CROSS ROAD ディール急襲 第2部 5章2話2
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 夕刻の飯時を迎えて《気楽亭》は賑わっていた。十ほどもある丸卓は、酔った常連でほぼ埋まり、薄暗い店内は、紫煙とざわめき、だみ声の笑い声で満ちている。
「はい、毎度」
 帳場の女将が愛想よく、紙幣を三枚手渡した。アルノーは「こっちこそ」と着流しの懐に札をしまい、店の奥の方にある仄暗い階段を目線でさした。「ところで、部屋、空いてますかね」
 カレリアにある飯屋の二階は、大抵、宿を兼ねている。夜には無論、酒も供する。
「ああ、もちろんあるよ。あるともさ」
 すっ、と女将は帳場の天板に頬杖をつき、婀娜っぽい仕草で窺った。「うちは商売だから、いいけどさ。あんた、自分のねぐらはどうしたのさ」
「ちょいと客がいましてね」
「あらまあ、焼けるねえ。あんたのコレかい?」
 四十絡みの飯屋の女将は、ほっそりとした小指を立てて、くすくす笑いで目を細める。笑うと目尻に皺ができるが、きめの細かい色白の肌や艶やかな黒髪とも相まって、まだまだ女盛りというところ。店にたむろす常連の中には、女将目当ての客も多い。アルノーは笑って手を上げた。「それなら俺も、さっさと住みに引き揚げますよ」
「それも、そうだね。だったら、あたしが名乗りをあげようかしらねえ」
「──ご冗談を」
 一瞬戸惑い、からかわれたのだと気がついて、アルノーは困った顔で苦笑いした。「姐さんに手なんか出したら、兄貴に俺が殺されますよ」
 天板の手を、じゃあ、と引く。
「ああ、ちょっとお待ちよ」
 女将のしなやかな手が素早く押さえた。アルノーの手の下に、二つ折りの札を幾枚か滑り込ませる。
「旨いもんでも食わしておやりよ。あんたの大事なお嬢さんに、、、、、さ」
 そっと握らせた手の甲を、しっとり白い手で軽く叩き、華やかな笑顔で微笑んだ。「いつも、活きのいい魚を卸してもらうから、そのお礼ってことでさ」
「──そいつは、どうも」
 軒下に垂れた暖簾を払って、アルノーは酒場の喧騒から歩み出た。ともし火漏れる表戸を背にして、女将が触れた手をしばし見下ろし、頬を緩めて、ふっと微笑む。まったく、未だに母親代わりのつもりでいるのだ、あのひとは。
 ここの女将は、昔からのオーサーの馴染み、、、だ。「頼む」とオーサーに任されただけで、右も左もわからなかった十七歳の悪たれを──彼女にすれば、どこの馬の骨とも知れぬであろう得体の知れぬ異邦人を、疎むでも気味悪がるでもなく、身辺を気遣い、心を砕き、甲斐甲斐しく世話してくれた。元の世界にどうしても戻れず喧嘩ばかりに明け暮れた日々──腐って荒れた自暴自棄の頃にも、女将は常に傍にいて、時に諌め、時に励まし、理不尽に毒づく乱暴者を投げ出すことなくなだめてくれた。アルノーにとっては、この世の誰より大事な人だ。そうした事情もあったから、三度の飯もここでとり、釣果も自ずとこの店に卸すようになっている。
 この十卓余りの大衆酒場は、アルノーに小屋を明け渡したオーサーがいつも隅でたむろしている為、オーサーを慕うごろつき共の溜まり場となっているきらいがある。だが、与太者が女将に絡むようなことでもあれば、いつでも盾になる心積もりでいる。彼女に害を成そうというなら、誰であろうが容赦はしない。オーサーに拾われ、海での荒仕事に伴って喧嘩の仕方を一から仕込まれたアルノーは、そこらのごろつき風情には引けを取らない腕を持つ。
 雪駄で着流しの裾をさばいて、街外れの自宅へ足を向けた。宵闇に包まれた見慣れたざわめきに身を置いて、夜の街をぶらぶら歩く。
 大通りの煉瓦の歩道を、店々の灯りが照らしていた。道を埋める人込みはのんびり通りを流れている。普段であれば繁忙期に当たる夏真っ盛りであるのだが、街をぶらつく顔ぶれは、その大半が地元民だ。
 このところの情勢不安で、例年浜を埋める観光客が激減していた。客足を当て込んでいた店主などは、商売あがったりだ、とぼやいている。もっとも、観光収益とは無縁なアルノーなどは、浜をうろつく余所者に仕事を邪魔されることもなく、むしろ有り難いくらいに思っているが。アルノーはぶらりと足を止め、宵闇に沈んだ通りの先を、舌打ちで肩越しに振り向いた。「──あのじゃじゃ馬が。勝手におん出て行きやがって」
 オーサーが街を空けた途端、世話を頼まれていたあの客、、、が、情勢不穏な商都の街に勝手に帰ってしまったのだ。拾った男にかまけている間に。
「たく。妙なもんを拾っちまったな」
 住み処に連れ戻った男の顔を思い出し、アルノーはやれやれと嘆息する。
 事の起こりは、あの一昨日の時化しけだった。いつものように漁に出て、それで巻き込まれてしまったのだ。波は激しく渦を巻き、激流走る外周を散々に振り回されて、あの無人島にぶつかった。そう、今にして思えば、無人島を目指して、まっすぐ進んでいたように思う。途轍もなく強い力に引き寄せられて、あそこまで避けがたく、、、、、運ばれてしまった、、、、、、、、、そんな感じだ。
 頭上には濃紺の天蓋が広大にひろがり、星々が遠く煌めいていた。地中海を思わせる白壁の連なる街並みが、夜の暗がりに沈んでいる。宵の街のざわめきに紛れて、波音が絶え間なく聞こえていた。店々の灯りが途切れた先に、レーヌの大海が開けているのだ。
 この大通りの突き当たりは、貨物搬入の舗装路に続き、舗装路の右手は漁港、左に行けば、白砂の海岸──この美しい砂浜が、白壁連なる街並みと共に、観光地レーヌの最たる売りだ。
 商店が途切れ、密やかな波音が耳に迫った。大通りの突き当りまで足を進め、月明かりを照り返す黒波うねる浜に出て、アルノーは道を左に折れた。街路灯の途絶えた街沿いの暗がりを、雪駄を擦ってぶらぶら歩く。
 ぬるい海風が肩先を撫でる。足元脇の道端で、雑草がゆるく揺れていた。空も海も黒く塗り込められた中、寄せては返す波だけが白い。夜の浜はひっそりしていた。普段であれば、宵の親密な暗がりに紛れて、流木に座った恋人達が語らっていたりするのだが、誰の姿もそこにない。それは昼であっても同様で、海水浴の時期というのに、浜で遊ぶ人影はまばらだ。
 行く手には、大陸東端を覆う大樹海が黒々と小山のように迫っている。樹枝をうねらせ、真っ黒な口を殺伐と開けた森の縁、街の賑やかな中心部から少し外れた竹林に、アルノーは自宅、兼、小さな店を構えている。潮風にさらされ、いささかくたびれた風情の住み処は、漁から戻ったオーサーが休息場所、兼、物置小屋として使っていた掘っ立て小屋を譲り受けたもので、大分広めの下駄履きの土間と、その突き当たりにある漁果をさばく簡単な炊事場、そして、ごろ寝のできる畳の間から成っている。現在、住居として使っている奥の間は、凡そ十畳といった広さだ。オーサーが以前、網だの魚篭ビクだの釣竿だのと道具を雑然と置いていたこの広い土間を利用して、アルノーは浜で拾った手頃な流木などを陳列し、「蒼月堂」という名のささやかな骨董屋を営んでいる。
 薄暗い店先に辿り着き、月影に沈む軒下の簡単な鍵を外し、アルノーは店の引き戸を開けた。敷居をまたぎ、シンと暗い土間に踏み込む。どうやら、男は明かりをつけていないらしい。
 壁際に陳列した商品が土間の暗がりに沈んでいた。"それ"に気づいて舌打ちしながら、うっすら外光の漏れている土間の左の上がりがまちまで足を進める。声をかけようと覗いた途端、ギクリ、と肩が硬直した。
 無人島で拾った件の男は、部屋の隅に立てかけてあった鍛錬用の木刀を担いで、壁の暗がりにうずくまっている。額と手足に包帯を巻いた、その長髪の輪郭が、ふわふわ、ゆらゆら揺らいでいた。窓を閉て切った、、、、、奥の間で。
 男の周囲を微風が取り巻き、空気がよどみ、揺らいでいた。不自然に、曖昧に。あの男を中心にして、ゆっくり渦を巻くように。
 たじろぎつつも、又か、と思う。あの日も、あんなふうに、あの長髪が揺らいでいた。帰港中、半ば気を失いながらも遺体を抱き締めていたあの時にも。あたかも男の周りでのみ、激しい静電気が起きたかのように。そして、レーヌに漕ぎ着けて浜から店に向かう際にも、男の足取りがまた一段、確かなものに変わっていた。あたかも充電、、し終えたように。
 そう、島を一周して戻った後も、浜を這いつくばっていた瀕死の男は、気力が幾分回復していた。いや、回復したのは気力ばかりではない。あの後、男は驚くべきことに、遺体を肩にしょい上げて、よろめきながらも立ち上がった。そして、負傷した足を引きずりながらも、あの遺体を舟まで運び、舳先に自力で乗り込んだ。一体あんなことが本当にできるものなのか──。暗がりに身を潜める男が、たまりかねたように顔をあげた。
「──なんだ」
 不愉快そうに舌打ちし、掠れた声で問い質す。怪訝に見つめてしまっていたらしい。アルノーはばつ悪く頭を掻いて、逸らした視線を、店の暗がりに巡らせた。「──ああ、いえ。どうも空き巣に入られたようで」
 薄青色の柄の皿が、元の場所からずれていた。ほんの僅かではあるものの、物の位置が動いた気がする。店が密かに荒らされていた。他ならぬ自分の店だ。少しの異変も気配でわかる。男は怪訝そうに目をすがめた。「何を盗られた」 
「それが何も。まったく、なんのつもりですかね」
 ざっと被害を調べたが、なくなった物は見当たらない。恐らく、骨董屋の看板を見て忍び込みはしたものの、目ぼしい物がなかったのだろう。もっとも、この店の主アルノーとて、大した物は置いていないとの自覚はあるが。
「何も、ね」
 男は嘲るように鼻を鳴らし、かったるそうに壁にもたれた。「──懲りねえな。ご苦労なこった」
 アルノーは怪訝に男を見た。何か含みありげな物言いだ。いや、それ以前に、この男がこんなに喋るとは珍しい。この自宅にあげて以来、男はほとんど口をきかない。
 無人島で保護したのは、ファレスという名の異邦人だった。堀の深い綺麗な顔をして、女のような長髪だが、体格は細身ながらもガッシリしている。筋肉質な長身痩躯、夏というのに、いやに分厚い革製のジャンバーを黒いランニングの上に羽織っている。戦地で見るような深緑色のカーゴパンツ、そして、どんな障害でも踏破できそうな見るからにごつい編み上げ靴。これで銃でも持たせれば、軍人のように見えなくもないが、この服装の砕け具合は、軍人の着るそれには見えない。そう、どちらかといえば、山岳地帯に潜伏するゲリラのような風体だ。そういえば、西の隣国では長らく内戦が続いている。アルノーは国外に出たことがないので、人種については不案内だが、国境を越して西から来たと言っていたから、或いはあれが隣国の、シャンバール人という種族なのかも知れない。
 時化の凄まじい激流に揉まれて、ファレスは満身創痍だった。というのに、遺体の手を取り、脈をとり、額に手を当て、熱を測り、呼吸の有無を確かめる。じっと腕組みで遺体を見つめ、一応気は済んだのか元の壁まで引き揚げる。だが、それから幾らも経たぬ間に、また四つん這いになって枕元に戻り、脈をとり、熱を測り、呼吸の有無を確かめる。壁でうなだれ、うたた寝している時でさえ、自分の決めた定位置からは、片時たりとも離れない。傷一つない遺体より、余程ひどい有様だというのに。
 だが、医者は未だに呼んでいない。ファレスが激しく拒んだことも主な理由の一つだが、それ以前に、医者に往診を頼む事それ自体が、今は難しい、というのが実情だ。この付近の診療所は、どこも多忙を極めている。近年稀に見るあの時化で、怪我人が多数運び込まれているからだ。
 ファレスは自分のことにはまるで構おうとしないので、やむなくアルノーが彼の傷の手当てをしたが、それさえ顔をしかめて、うるさがった。だが、自分の手当てこそ嫌々ながら許したものの、連れにはやはり、指一本触らせない。
 物の傷みやすい夏場のことでもあり、アルノーは連れ戻った女の遺体を早急に荼毘に伏そうとした。だが、男は「仮死状態だ」と譲らない。もっとも、アルノーには、その言葉を確認しようもなかった。男は遺体に近づけないし、ああして枕元に張りついて、常に見張っているというのだから。不用意に遺体に近づこうものなら、誰であろうが斬り捨てる──そうした決然とした殺気のようなものが男の周囲に充満していた。あの日、宣言した言葉の通りに。
 アルノーはやむなく諦めて、手向けの花だけでも、せめて枕元に供えてやった。だが、改めて様子を窺っても、腐臭というものが、まるでしない。それは、いささか奇妙なことだった。陽の射さぬ部屋の隅とはいえ、夏場に二日も放置すれば、どんな小魚が腐っていても、その腐臭ははっきりと分かる。まして、それが人だというなら──暗がりに沈む物影に気づいて、アルノーは、やれやれ、またか、と嘆息した。
「また、食わなかったんですかい」
 膳が手付かずで、畳の上に置いてあった。焼いた魚も炊き立ての飯も、今日も丸々残っている。あれから二日が経つというというのに、やはり何も口にしない。
「──縞アジも駄目ってか」
 アルノーは雪駄を脱いで、膝の高さの上がりがまちに上がり、突っ立ったまま片手を伸ばして、手付かずの膳を取り上げた。
 身柄はとりあえず保護したものの、ファレスは食いもしないし、眠りもしない。壁際の暗がりで瞳だけをぎらつかせ、じっとああして日がな一日うずくまっている。あれから口にしたものといえば、わずかに麦茶くらいのもの──それも、ようやく自宅に戻った際に、やかんから湯のみに注いだ麦茶で、アルノーが喉の渇きを潤していると、じっとそれを見ていたファレスが、突如やかんを引ったくり、やかんの注ぎ口からがぶ飲みした、それきりだ。以来、何を出しても口にはしない。
 ようやくレーヌに到着し、足取りも怪しく転がり込むなり、ファレスは清潔な包帯を要求した。そして、女物の、、、衣類を一組──つまり、ずぶ濡れになった連れの服を着替えさせてやろうというのだ。
 アルノーは男の好きにさせた。どうせ、何を言おうが無駄なのだ。それは無人島でのやりとりで嫌というほど思い知らされていた。《気楽亭》の女将に頼んで望む品を用意して、あの男に渡してやった。もっとも、包帯をくれと言うから、自分で手当てをするのかと思えば、用途はまるきり違っていた。
 薄暗い店内を、窓からの月明かりで片付けながら、アルノーが土間から窺っていると、ファレスは寝床の横に屈みこみ、女の服の背を開き、護身刀を引き抜いた。今度は遺体を切り刻むつもりか、と慌てて止めに入ろうとすると、ファレスは遺体の背中の包帯に刃先を無造作に食い込ませ、ブツリとそれを断ち切った。潮にまみれた遺体の体を濡れた手拭いで拭いてやり、包帯を替えてやっているのだ。
 遺体に施す一連の動作は、随分と手慣れたものだった。怪我の処置に慣れている、そうした印象を強く持った。ひとつ奇妙だったのは、断ち切ってバラけた包帯を、彼女の背からどけた途端に、ギクリと背中を強張らせたことだ。
 中腰で愕然と乗り出したまま、ファレスはしばらく、遺体の背中を凝視していた。やがて、信じがたい、とでも言いたげに、首をゆるゆる左右に振り、そうして、小さく呟いた。
『……どういうことだ』
 
 女の遺体は寝床にうつ伏せに寝かされたまま、紙のように白い顔で、今も瞼を閉じている。ファレスは無灯の蒼闇の中、支えの木刀を肩に担ぎ、片膝を立てて座り込んだままだ。彼の寝床も無論敷いてはあるのだが、ファレスは決して、それに横になろうとはしない。
(──一体、何を待っている?)
 ふと、そんなことを考えた。
 じっとうずくまるファレスの姿は"何か"を待ち侘びているように見えた。それがやって来るのを、ただひたすら待っている。
 膳を下げて、店の薄暗い土間に降り、裸足の爪先に雪駄を突っかけ、玄関の方へと足を向ける。すっかり冷めてしまったが、近くの詰め所にでも持っていけば、誰か食う奴がいるかもしれない。引き揚げかけて足を止め、奥の間へと振り向いた。
「ちったぁ何か食いませんか」
 奥の間はシンと静まっている。たまりかね、アルノーは重ねて声をかけた。「何か腹に入れねえと、あんたの身がもちませんよ。そうでなくても、そんな大怪我だってのに」
 ファレスからの返事は、やはり、ない。
 居丈高で不遜なあの男に、すっかり住み処を占拠されていた。だが、不思議と追い出そうという気にはなれなかった。それは、まぶしくも虚しいあの午後に、常に強気なあの男の哀れな姿を見てしまったせいかもしれない。
 とりあえず明かりを灯そうと、棚のカンテラに手を伸ばす。ガラリ、と表で音がした。
 
 
 
 

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