CROSS ROAD ディール急襲 第2部 5章2話1
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 死んだヒトデが半分砂に埋もれていた。青空の下の海岸線には、樹木がこんもり茂っている。
 太陽ばかりが降り注ぐ人けのない白浜に、小魚が一面に打ち上げられていた。午後の陽を浴びた波打ち際では、波がゆるく打ち寄せて、鳥が何かの毛皮を引きずり、引っくり返った大ぼらをカモメがくちばしで突いている。ゆるい潮風に髪をなびかせ、アルノーは肩越しに振り返る。
 砂浜にできた水たまりの水面に、水色の空と白い雲がくっきりと写っていた。羽衣の白い海鳥が海岸一面に群がっている。長いくちばしと赤い足、青灰の背翼に黒い尾羽。毛づくろいをするもの、足をあげて頭を掻くもの、首や胸にそのくちばしを突っ込むもの。それらが時折ギャアギャアわめく。アヒルのような鶏のような、猿のような喧しさ。
 羽ばたき、飛び立った海鳥が、地表と平行に滑空する。白く大きな海鳥に混じって、黒い小鳥が羽を忙しなくばたつかせ、この時とばかりに水浴びをしている。
 昼下がりの無人島は、鳥の楽園と化していた。浜に打ち上げられた獲物を求め、様々な鳥が群がっている。寄せては返す波の手に、海藻の束が弄ばれて、ゆらゆら水際で揺れている。過去から来て、永久へと続く、寄せては返す潮騒の音。
 白浜を照らす日ざしが陰り、薄日が雲間から差し込んだ。天啓のような光の帯。それは瞬く間に拡大し、真夏の太陽がぎらついた。その白浜のいたる所に、時化しけの爪痕が残っていた。様々な貝殻、丸太や木ぎれ、絡まりもつれた黒い海藻、脚を伸ばして引っくり返った無数の蟹の白い腹。
 波の具合がおかしくなって、それからすぐに時化がきた。逃げる間もなく引きずり込まれて、釣り舟のへりにしがみついた。荒ぶる波に揉まれに揉まれ、死の物狂いで辿り着いたのは、日常の海域から遠く離れた遥か外海の無人島だった。この沖合の周辺には、黒く険しい岩礁と細々とした無人島がぽつりぽつりと点在している。
 ガア──と聞こえた耳障りな鳥声に、アルノーは立ち止まって目を上げた。一羽の鳥が黒翼を広げ、晴れた上空を旋回している。
「生憎だったな。死んじゃいねえよ」
 一人ごち、アルノーは舌打ちした。死んだら食おうと待ち構えているらしい。まったく縁起でもない。
 小石や木切れのガラクタだらけの白浜を、日ざしに照らされ、ザリザリ歩いた。砂にまみれたクラゲに気づいて、大きく踏み出し、踏むのを避ける。このクラゲは死んでも刺すので、触らないのが賢明だ。大小様々、形も様々、奇妙な形の流木が白砂の浜に散在していた。浜で見れば邪魔でしかない瓦礫だが、都会の店先辺りに展示されれば、奇特な好事家に需要がある。
 特に深く考えるでもなく、左手の流木に足を向けた。白くなめらかな流木だ。大人の背丈よりも更に大きい。自前の釣り船で運ぶには骨の折れそうな代物だが、陸の店まで持ち込んでしまえば、そこそこの見返りは期待できる。これも、大海の果てまで流された駄賃とでも思えばいいか。算段しながら足を向け、ふと、アルノーは立ち止まった。
 砂にまみれて"何か"ある。流木の向こうの、陽に照らされた白浜だ。奇怪な形の流木が浜に落とす陰の中、何か大きなものが転がっている。時化で流れついた何かの獣の死骸だろうか。いや、風に微かにそよいでいるのは獣の体毛などではない。薄茶色をした長い人毛──
「遭難者か!」
 アルノーは舌打ちで駆け寄った。これで金儲けどころではなくなった。息がまだあるようなら、陸に取って返さねばならない。もっとも、泳ぎの達者な漁師でもなければ、時化に揉まれて持ち堪えたかどうかは怪しいものだが。まして体力のない女ともなれば、十中八九駄目だろう。船の残骸は不思議と見ないが、どこかで船が沈没し、体一つで流されてきたのか──。うめき声が微かにした。流木の向こうだ。
「……男?」
 アルノーは虚をつかれて立ち止まった。風になぶられる長髪から、てっきり女と決めつけていたが、今の低いうめき声は紛れもなく男のものだ。
 すぐさま気を取り直し、遭難者の救助に急いだ。流木の向こうに駆け込むと、男が一人倒れていた。砂にまみれたうつ伏せの体は、奇妙な具合にねじれている。駆け寄る足音で気づいたか、男が微かに身じろいだ。途端、短くうめいて息をつめる。意識を回復すると同時に、痛みの感覚も戻ったらしい。
「大丈夫ですか、災難でしたね」
 アルノーはとりあえず声をかけた。男の様子をざっと頭から確認する。全身ずぶ濡れの砂まみれ、革ジャンと黒っぽいカーゴパンツはあちこち無残に切り裂かれ、足にひどい出血がある。険しい岩場に突っ込みでもしたのか──。時化にさらされ、きりもみ状に揉まれたか、背中にあがった左腕が、おかしな方向に捻じ曲がってしまっている。
「……ち!……しまらねえ……!」
 いかにも荒い息の下から、搾り出すようにして男が唸った。途端、激しく噎せ返り、伏した全身を震わせる。息をあえがせ、不審そうに顔を上げる。ひび割れた唇がかすかに動いた。
「──どこだ、ここは」
 詰問するようなその声は、呼吸に紛れて掠れている。血の気の失せた青ざめた顔の、左半分を覆う鮮血が否応なく目を引いた。左の額がざっくり割れて、傷口に砂が張りついている。口端からは血涎がしたたり、唇の端が震えている。息遣いが荒い。一目でわかった。かなり、まずい状態だ。
 男は端整な顔立ちをしていた。雰囲気からしてカレリア人ではなさそうだが、一体どこの者なのか。満身創痍で見回す様には、ぞっとするような凄みがある。気後れしつつも、アルノーは応えた。「レーヌの沖合、遥か東の無人島ですよ」
 目に血が入ったか、男は鬱陶しげに片目を眇めた。「……レーヌの、沖合?」
 しきりに唾を呑み下し、白く乾ききった唇を、柳眉をしかめて舐めている。苦しげにむせび、声を嗄らして確認した。「……大陸中央から見て、南東か」
「ひでえ怪我だ。崖から落ちでもしなすった、とか?」
「……まあ、な」
 意外にも、あっさり、男は認めた。アルノーは呆気にとられて男を見る。軽口のつもりで訊いたのだが、驚いたことに否定しない。アルノーは今回、普段よりかなり北上した場所に、漁の船を出していた。そして、件の時化に巻き込まれた。回流の具合から考えれば、男は更に北方から、ここへ流されたことになる。だが、そうであれば、陸地の起伏はレーヌより厳しい。大陸東端の陸地の高度は、北上するにつれ増すからだ。そんな高所から落下すれば、普通であれば一溜まりもない。
 アルノーはまじまじ男を見、絶句しながら、腕を組んだ。呆れるほどの強運の持ち主、という他はあるまい。息も絶え絶えのその男は、腹這いの顔をわずか上げ、どこか頑なに身構えている。出方を窺う鋭い瞳に、男の警戒がチラついた。不安そうな様子ではない。男の眼は好戦的だ。すぐにも突っ伏し動かなくなっても、何ら不思議はないというのに。それでも、決して怯えてはいない。
 男はいく度も鬱陶しげに首を振った。今にも手放してしまいそうな意識を何とかして繋ぎとめておこうと、躍起になって努力している、それが、ありありと見て取れる。下敷きになった自分の腕を、無意識のように動かして、はっと弾かれたように目をやった。
 男は鋭く息を呑み、己の懐を凝視している。何が起きたか、まるで分からない、とでも言いたげな顔。その目がみるみる見開かれ、意識がだしぬけに焦点を結んだ。
「あいつは!」
 振り向きざま、勢い込んで怒鳴りつけた。慌てて四方を見回して、何かを必死で捜している。興奮し、混乱している。あからさまに狼狽した様子だ。予期せぬ反応に気圧されて、アルノーは唖然と繰り返した。「──その、あいつってのは、どなたさんのことで?」
 男がもどかしげに振り向いた。
「女だ! 二十代半ばのカレリア人、黒髪で小柄、ここらの羊飼いの格好をしている!」
 アルノーは溜息で、周囲に視線を巡らせた。確認するまでもない。この無人島に、人はいない。「……さあ。浜はざっと回ったが、そんなものは見なかったが」
「いねえ?」
 男は鋭く息をつめ、愕然と目を見開いた。
「そんな筈はねえっ! いたんだ、ここに! 確かにいたんだ!」
「見つけたのは、あんた一人だ。島ってんなら、他にもある。ここにその人がいないってんなら、大方、別の島にでもあがったんでしょうよ」
「冗談じゃねえ!」
 男は忌々しげに舌打ちし、浜に手の平を打ちつけた。
「そこをどけ」
 腕を立て、がむしゃらに男は身を起こす。
 背中に載っていた左手が、急に動いた反動で、背から力なく滑り落ちる。男はよろめきながらも、膝を立てた。腕ごと地面に叩きつけられた筈だが、何も感じていないらしい。どうにかして立ち上がり、一、二歩あるき、よろけて突っ伏すようにして転がった。片手でもがくが、起き上がれない。
 男が舌打ちして悪態をついた。砂にまみれて、のたうっている。膝に力が入らぬらしく、起き上がりかけては、何度も地面に突っ伏している。
 見るも無残な有様だった。よせと言っても、男はきかない。何がそうまで、この男を駆り立てるのか、その姿から伝わってくるのは、空恐ろしいほどの執念だ。
 男はしばらく一人で足掻き、やがて拳を叩きつけた。砂を握って、顔をうつむけ、ギリギリ悔しげに歯ぎしりしている。だが、すぐさま苛立ったように嘆息し、その手を突っ張り、肘を立てた。
 まだ諦めていないらしい。その凄まじい妄執ぶりは、凄惨さを通り越して薄気味悪いくらいだ。アルノーは半ば呆れ、半ば感服して腕を組んだ。「どこへ行こうってんです、そんな体で」
「あいつを捜す!」
 男が怒鳴り返したその途端、立てかけた膝がガクリと崩れた。顎から浜に激突し、打ちつけた痛みにうめいている。アルノーはやれやれと嘆息した。「……無茶だ。折れてますよ、動かない方がいい」
「──畜生!」
 動かぬ足を振り返り、男は忌々しげに歯がみした。思うに任せぬ自分の足が、男には余程もどかしいらしい。
「まあ、まずは落ち着いて。あんた、名前は? どこから流されて来たんです」
 鋭く男が睨めつけた。ただそれだけのことで肩を激しく上下させ、刺すような視線を向けてくる。アルノーはげんなり頭を掻いた。「別に、何をしようってんじゃない」
 男は頬を歪めて舌打ちし、あからさまに苛ついた様子で、ふい、とすげなく目をそらす。「──ルクイーゼの、東だ」
「ルクイーゼ?」
 唖然とアルノーは目をみはった。「あの、商都からずっと北上した? つまり、あんたは、遥々ルクイーゼくんだりから一気にここまで流されたと?──まさか。そんなことは、ありえねえ。陸路で馬を飛ばしても、五日やそこらは優にかかるぜ」
 まして、高台にあるあの辺りは、海抜の低いレーヌとは異なり、海面から崖上まで恐ろしいほどの高さがある。更に、付近の海中には、険しい岩礁が広がっている。そんな崖から落下して、命があったとは思えない。
 男は憮然としたまま応えない。口をつぐんだ端正な顔から、苛立った気配がピリピリ伝わる。嘘偽りではないらしい。アルノーは改めてしげしげ見、陸のある西の方角に目をやった。「……よくも生きて辿り着いたもんだ」
「どこ行きやがった、あの野郎!」
 男が堪りかねたように吐き捨てた。
「ちょろちょろ勝手に動きやがって! 今度という今度は、ただじゃおかねえ!」
 息を荒げ、一人で喚き散らしている。ついに癇癪を起こしたらしい。アルノーは男から目を反らし、足を踏みかえ、端から砂浜を眺めやった。
 激浪の収まった波打ち際で、手漕ぎの釣り舟が揺れていた。風は収まり、雨雲は払拭され、時化は完全に収まった。このひどい有様では、男は恐らく重傷だ。自力で起き上がることさえ、ままならぬというのなら、骨の二本や三本は折れている。足元の男に振り向いた。「とにかく一旦戻りましょう。あんたのその怪我、早く医者にみせなけりゃ──」
「捜せ」
 じっと浜を睨んでいた男が、鋭く長髪を振り払った。
「お前が捜せ! 島中くまなく」
 苛烈な視線がアルノーを射抜く。高飛車な男を扱いかねて、アルノーは面食らった。「あんたの他に、遭難者はいない、今、そう言ったばかりでしょう。そんなことより、あんたを早く」
「俺のことは、どうでもいい。そんなことより、あいつを捜せ!」
 動く腕を振り回し、男は居丈高に息巻いている。アルノーはげんなり嘆息した。「だから、もう見たって言ったでしょう」
「もう一度!」
「──あんたねえ」
 命令口調が気に触った。抗議と怒気とで語調を強め、アルノーは憮然と腕を組む。「指図される覚えはありませんよ」
「つべこべ言ってねえで、さっさと捜せ!」
 男は見るからに苛立った。その鋭い瞳には、憎々しげな色さえ浮かんでいる。よほど喉が渇くのだろう。しきりに唇を湿しては、顔をしかめ、大儀そうに唾を飲み下している。男は息をあえがせながら、苛々視線を巡らせている。「どうせ、そこらにいるに決まってる。能天気に歩き回ってるに違いねえんだ。きっと、そうに違いねえんだ!」
「捜すにしたって、人手が要りまさ。そういうことなら、尚のこと早く応援を──」
「俺は戻らねえ!」
 男が鋭く睨めつけた。「帰りたきゃ、一人で勝手に帰れ。アレの首ねっこ引っ捕まえるまで、俺は絶対に戻らねえ!」
 アルノーは目をそらして嘆息した。
「わかりましたよ。捜してみましょう。あんたみたいな怪我人残して、一人でおめおめと帰れる訳がねえでしょうに」
 足は小さな釣り舟ひとつ、ろくに動けぬ怪我人とはいえ、体力のある大の男だ。無理に船に乗せたとしても、この調子で暴れられれば、船を進めるのに骨が折れる。
 辺りを眺めて、ぶらぶら歩いた。雨水を含んだ重くもたつく砂浜に、今まで歩き回った足跡が黒く刻みこまれている。浜の景色は穏やかで、これまでと何ら変わらない。
 凄まじい時化の置き土産が、大量に打ち上げられていた。地表を覆うほどの多数のカモメが、騒がしく餌を漁っている。疲労困憊した足で、重い海砂を蹴って進む。背後でバサバサ羽音が聞こえた。
 音を肩越しに一瞥すると、黒い影が急降下した。付近のカモメが、水飛沫を上げて一斉に飛び立つ。避難した海鳥たちは、上空を集団で旋回している。場所は、波打ち際の流木の向こうだ。
 黒い翼がバサバサはばたき、静かな白浜を踏み荒らしていた。厚く盛り上がった胸の羽毛が、猛々しく黒光りする。白い海鳥の群れに混じった只一羽の黒い鳥。それは一際目を引いた。
「──さっきの鳥か」
 目を眇めて眺めやり、アルノーは合点して呟いた。自分を狙って旋回していた、さっきの不吉な鳥らしい。地上で見ると、かなり大きい。翼を広げれば、二メートル近くあるかも知れない。黒い翼でバサバサやかましく羽ばたきながら、水際を熱心にほじくり返している。鳥の興味を引くものが、砂に埋まっているらしい。だが、蟹やら小魚やらの死骸なら、あんな所を掘らずとも、いくらでも浜に転がっている。いや、そもそもあの鳥は、豊富な獲物に目もくれず、旋回していたのではなかったか。それが何故、今になって、ああも慌てて降りてきた──?
「……クロウの、青鳥っ!」
 歯を食いしばるような、うめき声がした。振り向けば、あの男だ。必死になって顔を上げ、羽ばたく鳥を凝視している。男の視線が捉えた先を、アルノーは怪訝に見返した。流木が波に洗われている。何かがあるのだ。鳥の興味を引くものが。
「──あれか」
 立ち止まって目を凝らし、アルノーは愕然と呟いた。
 打ち上げられた流木の陰で、何かが砂に埋もれていた。なだらかな砂浜がそこだけ立体的に盛り上がっている。砂浜に伏せられた指だった。白くなめらかな手の甲が、その先に続いている。
 女の手だ。男の元に駆けつけた際、あのすぐ横を通り過ぎたが、まるで気づきもしなかった。まさか、本当に人がいたとは──。
 ザリ、と網を引きずるような音がした。いや、雑穀袋を引きずるような音だ。
 腹這いの全身を震わせて、男が片腕だけで這っていた。鴉の降り立った流木を睨み、額に汗して歯を食いしばり、動かぬ足を引きずっている。ほんのつい今しがたまで、身じろいだだけで、うめいていたのに──。痛みに強いな、と感心した。普通なら、とうに動けまい。
 浜を這いずるその動きに、垂れた左腕が引きずられ、砂浜に溝をつけていた。一心に這うその目には、前方の指しか写っていない。だが、彼が目指す流木は、大人の身長で五、六人分離れている。
 痛ましい姿にたまりかね、アルノーは流木に近づいた。這いずる男の行く先に足取りを速めて回り込む。流木の裏に踏み込んだ途端、獲物にたかっていた大鴉が風圧に押し出されるようにして飛び立った。だが、舞い上がった空中にそのまま留まり、羽をばたつかせて威嚇している。未練がましく羽ばたく鳥は、滅多にありつけぬ大きな獲物を諦める気はないらしい。アルノーは構わず、白い手の先を視線で辿る。
 日陰になった砂浜に、黒髪の後頭部が、片手を伸ばして倒れていた。黒いおかっぱ頭の小柄な女だ。うつ伏せの体は砂をかぶり、長いスカートの下半身は、打ち寄せてきた海藻にあらかた埋まってしまっている。爪先で軽くつついてみるが、その肩は微動だにしない。流木の裏で膝をつき、女の口元に手をかざし、首筋の脈をみた。
「──首でも折ったか」
 アルノーは気鬱に立ち上がった。体温は既に失せ果てて、肌は冷たくなっている。女はうつ伏せで転がったまま、物のように反応しない。
 荒々しい息遣いが間近で聞こえた。驚いてアルノーは振り返る。片腕だけでほふく前進していたあの男だった。すぐそこにまで迫っている。
 驚くべき速さだった。ほんのつい今しがたまで、起き上がることさえ、ままならなかったというのに。まして男は、地面を転げ回って泣き叫んでいても、おかしくないほどの大怪我なのだ。
「そこをどけ!」
 とうとう足元まで這い寄った男が、突っ立つアルノーの足を押しのけ、その間に割り込んだ。動く方の片腕を伸ばして、かぶり付くようにして女を奪う。
「──無駄だよ、死んでる」
 アルノーは苦々しい思いで目をそらした。既に、この世の者ではない。一目でわかる。明白だ。だが、男は女を掻き抱いたまま返事もしない。アルノーは深く嘆息した。「気持ちはわかるが、その人はもう──」
「黙れ!」
 鋭く、男が言葉を制した。女の肩に顔を埋め、長髪を払って首を振る。「死んでねえ! 死んでねえ! 死んでねえ!」
「死んでるよ」
 アルノーは苛立ち紛れに言い渡した。「その人はもう、死んでいる。酷なことを言うようだが、何をしようが、もう無理だ。その人は息をしていない」
「死んでねえ! まだ死んでねえ!」
 男は遺体を掻き抱き、どうしても納得しない。無情な現実を振り払おうとでもするように、柳眉をひそめて首を振った。「──違う。そんな筈はねえ──そんなことが起こる筈がねえ。こんな所で、くたばるような奴じゃねえんだ!」
 もう目を開けることもない白い顔に頬ずりし、否定の言葉を震える声で繰り返す。
「……おい、さっさと目を開けろ。いつまでそんな猿芝居してんだ……とっとと起きねえと、ぶん殴るぞこら……」
 力なく落ちた女の手が、浜をこすって揺れていた。男が力を込めるだけ、抱いた黒髪がさらさら揺れる。男は現実を拒み続け、噛みつかんばかりに女に顔をうずめている。応えぬ女に一方的に呼びかけている。
 アルノーは堪らず目をそらした。先ほど遺体をぞんざいに扱ったことを思い出し、気まずい思いがこみ上げる。遺体を軽く顎でさした。
「──もしや、あんたの好い人で?」
 ふつり、と声が唐突に途切れた。しばらく待つが、男はじっと黙り込んだままだ。
 アルノーは肩をすくめ、男の肩を軽く押した。遺体の腕を片手で掴んで、やんわり男から引き離す。「さあ、手を離して下さい。その人、こっちに渡して──」
「触るな!」
 手が、弾き返された。男は両手で抱え直し、女の遺体に顔をうずめて、貝のようにうずくまる。動かぬ黒髪を抱える平手に、更なる力がぐっとこもった。
「──これは、俺んだ」
 押し殺した声が、背から漏れた。どうしても渡すまい、との強固な意志を、痛いほどに感じる。アルノーは溜息で顔を背け、晴れ渡った夏空を静かに仰いだ。
「……そいつは、ご愁傷様で」
 台風一過の空が青い。獲物に群がる鳥達がガアガア騒がしく鳴いていた。突き放されたようにのどかな浜。
「綺麗な顔だ。あんな時化に巻き込まれりゃ、岩礁にでも打ちつけられて、見るも無残にズタズタになる。なのに、その人には、傷ひとつ付いちゃいねえ。奇跡のような幸運ですよ。それを、せめてもの手向けと諦めて──」
「たりめえだ。誰が傷なんかつけるかよ」
 男が忌々しげに吐き捨てた。我が身を呈して激流から守ってきたらしい。ならぱ、尚のこと無念だろう。
 アルノーは「島を見てくる」とその場を離れた。あの惨憺たる有様では、しばらく遺体を放しそうにない。彼が女を諦めるには、しばらく時間が必要なのだろう。
 島を歩き回って時間を潰した。出てきたついでに、改めて遭難者を捜してみるが、浜には鳥の大群が群がるばかりで、人っこ一人見あたらない。無人島を一周し、男のいる浜まで戻ると、男はやはり微動だにせず、女を抱えてうずくまっている。いや、だしぬけに顔を振り上げた。
「おい、靴紐を外せ」
 突然男に命じられ、アルノーは面食らって足を止めた。「──靴紐って、あんたの靴の? そんなもの外して、どうするんで」
「いいから早くしろ!」
 忌々しげに凄まれて、呆気にとられて見下ろした。まるで訳が分からない。だが、それでも、男の横にしゃがみ込み、投げ出したままの足の先、ごつい編み上げ靴に屈み込んだ。
「ほらよ」
 靴紐を解いて渡してやると、男は苛々と引ったくった。すぐさま背を向け、女の上に屈み込む。頭上で大きな羽ばたきがした。隙あらばと旋回していた、あの黒い大鴉だ。まだ狙っていたらしい。
 男が出し抜けに顔をあげた。頭上すれすれに滑空してきた鳥の足を、素早く片手で引っ掴む。鳥が慌ててギャーギャー騒いだ。
「……何をする気だ」
 アルノーは呆気にとられて振り向いた。翼をばたつかせる鳥の足に、男は靴紐を巻きつけている。足の自由を奪われた鳥は、けたたましい奇声でもがいている。死肉を狙って離れぬ鳥が、そんなに気に触ったのだろうか。
 とはいえ、いささか奇行じみている。アルノーは苦々しげに嘆息した。「……おい。鳥にあたるなよ」
 脚を靴紐で括られた鳥が、けたたましく飛び立った。しつこく遺体に付きまとっていたが、これには懲りたか、もう舞い戻ることもなく、空の彼方へ逃げていく。
 晴れ上がった青空に、黒い鳥影はくっきりと映えた。それを何気なく見送って、アルノーはふと目を眇める。キラリと何かが鳥の脚で光ったのだ。何か人工的な煌めきのような──
 哀れな鳥は不自由そうに飛んでいく。それを、男は口端に薄笑いを浮かべて眺めている。ようやく溜飲を下げたらしく、再び女を抱え込んだ。手持無沙汰に鳥を見送っていたアルノーは、何かがどこか奇妙なことに気がついた。野生の鳥が、ああも容易く捕まるものか? 男が見せた今の動き、妙にきびきびしていなかったか?
 そういえば、男の体力が回復しているように思われる。弱り切っていた今しがたとは、雰囲気からしてガラリと違う。だが、この場を自分が外したのは、島をぐるりと一周してきた、わずか一時のことだった。アルノーは怪訝に男を見、思わぬ様に息を呑んだ。
「──おい! あんた、何をする気だ!」
 抜き放った短刀の柄を、男がくわえているではないか。慌てて男に屈みこむ。いつの間に、あんな物を抜いていたのか──。
 刃を取り上げる暇もなく、男は抜き身を右手で掴む。一気に刀を引き抜いた。
 握りしめた拳から、みるみる鮮血があふれ落ちた。横たわった死人の口元に、男はその手を持っていく。ぽたり、ぽたり、と鮮血が滴るその様を、男は前屈みで凝視している。わずかに開いた女の口に、血液の雫が落ちていく。これは、まさか、
 ──自分の血を飲ませようとしている?
 吐き気を覚えて、アルノーは目を逸らして、口元を押さえた。正気の沙汰とは思えない。鳥の脚を縛ってみたり、女の顔に血液を浴びせてかけてみたり──
「……気がふれたか」
 男の狂態に、寒気さえ覚えた。女には、呼吸も脈もまるでない。既に事切れていることは、直に抱いた己自身が余程わかっているのだろうに。血液さえ補充すれば、失せた血の気が呼び覚ませるとでも思ったのだろうか。
 凄まじいほどの執念だ。アルノーは空を仰いで、視線を無為にさまよわせた。今の錯乱は見なかったふりで、動揺を押さえ、呼吸をゆっくり整える。
「さて、そろそろ行きましょうや。幸い海も収まっていますし、早く出ないと暗くなる。気の毒だが、その人のことは、一旦戻ってから迎えに来ましょう」
 男は再び女を抱え、何の反応も示さない。離れがたいのはわからなくもないが、いつまでも、こうしていても、きりがない。むしろ、息のあるこの男だけでも陸に運んでしまわねば、取り返しがつかなくなる。這ってきたのが不思議なほどに、男はひどく衰弱している。手当てを急がねば、命に関わる。
「今の内に出ちまいましょう。今なら、風も波も収まっている。──俺のは見ての通りの釣り船でね、あんたにゃ悪いが、死んだ者までは乗せられない」
 男は返事をしようとしない。業を煮やして、力づくで腕をとった。
「さ、行きましょう。もたもたしてると日が暮れちまう」
 女の肩を引き剥がそうとした、その時だった。
「触るなっつってんだ!」
 男が鋭く振り向いた。ふと、アルノーは動きを止める。今しがた感じた違和感の正体に気がついた。そういえば、この男、両手で、、、女を抱えていないか──?
 血の気の失せた冷ややかな顔で、男の鋭い双眸だけが異様な輝きを放っていた。男は肩を掴んだ手をもぎ取る。
「……こいつに触るな。指の一本でも触れてみろ」
 その手を強く突き放した。
「俺がこの手で、お前を殺す」
 
 
 
 
 

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