CROSS ROAD ディール急襲 第2部 4章5話7
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 目抜き通りの中央広場には、風見鶏の付いた時計塔がある。そこから通りを北上し、商店が建ち並ぶ市街を抜けて街外れの端まで進むと、それまでののどかな佇まいが行き止まりのようにふつりと途切れ、平坦な建物が視界を塞いで壁のように現れる。これは警邏が起居する官舎である。この四角く素気ない建物の裏には、陸地を分断する川があり、街道の終点の石橋を渡ると、デュナン草原と呼ばれる広大な空き地が広がっている。ここがいわゆる天幕群のある場所で、夏に開催される豊穣祭の折りには、野ざらしの巡業で使い古された天幕が一同に会すことになる。
 敷地内では、大勢の男女が起居している。街の者には物珍しい光景だが、飼育動物の獣臭と独特の匂いが周囲に漂い、風雨で汚れた天幕の陰では胡乱な数人がしゃがみ込み、見慣れぬ余所者には険悪な視線を向けてくるので、関係者でもなければ気後れし、踏み込む事をためらうだろう。張り巡らされた天幕の間を、不機嫌な顔の遊民達が気怠げにうろついている。舞台衣装を纏う者や、道化の化粧の者もいて、いつも忙しなく殺伐としている。敷地南の川沿いでは、焼かれたゴミ山の煙がくすぶり、舞台の大道具やら看板やらが雑然とそこかしこに積み上げられ、猛獣の入った頑丈な檻が日陰に無造作に置かれている。ここは大勢が起居する生活の場であると同時に、舞台をおりた演者達が素に戻る楽屋裏でもあるのだ。
 内海から吹き上げる強風に天幕がバタバタはためく様は、昼でも荒涼として薄暗く、白々と荒んだ異様な雰囲気をかもしている。不吉な予兆と、そこに潜む抗戦の意思とを、あたかも象徴するかのように。
 この地を治める為政者が不便な街外れにわざわざ官舎を建設したのは、つまるところ、向こう岸の動きを牽制し、騒乱を逸早く食い止めようとの算段あってのことである。だが、この巨大な防衛線は、川沿いの壁が一部、土手から離れた歪な形になっている。立ち退きを拒絶した民家が一軒、取り残されているからだ。移転を拒んだ先代は、しかしすぐに他界して、跡を取った息子夫婦は、市街から分断された不便で不自由な家を捨て、賑やかな街中へと引っ越した。そして現在、官舎に囲まれた離れ小島で、ひっそり人知れず暮らしているのは、数人の使用人と若い女主だ。
 そう、この知られざる空き家に目をつけた者こそが、かの領家の関係者である。彼らは敷地に残った古い家屋を取り壊し、こぢんまりとした館を建てた。この特殊な立地はサビーネの隠し場所にうってつけだった。巨大な官舎で囲い込まれた厳かで静かなこの付近には、脛に傷持つ後ろ暗い輩は、まず間違いなく近寄らない。
 表通り側は官舎で塞がれ、建物への入口が裏通りにある為に、屋敷は東向きに建てられている。よって、入口から見て向かい側にある庭は、通りから見えない奥まった場所に位置している。友が集まる件の庭は、川沿いの路地と、官舎と敷地を接する路地との二つの側面で敷地の境を接している。ちなみに、川沿いの路地には鉄柵が、官舎側の路地にはアルドらが破った生垣がそれぞれ設えられている。
 長くしなやかな白い指が、膝で開いた分厚い本の頁をめくった。目にかかるほどに長く伸ばした髪の下、長いまつげがゆっくり瞬く。
 薄茶の髪の輪郭が柔らかな日差しに透けていた。思索に耽る虚ろな眼差し。全神経を集中し、知識を緩やかに取り込んでいる。必然的に欲する知識を、渇望を癒す不足した要諦を、吸収したそれらの宝を新たな血肉に変える為に。
 青銅のテーブルの天板で、木漏れ日が麗らかに揺れていた。長くしなやかな脚を組み、青年は素の顔で膝の紙面を眺めている。相手に挑み小馬鹿にするような、あの表情はそこにない。
 厳重な仮面を剥ぎ取った無心の顔がそこにあった。いや、先日のあのステージが全てを物語った筈だった。ちゃらんぽらんな外見の彼が、他の誰より真剣に、人生に向き合っている事を。既に知っていた筈だった。あの奔放な表現の中にも緻密な計算があることを。むしろ一部の狂いもなく"それ"のみで成り立っていることを。他者の魂を大きく揺さ振り、奮い立たせる表現は、怠惰で無考えな者になど到底できるものではない。
 青年は息を呑む程に美しかった。神に特別に愛された奇跡の寵児であるかのように。
 過剰に表情を作らずとも、幾重にも牽制しなくとも、それだけで十分に美しい。彼の纏う真っ白なシャツが、瑞々しい緑によく映えた。自身のみで完結しているこの彼には、どんな色も必要ない。
 心に引っ掛かっていた事柄を、ようやく思い出していた。彼が誰であるのか、、、、、、を。
 矢も盾もたまらず出向いた街で、この青年と出会っていた。場違いな衣装を身に纏い、猛々しく睨めつけていた。口端を不敵に歪め、眉を大仰に吊り上げて。世の中全てを見下した不遜で皮肉な面持ちで、それでいて、どこか遠く醒めた目の、道化の姿のあまのじゃく。
 だが、今は知っている。誰彼構わず威嚇するあのけばけばしい服装が、自身を守る堅固な鎧であることを。慇懃無礼な彼の分厚い面の皮は、外部の干渉を強硬に阻み、奥底で息づく脆く繊細な魂までは如何なる者も到達できない。
 膝の紙面に目を落とす俯いたままの横顔が、ごく微かに強張った。チェスター候は苦い失意に首を振る。清らかな静謐を壊したことが、不用意に物音を立てたことが、返す返すも残念でならない。
 案の定、何者をも寄せ付けぬ攻撃的な表情が、青年の顔にたちまち戻る。すっかり鉄面皮を取り戻し、紙面に目を落としたままで、白皙の青年は油断なく言った。「俺の読書がそんなに意外か?」
 警戒を怠らぬ横顔が苛立たしげに一瞥する。ふと、怪訝そうに動きを止めた。
「──ああ、あんた、あの時の」
 チェスター候は微笑を作って歩み寄る。「ひょんなところで会うものだな。いや、なんという幸運だ。私の小鳥がここで羽を休めていたとは」
「"鳥"になった覚えはねえけどな」
 迷惑そうに本を閉じ、ローイはぶっきらぼうに立ち上がった。居間に向け、眉をひそめて歩き出す。だが、僅か三歩で足を止めた。何かをためらっているようで、その場で立ちつくしている。
「──ここにいると、満ち足りるんだよ」
 ようやく、苛立った溜息で言い訳した。親密な挨拶を無下に跳ね除け、自分の方が居たたまれなかったらしい。だが、まだ立ち去ろうとはしない。言葉を探して唇を開き、ためらうように口を閉じ、じれったそうに目を逸らす。憮然と横顔で付け足した。「あのは俺らを拒まねえからさ、ゆっくり、深く呼吸ができる」
 苛立たしげに吐き捨てて、今度こそ足早に踵を返す。
「待ちたまえ」
 立ち去るその背を、チェスター候は呼び止めた。ローイはかったるそうに足を止め、肩越しになおざりに振り向いた。「何かご用で?」
「逃げなくてもいいではないか」
 むっ、とローイは見返した。煩わしげな舌打ちで、足を投げ出すようにして元の椅子まで投げやりに歩き、青銅の椅子をガタタと引く。不貞腐った態度でふん座り、向かいに座ったチェスター候をじろじろ不躾に見回した。「なにその格好。なんであんたがロムの防護服なんか着てんの」
「ぼうごふく?」
 チェスター候は、向かいの怪訝そうな視線を辿り、自分の上着を訝しげに見下ろす。ローイは、しくじった、という顔で、かったるそうに頭を掻いた。「あー、なんつうか──ああ、鎧みたいなもんだ、兵士なんかが着てる奴。つか、なんであんたが着てんだよ」
 我が身の名誉を披露して、チェスター候は胸を張る。「ギイという男が、私に貸してくれたのだ」
 この商都で流行りのジャケットが、近頃すこぶるお気に入りなのだ。
「ギイ?」
 ローイは曰くありげに柳眉をひそめた。相手の予期せぬ反応に、チェスター候は瞠目する。「おお、彼を知っているのかね」
 憮然と、ローイはそっぽを向いた。
「ああ、知ってるさ! 知ってるなんてもんじゃねえ。とんでもねえイカサマ野郎だ!」
「……イカサマ、とな」
「あの悪魔、この俺から巻き上げやがった!」
 腹立たしげに眦(まなじり)吊り上げ、面白くなさそうな顔つきだ。その並ならぬ剣幕に、チェスター候は、ぽかん、と固まり、一癖ありそうなギイの顔を改めて脳裏に思い浮かべた。確かに、碌なことはしていなさそうだ。重たい上着をしげしげ見直し、訝しげに首を捻る。「しかし、こんなに薄くて鎧とは。──ああ、なるほど、強盗対策という訳か。商都の流行りは変わっているな」
「流行り? こいつが?──あんた、奴からどう聞いたんだ」
 ローイは呆れて目を戻す。チェスター候は興味津々上着のジッパーを引き下げて、布地を引っ繰り返して覗いている。「して、どんな仕組みになっているのだ? こんな薄い布地に一体いかなる──」
「色々あんだよ、仕掛けがさ」
 煩わしげな舌打ちで遮り、ローイはふっと口をつぐんで、苦々しげに眉をひそめた。「──いや、あんたは知らなくていい」
 椅子にそっくり返って腕を組み、組んだ足先をぷらぷら揺らす。
 木漏れ日揺れる青銅の卓には、ローイが今しがたまで熱心に読んでいた分厚い本が、再び無造作に放り出されていた。革表紙のタイトルに目を向け、チェスター候は遠慮がちに言う。「……君は随分、難しい本を読むんだな」
 その反応は半ば予期していたようで、ローイは飽き飽きしたように素気なく応えた。「生憎だったな。俺達は文盲じゃねえよ」
「──いや! 私は何もそんなことは」
 図星を指され、チェスター候は慌てて繕う。ローイは辟易とした顔で片手を振った。「いいって別に。そう言われるのは慣れてるからよ。つか、まともに読み書きもできなくて、どうやって演目書けってんだ」
 あっさり話題を流してしまう。
 不本意なしこりを気持ち悪く胸に抱えて、チェスター候は口をつぐんだ。卓の本を改めて見る。彼の読書を見て戸惑ったのは、その事だけが理由ではなかった。彼が熱心に読んでいたのは容易く読み解けるような書物ではない。芸術関係の専門書だ。書斎の蔵書に同じ物があるので、その難解さについては熟知している。分厚く小難しい専門書。軽薄に作った仮面の下に、恐るべき知性を秘めているのではないか。
「……勉強熱心なんだな」
 やっと言葉を探し当て、チェスター候は苦笑いした。ローイは面倒そうに舌打ちする。「当然だろ。こいつに人生賭けてんだ。疎かにはしねえよ」
 その話題を打ち切るように、本を卓から引ったくった。
「で、なに。なんの用?」
 挑戦的に目を上げる。若干警戒しているようだ。チェスター候は微笑んで、迎え入れるように手を広げた。「やはり、君を支援したい。君の芸術は優れている」
「"芸術"って言葉は嫌いでね」
 つっけんどんに言い返し、ローイは苛立ったように眉をひそめた。小馬鹿にしたように鼻を鳴らして、攻撃的に睨めつける。
「その言葉で括られた途端、金と権威の匂いのする胡散臭い別物に成り果てる。言うなれば、才の死だ。一度味をしめちまえば、もう向上は望めない。無限で自由な天分をぐるぐる巻きの鎖に繋いで不浄の地上に引き摺り下ろす、そういう難儀な呪いなのさ」
 不遜に毒を吐き散らし、片頬を歪めて不敵に嘲笑う。
「うむ、なるほど! その通りだ!」
 チェスター候は拍手せんばかりに興奮した。瞠目して大いに頷く。気に入った講演に聞きいるかのごとくに。
 椅子にふんぞり返ったままで、ローイは唖然と固まった。相手を跳ね除けるべく発した棘が、いとも容易く受け入れられて合点が行かぬといった顔。好意的な反応がどうやら意外だったらしい。ばつ悪そうに後ろ頭を掻いている。重たい上着の懐を、チェスター候はいそいそ探った。
「一つどうだね」
 友好の証の葉巻を取り出す。庶民には恐ろしく高価なものだ。ローイは顔をしかめて手を上げた。「──ああ、俺はやらない。喉がやられる」
 ふむ、とチェスター候は葉巻を見た。再びもそもそ懐にしまう。「そうか。気をつけているのだな。いや、さすがだ。ならば君につき合おう。──それにしても、あの舞台は素晴らしかった。いや、大した技術だ」
「まあな。俺にはこれっきゃねえからよ」
 ローイは照れ臭そうに鼻を掻き、明後日の方向に目を逸らした。真正面からの絶賛がくすぐったかったらしい。構うことなく、チェスター候は更に称える。
「私は君の高貴さに惹かれた」
 ローイは嫌そうに顔をしかめた。
「わかってねえな。"高貴"なんて言葉はよ、俗物が安易に使いたがる、どうしようもねえ言い回しだぜ。いや、何よりそいつに罪があるのは、意味が曖昧で不確かだってことだ。──いいか、楽の音や調べなんてものは、生まれ出でた自然の形で、ただそこにあるだけだ。"それ"の形は、本来端から決まっている。つまるところ俺達は、この世に在る為の然るべき形を、そいつに与えてやるにすぎない。だから、あんたが有り難がる"そんなもの"は、あんたのその足元に、通り過ぎたすぐ後ろに、どこにだって転がっている。そこら中に埋もれたそいつを、俺らは掬い上げているだけだ。そうして改めて放ってやる。それには、こいつがとりわけ重要だ。まずは、そいつの形を見定める。てめえの都合で歪(いびつ)に捻じ曲げちまったりしないよう、細心の注意を払って取り出してやる。丁寧に、慎重に、元の形をできる限り損なわねえように。それには、そいつを見極める目が要るし、こいつは実にデリケートな作業だ。ほんの僅かでも損なえば、本来の形が壊れちまう。手を加えちゃ意味がねえ」
「うむ、そうだ! その通りだ!」
 チラ、とローイが目を向けた。「……本当に分かっているのかよ」
「当然だろう、失敬な」
「──実は、この前訪ねてきた時にも思ったんだがよ」
 そそ、と打ち明けるようにして身を乗り出す。「……あんた、案外話せるよな」
「おお、そうかね!」
 歓喜に瞳を輝かせ、チェスター候はほくほく顔をほころばせた。意気投合して語り合う。どうやら波長が合うらしい。ようやく打ち解けてきたらしく、ローイがずいと乗り出した。
「実のところ、毎度毎度が真剣勝負さ。精神をリラックスさせて、大気の中に解き放つ。自分を無にして、そいつの在りかを慎重に探る。すると、向こうから自ずと姿を現す。俺らの仕事は、そういう本質を解き放つことだ」
 はっ、と我に返って、身を引いた。調子が狂うという顔で、溜息と共に頭を掻く。「……あんたはまったく奇特だな。なんだって俺なんかに声をかけるてくるんだか。音楽家なんぞ、あんたの周りにはごまんといるだろ」
 疑わしげに目を向けた。「おい、本当に分かっているか。こっちはしがない辻芸人だぜ」
「君は何故、そうまで自分を卑下するのかね」
 チェスター候は哀しげな顔で首を振り、頑なな相手をしげしげと見た。
 顔に張りつけた軽薄な笑み。薄情そうな色の薄い茶色の瞳。けれど、この上なく清潔な、繊細で脆い彼の魂。純白のマントを風になびかせ、その手に金の錫杖(しゃくじょう)を持ち、穢れなき壮大な天を仰ぐ、大いなる美の申し子よ。
「──君は、美しいな」
 陶然と呟く。それなのに、この青年は──。やりきれなさに溜息した。「……いつも、あんなことをしているのかね」
「あんなこと?──ああ、」
 瞳に険を取り戻し、ローイは冷ややかに乗り出した。
「体売ってる、ってこと?」
 殊更にそこを強調されて、憮然とチェスター候は目を逸らす。ローイは肩をすくめて椅子の背に寄りかかった。「金さえくれりゃ、誰とでも寝るさ」
「見境がないな」
「商売でね、これも」
 ローイはおどけるように手を広げる。
「もう、やめたまえ。そんな事を続けていては、君の魂が壊れてしまう。君はそんな事をすべきじゃない」
「しょうがねえだろ。大所帯を食わせにゃなんねえんだからよ」
 面倒そうに舌打ちした。「ばっちいもんみたいにあんたは言うが、これも営業活動の一環なの。こうは見えても一座を束ねる長なもんでね。贔屓筋は大事にしねえとよ。あてにした祭が中止になっちまった煽りで、今年の実入りは微々たるもんさ。それでも無駄飯食いのガキもいりゃ、檻の中には餌の獲れねえ獣もいる。生き物だからよ、実入りがなくても食わせにゃならない。奇麗事なんぞ言ってたら、あっという間に干上がっちまうぜ」
「金が要るなら、私が出そう」
「──余計なお世話だ。あんたの手は借りねえよ。この前も俺、そう言ったろ」
 ローイは辟易した顔だ。煩わしい口論を打ち切るように、かったるそうにあくびする。「つか、どうでもいいって、そんなこた。乳揉もうがケツ舐めようが、俺は全然構わない。ジジイだろうがババアだろうが、大体別に減るもんでもなし」
「いいや! 君は、誰より高く跳ばねばならない!」
 きっぱり、チェスター候は首を振った。
「誰にもできることではない。君にしかできないことなのだ! なのに、君の魂は囚われて、血を流して叫んでいる。足が鎖で絡めとられて飛び立つ事ができずにいる。私にはわかる!」
「──だからよー」
 ローイは煩わしげに舌打ちする。「たく。一人で勝手に突っ走るなよ。そいつは全然見当違いだって、俺、さっきから言ってんだろー?」
「君を地獄から救うのは、見い出した者の務めなのだ! 気兼ねなどはせずとも良いから、君は自由に羽ばたけば良い。私に援助をさせてくれ。君をあるべき場所に解き放ちたいのだ!」
「うるせえな!」
 ガン、とテーブルが転倒した。付き上げた足を下ろしたから、ローイが力任せに蹴ったらしい。憎々しげに威嚇して、堪りかねたように席を立つ。「──たく。大人しく聞いてりゃ、うだうだと。いい加減にしてくれよ。なに訳のわかんねえこと言ってんだ」
「──私は君が不憫だから」
「よしてくれ!」
 瞳を怒らせ、睨めつける。
「……なんで、そんなに無神経なんだよ。あんた、そう言われないか?──あんたの言葉は他人の神経を逆撫でする。心の平穏を掻き乱す。なにが空だ。なにが自由だ! どうせ、すぐに飽きちまうくせに。ただ一時の感傷で、気まぐれに介入しないでくれ」
「ち、違う、それは違うぞ!」
 チェスター候は息を飲んで瞠目した。「感傷などでは断じてないぞ。私は──」
「なんなら」
 威圧的に遮って、意地の悪い笑みをローイは浮かべた。
「それほど俺を気に入ったんなら、あんたも客になったらどうだい。俺をあんたに売ってやる。相手が髭面の野郎でも、俺は全く構わない。払うもんさえ払ってくれりゃ、あんたがして欲しいこと、何だってしてやるぜ」
 冷ややかなその目を、下からこ惑的にすくい上げる。チェスター候は絶句した。鋭い視線に気圧されて、彼が放った今の語尾をわななく唇に無意識のように乗せた。「……なんでもする、と言うのかね」
「ああ、なんでも。ご主人様のお望み通りに」
 殊更に柔らかな口調で眉を吊り上げ、おどけた調子で小首を傾げる。その口端は小馬鹿にした笑みで歪められている。
「──君という男は」
 チェスター候は傷ついた顔で黙り込んだ。振り払うように首を振り、胸の痛みにじっと耐える。意図的に弄んでいるのは明白だった。下世話な言葉で貶めれば傷つくことを知りながら。心の深部に踏み込んだことの、それが報いというように。
 自虐的に自らを貶め、同時に相手をも貶める。それは手酷い意趣返しだった。手負いの獣が予期せぬ力で鋭く牙を剥くように、過剰なほどに攻撃的な、そして、どこにも救いがない。
 だが、こんな時にあってさえ、青年の存在は美しかった。今この時にも、脆く繊細な魂が今にも途切れそうに息づいている。そう、既に知っている。品性下劣の仮面の下が満身創痍であることを。青年は美しい。神に特別に愛された奇跡の寵児であるかのように、、、、、、、、、、、、、──。
 何かが結び付いて一閃した。刹那過ぎった素早い尻尾を掴むべく、チェスター候は息を止めて凝視する。立ちこめたもやが像を結んだ。差し込んだ曙光を咀嚼して、はっ、とローイに顔を上げる。
「君を、買おう」
 ローイはほんの僅か面食らったように柳眉をひそめ、だが、すぐに、思った通りだというように肩をすくめて苦笑いした。「……毎度。で、どんなことをして欲しい?」
「助けてくれ」
「──助ける?」
 訝しげに問い返す。チェスター候は乗り出して、じれったそうに頷いた。「なんでもすると言ったろう! 君の力を貸してくれ! あの時起こしたあの奇跡を、今一度ここで起こしてくれ! 領民達の明日の為に!」
 ローイは呆気にとられて瞬いた。訝しげに目を眇め、軽く瞬き、驚いたようにチェスター候の顔を見直す。合点の表情がありありと浮かんだ。
「そうか、あんたか。道理で見覚えがある訳だ」
 喘ぐように愕然と呟き、たじろいだように目を逸らす。ローイは困惑も露わに目を伏せて、足元の芝をじっと見つめた。ぎゅっと硬く瞼を閉じる。
「……あんたの顔を、思い出したぜ」
 その薄い唇が皮肉な笑みの形に歪んだ。
 
 
 
 
 

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