CROSS ROAD ディール急襲 第2部 4章5話8
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「……力を貸せ、とあんたが言うのか? 散々虚仮にしたこの俺に」
 俯いたまま、くつくつ笑い、ローイは鋭く顔を上げた。
「断る!」
 憮然と吐き捨て、居間のテラスに踵を返す。腕に、チェスター候が取り付いた。「今、なんでもすると言ったではないか」
「ざけんな。冗談じゃねえ。なんで、あんたの為になんか」
「頼む!」
 ピクリ、とローイが足を止めた。
「……頼む。君の力が必要なのだ」
「へえ」
 前を見たまま鼻先で笑い、ローイは肩越しに振り返る。「随分下出に出るじゃねえかよ、こんな賤民相手によ」
 冷ややかに口端を吊り上げた。
「その手放せよ、おっさん。こんな事してるとこ、誰かに見られちゃまずいんだろ? ああ、そりゃ一大事だろうさ。あんたみたいなお偉いさんが雑魚に懇願してるってんだからな」
「私のことは、どうでもいい。そんなことより領民を──」
「手ぇ放せって言ってんだよっ!」
 腕を力任せに振り払う。不意を突かれたチェスター候が突き飛ばされて転がった。強かに打ち付けた肩を掴んで、顔をしかめて、小さくうめく。はっ、と振り向き、ローイはたじろいで踏み出した。「──お、おい、おっさん」
「何をしているっ!」
 差し伸べかけた手が止まった。
 扉を開け放ったテラスから、どやどや数人が駆け込んだ。二人を凝視し、驚愕も露わに立ち尽くしている。うめいて目を開けたチェスター候が、割り込んだ声を振り向いた。
「……お前達、何故ここに」
 執事のセバスチャンを筆頭とする邸の使用人一同だ。何れの顔も驚愕し、血相変えて凍り付いている。その視線の先にいるのは、傍らの芝で突っ立つローイ。セバスチャンが気色ばんで指さした。
「な、なんという──なんという狼藉をっ!」
 怒鳴り声に弾かれて、ローイはうろたえて振り向いた。「──い、いや、違う、俺はただ」
「詰め所に突き出してやるからな!」
 ピクリ、と頬が硬直した。ローイは苛立ったように目を逸らし、眉をひそめて唇を舐める。抑揚のない声を押し出した。
「俺は悪くない。この人が、、、、勝手に転んだんだ」
 従僕が耳を疑うように目を瞠った。「──お前、何を言ってんだ」
「俺は何も悪くない。この人が勝手に転んだんだ」
 警戒に身を強張らせ、頑なな口調で繰り返す。
「嘘をつけ! 俺はちゃんと見たんだぞ!」
 絶句し、怒鳴り返した従僕に、一同「そうだそうだ!」と同調した。にわかに不穏に沸き返り、今にも飛びかかって行きそうだ。拳を握って睨みつけている従僕に、麦藁帽子の園丁が歯がゆそうに手を振った。「いいから行け! 早く警邏を呼んでこい!」
「落ち着きたまえ」
 静かな声が厳かに制した。服の汚れをおもむろに払い、チェスター候は立ち上がる。姿勢を正し、静かな目を一同に向けた。「何をそんなに騒いでいるのだ」
「しかし、旦那様」
「私のことなら、心配は要らぬ。そう大騒ぎをするものではない。恥ずかしいではないか」
 たまりかねたという顔で、執事のセバスチャンが進み出た。
「私も見ておりました。この男が腕を振り、旦那様を突き飛ばすところを。やはり、警邏に──」
「滅多なことを言うものではない!」
 鋭くチェスター候が一喝した。はっ、と口をつぐんだ一同に、ゆっくり視線を巡らせる。「通報は不要だ。君達は何を聞いていたのだね。事情は今、彼が説明したではないか」
「──しかし、旦那様。この男は」
「そうとも、私が、、転んだのだ」
 ふと、ローイが顔を上げた。胡散臭いものでも見るような目つきで、首を傾げて眉をひそめる。チェスター候はそれに構わず、不承不承口をつぐんだ使用人達に笑いかけた。「彼は私の身を案じ、助け起こそうとしてくれたのだ。それが君達のいる場所からは、そのように見えたという事ではないかね。そうだろう、君」
 突然同意を求められ、ローイは面食らって見返した。刹那困惑が顔を過ぎる。ほんの束の間、疑わしげに目を眇め、足を伸ばしたままで上体を屈めた。
「──ああ」
 落とした本を拾い上げ、肩を揺すってかったるそうに踵を返す。「じゃあ、そういうことだからよ」
「待てよ!」
 声が慌てて引き止めた。今度は若い声、端整な顔立ちの従僕だ。すぐさま場所を移動して、ローイの行く手に立ち塞がる。ローイは胡乱に見返した。「──なんだよ。話はついたんだろ」
「待て!──いや、待ってくれ」
 両手を広げて離脱を阻止し、従僕は慌てて首を振る。呆気にとられていたチェスター候が、訝しげに首を傾げた。「……君、何をするつもりだね」
 道を阻まれ、ローイはかったるそうに立ち止まっている。向かいの男から目を離さず、従僕は僅かにためらって、主を戸惑ったように一瞥した。「旦那様、申し訳ございません。今のお話、聞いてしまいました」
 一瞬固く目を瞑り、葛藤を振り切るようにローイを見た。
「旦那様に力を貸して差し上げてくれ。頼む!」
 額が膝にぶつかるほどに、勢いよく頭を下げる。「……旦那様はここ数日、猥雑な街角に立ってこられた。街行く市民に訴えてこられた! どれだけ無礼に無視されても、声を嗄らして訴えてこられた!」
「──知らねえよ」
 ローイは迷惑そうに目を逸らした。「関係ねえだろ、こっちには」
 はっ、と一同が我に返った。一人、また一人と移動して、ローイの前に立ち塞がる。素早く隣と目配せし、その頭を一斉に下げた。
「力を貸して差し上げてくれ! 頼む!」
 唖然とローイは見回した。彼らの主を振り返る。チェスター候はローイ同様、呆気にとられて突っ立っていた。どうにかしろ、との委託の視線を感じたか、ふと気付いて振り返る。そして、
「頼む」
 つぶらな瞳でこちらも懇願。主従一丸となって迫られて、ローイは反射的に後ずさった。
「……嫌だっつってんだろ」
 たじろいで目を逸らし、舌打ちして歩き出す。「じゃー、そういうことだからさ」
「帰る気かっ!」
 頭を下げていた一同が、ぎょっ、と顔を振り上げた。ローイは迂回してぶらぶら歩き、ひらひら手を振る。「仲間を危険に晒そうってんだ。一存で引き受ける訳にはいかねえよ」
「は、薄情だぞ!」
「そうだ! こんな真似までさせといて!」
「なんてひどい奴なんだ!」
 ぎろり、とローイは振り返る。
「そっちで勝手にやったんだろうが!」
 庭からテラスへつかつか歩き、素焼きの床で足を止めた。廊下に続く居間の扉に、殊更に声を張り上げる。
「おい、帰るぞ! いつまでトロトロやってんだ!」
 例の連れの三人は、邸の奥の台所で女主と遊んでいる。だが、扉は依然として静まり返り、返事の気配もありはしない。普段であれば執事が飛んでくるのだろうが、この邸の使用人は貴族街の塀の向こうへ、全員とうに避難している。苛立ち紛れに、ローイは乗り出す。ぎょっ、とその場を飛びのいた。
 居間の扉がバタンと開き、どやどや一団が乗り込んでくる。十数人もいるだろうか。身形から見て、そこにいる使用人の仲間ではない。先頭は白髪混じりの乾物屋夫妻、後に続くは前掛け締めた八百屋の親父、肉屋に宿屋に靴屋に服屋──商店街を束ねる店主達だ。いわゆる顔役が揃っている。どうにも場違いな制服が一人、後ろの方に遠慮がちに混じっている。従僕と同じ制服だ。先頭で乗り込んだ乾物屋が、ジロリとローイを睨めつけた。
「おうおうおう! 兄ちゃんよ!」
 開口一番、巻き舌の喧嘩腰で食ってかかる。つられてローイも顎を出した。「あァ?」
「そりゃ殺生ってもんだろが。そのお屋敷の人達はよ──」
「ちょっとあんた!」
 言葉半ばの亭主を押しのけ、ずい、と女房が進み出た。眦(まなじり)吊り上げ、太い腕を腹で組む。
「黙って聞いてりゃ随分じゃないのさ! 平気な顔で帰ろうってのかい! 他人様に頭下げさせといて!」
 亭主の上をいく凄まじい迫力だ。ローイは怯んで、しどろもどろたじろいだ。「いや、だから──なにも、俺が頼んだって訳じゃ──」
「なっさけないねえ! まったくいい若いもんがさ!」
 気弱な言い分などには微塵も構わず、女房は嘆かわしげに首を振る。ギロリとその目を振り向けた。
「あんたに情けはないのかい! あんたに男気はないのかい! こうして皆さんが頭下げて頼んでるのに! え! どうなんだい! え! え! え!」
 人差し指をぶんぶん振り立て、顎を突き出しツケツケ迫る。ローイは押されて後ずさる。ぼさっと見ていた旦那衆が、はっと同時に我に返った。
「そ、そうだそうだ! 男気はないのか!」
 それぞれ拳を振り上げて、わらわら女房に追従する。もっとも、女房に啖呵を切られた後では、どうにもこうにも締まらない。
「どうなんだい! え!」
 背の低い女房にキリキリ苛々食ってかかられ、ローイは庭まで押し戻された。カクリ、と膝裏が唐突に折れる。体が傾き、慌てて後ろを振り向けば、尻の下には青銅の座面。さっきの椅子に座っている。元の場所まで押し戻されてしまったらしい。片や女房は待ったなし。
「さあ! どうなのさ! 手を貸すの貸さないの!」
 頭の上からおっ被せるようにして怒鳴りつけられ、ローイは椅子から尻を浮かせる。そそくさ逃亡を図ろうとし──しかし、それを見逃す女房ではなかった。
 首根っこ掴んで押し戻し、ギロリとローイを睨めつける。いよいよ逃げ場がなくなって、ローイは愛想笑いで見返した。「あ、いや、だから……俺の一存では、そういう危ないことはさ、その……」
 これが、ほけっと見ている旦那衆の方ならば強行突破したろうが、生憎ローイは女には弱い。更に言うなら、おばさんには特に。
 訳がわからず、ぽかん、と見ていたチェスター候に、そそ、とセバスチャンが近付いた。キリキリ攻め上げる女房を盗み見、片手で囲ってこそこそ耳打ち。「遅くなってしまい、申し訳ございません。私共で手分けして応援を頼んで参りました」
「──なに。それでは彼らは君達が?」
 声を落とす必要など全くどこにもない筈だが、チェスター候も執事同様、こそこそ隣に訊き返す。大きくセバスチャンは頷いた。
「彼らとて薄情なわけではありません。一軒一軒回って話せば、きちんと耳を傾けてくれます」
「……セバスチャン」
 主の連日の苦境を見かね、使用人一同、額を寄せて相談し、街の顔役の説得に手分けして当たったとのことだった。商店街一行の後ろの方で影薄く立っている従僕が、この企ての引率者。つまり、計画成就の報告を逸早くすべく来邸したところ、この珍妙な言い合いに出くわした、との次第である。主を勇気づけるように、セバスチャンは力強く頷く。
「助けがどこにもないことを、皆、理解してくれました。今頃は、街に残った店主達が、他の者を説得して回っています」
 自分の居ぬ間に事態があれよあれよと進展し、チェスター候は開いた口が塞がらない。呆気に取られて、ようやく言った。
「……大したものだな、君達の力は。私などとは大違いだ」
 慎み深く有能な執事は、控え目な微笑で首を振る。
「いいえ。市民が話を聞き入れたのは、旦那様の街頭演説あったればこそです。暑い中、声を嗄らして頑張った甲斐がありましたね」
 チェスター候は庭のローイに目を戻した。頭上から説教を浴びせかけられ、すっかり不貞腐ってしまったらしい。腕を椅子の背にもたせかけ、口の先を尖らせている。今や押せ押せの女房が、不遜な態度を見咎めた。「こら、聞いてんのかい! だいたい昔から、嘘つきは泥棒の始まりってんだよ!」
 話が一気に遡り、ローイはあんぐり顔を見る。「て、あんた、いつから見てたんだ」
「話を逸らしてんじゃないよ悪ガキが! わかってんのかい!」
 むっ、と口を尖らせて、ローイは、ぷい、と横を向いた。なんで俺が、と不満顔。「──うっせえ。くそばばあ」
「なんだってえ!」
 たちまち女房が角を出した。不出来な息子よろしく耳を掴んで引っ張り上げる。
「そんなんだから苛められんだ! いいかい、よくお聞き! そもそも人というのはね──!」
 ローイは涙目で、ジタバタその手に抵抗している。相手が実の親ならば、さっさと手を振り払いもしようが、相手がよそ様の女房では、無下な実力行使はさすがに叶わじ。そして、肝っ玉母さんはよその子にだって容赦はしない。ちなみに、そろそろ還暦の女房にすれば、二十五歳なんてはなたれ小僧だ。そう、勝負は端からついている。
 お株を奪われた旦那衆は手持ち無沙汰そうに立っている。果てしない説教にさらされたローイをどこか気の毒そうに眺めつつ。そわそわ居心地悪そうにしているところをみると、あの手の叱咤には身に覚えがあるらしい。女房の剣幕に身を引きつつも、そそ、とチェスター候が進み出た。
「あ、いや、ご婦人。もうそのくらいで」
 そろそろ勘弁してやって、と不服げな女房をチョイチョイつつく。憤然と振り向いた女房を、慌てた旦那衆がなだめるようにして押しやった。
 勢いに押されて引っくり返りそうなほど仰け反っていたローイは、椅子の背にしがみ付き、ほー、と胸に手を当てた。即席の味方の顔を見る。「……す、すまねえ、おっさん。恩に着る」
「いや、なに」
 椅子の背もたれに手を添えて、何気にチェスター候は起こしてやる。奇妙な仲間意識が芽生えたらしい。これにて、とりあえず一件落着。
 脱線していた一同が(ん?)とようやく首を捻った。そういや何しにここへ来たんだ?
「あれえ? おにいちゃん」
 甲高い声が唐突にした。居間の扉だ。一同、怪訝に振り返る。
「──坊主?」
 一瞥した視線をふと戻し、ローイはぽかんと口を開けた。「お前、なんでこんな所に」
 満面の笑みを浮かべた子供が、両手を振って駆けてくる。後に続いた父親と思しき男が子供をテラスで捕まえて、恐縮したように頭を掻いた。
「……あの、お取り込み中すいませんが」
 庭の面々をぐるりと見回す。天幕群にやって来た親子らしい。いや、居間にいるのは彼らだけではなかった。
 いつの間にやら大勢の市民がそこにいた。父親は後ろの一団に目配せし、チェスター候に目を戻す。
「私どもも加えてもらおうかと思いまして。その、街を防衛するって話に」
 支持を表明する為に、チェスター候のいるこの邸に出向いたらしい。父親の手を握った子供は、ローイと一同をきょろきょろ見比べ、合点した顔でにんまり笑った。「そっか。なかま? おにいちゃんも、また、いっしょかあ!」
「──いや、俺は」
 ローイは歯切れ悪く目を伏せた。腕を組んだ乾物屋の亭主が苦々しげに顎をしゃくる。「こいつは降りるってよ。だから今、説得していたところでよ」
「降りる? どうして」
 父親が呆気にとられたように復唱し、怪訝そうに振り向いた。ローイは頑なに俯いて、じっと足元を見つめている。誰とも目を合わせない。考え考え、父親は静かに尋ねた。
「つまり、あんたらは、俺達を見殺しにする、ということか?」
 ビクリ、とローイの肩が震えた。眉をひそめ、戸惑ったように目を逸らす。父親は哀しげな目で眺めやり、その意志を確認するように重ねて訊いた。
「前の戦では助けてくれた。それならあれは気紛れか?」
 ローイは固く目を閉じて、振り払うように首を振る。「……違う。本気だった。誓って俺達は本気だった。伊達や酔狂で命まで張れるか」
「なら、今度も助けてくれないか?」
 ローイは口を引き結んだ。途方に暮れて溜息をつき、何かを堪えるように目を瞑る。重苦しい沈黙の中、拒絶の理由を慎重に探って、拳を握って、かぶりを振った。「──いいや、駄目だ。俺がここで屈したら、仲間に顔向けできねえよ」
 座った両膝に肘を置き、前屈みの肩を力なく落とす。黙祷するように指を組み、祈りを捧げるようにうなだれる。或いは、牢に繋がれた罪人のように。
「屈する?」
 相手の苦悶を気遣うように、遠慮がちに父親は訊く。疲れ果てたような索漠とした笑みで、ローイは、くすり、と小さく笑った。「あんたら、野草を食ったことがあるか」
「──ヤソウ?」
「そこらに生えてる草のことだよ」
 組んだ指を手持ち無沙汰そうにのろのろほどき、再び指を組み合わせる。
「森の暗い洞窟に獣みたいにこもってさ、焚き木拾って、火おこすんだよ。でも、暗くて寒くてひもじくてよ。腹が減って死にそうで、でも金なんかねえから、店のもん、こっそりくすねたよ。不慣れな頃はしくじって、店の親父に殴られたっけな。犬ころみたいに蹴られたよ。でも、しょうがねえだろ。初めからかっぱらいに生まれるガキなんざ、いねえんだからよ。──冬の高い寒空で、鳥がぐるぐる回ってんだよ。そろそろ死にそうな獲物を狙って。伸びた地べたで誓ったね。次は巧くやってやる。そりゃ分かっているさ。他人のもんを盗むのが悪いってことくらいは。でも俺だって、したくてした訳じゃない。どこの誰が好き好んで、あんな惨めな真似をしようってんだよ。──だって、しょうがねえじゃねえかよ。どんなに腹が減ったって、誰も助けちゃくれねえんだから。誰に泣いて縋っても、身形がどんなに立派でも、顔がどんなに優しそうでも、小汚ねえガキを見た途端、たちまち顔をしかめてこう言うんだ。あっちに行け、うせろ、ってよ。汚ねえ野犬でも追い払うように」
 言葉を切り、滅入ったように息をついた。
「あんたら、知ってるかな。街の外れの森の中に、廃材置き場があるんだよ。色んな家からゴミを集めて、俺達が焼いて処分する。あの頃は資金も業もなかったから、そんな小遣い稼ぎみたいな手間賃だけで一家全員が暮らしていた。その頃俺はまだガキで、親にくっ付いて歩いてた。
 あの日は小雨で寒くって、冷たい木枯らしが吹いていて、それでも、地べたに這いつくばって石を拾って、地面を平らに均したよ。拾ってきた枝きれの先で地面を掘って、重たい岩を二人がかりで何とかどけて、手の皮が剥けちまって、まめだらけになっちまった。何日も何日も河原にはびこる草抜いて──でもよ、雑草ってのはしぶといんだぜ。根張っちまって、ガキの力じゃ、あれ中々抜けなくてさ。それに、手が切れやがる。
 寒くてよ、ひもじくってよ、体が凍えて、ずっとずっと雨が降ってて──。雨ん中、ごみ捨て場を漁ってさ、雨ざらしの家具を拾ったよ。使えそうな廃材よって拾って、それを壁にして住みかを作った。ぼろくて狭い小屋だったが、雨露凌げりゃ上等だった。家があるってだけで嬉しかった。だって、人並みに家が持てるんだぜ。洞窟なんかより余程いい。あんまり嬉しかったから、野ざらしの廃材置き場で、割れてないガラスを拾ってきてよ。──割れてないのは珍しかったんだ。で、どうせなら、もっと綺麗にしようと思って、布切れでこすった。でも、水の汚れってのは落ちなくってよ。これがちょっと拭いたくらいじゃびくともしねえ。白いウロコみたいなのがビッシリこびりついていて、そいつがまあ、とれねえんだよ。だから、前の持ち主も持て余して捨てたんだろうが。でも、こすり続けりゃ、どうにかなるかと思ってさ、布きれで毎日磨いたんだ。暇だけは腐るほどあったから。でも、落ちねえんだよな、これが。──むきになって磨いたね。窓があると、明るくていいだろ。だから、窓が欲しかったんだよ。普通の家みたいにさ。あったかい家の中から、太陽を拝みたかったんだよ、どうしても。
 で、馬鹿みたいに続けていたら、その内、要領を掴んでさ。ありゃまず、硬い所をこそげ落とさなくちゃ駄目なんだ。でも、雑にこすると傷がつくから、少しずつ少しずつこそげ取っていかなきゃならない。息をかけて、力を入れて。朝から晩まで毎日磨いてツルツルの面が出た時には、そりゃもう嬉しかったね。親父もお袋も褒めてくれたし、俺の一番の宝物だった。それで本箱どかして壁の一部にはめ込んだんだ。だが──」
 ローイは頬に薄笑いを浮かべた。 
「そいつを役人が割りやがった。一瞬だったよ。蹴り破って、ぶち抜いて、踏みつけて──謝りもしねえんだよ。毎日毎日手が痛くなるほど磨いて、やっと綺麗になったのに」
 いっそ平坦と言えるほどの乾いた声だが、膝の間で組んだ手は、関節が白くなるほどに硬く強く組まれている。
 穏やかな庭の面々は、誰もが口を開かなかった。痛々しげに見やったままで、それぞれの場所に立ち尽くしている。しばらくローイはじっとして、虚ろな顔で昔語りを続けた。
「服も寝床も家財道具も、全部焼かれて、いきなり追い出されちまったからさ、真夏の暑い日、陽炎が立つ街道を、行く当てもなく歩いたよ。でも、日陰のない街道は気が狂いそうなほど暑くてさ、だから日中は森に入って、獣みたいにじっとうずくまって日が暮れるまでやり過すんだよ。泉を見つけて水を飲んだ。見よう見まねで森の獣を狩りにいった。でも、野生だから速くてよ。間抜けな人間なんかには鳥の子一匹、兔一匹捕まりゃしねえ。獣なんかを追い回すから着るもんなんかもボロボロで、でも、着の身着のままおん出てきたから、着替えなんか持ってない。パンが欲しくて店に行きゃ、途端に警邏に通報される。いつだって腹ぺこで、食い物探してさまよい歩いた。飢えと過労で体が弱って、行く先々で女や子供がバタバタ死んだ。そんなことが毎日毎日繰り返される。──毎日だぜ。今目の前でぜえぜえ言って喘いでいる奴が、ほっときゃ死んじまうのが分かっているのに、指をくわえて見ているしかなくってよ。──知ってるか。人ってのは、焼くと鳥みたいな匂いがするんだよ。死んじまう頃には痩せさらばえて、肉なんか残ってねえのにさ。
 枯れ葉を敷き詰めた冷たい地べたで、子供が大勢死んでいったよ。どこを見てるんだか分からない弱りきった目ぇしてよ、腹ぷっくり膨らませて、蝿にたかられて、誰も知らない内に冷たくなる。──僅かな居場所で構わなかったんだ。誰も使わねえ原っぱの隅で構わなかった。あんたらは何故持ち物を、僅かでも他人に分けてやる事ができない! あの地獄の光景を俺は生涯忘れねえ。俺は絶対許さねえ。──なのに、」
 大儀そうに溜息をつき、頬に自嘲の色を浮かべて、うなだれた首を緩々振った。
「なのに、わかんなくなっちまう。あんたらとこうして話していると、ついつい忘れそうになっちまう。錯覚しそうになっちまう。本当は俺らも仲間なんじゃねえか、なんてよ。──笑えよ。とんだ道化だろう。うっかりすると尻尾振って媚びちまうんだよ。自分でも知らねえ内に、そんな風に喜んじまうんだよ。たく、惨めったらしいったらありゃしねえ。──それでも、助けてくれと俺に言うのか? ここから追い出したこの俺に? 追われた土地を守る為に? 焦がれても焦がれても自分では住めもしねえ、あんたらの、、、、、街を守る為に?」
 途方に暮れたように嘆息し、ローイは片手で額を掴む。
「そりゃ俺だって、坊主を守ってやりてえさ。あんたらを守ってやりてえよ。でも、あんたらのことは許せねえ。親父もお袋も目も開かねえガキも、みんなみんな死んだんだ。俺の見ているこの前で。断ち切れる訳がねえじゃねえかよ。俺はどうしたらいいんだよ。俺にどうしろって言うんだよ。俺はあんたらの犬じゃねえんだ……」
「よかろう。私が謝罪しよう」
 ふと、ローイが目を上げた。チェスター候は進み出て、ゆっくり芝に膝をつく。「過去の遺恨を、君が捨てられぬと言うのなら」
 一同ぎょっと瞠目した。慌ててセバスチャンが主に取り成す。「な、何をなさいます! おやめ下さい旦那様。民に頭を下げるなど、とんでもないことでございます。この責めを負うべきは、そもそも旦那様ではございません」
「確かに、私は当時の為政者ではない。だが、私には先代の、クレストの血が流れている」
「旦那様!」
 ついに執事は悲鳴を上げた。衆人環視の只中で貴人が賤民に頭を下げては、永年続いた威信の存続が脅かされる。毅然とした非難を込めて、断固、主の暴走を諌める。「いけません! 高貴な方のなさることではございません!」
 チェスター候は首を振った。「どこかで区切りをつけねばならぬ。過去と決別せぬ事には、一歩も先へは進めぬではないか」
「ならば、私が代わって致します。ですから旦那様は──」
「下がっておれ! セバスチャン」
 厳めしい一喝が轟いた。息を呑んで怯んだ執事に、チェスター候は静かに目をやる。
「これは私の務めなのだ。先代の血族として、民を治める者として、私が彼に詫びねばならん。失政は償う必要がある」
 腕を払い、正座でローイに向き直る。痩せぎすの背筋を伸ばして、膝に手を置き、頭を下げた。
「すまなかった」
 ローイは息を呑んで瞠目し、青銅の椅子を慌てて立った。「──お、おい、おっさん。あんた、いきなり何してんだ」
「先代の犯した失政を、この身を以て私が詫びる。失われた多くの命に、頭を下げて私が詫びよう。──すまなかった。許してくれ。その上で君に頼みたい。君達の力を貸して欲しい。頼む。この通りだ!」
 絶句で立ち尽くした使用人が我に返って取りつくが、チェスター候は顔を上げない。ローイは下ろした腕の先で拳を握り、じっと眉をひそめて見下ろしている。
 困惑しきりの乾物屋が、おろおろしながら振り向いた。「──お、おい。兄ちゃん。早くなんとか言ってやれや」
 凍り付いていた一同が、この言葉に我に返った。突っ立ったローイを一斉に振り向く。
「そ、そうだそうだ! なんとか言え!」
「侯爵様にこんな真似させてよ!」
 喧々諤々非難の声が湧き起こる。
「──おい、聞いてんのかよっ!」
 焦れた一人に腕を取られて、ふっ、とローイが引き戻された。一同から注がれた熱い凝視にぎょっと気圧され、きょろきょろ見回し、後ずさる。
「こんなお姿を見て、お前はそれでも平気なのかよ!」
「これで断ったら男じゃねえだろ!」
 多勢に無勢で詰め寄られ、ローイはたじたじ見回した。すっかり取り囲まれている。そして、姿勢を正したチェスター候は、かくりとうなだれ、頭を下げ続けている。これは予期せぬ展開だった。戸惑いと当惑と良心の呵責を抱え込み、うろたえ、視線を泳がせる。いや、そんなことより──
 ローイは唖然と一同を見る。無理に引き据えるでも命ずるでもない、隣の者に接するのと同じように文句を言う顔、顔、顔。
 目の前に、迎え入れようとする手があった。彼らは、手を取るのを待っている。こちらから手を伸ばし、彼らの手を握るのを。今、目の前に"それ"がある。長年焦がれ、渇望し続け、触れることさえ叶わなかった手が。彼らの顔を凝視して、ローイは唇を震わせる。
「──俺は、」
 くいくい袖が引っ張られた。
 見れば、蚊帳の外に置かれた子供だ。小首を傾げてローイの顔を見上げている。「……ねー、おにいちゃん。ぼくねー」
 構ってもらえず退屈したらしい。なんだようっせえな俺は今忙しいんだよっ! とローイは口パクで追い払う。(──坊主、後でな! 後で遊んでやるから!)
 だから、あっち行け、と素早く手を振る。しげしげ見ていた乾物屋が哀願するようにローイを見た。
「なあ、うん、と言ってくれよ。一度は助けてくれたあんたじゃねえかよ」
「……そ、それは……そうなんだけどよ」
 ローイはしどもど口篭る。「──いや、前の時は──ロムの大将に強制されて、だから──」
 だから、仕方なく要請に応じたのだ。総大将に持ち込まれれば、どうせ断れはしないのだから、せめて心証が良くなるように協力的に振舞うべし、それがベストと判断した。だが、今はそうじゃない。無論、内輪の事情など、ここにいる一同は知る由もない。真剣そのもので見つめてくる。ひとつ浅く息をつき、ローイはのろのろ目を伏せた。
「──でも、俺は」
 追い詰められたように足元を睨み、何か考え込んでいる。言葉を探して目を苦々しげにさ迷わせ、言い出しあぐねて口をつぐみ、やがて、声を押し出した。
「すまねえ。できない」
 肩を落とし、ゆっくり力なく首を振る。
「……俺には、できない」
 突っ立ったその顔を、女房が怪訝そうに覗き込む。
「どうしてさ。侯爵様だって、こうしてあんたに──」
 何かに思い当たったように、表情を険しく引き締めた。「もしかして、あの異民狩りのことを言っているのかい?」
 旦那衆は隣と顔を見合わせた。話の飛躍についていけないようだ。女房は憤懣やるかたない顔で、一気に大きく嘆息した。
「先導したのは薬屋んとこの軍人狂さ。当時でも二十歳を越えたいい年だってのに、戦争ごっこにうつつを抜かすってんだから、みっともないったらありゃしないよ」
「──いや、しかし、ご婦人」
 記憶との齟齬に気がついて、チェスター候は首を傾げた。「記録簿には確か、市民が暴動を起こした、と」
「いいや、違うね。そうじゃない。いい加減なことを書くもんだね、まったく!」
 相手構わずきっぱり跳ね除け、女房は忌々しげに舌打ちした。
「お偉い役人がどう書いたのかは知らないけど、あたしはちゃあんと本当のところを知ってるんだ。いや、商店のもんなら、そんなこと誰だって知ってる筈さ。あのでくの坊の馬鹿息子が仲間と一緒に調子に乗って、面白半分で乗り込んだってことはね」
 立腹している彼女にすれば、薬屋の馬鹿息子は自分の子供と同じ世代だ。
「あの事件の翌日には雲隠れしちまったけど、大ごとになっちまったもんだから、大方怖くなって夜逃げでもしたんだろうさ。こうしていなくなって尚、こんな途方もない置き土産を残していくってんだから、まったくどうしようもない馬鹿者だよ」
「……なんと」
 絶句でチェスター候は立ち尽くしていた。記録簿の素気ない記載からは読み取れなかったが、市民が暴動を扇動した訳ではなかったのだ。実際の首謀者は軍人狂の若者達。無論、彼らとて「市民」だが、良識を持つ穏健な大多数とは質が異なる突出した異分子だ。というのに、役人が碌に調べもせず、適当に辻褄を合わせてしまった──。確かに、数万にものぼる市民達が一人残らず暴動に加担するなど、そう滅多な事で起きることではない。女房はやりきれない顔でローイを眺めた。
「今更言っても詮ないけどね、あそこの倅には、あたしらもほとほと手を焼いたんだよ。本物の軍人になるほどの度胸も意気地もないくせに、年寄りやら子供やら弱い者と見りゃ苛めてばかりいやがって。いや、あんたらには本当にすまないことをしたと思ってる。ほら、あたしらだって謝るよ! ね、この通りさ!」
 前掛けの胸をもどかしげに叩き、今、気がついたというようにその頭を慌てて下げる。うんうん頷き、しみじみ見ていた旦那衆を、顔を上げざま、ぎろり、と睨んだ。「何をぼさっとしてるんだい! あんたらもさっさとお詫びしな!」
「──ガキの頃、どっかのババアがさ」
 じっと俯いて聞いていたローイが、堪りかねたように割り込んだ。
「どっかのババアが、俺にパンをくれたんだよ」
「……パン?」
 旦那衆を焚き付けていた女房は、面食らって口をつぐんだ。慌てて身じろいだ一同が、呆気に取られてローイを見る。ローイは大儀そうに嘆息した。
「やっとよちよち歩いてるみたいな、くたばり損ないのババアでよ。息子どもがみんな商都の都会に越しちまって、街の外れの小汚いボロ家に残されて、一人っきりで住んでいた。人目を気にしているくせに、周りに誰もいなくなると、急いで俺を呼びつけて、パンきれをくれるんだよ。たぶん、腹をすかせた野良猫に餌でもやってるつもりだったんじゃねえかな。──俺は、もらいに行ったよ毎日毎日。そのことは誰にも言わなかった。だって大勢で押しかけたら、それで打ち切りになっちまうだろ、やっと見つけた飯場なのによ。だから仲間の誰にも言わなかった。だから、、、俺だけ生き長らえた。生き残った俺だけが族長の一座に拾われた。だから、俺は──」
 固く目を瞑り、吐き捨てるように言い放った。
「俺はもう、裏切れねえんだよ!」
 明るく穏やかな緑の庭で、梢だけがざわざわ鳴った。かける言葉を誰もがなくして、沈痛な面持ちで立ち尽くしている。荒涼とした気配が落ち、風が庭を渡っていく。
「ねー! これさあー!」
 重苦しい沈黙を、甲高い声が破った。もどかしげに喚き散らしているのは、さっきの子供だ。いつの間に傍まで来たのか、ぎゅっと硬く握った拳をローイに向けて突き出している。怪訝に見やったローイの前で、小さな掌を無造作に開いた。
「これ、ぼくの宝物だったけどー」
 いっぱいに広げた手の上にあるのは、緑の石のかけらだった。夏の日差しを反射して、きらきらまばゆく輝いている。躊躇を振り切るようにして、子供はローイに顔を上げた。
「あげるよ、おにいちゃんに!」
「……え?」
 ローイは面食らって見返した。河原で拾った石らしいが、何故今この時に、そんな事を言い出すのかが分からない。
「ぼくも、これ、宝物なんだ。ぼくもピカピカになるまで、みがいたんだ。だから、これでおあいこでしょ?」
 気の抜けたような反応に、子供はじれて言い募る。
「これは、きっと夢の石さ! 願いがかなったことはまだないけど、それは、ぼくが子供だからで、ぜったいぜったい本物なんだ。でも、おにいちゃんなら、だいじょうぶだよ。だってもう大人だもん」
「……坊主」
 ローイは唖然と子供を見る。
「だからさ、きっと、夢がかなう!」  
 子供は断固頷いた。絶句して突っ立ったローイの手を焦れたように取り上げる。長い指をこじ開けて、小さな手をそこに捻じ込み、小さな拳をぱっと開く。ぽろりとこぼれた石のかけらを、ローイはのろのろ受け取った。
「……くれるのか、俺に。でも、お前の宝物なんだろう」
 子供は得意げに、にかっと笑った。
「いいよ、やるよ! ぼくのきもち!」
 子供の目にある輝きは、憐れみではない交歓だった。偏見も嫌悪もそこにはない。的外れな慈愛でもなく、同情でも困惑でも無論ない。裏も表もない仲間同士の友愛のしるし。
 ローイは石に目を戻す。こだわり続けた償いは、今、掌の上に載っていた。かつて壊されたガラスの代わりに、あの宝物の代わりとして。あの時よりも大きくなったあの広げた掌の上に。時間を超えて、世代を超えて。償いの翠石はきらきら日差しを弾いている。
「──すまねえ、坊主」
 震える指先をそっと閉じ、ローイは固く目を瞑った。
「俺はいつも、大事なことを忘れちまう。頭ん中ではわかっているのに、わかっていた筈なのに、頭に血がのぼっちまうと、道理をどこかへ見失っちまう」
 閉じた瞼をゆっくり開いて、一同に顔を振り上げた。
「俺らを迫害したのは別の野郎だ。ここにいるあんたらじゃない」
 大きく息を吸い込んで、勢い良く胸を叩いた。
「よっしゃあ! 俺に任せておけ! こうなりゃ仲間を総動員してやる! おうよ、見捨てられっか! この方は俺のパトロンだ!」
 視線を受け止めたチェスター候が、うむ、と頷き、進み出た。一同に視線を巡らせる。
「諸君。ディールが再度、我々の聖なる土地を略奪せんと迫っている。このような暴挙を看過することができようか。否、断じて否である。我々の非力は承知している。しかし、決して屈しはせぬ。理のない暴力など言語道断。このような理不尽を、我々は断じて許してはならぬ。共に手を取り、戦おうではないか!」
 パン、パン、パン、パン──と、拍手がどこかで打ち鳴った。
 
 
 
 
 

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