■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部 4章5話6
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ポケットに手を突っ込んで、ひょいひょい街を歩きつつ、アルドは空を仰いで口笛を吹いた。どうにもなりはしないのならば、精々ゆるゆる生きていく。この世はいつでも綱渡り。壊れ、破れた傘の下で。
上々の首尾を確認し、二、三の指示を出してしまうと、ギイは部下を伴って件の屋敷の裏手へ向かった。北上中の国軍は行軍の途上で立ち往生している。街道の首尾も上々のようだ。
チェスター候が件の屋敷を訪れていた。紳士の務めを果たすべく、子に失踪されたご夫人を慰めにやって来たらしい。ちなみに、金魚の糞であるかの如くに終日主人にくっ付いて歩いた屋敷の使用人一同は、仕事に戻るよう言われたか、今日は顔を見せていない。
緑溢れる庭の様子が鉄柵越しに見てとれた。チェスター候は意外な男と話し込んでいる。奇妙奇天烈な《 バード 》の長だ。風狂な歌舞伎者とお貴族様の取り合わせとは、どうにも突飛な感じだが、件の興行がきっかけで知り合いになったものらしい。もっとも、当初は和やかだった歓談は、徐々に険悪に変わりつつある。話の内容を吟味すれば、それも致し方のない事のように思われるが。
冷涼な北方にしては、このところは陽が強く、蝉がミンミン蒸し暑い。豊かに生い茂る植栽の影に身を隠し、アルチバルドは面倒そうに庭の様子を覗いている。ギイは暇潰しの嗜好品を懐に探り、ふと動きを止めて、呟いた。「──ああ、要するに動けなくすりゃいい訳か」
庭からアルチバルドが目を戻した。「今度はなんすか」
独り言を聞き咎められ、ふとギイは我に返る。「別に」と手を振ると、怪訝に見ていたアルチバルドは、黒い鉄柵の石の土台にあくびの涙目で座り込んだ。
ギイは未点火の煙草を口先でぷらぷらさせながら、考え考え、緑陰ざわめく路地をぶらつく。ここは絶えず火花を散らすシャンパールの前線ではない。トラビア終戦に伴って、結集している軍は引く。このところの政情不穏はあくまで今一時のもの。この一時を凌げればいい。ならば、北への派兵を律儀に殲滅する必要はない。つまり──
「ごきげんよう」
肩の下から声がかかった。明るく無邪気な女の声。
「……あー?」
ふと、それを見下ろして、ギイは仕方なさげに苦笑を浮かべた。「──見つかっちまったか」
口から煙草を取り去って、元の紙箱にしまいこんだ。ズボンの隠しにその手を突っ込み、小柄な彼女の笑顔を見る。執事やら使用人やらのチェスター邸の関係者は全く気づきもしなかったのに、勘定にも入れなかったこの彼女に、あっさり見咎められるとは。
後ろ手にして小首を傾げ、サビーネがにっこり微笑んだ。「どうぞ、中にお入りになって。お菓子を焼いておりますの。あちらの方とご一緒に、よろしければ、お茶でもいかが」
まるで邪気なく誘ってくる。気負いのない少女のようなその様に、ギイもつられて苦笑いした。「お気遣いをどうも、お姫さん。だが、遠慮しておくよ。甘いものは苦手でね」
まあ、とサビーネはか細い指を口元に当てた。「では、冷たいお茶だけでもいかがかしら。ここでお仕事は暑いでしょう?」
「知らない男を家にあげちゃ駄目だろう?」
きょとん、と大きな目を瞬き、サビーネは不思議そうに首を傾げた。「ギイさまは知らない方ではありませんわ。先日、チェスター候とお会いしたもの」
物怖じしない子供のように素直な物言いで抗議する。チェスター候と指令棟で面談した後、挨拶をしに寄ったので、確かに、彼女とも面識はある。
「ローイさま達もいらっしゃるし、チェスター候もお見えなの。大勢の方が楽しいわ」
「そいつは盛況だな。分け隔てなく愛情を注ぐのが、あんたの掲げる信条なのか?」
え? とサビーネは戸惑った。両手を隠しに入れたまま、ギイは小首を傾げて先を促す。「用があるなら、ここでどうぞ。俺に話があるんだろう」
サビーネは驚いたように息を呑んだ。あまりに素直な反応に、ギイは思わず苦笑いする。「ずっと見てたろ、俺のこと」
「……ご存知でしたの?」
「いや、あんたが自分でそう言ったからさ」
サビーネは胸で手を握り、鉄柵におどおど目を逸らす。歓談の様子をじっと見つめて、決心したように振り仰いだ。
「お願い致します。チェスター候を、どうか助けてさし上げて。ギイさまならば、何とかできると聞きました。お願い、どうか、あの方を」
ギイの腕に取り縋り、見下ろした顔を真摯に仰ぐ。「……お願い」
「あんまり、くっつかねえでくれるかな」
ギイは困った顔で笑いかけた。「縋るような目で見ないでくれよ。思考が散り散りになっちまう」
ぎょっ、とサビーネが固まった。「し、思考が?」
「……いや。真に受けるなよ」
返事に詰まって苦笑いし、ギイは、ぱっと離れた戸惑い顔をつくづく見やった。
「あんたは意外と豪胆だな。危なっかしそうに見えるのに、中々どうして肝が据わっている。恐らくは、この場の男の誰よりも」
庭で対峙する険悪な二人を一瞥し、目の前のサビーネに目を戻す。「ちょっと外に出ただけで、男どもが群がってきたか。まったく、あんたには恐れ入るな。だが、どれほど連中が競っても、相手を選ぶのは常にあんただ。そうだろう?」
サビーネは困惑顔で首を振った。「あの、何を仰っているの? わたくしは何も──」
「ああ、そうだろうさ。あんたは何もしちゃいない。なのに周りの奴らが勝手に騒いで、どうしてなんだか寄ってくる。実に不思議な現象だ。あんたはそう思わないか」
サビーネは困惑と警戒を瞳に浮かべた。
「何故、そんなことを仰るの?……あの、わたくし、これで失礼しますわ」
後ずさった肩を素早く掴んで、ギイは細い体を引っ抱えた。
「あんたに返事、してねえんだけどな」
顎を手荒く引き据えて、懐の顔を間近で見据える。驚いてみはった瞳を覗いて、訝るように目を細めた。「あんたの願いを叶えてやったら、褒美に何をくれるんだ? めくるめく享楽か? それとも遥かなる破滅への道か。──なあ、教えてくんねえか。どうしたら大人しくしててくれるんだ? まったく、あんたは手に余るよ。いっそのこと抱いちまうか、さもなくばいっそ」
「──放して!」
か細い悲鳴で、サビーネが胸を突き飛ばした。不意を突かれてよろけたギイは、捕らえ直すべく振り向いて、だが、踏み出すことを躊躇する。怯えた瞳によぎる軽蔑。サビーネは我が身を抱いて後ずさり、愕然とギイを凝視した。「……何をなさるの。そんな乱暴な方とは思いませんでしたわ」
声を震わせ抗議して、泣き出しそうに顔を歪める。髪を払って踵を返した。長いスカートを翻し、ばたばた一心に逃げていく。
「……やべ。やり過ぎちまった」
知らぬ間にこもった肩の力を苦笑いで抜き、ギイはグーパーして見送った。
開け放った裏口の向こうに、ひょっこり三つの頭が出た。泡だて器を振りかざし、丸いボールを片手で抱え、前掛けを粉だらけにした三人の《 バード 》。彼らの親分が庭にいるから、お供でついて来たらしい。そうして菓子作りを手伝わされた。彼女を捜しにきたようで、どれもこれも間の抜けた顔で、きょろきょろ裏道を見回している。
取り縋るように駆け込まれ、三人は驚いて彼女を保護した。すぐさま建物の中に入れ、雁首揃えてギロリと睨む。敵を正しく見分けたようだ。すぐにあたふた引っ込んだが。
胸の隠しから紙箱を出し、ギイは苦笑いで煙草を咥えた。噂通りの悪女というなら、捕らわれた不利など物ともせずに、むしろ近接した体勢を逆手にとって、我が意を通そうとしただろう。だが、そんな気配は全くなかった。邪心など一かけらも持ち合わせていない。目を閉じ、こめかみを指で押す。
「──わっかんねえ。演技なのかね、あれが」
無理にでも振り払わねば、たちまち取り込まれる"傾国"の力。けれど、とても魔性の者とは思えない。誘うでもなく命じるでもない。むしろ──。冷たい鉄柵に額をぶつけ、脱力して嘆息した。「……あー。畜生。かわいいな」
少女のように駆け去る細い背。誰からも愛される、ふわふわした頼りない生き物──。
「あーあー。泣かしちまって」
囃し声に目をやれば、アルチバルドがやって来ていた。ぶらぶら歩く肩越しに、路地の裏口を眺めているから、今の仕打ちを見かねたらしい。案の定、呆れ果てたように振り向いた。「なに苛めてんすか、あんな大人しそうな堅気さんを」
離れた壁で暇そうにあくびをしていたくせに、ちゃっかり聞いていたらしい。ギイは苦虫噛み潰し、うるさそうにマッチを擦る。「仕方がねえだろ。あの顔見てると、ついつい、うん、って言っちまいたくなるんだからよ」
信じられないものでも見るような目付きで、アルチバルドは胡散臭げに腕を組んだ。
「なにを気弱な。帝国を震撼させる策士様が。相手はか弱い女一人すよ。海千山千の性悪でもなし」
「だから質が悪りぃんだろ。たく、お前にも味あわせてやりてえよ、胸を抉られるような罪悪感と絶望的な喪失感を」
「だからー。にこにこ寄って来たんだから、愛想よく世間話でもして帰してやりゃあ済む話じゃないすか。あんなに脅して可哀相に。そんなことばっかしていると、いつか地獄に落ちますよ」
アルチバルドはじっとり非難の眼差し。部下さえ彼女の味方らしい。むしろ尻尾を振っている。千切れそうなくらいに全力で。アルチバルドは嘆息し、やれやれと裏口を見やった。「にしても、頭(かしら)の趣味ってわかんねえ。贔屓のおかちめんこより、あっちのがよっぽど上等ですよ。ああいう大人しいタイプは嫌いすか」
「馬鹿いえ。あれを嫌う男なんざ、この世のどこにいるもんかよ。本人が抜け殻みたいに無欲だからいいようなものの、もしも、その気になってみろ。世界だって動かせら」
煙草の先に点火して、ギイはマッチを緩く振り消す。アルチバルドが思い出したように振り向いた。「そういや──大丈夫ですかね、あんな人攫いに任せちまって。なんなら一っ走り行って追っ払ってきますけど」
「必要ねえよ」
ギイは投げやりに一蹴した。「格が違うぜ。女にとっちゃ奴らは下僕、お先棒を担いでいるだけだ。女の方が指一本触らせやしねえさ」
へ? とアルチバルドは裏口を見た。承服しかねてギイを振り向き、だが、文句を言いかけた口をつぐむ。思わぬ真面目な顔をそこに見つけて、とっさに怯んだものらしい。結局、肩をすくめて、肩越しの裏口に目を戻した。「で、何を言いかけていたんです? もしかして、口説いた挙句に振られたとかじゃ?」
「あー、あれな」
邸側面の裏口は、元の通りに静まっている。ギイも注意深く眺めやり、思案するように目を眇めた。
「──"傾国"か。なるほどな。あの目でじっと見つめられると、妙な気分になってくる。迂闊に近付けば取り込まれる。あれは常に未確定要素だ。あれがそこにいるが為に、次の手が確定しない。そこにただいるってだけで、先の展開が見通せない。まったくもって手に余る。排除の手立ては二つに一つ。いっそ腕づくで屈服させるか、さもなくばいっそ、」
空に一気に紫煙を吐いた。
「斬り捨てちまうか」
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