■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部 5章 3話3
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はっ、とエレーンは顔をあげた。とんでもない事態に気がついたのだ。だって、ケネルがいるということは、ケネルに引っ付いているあの娘も当然いるわけで、その上、ケネルの彼女もいる──
ということは?
ケネルの腕を引っ張った。
(ケネルっ! あの、クリスはっ?)
彼女をあたふた盗み見る。彼女とクリスが鉢合わせになれば、修羅場確定、間違いなし。
ふと、ケネルが顔を上げた。だが、焦ったり慌てたりというような様子ではない。予期せぬことを尋ねられ面食らった、というような顔つきだ。小声で訊いたつもりだが、彼女にもばっちり聞こえたようで、かたわらに立った旅装の美女は細い眉をひそめている。
「あ、あらぁ! 別になんでもないんですのよ? おほほほほ」と揉み手で愛想笑いしながらも、(ちょっと! あんた、どういうつもりよっ!)と二股男の胸倉をつかむ。
(クリスのことを泣かせたら、まじで承知しないからねっ!)
ケネルは渋い物でも飲み下すように眉をひそめ、苦々しげに目をそらした。「──もう、来ないと思うがな」
「なんでよ」
「帰った」
「──帰ったあ?」
エレーンは顔を胡乱に眺め、不審も露わに腕を組む。帰った、ということはつまり、身を寄せていた元のキャンプに? つわりで辛くなったのだろうか。戻るように言われたのだろうか。でも、強気で勝気なあのクリスが、そう物分かり良く引き揚げるだろうか。突如現れたこの彼女にしても、これまでは人目を憚って、こそこそ逢い引きしていたくせに、今日はいやに堂々と真正面から現れた。クリスの不在を予め知っていたように。
もしや──と嫌な可能性に気がついた。もしやケネルは、この女を呼び寄せたいが為に、クリスをよそに追い払ったんじゃ……。身重のクリスが負担になって、それであっさり切り捨てた──? ケネルは時折、驚くほど冷酷になる。夜更けにゲルを訪ねたクリスを一人で外に締め出そうとしたり、ケインに刃を振り上げたり、他人の腕をためらいもなく落としたり。相手に対する哀れみはおろか、憎しみの情さえ持っていない。彼は何も感じていない。そこにあるのは淡々として乾いた意識。普段の無神経さとは又違う、まるで無機質な冷淡さ。何かを迷ったり、悩んだり、割り切ったり、という手順以前に、彼には"それ"が平気でできてしまうのだ。
ケネルの振る舞いは無自覚だ。でも、クリスの気持ちは純粋なものだ。心底ケネルを慕っている。周囲に強気で接するクリスが、ケネルの邪魔にならないように、いつでも物陰でもじもじ見ていた。ケネルが発した言葉にだけは素直に従うことも知っている。そうした微笑ましい献身ぶりは、誰にだって一目でわかる。恋する一人の女の子なのだ。当のケネルだって知っていたはずだ。いや、知らないとは言わせない。いい加減に扱って良いような相手ではない。森でクリスは、装いの裾をそわそわ振り向き、赤面して、はにかんだ。
『 ……隊長さんも、似合う、って言ってくれるかな 』
打算も矜持もかなぐり捨てて、いとけなくケネルを追いかけていた。ケネルの背中それだけを見つめて、不器用に、懸命に駆けていた。ケネルの気配にいつでも、じっと息を凝らして。クリスがケネルに託したものは、大事に大事に両手で捧げた、剥き出しの無防備な真心なのだ。決して踏みにじってはならないものだ。それを──。軽く握った指先が震える。
「クリスがかわいそうじゃない! いくら彼女を呼びたいからって!」
気づけば怒鳴りつけていた。当の彼女がすぐそばにいるが、聞こえたって構うものか。ケネルは眉をひそめて聞いている。身じろぎ、おもむろに腕を組んだ。「彼女じゃない」
「彼女でしょー!」
卑怯な言い抜けを直ちに排斥。ケネルが嘆息して首を振った。「彼女じゃない。どうして、あんたは、話をすぐにそっちの方へ、そっちの方へと──」
「だったら、この人なんなのよ!」
語気を荒げて、ケネルを憮然と睨みすえる。「あたし知ってるんだから。この人と何度も会ってること、みんなに内緒にしてること!」
ケネルが驚いて振り向いた。「……見てたのか」
「見てたわよ! 見てたら悪いぃ?」
逢い引き現場の覗き見がこれですっかりバレちまったが、こうとなったら、それもやむなし。
ちら、とケネルが女と顔を見合わせた。困惑顔で、ゆっくり頬をさすっている。何事か逡巡している顔つきだ。やがて観念したように頭を掻き、周囲の無人を確認した。「誰にも言うなよ?」
窓辺の彼女が息を飲んで瞠目した。驚いたようにケネルを振り向き、慌てて何事か言いかける。ケネルはそれには気づかぬようで、間を置かず言葉を続けた。「こいつは俺の弟だ」
ぽかん、とエレーンは見返した。
「……おとーと」
呆気にとられて二人を見、空虚に口をぱくつかせる。「──で、でも、この人って、どう見ても、」
女の人じゃ……?
"彼女"が投げやりに嘆息した。ケープコートの肩ボタンをむしり、左肩の布地を逆の手でつかんで払いのける。打ち広がったコートの中、果たしてそこで見たものは、すとんと平らな綿シャツの胸。シャツが突っ込まれた革ベルトの腹。そして、すらりと伸びた黒ズボンの足。つまり、
「男、の人?」
呆気にとられて、"彼女"を見た。肉の薄い直線的な体型は、青年というより、まだ少年のそれに近い。だが、細身で華奢ではあるものの、紛うことなき男性だ。体にまといつくケープのふんだんなヒダに隠れて、この明らかな誤認に気づかなかったとは……。
「──で、でも、だってっ!」
大上段に糾弾した手前、あっという間に進退窮まる。あうあうケネルの顔を見た。「だ、だって、ケネルとあんまり似てない──」
「腹違いでな。母親が違う」
あっさりケネルは頷いた。はあ、そうなんですか、と頷き返す。頷くしかない。だが、やはり、どうにも釈然としない。だって、兄弟というなら、あんな風にこそこそせずとも、おおっぴらに会えばいいではないか。そうだ。二人してあんな藪にこもって、紛らわしいことこの上ない。非難のまなざしでケネルを見、そわそわ窓辺を盗み見た。「だったら、なんで、あんなことー。あんな隠れてこそこそとさぁ──」
「"危ないから"ですよ」
声が素っ気なく割り込んだ。少し高いが、紛れもなく男声だ。女と見紛う小柄な容姿と低く落ち着いた男の声とは馴染まぬような気がしたが、聞けば、案外しっくりくる。ケネルの美麗な弟は、さばさば身じろぎ、向き直る。「この人は何せ、方々で恨みを買っていますからね。身内と知れると厄介なことになる」
「……はあ」
つまり、受けの悪い兄貴のあおりで、自分まで白い目で見られるのは迷惑だとかそういう? この弟、罪のない顔して結構ドライだ。弟本人はケネルの前までつけつけ歩き、非難混じりに睨めつけた。「何故、そうまで、へつらうんです」
「お、俺は別に、へつらってなんか」
「どこに、ぶちまける必要があるんです。まったく、あなたらしくもない。こんな小娘一人におたおたと」
「俺は別に、おたついてなんか──」
驚いたことに、あのケネルが申し開きをしている。しかも押され気味。ちなみに聞き捨てならない不適切な罵倒が、チラと混じった気もしたが。
蚊帳の外で呆然と、エレーンは兄弟喧嘩を見物した。弟の忌々しげな詰問に、ケネルが珍しくたじろいでいる。そういえば──と思い出した。藪で目撃した時も、弟はいつも不機嫌そうで、ケネルが取り成しているような感じだった。世話に不慣れな父親が子供の機嫌でもとるように。それはともかくあの弟、あんなにコソコソしていたくせに、何故、突然ここに現れたのだ? 解せない思いで首をひねって、弟の横顔に目をやった。「えっと、それで──今日はどういったご用件で?」
案外口の立つ弟が、ふと気づいたように口をつぐんだ。冷然とした面差しで振り返り、旅装の腕組みをおもむろに解く。「決まっているでしょう、あなたに会いにきたんですよ」
「──あたしにぃ?」
瞠目して己を指さし、エレーンは「なんで」と口を開けた。弟は涼やかな瞳で向き直る。
「わたしの顔を忘れましたか」
はあ、とエレーンは首をひねった。知っていて当然と言わんばかりの口振りだが、忘れるも何も知るわけない。そもそも、知り合いだというのなら、密会現場を押さえた際に、とうにそれと気づいたはずだ。端整な顔を戸惑って眺め、直近の記憶をつらつら探る。
ビク、と肩が引きつった。背筋を伝う嫌な冷や汗──ぅわっ、と後ずさりしながら目をみはった。
「あの人でなしの担当医!」
人差し指をびしっと突きつけ、相手の正体を大声で呼ばわる。そうだ。忘れもしない、あの目元。クレスト邸の医務室で、胸に巻いた包帯をぎゅうぎゅう無慈悲に引っ張りあげた冷酷非道の邸医ではないか!
「──知ってて逃げたんじゃないんですか」
弟は呆れた顔で溜息をついた。エレーンはたらりと冷や汗をかく。ならば「町から呼んだ医者」というのは、この人非人のことだったのか……。
野営地で図らずも覗き見した際、どこかで見た顔だと思ったが、そういう話なら、それも道理だ。なにせ相手は、毎日会っていた担当医。ならば、あの時、睨んでこっちにやって来たのは、説教の一つも食らわしてやろう、との心積もりあってのことに違いない。とっとと逃げて正解だった。いや、あれは決して、説教を恐れて逃げたわけではないのだが。
ほとほと呆れた顔つきで、弟は冷ややかに目を向けた。「まったく。恩知らずな人ですね。その包帯、何度替えてやったか知れませんよ」
「ほ、ほらあ。ああいう医務室の人って、おっきいマスクとかしてるから、顔とかあんまよくわかんないし〜」
だから、あたしのせいじゃない……と引きつり顔で逃げ道を模索。どうも苦手だ、この邸医。だって「はい、苦いですよー」だの「はい、しみますよー」だの、涼しい顔してひどいことするのだこの医者は。わざとやってる節もある。いや、絶対わざとに違いない。顔見ただけで逃げたくなるのは、散々苛められたせいもあるかもしれない。ぴったり壁にへばりつく。弟はジロリと睨んで腕を組み、細い眉を吊り上げた。
「少しは大人しくできないんですか。絶対安静と言っているのに勝手に前線には出て行くわ、屋敷は許可なく飛び出すわ、一人で野営地には踏み込むわ、病み上がりでうろつくわ、数え上げれば、きりがない。あなたは怪我人なんですよ。何を考えているんです!」
あ、俺はちゃんと注意したから、と、ケネルはいち早く離脱を表明。一瞥の隅で忌々しげにそれを見て、弟はギロリと鋭い半眼で振り向いた。さてと、この大馬鹿者を一体どうしてくれようか……と算段するように腕を組む。「おまけに今度は、事もあろうに"崖から落ちた"ァ? まったく、あなたという人は──」
「屋敷にいたなんてまー奇遇っ!」
ぱっと両手を頬横で握って、エレーンは媚び笑いで割り込んだ。「だったら廊下ですれ違ったり食堂でお席が隣だったり散歩してる時近くにいたり寮で部屋飲みご一緒しちゃたりとかなんか色々したかもねっ! ねっねっ! そーよねっ! なっつかしいわあっ!」
話の流れをわたわた変えつつ、媚び笑いの目の端で (ちょっと! 弟どうにかしてよっ!) とケネルに凄んで助け舟を要請。ねじこまれたケネルはしかし、くわっと大あくびなんぞをこきながら、もそもそ瞼をこすっている──て眠いってか? 他人事ってか? もうすっかり飽きちまったってか? なんたるぐーたら! なんたる無責任! 弟鬼門はさっきの言い合いでわかったが、自分だけちゃっかり、蚊帳の外に避難するとは!
いやー奇遇奇遇! と口を挟ませる隙さえ与えず、エレーンはえへえへ喋り続ける。
「いっ、いやーね、もー水臭い! いるならいると早く言ってよー! そうと知ってたら、こっちだって色々とさぁ〜──逃げたりだとか、逃げたりだとか、逃げたりだとか〜──」
あ、だから、言わなかったのか、とケネルの魂胆にようやく気づく。
担当医・弟は、度重なる指示無視に、堪忍袋の緒がぶち切れんぱかり……たらりと冷や汗で眉根を寄せ、エレーンは、ぱっと振り向いた。「──あ! ねえねえケネル! ケネルも当然、知ってたんでしょー? んねっ、ケネルっ!」
暗黒の含みを語尾に持たせて殊更に名指しでケネルを睨み、こっち来いやァ! と引っ張り込む。他人のふりして天井のシミを見ていたケネルは(……もー。めんどくさいな)と実に嫌々振り向いた。呆れた顔でつくづく見る。
「まったく、怖いもの知らずだな。あれだけやられて、なんで懲りずに向かっていくんだ。また苛められても知らないぞ」
両者の力関係を早くも見切ったものらしい。むしろ、どこで見ていた、この男!?
(あんたの弟でしょーが! わかってんなら、とめなさいよっ!)
涙目でまなじり吊り上げて、エレーンは口パクで抗議する。この弟、顔はどこぞのお姫様だが、実は結構な苛めっ子。正真正銘、弟だが。
ケネルはまるきり他人事の態度で、職業的な説教をくどくど始めた弟と、不養生がばれちまい敗色濃厚のエレーンを (ま、どっちも頑張ってくれ) と、腕組みでのほほんと眺めている。しかも、あくびを噛み殺して。なんという薄情な態度。弟が弟なら兄も兄というべきか。うなだれた後頭部に山ほど説教を積み上げられて、既に半べそのエレーンは破れかぶれで振り向いた。「だいたい、なんで、うちの医務室に弟がいるのよー。前に、あの前通りかかった時には、白髪のおじさんだったのにぃ……」
「医者の代えがいなくてな、それで、やむなく俺が呼んだ」
はい、おしまい、とケネルはさばさば両手を広げる。説明責任は果たしたといった顔。
「え、なになに? その"代え"っていうのはっ!」
はっしとエレーンは飛びついた。話題転換の機会到来。この際、別の話題なら何でも可。
握った利き手をあくびの口に当てていたケネルが、ふと気づいたように口をつぐんだ。ちらと弟と目配せする。むぅ、とエレーンは口の先を尖らせた。毎度の事ではあるけれど、仲間外れとは無礼である。ケネルに顎を突き出しかけたその刹那、弟が凛と目を向けた。
「クロウと申します」
「……へ?」
エレーンはたじろいで口をつぐむ。かなり唐突な口上であるが、「クロウ」というのが弟の名前であるらしい。弟クロウは向き直り、含みありげににんまり笑った。
「どうぞ、お見知りおきを、奥方さま?」
有無を言わせぬ高圧的な引き合わせ。
「う゛」とエレーンは顔をゆがめて、涼やかな弟からじりじり引いた。やっぱり苦手だ、この弟! ケネルの弟改め担当医クロウは、い草の床に膝をつき、すっと切れ長の目を向けた。「具合はどうです」
「す、すこぶる良好っ!」
すぐさま背筋をピンと伸ばして、エレーンはお愛想笑いで良い子のお返事。クロウはすっかり見慣れた医者の顔。
「痛いところは?」
「べ、別にないっ! ううん全然っ! 全然平気! どこもそういうの全然なしっ!」
首がもげそうなほど左右に振って、片手を突き出し、ぶんぶん振る。こっちに来るな、とさりげなく牽制。クロウが膝を進めるに伴い、その分じりじり肩を引く。
「嘘を言ってはいませんね?」
「……う、うん、まあ」
じろり、とクロウが目をすがめた。「嘘を言っても、わかりますよ?」
「言ってませんっ!」
悲鳴の即答で、ついには敬語。
「よろしい」
クロウがおもむろに肩を引いた。壁のケネルに目を向ける。
「特に異状はありません」
あっさり断言。根拠は患者の自己申告であるが。
壁でやり取りを見ていたケネルは、肩に隠れた泣きべそ寸前の患者を見、呆れた顔でクロウを見た。「もう少し、まともに診なくていいのか?」
クロウは心外そうに目を向けた。
「外傷はなく、血色も通常。手足の動きにも、いびつな様子は認められない。受け答えもまずまず明瞭、姑息なところも変わらない」
不真面目な患者を冷ややかに一瞥、毒のある嫌みも忘れない。ケネルの肩を盾にしつつも、エレーンはえへえへ媚び笑った。さっきは似てないと思ったが、さすが兄弟、人の悪そうなところは何気に似ている。にしても、この弟の鋭い目つきは蛇のそれを彷彿とさせる。いや、そんなどうでもいい類似点より、大事なことを忘れてしまっているような……?
かつて見慣れた邸医の顔は、何かを思い起こさせた。マスクから覗く切れ長の目、ひっそり静かな屋敷の医務室、寝そべった目の前を動く医師の清潔な真っ白な白衣、時が止まっているかのような、西日差し込む医務室前の静かな廊下、ゆるい日ざしに包まれたノースカレリアのひなびた街並み──
「……ノース、カレリアの」
鋭く、エレーンは息を飲んだ。ケネルの腕に慌てて取りつく。「ノースカレリアはっ? 街は──みんなは、どうなったのっ!」
あの街に国軍が進軍したと、ファレスが話しているのを聞いたはずだ。ケネルは面食らって肩を引き、顔をしかめて軽くよけた。「──こら、落ちつけ。乗りかかってくるな」
「なんで言ってくれないの!」
歯がゆさと苛立ちを叩きつけ、ケネルの顔を凝視した。「なんで教えてくれないの? いつも、あたしだけ除け者にするの? なんで、そんな大事なことまで! 本当はみんな知ってたくせに! ケネルもファレスもバパさんも──!」
「ノースカレリアに、一千の国軍が侵攻しました」
ギクリ、と肩がこわばった。戸惑いながら振り向くと、クロウが静かに眺めている。その腕をおもむろに組んだ。
「無事ですよ、お宅の領土は。どこもなんともありません」
「な、なんとも?」
「ええ。決起した市民を、チェスター候が取りまとめ、軍を撃退なさいました」
「……お、お義兄様が?」
言葉につまって訊き返した。その勇ましかろう光景がどうにも頭に思い描けず、呆気にとられて口を開ける。だって、よりにもよって、あの紳士なお義兄様が?
前の時には自邸深くに引きこもり、終戦するまでチラとも顔を出さなかった、ツンと取り澄ましたお義兄様が?
へなちょこな感じでは誰にも負けないあのひ弱なお義兄様が?
えいえいおー! と旗振る市民の先頭に立って?
──絶対、何かの間違いだ。
込み上げる苦悩に顔をゆがめ、疑いのまなざしで見ていると、クロウは素っ気ない口調で続けた。「侵攻したのはラトキエです」
「──ラトキエが?」
たじろいで視線をさまよわせた。
「ま、まさか。そんなこと、あるわけない。だって、なんであのラトキエが、あんなへき地の、ひなびた田舎を……」
「何故? 決まっているじゃありませんか」
くすり、とクロウは笑いをもらし、冷ややかに見やって鼻で嘲笑った。
「混乱に乗じて領土拡張を目論んだんでしょうよ。この際クレストを取り込めば、国土はあらかた、一人ラトキエのものになる。むしろ、この荒れた現状で、それを考えない方がどうかしている。いずれにせよ、軍は既に撤退しました。あなたの街は無事ですよ」
「……無事」
ぽかん、とクロウを見つめたままで、エレーンはおうむ返しに呟いた。「……みんな、無事……なんともない……」
急に気が抜け、へなへな床に座り込む。荒々しい勝鬨とむせかえるような戦場の熱気が、すぐ耳元で蘇る。茶色く立ちこめる土煙、ぎらつく太陽、喧騒に呑まれた怒号と悲鳴──。鼓動が早まり、息がつまって苦しくなる。今更ながら指が震えた。終わったのだ、全て……
ふと気がつけば、小首を傾げてクロウが見ていた。溜息混じりの白けきった顔だ。エレーンは慌てて対抗した。
「なっ、なっ、なんで、あんたが答えてんのよっ!」
しかも、しゃあしゃあと偉そうに。クロウは素っ気ない態度でやり過した。「わたし達のところは、一番早く連絡が入る」
「──一番、早く?」
ぱちくり、エレーンは瞬いた。四つん這いで、もそもそ近寄る。「なになに? それってどーゆーこと? わたし達のところって? 一番早くって?」
ぐっ、と襟首がつかまれた。なによー、と肩越しに振り向けば、ケネルが腕を伸ばして首根っこをつかんでいる。猫の子を吊り下げるがごとくに、その手をうんざりと引き戻した。「あんたは知らなくていい。どうして、そんなに落ち着きがないんだ」
ぷい、とエレーンは振り払う。弟の邪悪な暴挙をさえ見ないふりで黙殺し、尻尾巻いて逃げだすような傀儡の薄情者に言われたくない。視線の隅で、クロウは手持ち無沙汰そうに眺めている。はた、とそれに気がついて、エレーンはにっこり振り向いた。
「とにかく先生? お勤めご苦労さまでしたあ〜。なんか、お手を煩わせちゃったみたいでホント心苦しいんですけど、あたしのことなら大丈夫! だから、もう、お引き取り頂いて結構ですぅ〜!」
ほら、(とっとと)送ってさしあげてっ! とケネルを睨んで追い立てる。腰の辺りを密かに蹴られて、ケネルが瞬いて目を向けた。「クロウなら、行程に同行するが」
「──え゛」と全身が固まった。反射的に叫び返す。「なんで!」
面食らったように瞬いて、ケネルがしげしげ見返した。「あんたは背中を怪我しているだろ。診られるのはクロウしかいないし」
エレーンは絶句で震撼した。「……う、う、嘘よ!」
「嘘じゃない。というより、今までもいたがな」
あんたも見たろう、野営地で、と、ケネルはまるで事もなげな顔。
「まっ──」
愕然と顎を出したまま、エレーンは息が止まって全面停止。あはは、と笑顔を振りまいた。「──またまたまたあっ! あたしのこと、びっくりさせようとか変なこと思ってえ! わかってんのよ。わかってんのよ。それでそんな嘘ついてんのよ、そうでしょ? そーよ! そーに決まってるわ!」
お願い、誰か嘘だと言って……。
だが、つくねんと見ている兄弟は無言。
「だ、だってえ……そぉんな話は聞いてないし、移動の時とかも見かけなかったし、みんなと一緒のとことかも見たことないしっ!」
半壊の頭で朦朧としつつも、悲鳴まじりに事例を列挙。
「ジゼルがロムを嫌がるものでね」
クロウが素っ気なく割り込んだ。やれやれというように身じろいで、涼やかな目を振り向ける。「馬群の中には入りませんよ。わたしはワタリと、街道で宿をとっています」
ピクリ、とエレーンは眉根を寄せた。クロウの顔をそろりと見る。今出てきたワタリというのは、ファレスをしょっちゅう訪ねてくる例の男のことではないか。いや、さらりと流した話の中に、聞き慣れぬ名前が紛れている。
「なに? 今のジゼルって」
「──そうそう。忘れるところでした。これを返しておかないと」
ケープの懐を片手で漁り、クロウがその手を突き出した。ゆっくり開いた手の平には、どこかで見たような銀の指輪。そう、昇り竜をかたどった美麗で繊細なあの細工、よ〜く見知っているような……?
「なんで、あんたが持ってんのっ!」
エレーンは慌てて引ったくった。クレスト紋章入りの大事な指輪を。
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