CROSS ROAD ディール急襲 第2部 5章 3話2
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 途絶えることない通底音が、遠くかすかに鳴っていた。ほんの微かな生臭さ。水の匂い。磯の匂い。どこか懐かしい水を使う匂い──。
 乾いた泥のかたまりが、い草の敷物に落ちていた。薄汚れたズボンの足が、視界を斜めにふさいでいる。枕元の壁に座って、誰かが片足を投げ出しているのだ。
 窓辺に落ちた紙のうちわに、明るい日差しが射している。小鳥の鳴き声がどこかでしていた。ひんやり仄暗い部屋にいる。ひっそり世界を包み込む、この白々とした静けさは、どうやら朝であるようだ。
 足の持ち主を辿ってみると、不精髭の横顔が見えた。狭い部屋の暗がりで、男が一人、気怠そうな風情で、近くの壁にもたれている。知らない男だ。男は軽く眉をひそめ、目をすがめるようにして窓の方を眺めている。どうやら日差しがまぶしいらしい。膝に置かれた腕の先、節くれ立った指先が、宙をもてあまし気味に叩いている。
 エレーンは怪訝に首をひねった。自分がどこにいるものか、とっさに判断がつきかねた。見たところ、住み慣れた寮ではないようだった。赤絨毯のゲルでもない。天井の高い新婚の居室の、天蓋付きのベッドでもない。
 物の少ない、こざっぱりと片付いた部屋だ。仄暗く静かなこの部屋には、使い古されたい草のシートが床一面に敷かれている。こうした種類の敷物を、近頃どこかで見た気がした。そう、あれは確か、ファレスと気晴らしに遊びに出たルクイーゼの街ではなかったか。ハジの店の二階にある、日当たりの良いひなびた大部屋──。
 温まったふとんに両手をついて、うつ伏せの体を寝床から起こした。首が寝違えたようになっていて、体の節々がぎしぎし痛い。男がふと身じろいで、窓からこちらに視線を向けた。目を見開き、口を絶句したように半開きにしている。
 険しい顔つきの若い男だ。どことなく、ケネルに似ていなくもない。でも、男の顔は頬から顎にかけて猛々しい無精ひげで覆われているし、その鋭い双眸は、目にかかるほどの前髪の下で、獰猛な光を放っている。何より、他を寄せつけないいかめしいほどの威圧感。引き比べてうちのケネルは、もっとチョロくてセコい感じで──もとい、もっと、のほほんとして伸びきっていて、のんびりあくびとかこいてる感じ──いや、まてよ?
 ふと目を瞬いて、エレーンは壁の男をしげしげ眺めた。櫛さえ通さぬ髪の感じ、わりと広めの肩の感じ、節くれ立ったあの手の感じ、重たそうな革ジャンに、ポケットのたくさん付いた薄汚れた緑色のズボン、そして、乾いた土が白くこびりついた重たそうな編み上げ靴──て、部屋で土足か、この男。
 ともあれ、見れば見るほど見たことがある。どこかでこの彼を確かに見た。知らない男ではないはずだ。むしろ個々のパーツがかもし出す隠しようもないずぼらな感じは、たぶんよーく知っている感じだ。だって彼は、紛うことなきあの──
「ケネル?」
 エレーンは呆気にとられて瞬いた。一体全体どうやったら、そんなに小汚くなれるのだ? 頬が幾分こけたからだろうか、人相がまるで変わっている。顔の印象ががらりと違う。むさ苦しいことこの上ない、あの無精ひげのせいだろうか。いかにも真面目に話を聞きつつ、その実、裏では小ずるくあくびをこいている、のほほんとずぼらなあのタヌキは一体どこへ行ったのだ? てか、なんでいきなり、こうまで小汚くなれるんだか不思議。むしろ、なんでそこに座っているのだ? 
 疑問が次々湧いてきて、けれど、どれから訊いていいものやら分からずにただただ唖然と見ていると、ガタン──と足の方で音がした。
 首をねじって肩越しに見ると、目を覆うほどに前髪を長くした若い男が、驚いた顔で立っていた。風変わりな服を着ている。布をまとって別布で胴を締めただけの簡素なもの。ボタンのないあの服は、南海の漁師が好んでまとう「着物」とかいう彼らの衣服だ。とある縁で南海には馴染みがあるから、ああした衣服もかつて毎日のように目にしたものだ。ともあれ、何故だか引きつっているあっちの顔も、どうも、どこぞで見たような?
「──あの人に、教えてやらねえと」
 男が凝視したまま呟いた。明るい日差しがさしている右手の方向に足を向け、前のめりにバタバタ出ていく。ガラスの引き戸をあわただしく開け閉てする音──て、ひとの顔を見るなり失敬な! むむう、とエレーンは口を尖らせ、同意を得るべく壁際のケネルを振り向いた。
「なあによあれ、失礼しちゃあう! お化けに出くわしたみたいな顔してさあ!」
 立てた膝に腕を置き、ケネルは身じろぎ一つしない。身を乗り出して目を見開き、口をわずかに開けている。そういや、こっちも"お化けに出くわしたみたいな"顔つきだ。
 按配が妙だと遅まきながら気がついた。エレーンはぱちくり瞬いて、静かな部屋をきょろきょろ見回す。今の無礼な男といい、ケネルの不可思議な態度といい、一同の反応がそこはかとなく変だ。とりあえず、手近なケネルに訊いてみた。
「なんでいんの?」
 ケネルはやはり動かない。
「なに? そのばっちい顔はぁ?」
 さあ、向かってくるか! と警戒するが、それでもケネルは動かない。ケネルの顔の目の前で、五指を広げてぶんぶん振った。
「やっほー。──どったのケネル、変な顔して」
 よくわからないものを見るように、ケネルは眉をひそめて瞬いて──
 力いっぱい抱きしめた。
 
 
 〜 孵 化 〜
 
 
「──あだっ! 痛だだだだっ!」
 肩と膝とにがっしり挟まれ、いきなり身動きがとれなくなった。平手でつむじをむんずとつかまれ、頭の先まで埋った状態。のけぞりつつも慌ててもがき、ケネルの背中を引っ張った。
「痛いっ! 痛いってばケネルっ! おヒゲがぞりぞりっ!」
 正座でのしかかったケネルの背中を、白旗あげてばんばん叩く。短いひげは凶器である。
 ケネルは腕の力をゆるめない。むしろ、ぎゅうぎゅう力をこめてくる。ひげをぐりぐりなすりつけられ、ほっぺも呼吸も我慢の限界。
「いー加減にしなさいよっ!」
 ふんぬ! と力任せに引っ張った。
 ぐっ、とケネルがのけ反った。後ろ頭をさすりさすり、理不尽そうに目を向ける。釈然としない面持ちだ。いいように散々もみくちゃにされ、エレーンは涙目、必死の形相。はーはーぜえぜえ肩で息つき、頬をさすって後ずさった。
「なっ、なっ、なにすんのよお……」
 ケネルが困惑顔でたじろいだ。「……お、俺はただ、あんたが目を覚ましたから」
「だからなに。なに寝ぼけたこと言ってんの」
 寝たら起きるに決まってんでしょー? とエレーンはぎゃんぎゃん食ってかかる。ケネルがぽかんとして腕を組んだ。
「もしや覚えていないのか?」
 エレーンは「何をー?」と不貞腐り、「……ぬ?」と停止し、顔をしかめた。
「ケネル、なんか汗臭い」
 ん? とケネルが瞬いた。己の胸にうつむいて、綿のシャツを指先でつまんで、ぷい、とふてって横を向く。「磯臭い女に言われたくない」
「──なにそれ! すんごい失礼なんですけどー!」
 きいきい抗議を返しつつ、エレーンは密かに己を嗅ぐ。そういや何気に磯臭い。
「てか、なんで、あたし、ここにいんの?」
 どこだ、ここは、とスルーで見回す。
 ケネルが疲れたようにうなだれた。首をゆるゆる振っている。元の壁際であぐらをかいて「──あのな」と思い余ったように目を向けた。
「あんたは崖から落ちたんだ。それで、この店の主に保護された」
「──またまたまたあ!」
 ケネルの話を一瞬吟味し、笑ってぱたぱた片手を振る。ちろり、とエレーンは目を向けた。
「嘘でしょ」
「あんたに嘘ついてどうすんだ」
 むっとケネルは言い返す。エレーンは、やれやれ、と、したり顔で腕を組んだ。
「あのねーケネル、崖から海まで、どんだけあると思ってんの? あんな高いとこから落っこちて、生きてる訳がないじゃない」
「生きていたんだ、信じがたいことに」
 ケネルは渋面で言い返し、事ここに至った経緯をかくかくしかじかと説明した。曰く、賊に追われて樹海の断崖から落下したこと。ファレスが後を追ったこと。何故か突如海が荒れ、海流に飲まれて沖合の無人島まで流されたこと。ファレス共々ここの店主に保護されたこと。部隊は急ぎ南下したこと。捜索船を手配すべく出向いた港の漁師から、保護された遭難者がいる旨聞きつけて、身柄を引き取りにやって来たこと──。
 首を倒して見知らぬ室内をぐるりと見回し、エレーンはぱちくり瞬いた。「まじで?」
「──だから、あんたに嘘ついてどうすんだ!」
「あ! ケネル、靴!」
 エレーンは、びしっと、ケネルの足元に指をさす。
「駄目でしょーが! 土足であがって! こんなきれいに掃除してあるのに、部屋の敷物が汚れるでしょー」
「──ん──ああ」
 ふと気づいたように身じろいで、ケネルが屈んで靴紐をほどいた。脱いだ靴を仄暗い土間へと放り投げる。行儀は悪いがコントロールは抜群だ。左右の靴とも狙い通りに土間の暗がりへ収まった。エレーンは自分の腹を見下ろして、怪訝な顔で服を引っ張る。
「ねえ、ケネル、この服なに?」
 見たこともない服を着ていた。夏の海辺で着るような赤のかわいいサンドレス。綿の布地は柔らかく、裾は足首まで長さがある。ちなみにお洒落な肩紐タイプだ。肩の包帯が艶消しだが。
 どこぞのリゾート着のようであるが、いつの間に着替えていたのだろう──いや待て、着替えをしたということは、着る前に「脱いだ」ということで、自分に着替えた覚えがないなら、つまり誰かが代わってこれを──エレーンはゆらりと顔を上げた。
「……まさかケネルが、この服をあたしに?」
 あんた何してくれてんのよっ、と壁際のケネルにギロリとすごむ。ケネルはうんざりとそっぽを向いた。「俺じゃない。俺がここに着いた時には、あんたはもう、それを着ていた」
「あーっ! だったら、今まで着ていたヤツはー?」
「……俺が知る訳ないだろう」
「ええっ! ちょっとどーすんの。あれ借り物なんだからあ! 汚したり破いたり失くしたりしたら──」
「──まったく、あんたは」
 ケネルは辟易とした顔で、後ろの壁に寄りかかった。「まるで反省の色はないようだな」
 はあ? とエレーンは眉根を寄せる。
「なんで、あたしが反省しなくちゃなんないわけ?」
 作業が煮詰まった人のように、ケネルは苦虫かみつぶして頭を掻いた。「ちょっとネズミが出たくらいのことで、何故ああまで大ごとになるんだ。まったく、あんたは次から次へと──」
「えー。そんなの、あたしのせいじゃないしぃ?」
 エレーンは拳を握って抗議した。「あの人たちが、勝手にあたしのこと、追いかけ回してくるんだもん!」
「紛らわしい装飾品を、あんたが持ってくるからだろう」
「で、バーベキューは何時から?」
「いつ湧いて出たんだ、そんな行事が」
「だって、この服、リゾートっぽいし」
 ケネルが脱力したように額を掴んだ。(ずっとそんなことを考えていたのかこの阿呆は……)と俯いた顔に書いてある。「お?」の形に口を開いて、ぽん、とエレーンは手を打った。
「ねー、どうせなら復活祝いとかしないとねー。ほら、こないだやったお祭りみたいに、みんなでパーっと焚き火してさあ! あ、でも、ああいう、、、、女の人たちは駄目だから。あーゆーの、ちょっと許せないから。だって、どー考えてもあれは下品──」
「何故、助けを求めない」
 ケネルがにべもなく遮った。上着の腕をおもむろに組み、鋭い視線で目を返す。
「ザイが近くにいたはずだな」
 思わぬ厳しい顔にたじろいだ。エレーンは唇を噛んで逡巡し、ぷい、ととっさに目を逸らす。ぶちぶち口を尖らせた。「──だって、あいつは嫌だもん」
「ザイは味方だ。そう言ったはずだ」
 言下にケネルは退ける。たしなめるように、じっと見た。「嫌も何もない。まして、あの緊急時だ」
「──だって、あいつが!」
「あんたがあんなに逃げなけりゃ、ああも大ごとにならずに済んだ。ザイに大人しく保護されていれば、あいつも崖から飛ばずに済んだ」
「だって、しょうがないでしょー!」
 不満ともどかしさがこみ上げて、エレーンは苛々遮った。強い相手に追われる恐さは、ケネルには所詮わからない。
 苛立ち紛れに振り向いた途端、ケネルの視線とかち合った。そこにあるのは突き放したような非難の色。思わぬ詰問に追い詰められて、エレーンはおどおど目を逸らす。「だ、だって、陰であたしのこと苛めるもん。捕まったら、ぶたれるもん。だから──」
 ケネルはじっと様子を眺め、何事か思案するように顎の不精髭をさすっている。何か、いつもと感じが違う。粗野な無精ひげともあいまって、今のケネルは別人のようだ。
 慌てて懸命に抗弁したが、もう何も応えてくれない。ケネルはまるで取り合わない。何を考えているものか無言でつくづく眺められ、エレーンはひるんで肩を引いた。「……な、なによ」
 身がすくむ。底冷えするような恐さを感じた。ざわざわするような本能的な恐怖だ。ケネルが賊の腕を落とした、あの時に感じたのと同じ類いの。
「──あんたな」
 たまりかねたように息をつき、ケネルが身を乗り出した。ギクリ、とエレーンは後ずさる。肩を返した二の腕を、ケネルが乱暴に引っ立てた。
 からり、と戸が開く音がした。
 仄暗く静まった昼の土間に、誰かが入ってきたようだ。ふと、ケネルは動きを止めて、目をすがめて気配を窺う。
 旅装の人影が現れた。くるぶしまでのブルーグレーのケープコート、小柄な肩をコートのフードが覆っている。年の頃は二十歳を少し越した程度、さらさらしなやかな肩までの直毛、強い意思を宿した瞳、白い額に整った目鼻立ち、旅装をまとったしなやかな体──相手の正体に虚を突かれ、エレーンは愕然と目をみはる。まさか堂々と現れるとは──。
「ああ、来たか」
 気さくな呼び声が彼女にかかった。ケネルの声だ。とっさに後ろを振り向けば、ケネルはまるで気負わぬ顔だ。緩んだ手を振りほどき、エレーンは慌てて後ずさった。旅装の美女はブーツを脱いで、居間に頓着なく上がりこむ。ケネルの方へと歩きつつ、通りすがりに一瞥をくれた。値踏みするような冷ややかな視線。エレーンは膝に目をそらし、ケネルの顔を盗み見た。
(……どうして? ケネル)
 どうして、こんなひどいこと、するの?
 ケネルはあぐらの横に手をついて、不意の来訪者を眺めている。胸に走った痛みをこらえて、エレーンは軽く唇を噛んだ。視線を心許なくさまよわせる。何故、やってきたのだろう。野営地で見たケネルの彼女が。
 
 
 
 
 

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