掴んでいる。ギイはすぐさま身を起こし、鋭く広場を振り向いた。探るように周りを見、街角に声を張り上げる。
「──ギュンター! そいつもだ!」
指示した街角に影が走る。慌てて逃げる男の背に、すぐさま地を蹴り、躍りかかった。腕を捩じ上げ、地面にうつ伏せに取り押さえ、膝でその背に乗りかかる。チェスター候は我が身を抱いて、路傍に倒れ伏している。血の気の失せた蒼白な顔は、固く目を瞑っている。
「──お、おい! 斬られたぞっ!」
路上の市民がどよめいた。誰もが僅かに油断した一瞬の隙を突いた出来事だった。使用人達は目を瞠り、愕然と立ち尽くしている。方々で上がる女の悲鳴。男達がばらばら駆け出していく。動転と混乱を引きずって、街は猛々しい喧騒に呑み込まれた。
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