■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部5章 3話1
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ずっとずっと欲しかったものを、親は与えてくれなかったから、自分の手で作ってしまおうと考えた。
誰かと共に居場所を築いて、うんと幸せになってやろうと思っていた。条件つきの限られた時間の中だけでなく、いつでも安心できるように。自分の為のあたたかい居場所で、気負わず笑っていられるように。
けれど、ダドリーの両手はサビーネとクリードの手を握っていて、彼に差し伸べた自分のこの手は、初めからどこにも行き場がない。だから、彼ら三人が歩く後ろを、うろうろまとわりついているしかない。話しかける時には、気がついてもらえるように、普段よりも大きな声で。彼らと共に笑えるように、どんな会話にも耳を澄まして。
ダドリーは時折振り向いて、笑いかけてはくれるけど、肩越しに寄越したその笑みに、うまく笑い返すことができずにいる。疲れて癇癪を起こしても、転んで膝を抱えても、背を向けて歩く彼らは、後ろの脱落に気づかない。そうして笑って話しながら、歩いていってしまうだろう。
追いかけても、追いかけても、彼らの背には追いつけず、彼と並んで歩くことはおろか、輪の中にさえ入れない。小走りで前を追い抜けば、ふと、向きを変えるだろう。泣いてもわめいても、どうにもならない。ダドリーは困った顔をするだけで、左右の二人を握った両手を放すことは永久にない。
そうしてすっかり疲れはて、路上にぽつねんと取り残される。それでも、のろのろ立ち上がり、両手を振って追いかけていくのだ。笑って歩く彼らの後を。偽りの笑みを満面に浮かべて。女の子はきっと、誰かと一緒でなければ歩いていけない。
どれくらい前からのことだろう。疲れた足を引きずって、顔をゆがめて歩く傍らに、いつの間にか寄り添う影がある。
深い暗がりの奥底で、微かにうごめく存在を体はとうに知っている。けれど意識は、目まぐるしく移り変わる現実の様相に振り回されて、それを拾うことができずにいる。目を凝らし、耳を澄ませば、知ることができるはずなのに。確かに息づく健気な鼓動を。
網は、既に断ち切られている。出ようと思えば、出られるはずだ。
頭上でゆらぐ水面は、重くおごそかな境界だ。水面に張りわたされた黒い網は、越えてはならない禁忌のあかし。
真上の綱が断ち切られ、黒い綱の切れ端が海藻のように揺らいでいた。引きちぎられた網の切れ目は、人一人が通り抜けられるくらいの大きさはある。それには、ずいぶん前から気づいている。
声が、ずっと呼んでいた。
けれど、だるくて動きたくない。もうすっかり疲れていたし、ほのかに暗いこの場所は、ぬるい泥土のように心地がいいのだ。ここでじっとしていれば、もう何もしなくていい。もう何も考えなくていい。
青く澄んだ水底で、膝をかかえて顔をあげ、水面のゆらぎを眺めていた。流れにたゆたう水草のように。
ぷくぷく、ぷくぷく、まっ白に滅びた静かな水底のあちこちから、気泡が水面に立ちのぼっている。ここは、静かだ。
深い、深い水底にいた。つゆ草の花いろをいく倍にも薄めて光を一滴たらしたような、どこまでも透明に澄んだ青。透明の水がゆらゆら揺らいで、ゆっくり、ゆっくり、時がうつろう。いや、"時"などという取り決めは、ここでは無用の長物だろう。
ここは、静かだ。
話し声、笑い声、怒鳴り声、泣き声──騒がしく充満する声の中、無理して声を張りあげなくていい。ここでは、誰も騒がない。
かかえた膝に頬をつけ、青い水底に降りつもる乳白色の細やかな砂に、手を伸ばしてふれてみる。まだ、ほのかにあたたかい、きめの細かいその砂を、指先でゆっくりなぞってみる。心の中は平穏だ。もう、思いわずらうことはない。
全てのものが過ぎさって、世界は粛然と静まっている。けれど、少しも寂しくはない。ここはゆるくて、あたたかいし、役割を終えたおおくの仲間がこうして共にあるのだから。指先に触れるかたわらに。座りこんだ足もとに。
騒がしい世情とは無縁のここで、ずっとこのまま、こうしていたい。体の肉が溶けさって、コトリと倒れたその骨が、水底の砂に還るまで。
とても気だるく、とても眠い。
ゆっくり引きずられていくような、昏くて深い、澱んだ眠り。もう何も考えなくていい。ダドリーのことも、居場所のことも。全ては与えられたのだから。
もう、何も見なくていい。狡猾な家政婦の冷ややかな顔も。貴婦人たちのさげすんだ笑顔も。
もう、何もうらやまなくていい。サビーネのことも、クリスのことも、いつか宿すはずだった、あの彼の子供のことも。
子供はいらない、とダドリーは言った。お前は一人で生きていけ、と。彼との間の愛すべき命は、二度と生まれることはない。守り、守られるはずだった、彼らとつくるあたたかな殻は、もう永久に失われてしまった。もう、すっかり壊れてしまった。もう、すっかり疲れてしまった。もう、ビクビクしなくていい。
吹きわたる風にさらわれて砂丘が起伏を変えるように、一面に広がった静かな白砂の陰影が少しずつ形を変えていた。体がかすかに引きずられている。足もとの砂がうごめいて、少しずつ少しずついざなわれている。ほのかに輝く白い水底の中央へ。
渦の中心に呑まれれば、天地(あめつち)の一部になれるのだろう。水底一面にひろがった細やかな砂と同化して。
すっ、と影が水面をかすった。
沸々みなぎる溶岩が横に一閃するように、赤とも黄ともつかぬ煌めきが、水面の向こうで大きくゆるやかに旋回している。光彩がよぎった軌跡を追って、光芒がきらきら、まばゆく尾を引く。両翼で掻きやった光が飛び散り、火の粉のようにパラパラこぼれた。全身燃え立つような巨大な鳥。あれは──
……黄金の鳥?
何を探しているのだろう。
それとも、何かを守っている?
悠然とした佇まい。世界の看守であるかのように。この世界の主のように。
ひっそりゆらぐ水面に、ぽつり、と波紋が現れた。
清らかな水に血を一滴たらしたように、瞬く間に不純は広がる。それはこの場にあってはならないもの、忌みはばかられているものだ。それは隅々にまで流れ込み、理を狂わせ、支配する。
獣臭が不意に流れた。
この清浄な場には不似合いな、ひどく暴力的な血の匂い、飢えさらばえた獣が放つ、一種独特で獰猛な匂いだ。けれど、この肩を記憶している。この鼓動を知っている。乱れのない力強い鼓動。頬に当たる短髪の硬さ。この匂いを知っている。
お日様の匂いだ。
膝にうつぶせた顔をあげ、懐かしい気配に手をのばす。
"時"が動いた。意識が高く跳躍し、世界を覆うまばゆい光が仄かなゆらぎを凌駕する。
ぐい、と引っぱり上げられた。
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