CROSS ROAD ディール急襲 第2部 5章 3話4
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 自分の指を慌てて見れば、いつの間にやら指にない。今まで毛ほども気がつかなかった、嵌めていないということに。
 ぞっ、と背筋が凍りついた。もしも、悪用されていたら──。
 だが、簡単に返すということは、クロウは恐らく、この価値を知らない──そうか、と今更気がついた。この指輪の真価を知るのは、婚礼の祝典に列席した一部の貴族だけなのだ。皆に見せびらかしたりはしないから、こんな物があることは、自領の民さえ知らないだろう。まして彼らは他国人で、活動圏は西の隣国シャンバール。クロウが知る由もない。とはいえ、指輪を外した覚えは一向になかった。それなら一体、いつ、どこで、指から抜き取られていたのだろう。エレーンは唖然とクロウを見る。「……なんで、あんたが」
 クロウは悪びれるでもなく肩をすくめた。「さあ、なんででしょうね」
「なんででしょう、じゃないでしょうが!」
 焦りと苛立ちが沸点に達し、エレーンはまなじり吊り上げた。「これはあたしの、命よりも大事な──!」
「いいじゃないですか。装飾品の一つや二つ」とクロウは事もなげに言い捨てて、窓の方へと足を向けた。
「そもそも、あなた、これで命拾いをしたようなものですよ」
「……は?」
「ここの家主が言ってましたよ? 流木の裏手の水際を、大鴉が掘り返していなければ、あなたに気づくことはなかったと」
 窓の引き手に手をかけて、大きくそれを開け放つ。
 さわり、と風が吹き込んだ。遠くで鳴っていた通底音が、不意に大きく確かになる。窓の向こうにあふれているのは、明るく伸びやかな青緑。
 まっすぐ生い立つ青竹が見えた。節のある清涼な竹が見渡す限りに林立し、梢が光を透過している。光がよく入っていて、竹林にしては薄暗くない。清々しく小奇麗なので、群生が程よく間引きされ、手入れされているようだ。風は竹の瑞々しさをさらって、ここまでやってくるらしい。青葉がゆれる外の景色をクロウは軽く眺めやり、上を向いて声をかけた。
「おいで、ジゼル」
 ガサリ、と何かの音がした。竹の梢の揺れる音だ。開け放った引き戸の窓から、黒い影が飛び込んできた。天井をぐるりと一周し、ばさばさ羽ばたいて降りてくる。
「──ち、ちょっと! なんで、こっちに来んのっ?」
 エレーンは尻もちをついて後ずさり、後ろ手をついて頭上を仰いだ。頭髪を蹴散らし黄色い足を踏み代えているのは、ルクイーゼで見たのと同じ類いの、黒光りする大鴉だ。
「……な、なに? この黒い鳥は」
 唖然と窓辺を振り向くと、クロウは足を踏み出し、引き返してきた。
「今回一番の功労者ですよ。あなたが会いたいと言ったんでしょうに。──勝手に飛んでいったと思ったら、それを足につけて戻ってきた。それで、あなたの生存を確信しました」
 手中の指輪を顎でさす。エレーンは戸惑ってクロウを見た。「で、でも、なんでこれが、あたしのだって──」
「なんでも何も、それはクレストの紋章でしょう」
 ギクリ、と指輪を握りしめた。頓着なくクロウは続ける。「こうした紋章を使うには、相応の身分が必要です。この竜の紋章であれば、持ち主はクレストの親族でしょう。つまり、現領主か、さもなくば、あなたです」
 冷ややかな直視で名指しされ、エレーンは絶句で息を止めた。もしや、真価を知っている──? クロウはやれやれと身をかがめ、隣に無造作に膝をついた。
「何度あなたを治療したと思うんです。すぐにわかりましたよ、いつもしている指輪だと」
 膝立ちで手を伸ばし、鳥のうなじを掻いてやる。
「この伝言の送り手は、ジゼルを予め知っていて、指輪を足に結ぶことのできる人物です。そんな真似ができるのは、あなたに同行していた副長くらいのものでしょう。目的は無論、あなたの生存をこちらに知らせ、急ぎ保護を求める為です。既に死んでいるというのなら、このジゼルと格闘してまで躍起になる必要などありませんからね。いずれにせよ、滑落事故については聞いていたので、近くの港に急行しました」
 もっとも、とクロウは言葉を切って、壁のケネルを一瞥した。「あなたの生存を連絡しようにも、この人はワタリさえ振り切ってしまって。やっと、なんとか追いついた頃には、とうにここに着いていましたけれどね。単身敵地に突っ込むなんて、無茶な真似をする人だ」
 ケネルがばつ悪そうに目をそらした。クロウは辟易とそれを見やって、ゆるく握ったエレーンの指輪を、白けたように顎でさす。「それはともかく、程々にしておいたらどうですか。あまり度を越すと、奥方様といえども、ただでは済みませんよ。いくら玉の輿に乗ったからって、勝手にそんな物を作らせるなんて」
「……え゛?」
 エレーンは眉根を寄せて固まった。浮かれて自作した、と思われたらしい。
「いずれにせよ、褒めてやって下さいな。あなた方の漂着場所がジゼルに何故わかったのか、その辺りの事情は不明ですが、ジゼルが沖合の無人島で、指輪を掘り返していなければ、あなた今頃、虚しく干乾びていたところですよ」
「干乾びる、って……あんたね」
 砂に埋もれて白骨化した己の姿をうっかり想像してしまい、エレーンは微妙な心持ちで返事につまった。殺伐とした推測をさらっと軽く言う奴だ。ともあれ黒い物体が居座っている為、頭をあまり動かせないので、不自由な上目使いの体勢で頭上に陣取る鳥を見た。
「……よくやった、じぜる」
 だから、せめて頭の上から降りてくんないー? と口を尖らせて鳥と交渉。
「ジゼル」とクロウが一声かけると、鳥は踏みつけたつむじを無造作に蹴りやり、反動をつけて飛び立った。今度はバサバサ、膝にあわただしく着地したが。
(……ちょっとお。なんで来んのよ、あんたはぁー)
 頭を散々踏み荒らされて、エレーンは揉みくちゃの頭のままで鳥に口を尖らせた。鳥はつぶらなまん丸の瞳で、罪なく小首を傾げている。あくまで退く気はないようだ。それとも、この懐きようは腹黒い飼い主の差し金だろうか。
 ともあれ、膝にただ乗っけておくだけ、というのも何やら無性に手持ち無沙汰で、鳥の後ろ頭を掻いてみた。鳥は嫌がるふうもなく、じっと大人しく、膝で翼をたたんでいる。むしろ頭を胸下に押しつけて、うっとり目を細めている。さっきクロウがしていたことを見よう見まねで真似してみただけなのだが、鳥には気持ちいいらしい。
 マタタビを嗅いだ猫の如くに、ジゼルがへなっと膝で砕けた。眠くなった子供がむずかるように、ぐりぐり頭をなすりつけてくる。そして、小さな羽毛の黒い頭が、次第次第にずりさがり──
「て、ちょっと、あんた」
 むむ、とエレーンは己の腹を見下ろした。ジゼルの左右のなで肩を──黒い翼の付け根の部分を、むんずとつかんで引き離す。
「どこに顔突っ込んでくんのよ」
 なにすんのよ、とジゼルは対抗して不服顔。ぐい、とエレーンは顎を出した。
「エッチぃ」
 元より尖ったクチバシで、ジゼルがパクパク抗議した。相手が鳥でも、罵倒というのは伝わるらしい。
 敷物に両膝をついたクロウが、唖然とした顔で瞬いた。歯向かうジゼルをつくづく見、デコピンしているエレーンを見る。怪訝そうに首をひねった。「どうして、あなたのお腹なんかに、そんなに興味を持つんでしょうね」
「知るわけないでしょー、そんなこと」
 ばたばた足掻く翼の付け根を両手でつかんで対抗したまま、エレーンはわたわた言い返す。無礼な台詞が何やら混入したような? むしろ、クロウの物言いには、基本、毒が仕込んであるような気がしてならない。ちなみにケネルは我関せずで、のんびり、あくびなんぞをこいている。
「ジゼルは光る物には目がなくて」
 クロウはやれやれと鳥を眺め、件の指輪を二指でつまんだ。「特にあなたの"これ"が気に入ったようで、治療をしている間中、突ついて遊んでいたものですよ」
「あーっ! あたしのっ! いつの間にっ!」
 指輪の不在にはたと気づいて、エレーンはあたふた手を伸ばす。一体いつの間にあんな所に! なんという不覚。鳥の無礼に気を取られ、まだ嵌めていなかった──! 引ったくるべく突き出した片手が、ひゅんと虚しく空を切る。ひょい、とクロウがその手を高く持ち上げた。顔を突き出し、じっと見る。「褒美に、これ、くれませんかね」
「あげないわよっ!」
 エレーンは片膝立てて、ぶん取った。なんという大胆なことを抜かすのだ。クロウがちらと目を向けた。「いいじゃないですか、また作れ(ば)──」「違うから」
 凄んで否定し、今度は指輪をしっかり嵌める。ぐりぐり押し込み装着完了。
 ち! とクロウが横を向いた。ガメときゃ良かった、と言わんばかりの顔。奴の本性見た気がする。
 絶対あげないから! と重ねてしつこく牽制し、エレーンはぶちぶち手を隠す。誰がやるか大事な指輪を。ただの装飾品と見なしても、どんだけ価値があると思っているのだ。ああ、そういえば、装飾品といえば──くるり、とケネルを振り向いた。
「ねーねー、ケネルもアレつけてるー? ほらあ、あたしがお土産であげたやつー」
 そう、ルクイーゼ土産の首飾り。ペンダントトップの翠石が、こっちのお守りとお揃いっぽいのだ。
「……持っている」
 ケネルはとっさに言葉をつまらせ、何故だか、ぷい、と目を逸らした。そこはかとなく不審が漂う。エレーンは怪訝に目をすがめた。「えー? 本当にぃー?」
 よもや、なくしたなどと、不埒なことをぬかしやがるのではあるまいな?
 む、とケネルは停止して、ぷぷい、と更に横を向いた。「嘘はつかない、持っている」
「ほんとーにぃぃ〜?」
 エレーンはますます疑いの眼差し。どうも怪しい、このタヌキ。つれない態度でやり過そうとの姑息な了見がみえみえだ。そういや土産をあげた時にも、ありがたみのかけらもなく、尻ポケットなんぞに突っ込んでいたし。そもそも物には執着しないケネルのことだ。「こんなの邪魔」とか陰で言い、案外捨てちまった後だったり? なにせ「荷物は最小限」とか野暮なたわ言をのたまう奴だ。むぅ、と口を尖らせて、びしっと片手を突き出した。「なら見せて!」
「嫌だ」
「なんでヤなのよ?」
 畳みかけ、実力行使で手を伸ばす。訊いても無駄だ。態度を決めたらケネルは引かない。そうとなれば目標は、言わずと知れた尻ポケット──ずさっ、とケネルが飛びすさった。寸でのところで身をかわし、奇襲した手首を引っつかむ。のけぞったケネルは(なにすんだ!?)の驚愕顔。
「──ぬう、やるわね」
 利き手をガッチリつかまれて、はっし、と逆の手をケネルに伸ばす。いや、手を動かそうとした途端、ケネルが足で踏んづけた。
「……ぬぬ」
 やるな。
 半端に這いつくばった態勢で、引きつったケネルと睨めっこ。てか、なんで、そんなに必死なのだ? 
 ともあれ、双方動けず、膠着状態。
(ふ。命拾いしたわね)と冷笑で吐き捨て、エレーンは舌打ちで撤退した。いつか、きっと暴いてやる。ちなみに、パクパク膝で怒っていたジゼルは、熾烈な攻防が始まるや否や、慌ててバタバタ避難した。
 エレーンはケネルをぶちぶち睨んで、サンドレスの胸に手を突っ込む。「なによー、せっかく、お揃いにしたのにさー」
 もっとも、ペアというわけではないのだが。土産を買う時ファレスもいたから、ケネルの分だけを買い求めるというのもさすがに気が引け、図らずもみんな仲良くお揃いになった。あっちはちゃんと身につけているだろうか。奴こそ、食えない物は捨てそうだが。──あれ? 
 エレーンは眉根を寄せて、手を止めた。首を傾げて、首筋を探る。そういや肩がスースー軽い。肩紐の付け根を両手で引っ張り、己の胸元を覗きこんだ。
「ない」
 肌身離さずつけている、あの翠石のお守りが。
 おっかしいな、と首をひねり、ふと視線を腹に下げる。そういや、変な違和感がある。
「ちょっと、あんた達、あっち向いて」
 びしっと壁を指さして、山賊もどきと美女もどきを回れ右させた。(めんどくさい)と顔に書かれた兄弟もどきの男二名が、渋々ながらも背を向ける。それをしっかり確認し、サンドレスの裾に手をかけた。両手でもさもさたくし上げ、それを認めて「……おお?」と瞠目。
「あった」
 へその上に。
 何ゆえ、こんなところにお守りが? むしろ、埋まっているのだが。
 もぉー、誰の仕業よーー、とぶつくさ背中に手を回した。チェーンの留め具をもそもそ外し、うなじで正しく付け直す。
「おいで、ジゼル」とクロウが鳥を呼び寄せた。ジゼルは未練があるらしく、周囲をうろついて動こうとしない。クロウは構わずさっさと歩いて、上がりがまちに腰をかけた。ブーツについた乾土を落とし、爪先を無造作に突っ込んでいる。あくびをしながら玄関先へと歩き出し、「ああ、そういえば」と足を止めた。壁のケネルを振り返る。
「ウォードが消えた、と連絡がありました。街道を総出であたっていますが、未だに発見できません。町に進入されると厄介ですね。悪くすると、一悶着ありますよ」
「心配ない」
 ケネルはやれやれと腕を組んだ。「捜索は不要だ。目的地はわかっている」
「……わかっている? 彼の行き先がわかっている、と?」
 クロウは怪訝そうに復唱し、薄茶の瞳で窺った。すぐに素っ気なく目をそらし、肩をすくめて踵を返す。
「そうですか。ならば、解散するよう伝えます。では、わたしはこれで」
 ジゼルがバタバタ飛び立った。置いてけぼりを食いそうになって、ようやく慌てたものらしい。騒がしく追いかけた自分の鳥を旅装の肩にとまらせて、クロウは土間を右手の方へと歩いていく。カラリ、と軽い音がして、表へ出て行く気配がした。
「──ケネル、知ってるの?」
 はた、とエレーンは我に返って、壁にもたれたケネルを覗いた。「ど、どこ行っちゃったの? ノッポ君は──」
 ケネルは大儀そうに息を吐き、面倒そうに横を向いた。「ほうっておいても、ここにくる」
「ノッポ君が? なんで?」
 後ろの壁にもたせた頭を、ケネルが怪訝そうに動かした。物言いたげに口を開け、だが、言葉にはせずに息をつく。そういえば、とエレーンは見た。
「ここって、どこ?」
 実に今更な質問だが。
 ケネルは気怠そうに目を閉じて、かったるそうに短く応えた。「──レーヌだ」
「レーヌ?」
 ぱちくりまなこを瞬いて、エレーンはきょろきょろ見回した。「レーヌっていうと、南海の?」
「そうだ」
「あっ、ねえねえ、ケネル! あたしの花火はー?」
「……遊び道具がそんなに大事か」
 げんなり、ケネルは頭を抱えた。「どこどこ? ねーどこ?」とわくわくしながら催促すると、ぷい、とよそに目をそらす。「まだ、着いてない」
「えー! せっかくルクイーゼで買い直したのにぃ! もー信じらんなあい! せっかく海に来たのにさあ! 花火するなら、こんないいトコないのにさあ!」
 はた、と抗議の口をつぐむ。
「ねえ、ケネル、言ってもいい?」
 エレーンは、そそ、と顔を寄せた。ケネルの顔を、小首を傾げて、まじまじと凝視。
「ひげ、似合わないね」
 むっ、とケネルが振り向いた。「誰のせいだと思っているんだ」
「ひげが生えたの、あたしのせい?」
「──まったく、あんたは!」
 ケネルが首を振って嘆息した。「どれだけ心配したと思っているんだ」
 え──? とエレーンは言葉を飲んだ。
 どぎまぎして膝に俯く。ケネルは壁に寄りかかり、だるそうに足を投げている。膝に置かれた腕の先、節くれ立った指先が、何かを思案するように、宙を無意識に叩いている。不精ひげの頬がこけていた。窓を眺める横顔は、少し見ぬ間にやつれたようだ。ケネルが腕を組み、ぶっきらぼうに口を開いた。「船の手配をする為に、この港に急行した。お陰で、俺の隊は散り散りだ」
「ま、まじで?」
 あたふたエレーンは顔をあげた。遅ればせながら、視線を室内に巡らせる。そういえば、ここにいるのはケネル一人だ。他の誰も顔を見せない。ウォードに限らず、ファレスや、バパや、アドルファスも。
(……あたし、なんか、まずいことしたんじゃ?)
 初めて懐疑が息づいた。"散り散り"になったということは、ケネルだけが迎えに来た、ということか。彼らは常に一緒にいるのに。憤懣やるかたない今の口調から察するに、ケネルは真面目に怒っているに違いない。ケネルの態度の端々に、馬群を眺めるケネルの視線に、薄々感じ取っていた。そう、そのことは知っていた。ケネルにとって、隊がどれほど大事なものであるのかを──。きゅっ、と膝を握りしめ、エレーンは唇を噛みしめる。
「ご、ごめん! ケネル」
 勢い込んで頭を下げた。俯いた視界の片端で、ケネルが腕組みをおもむろに解いた。もたれた壁から背を離し、ゆっくり乗り出す気配がする。顔をまともに見られずに、詫びの言葉を慌てて続けた。「ごめんケネル、そういう事情知らなくて! みんなに謝って回るから。パパさんやアドに謝りに行くから! ケネルの言うこと、なんでも聞くから!」
「そうか」
 あっさり返事を返されて、いささか拍子抜けして顔を上げた。
「なら、何をしてもらうかな」
 ケネルが上着をばさりと脱いだ。無造作に壁へと放り投げる。いきなり何だろう、急に暑くでもなったのだろうか。何の気なしにそれを尋ねようとした矢先、左の肩がつかまれた。ぐるりと視界が反転する。
「……け、けねる?」
 木造の天井をうろたえて見上げ、反射的に肩を押した。後頭部が床についている。寝床に転がされている。横から視界に映り込んだケネルが薄笑いで見下ろした。
「なんでも言うことを聞くんだろ?」
 視界を覆って、ケネルの肩が覆い被さり、左の手が背に回った。とっさに避けた頭の左を、ケネルの手が引っつかむ。加減をした体重がかかった。
 エレーンは瞠目して息をつめ、泡を食って押しのけた。だが、のしかかった硬い肩は、その程度ではびくともしない。押さえこまれた左の肩に、ケネルの顔が滑り込む。
 切羽詰った胸中に、様々な思いが錯綜した。我が目を疑う驚きと、脱出を危ぶむ焦燥と、大変なことになったという強い狼狽、そして──思わぬ想いをそこに見出し、エレーンは頬を強張らせた。
 ──どうしよう。
 嫌じゃない。
 ケネルのことが、嫌じゃない──動揺して唇を噛んだ。少し身じろいだその途端、背に回された二本の腕がかったるそうに抱き直す。天井を見据えた顔横にケネルの短髪が潜り込み、そらした首筋をくすぐった。たぶん今なら、本気で拒めば逃げ出せる。ケネルの力はその程度のものだ。今ならまだ冗談で済む。質の悪い遊びで済む。でも、力が入らない。
 不貞は罪だ。不義を働けば、地獄に落ちる。ましてダドリーはトラビアで、今この時にも、必死で一人戦っているのだ。なのに自分は、こんな所で何をしている? これは明らかに裏切り行為だ。でも──
 苦い思いが込み上げて、エレーンは顔をしかめて唇を噛む。
 でも、ダドリーには、サビーネがいるではないか。
 彼の本心が発覚してから、未来の有りようは一変した。胸に描いた展望も、密かに夢見た明るい未来も、全てがフイになってしまった。いつまでも不安定で、どこに辿りつくこともない。なのに、そんなふうに踏みにじられて尚、自分だけが一人で律儀に、貞節を尽くす義理はあるのか。そんな価値があの彼にあるのか。
 他に妻子がいるなんて全く聞いていなかった。それは手酷い裏切りではないのか。不誠実な背信ではないのか。もっと言ってしまえば、彼は騙して連れてきたのだ。不慣れな大陸の北端まで。つまり、彼は全てを手中にしたいのだ。隣に置いておく正式な妻と、若く美しい従順な妾と、安泰を保証する跡継ぎを。取替えのきく駒を並べて、そうした磐石な輪の中で、平和に笑っていたいのだ。他人の想いには、お構いなしに。
 もうすっかり、わからなくなる。何をしたら誤りで、どこまで踏み出したら過ちで、どこからがどれだけ正しいのか。誰がどれだけ適切なのか。だって、おかしい、
 ──先に裏切ったのは向こうの方だ、、、、、、
 感情が千々に入り乱れ、頭の中が混乱を極めた。わななく唇を強く噛む。
「……だっ、」
 固く、固く、目を閉じた。「──だめ、ケネル! そんなこと、できない」
 拒絶の意思を決然と示して、エレーンは頑なに顔を反らした。ケネルは腕を放さない。
 焦って肩を押し上げようとするも、あっさり両手が押さえ込まれる。思わぬ誤算に鼻白んだ。顔の横にうつ伏せたケネルが、くすり、と小さく笑った気がする。今の笑いは哀れみだろうか。それとも、無力な者への嘲りの? 
 伸ばされたままの首筋に、ケネルの鼻が滑り込む。唇がそっと、うなじに触れた。エレーンは顔をしかめて目を瞑る。「ケネル! 待って!──だめ! ケネル!」
「……か……っ」
 聞き取れなかった呟きと共に、ずしり、と重さがもろにかかった。体重を支えていた腕の力を、ケネルが抜いてしまったらしい。
「ケ、ケネル、苦し──重いからっ!」
 う゛っと一気に息をつめ、切羽詰って首を振った。呼吸困難にたちまち陥る。いくらなんでも許容を超える重量だ。
 のしかかる肩に手をかけて、死に物狂いで押しやった。案外あっさり、ごろりと転がる。ぜえぜえ肩で息をつき、エレーンは引きつり顔で身を起こした。無体な男を、絶句で振り向く。
 拍子抜けして、停止した。呆気にとられて顔を眺める。大の字で寝床に転がった顔は、目を閉じ、口を半開きにしている。つまり、
 寝てる。
 しかも、熟睡。すぴー、と腹とか掻きながら。
「……もおー。なんなのよ、あんたはぁ!」
 ちょっと期待しちゃったじゃない。
 デコピンするも、ケネルはくかくか大口開けて爆睡している。にしても、事の最中に熟睡するとは、無礼を通り越して不可解だ。どう考えても、そんな気なんか初めからなかった、としか思えない。問題のシーンを咀嚼しながら、首をひねって考える。てか、よくよく今のを思い出すと、別に何もされてない。つまるところ、ただただ抱きついていただけではないか──? はっ、と寝顔を見返した。
「もしかして、さっきの"──かっ"て!」
 そう、あの眠りこける直前の意味不明な呟きは……。
 わなわな絶句し、唖然と寝顔に指をさす。ケネルの了見に気がついた。そういや、目覚めて、いきなり抱きつくもんだから、後ろ髪を思い切り引っ張ってやった。"ばっちい顔"とか、からかったし。
 なら、今言いかけたあの先は──「かっ」の呟きのあの先は……。呆気にとられて絶句して、それを口に出してみる。
「"勝った"?」
 ……そうまでして勝ちたいのか。
 がっくり脱力、額をつかんでうなだれた。だから、あの時笑っていたのか、降参したと受け取って。そういや髪の毛を引っ張った時、ケネルは後ろ頭をさすりつつ、不満たらたら一歩手前の、面白くなさそうな顔をしていた。ともあれ、まったく、大人げない。悪ガキ並みの思考回路だ。それにしても、オチの途中で眠りこけるなんて──エレーンはつくづく寝顔を見る。
「……そんなに、疲れてたんだ」
 "俺の勝ち"と言いたかったらしいケネルは、綿シャツ一枚で手足を投げ出し、すぴすぴ心置きなく眠っている。無邪気で無警戒なケネルのその手が、シャツの腹を無造作にめくり上げた。暑いらしい。
 落ちていたうちわに気づいて拾い、エレーンは隣に腹這いになった。頬杖をついてケネルを眺め、ゆるゆる風を送ってやる。
「……ごめんねー、ケネル。心配かけて」
 面と向かっては照れくさい詫びも、相手が聞いていないなら、素直に、容易く口にできる。
 窓から吹き込む、ゆるい風が心地よい。目を閉じれば、聞こえてくる。微かな波音、小鳥のさえずり、遠く喚く人の声。ここには誰も、やって来ない。
 ふと、"それ"に気がついて、ぽかん、とエレーンは見返した。力任せに押しのけた拍子に、シャツの襟からこぼれたのだろうか、向こうを向いたケネルの首に、銀のチェーンが覗いていた。敷布の上にペンダントトップが転がっている。
 頬杖で風を送りつつ、ふっとエレーンは頬をゆるめた。
「……なんだ。いいとこ、あるじゃない」
 瞼にかぶさる前髪を、そっと指先でどけてやる。
 静かな小屋のお昼前。すーぴー眠るケネルの首で、お守りの翠石がきらめいていた。
 
 
 
 
 

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