■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部 5章 3話7
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湿ったぬるい海風が、むき出しの肩をさわりと撫でた。軽く柔らかいサンドレスの裾を、サンダル履きの素足でさばいて、街沿いの日陰をゆっくり歩く。履きこんだ革のブーツに、赤のサンドレスの取り合わせは妙に暑苦しくてちぐはぐなので、土間の隅によせてあった男物のサンダルを勝手に借りた。本当は、薄くて軽いリゾート着に合わせて可愛いサンダルなんかが良かったが、この際だから贅沢は言うまい。
街に向かう左手に、波頭が光ってさざめいた。魚船と貨物船がいくつも着いた、レーヌ港の石造りの埠頭が、海岸線の遠くに見える。純白の雲を浮かべた真っ青な空の高みに、白いカモメがガアガア飛びかい、海に突き出した船着場では、タオルを引っかけた男たちが小麦色した胸板をさらして、声を張りあげて働いている。
カモメの鳴き声と波の音が、絶え間なく聞こえていた。午後の白浜に人影はまばらだ。水着姿の恋人はおろかパラソル一つ見当たらない。閑散と白い砂浜をのんびり日傘で歩いているのは、子連れの母親くらいのもの。
「ちょっと、そこまで行ってくる」とセレスタンに断りを入れたが、駄目とは言わなかったので、こっそり散歩に出てきたのだ。もっとも彼は、壁で足を投げていたロジェのひげ面と頭をくっつけ、ぐーすか寝入っていたのだが。ケネルといい、彼らといい、何故にどうしてみんなして、ひとを見るなり眠くなるのか不思議だ。
アルノーの店は、大陸の東を覆う樹海の端の、涼やかな竹林の入り口にある。そのひっそり静かな玄関を出て、エレーンは街に向かっていた。グーグーいじましい腹ぺこケネルは、アルノーが持ってきた焼き魚の飯を食うなり、忙しなくダナンと出ていったし、小屋に居残ったヒゲ面コンビもあくびばかりこいていて、ついには勝手にすやすや昼寝まで始める始末。しんと静まった他人の家に一人ぽつねんと残されてしまい、こうなると、そこはかとなく手持ち無沙汰で、よおし、それならば、とレーヌの街をぶらつきにきたのだ。
町沿いの小道をてくてく歩いて、日陰から日なたに出た途端、素肌をさらした肩と背に、じりじり夏陽が降りかかる。波打ち際を左に眺めて歩いていると、角地に店が見えてきた。多数の商店が軒を連ねる港町レーヌの大通りだ。
うっすら汗をかき始めた額に、日よけの為の手をかざし、エレーンはさざめく海を眺めた。久しぶりのレーヌの海だ。前にここを訪れてから、かれこれ二年も経っている。
日陰になった石塀の上で、白い猫があくびをしていた。西に傾いた夏の日差しは海原の青を照り返し、遠くの埠頭にたかるカモメが、があがあバサバサ騒がしい。
レーヌは猫と海鳥の街だ。港の水揚げのおこぼれを狙い、付近の土地から集まってくるのだ。開けた海と白い浜、海原の青に映える白い海鳥、夏日を弾く白壁と鮮やかな青屋根で統一された南海特有の街並みは、観光地レーヌの売りである。そして、人懐こく賢い猫たちは、そうした優れた観光資源と共に街のマスコットとなっている。それについては住民も十分承知しているから、人と金とを街に呼びこむ猫たちを決して粗末には扱わない。人が代わる代わる撫でるから、街に居ついた野良猫の毛並みも、ふっくらしていて美しい。どこかしらで餌をもらい、自分の縄張りを巡回し、好きな時に好きな場所でのんびりと昼寝をする。そうして、ますます繁殖する。
角の店を右に折れて、レーヌの大通り商店街に入った。どこも店を開け放ち、窓も表戸も全開だ。海からの風が店を吹き抜け、吊るしの商品をどこか気だるげに揺らしている。角の土産物屋の店先で、丸くて薄い白い貝の風鈴が、シャラシャラ涼しげな音を立てる。隣の服屋の店先では、大きな花柄のサンドレスが鮮やかな裾をそよがせている。水着、サンダル、パラソルを広げたオープン・テラス、冷たいものを出す喫茶店、埠頭で水揚げされたばかりの新鮮な魚貝を使った料理店、木陰の路地を歩み去る猫。
レーヌは開放的な南海の街だ。海にまつわる小物や雑貨が石畳の露台にひしめいて、似たような土産物を売る店々が見渡す限りに続いている。ちなみに、商品やメニューを客に売り込む必要のない宿等の入り口などは、大抵、表通りをそれて脇道を入った、ひっそりとした路地にある。
午後の気怠い石畳に、うっすら陽炎が揺れていた。夏真っ盛りの書き入れ時であるというのに、この主たる大通りも、閑散として人影はまばらだ。
通りの白い石畳に、街路樹の萌黄がさらさらそよいだ。無人のひっそりした軒先で、吊るした風鈴がゆらめいて、右手の割れ物屋の店先では、客であるらしき初老の男と、紺の前掛けをした太った店主が何やら話しこんでいる。
「……あれ?」
エレーンはそぞろ歩きの足を止めた。店先を冷やかす人影の中に、気になる顔を見つけたのだ。さらりとそよぐ明るい髪、痩せた肩に薄青い着流し、花束の桶を店先に並べた生花店の軒下で、着物のその背を屈めている。
「アルノーさん!」
大きめのサンダルをぱたぱた鳴らして、エレーンは笑顔で駆け寄った。屈めた背を引き起こし、アルノーがおもむろに振り返る。手には、桶から取ったと思しき小花の花束。青と白の涼しげな花だ。花束を持ったまま腕を組み、呆気にとられたように顔を見た。「もう起き出していいんですかい」
エレーンは後ろ手にして笑いかけた。「ごちそうさま! ご飯すんごいおいしかった!」
「お粗末さまで」とアルノーは軽く頭を下げる。彼が持ってきた二人前の膳の上には、焼き魚と新鮮な野菜、山盛りご飯が載っていた。簡単で素朴な献立だが、その実、どの皿も絶品だ。漁港レーヌは新鮮な魚貝が売りではあるが、中でも、アルノーの料理は群を抜いておいしい。
「お皿は洗って炊事場の棚に置いといたから。あ、サンダル、勝手に借りてるね!」
サンダルを突っかけた片足を、ひょい、と持ち上げ、持ち主に見せる。アルノーは「──ああ」と見返して、「そんなもので良ければ、どうぞ」とそつなく返した。
花とアルノーを交互に見、エレーンは戸惑って見返した。「……ねえ、そのお花、アルノーさんが買うの?」
ちょっと意外な取り合わせだ。花に興味などなさそうなのに。彼の住居もこざっぱりとしていて余計な物は置いていなかった。アルノーは「ええ」と応えて懐を探り、いそいそ出てきた店主の手に、花代の小銭を手渡した。「店に持っていこうと思いまして」
そのまま花束を手に下げて、店の軒下の日陰を出る。エレーンも隣にわたわた並んで、気もそぞろで横顔を仰いだ。「さっきは、ものすごくハラハラしちゃった! でも、喧嘩にならなくて、ほんと良かった。遊民っていうと悪く言う人結構いるけど、ケネルたちは悪い奴とかそういうんじゃないから。まあ、こだわるところがちょっぴりこっちと違ってたりするけど。そりゃ、恐そうだったり軽薄そうだったりすることあるけど、それは町の人が意地悪するからそんな風になっちゃうだけで、本当は結構優しいし、常識だって案外あってね──!」
「ええ、わかっていますよ。島で目の当たりにしましたし」
苦笑いでアルノーは遮り、石畳の日なたに雪駄で踏み出す。「で、そちらさんは、これからどちらへ? 散歩には、まだ暑いですよ」
エレーンは上機嫌でアルノーを仰ぐ。「あいつの様子、見てこようかと思って」
宿で寝ているファレスのことだ。本当はずっと気になっていた。
「そうですか。あの人もさぞ喜ぶでしょう。あの大将が店に着くまで、あんたにしがみ付いていましたから」
「それが、──あたし、よく覚えていなくって」
手放しの促しにたじろいで、エレーンは途方に暮れて笑顔をゆがめた。「なんか、みんな、そんなようなことを言うんだけど──でも、あたしは何があったかまるっきり。森の中逃げてたことは覚えてるんだけど」
大勢の賊に追いかけられて、ザイの追跡から逃げ惑い、あちこちぶつかり、息を切らして、樹海の梢を切羽詰って見回して──そこで記憶はふっつりと、真っ白になって焼き切れている。
「島で見つけた時、あの人、ひどい有り様でしてね」
ぶらぶら横を歩きつつ、アルノーは素っ気ない口調で続ける。
「あんたがそんなことを言っちゃ可哀相ですよ。あの大将と交代するまで、あんたの傍を片時たりとも離れようとしなかったんですから。──まあ、なんにせよ、なんなら一緒に行きますか。俺も店に顔を出すんで」
「え、いいのっ?」
エレーンは目を見開いた。まさか、彼が一緒に歩いてくれるとは──。
すぐさま隣に「失礼しまあす」と赤面で並ぶ。背の高い隣の顔を首を傾げて仰ぎやり、身をくねらせて、えへえへ歩く。できればこの機に、彼と交友関係を結びたい。アルノーは、街を闊歩するごろつき同様、恐そうな見てくれではあるけれど、一匹狼で飄然としていて、外部の者には礼儀正しい。柄の悪い酔漢の中にいても、一人だけシンと浮いている。水に弾かれる油のように、決して均されることがない。行き交う賑やかな人波に一人静かに漂っているような、ひっそりとした異質感がある。どことなく投げやりな風情のアルノーが、なんとはなしに気になって、そして無性に構いたくなる。
実は、気楽亭の場所は知っていたのだ。かつて海辺の片隅で居候していた折り、懇意にしてもらっていたからだ。もっとも、友人の一人エルノアが、向こうの親分オーサーに一方的に気に入られた、というのが実際のところではあるのだが。
アルノーが雪駄を擦って足を止め、すっと手を出し、制止した。なに? と怪訝に隣を仰げば、前髪の長い横顔が、左の街角を眺めている。
軒で日陰になった木箱の積まれた裏路地で、目つきの悪い男が二人、剣呑な様子でたむろしていた。どちらも見覚えのない顔だ。こちらが気づいたことを察するや、舌打ちをして目をそらす。様子を窺っていたらしい。アルノーが静かに目を戻した。「心当たりは?」
「……えっと……あの、色々あって」
説明に困って、しどもどうつむく。「なんか最近、ああいう人が多くって。あ、あたしは何もしてないんだけど! でも、なんでか知らないけど、あたしのこと勝手に──」
「そうですか」
すっ、とアルノーが姿勢を正した。件の街角に視線を向ける。建物の陰に潜んだ二人が、ギクリ、とあからさまに飛びあがった。そそくさ背を向け、足早に立ち去る。
「一人歩きはよした方がいいですね。ここは、あの手の輩が多いですから」
事もなげにそう言って、アルノーは雪駄を擦って歩き出す。「付近のゴロツキのようですが、見ない顔ですから、恐らく向こうの連中でしょう。不自由なことで申し訳ありませんが、俺から離れないようにして下さい」
「はいっ!」
一気にのぼせ上がった赤面で、エレーンはぱたぱた駆け寄った。何があったか、よく分からなかったが、どうも一睨みで追い払ったらしい。隣のアルノーをにまにま仰ぐ。「アルノーさんて強いのねっ!」
アルノーは横顔で苦笑いした。「俺は何もしちゃいませんよ」
「ええー? 嘘よウソウソ! 謙遜しちゃってえ! みんなも前に言ってたもん。アルノーさんに勝てる奴はいないって!」
「俺の家は道場でしたから、多少の心得ならガキの頃に。もっとも兄貴に仕込まれた方が、それよりよっぽど多いんですが」
「そーなんですかぁー」
エレーンは赤面でこくこくうなずく。なんにだって、うなずいちゃう! 拳を口に当て、ほくそ笑む。
(くぅーっ! かあっこいいっ! 男はやっぱ、こうでなきゃ!)
鷹揚に微笑って、話もちゃんと聞いてくれて、そんでもってさりげなく守ってくれる。間違っても足蹴にしたり、食べもの口に突っ込んだり、むに、と顔を引っ張ったりしない。
サンドレスの裾をひるがえし、エレーンははしゃいで、くるりと回る。「この服、アルノーさんが選んでくれたのよね。アルノーさんてセンスいい!」
「いや、そいつは女将が見立てたんで」
……て、なんか、結構ぶっきらぼうだな。
む? と拍子抜けして、ぱちくり仰ぐ。──いや、気を取り直して会話を続行!
エレーンは満面の笑みで振り向いた。「女将っていうと、気楽亭の、綺麗な人?」
「ええ」
かつて世話になった彼らの笑顔を思い出し、小首を傾げて付け足した。「確か、オーサーさんの奥さん、よね」
「──ええ」
ほんの一瞬言いよどみ、アルノーは頬に苦笑いを浮かべた。エレーンは怪訝に振り返る。「なあに? なんか、まずいこと言っちゃった?」
アルノーは前を見たまま足を進め、癖のない髪をゆるく振った。「いえ」
「……もしかして、内緒だった、とか?」
「いえ、そんなことはありませんよ。兄貴と姐さんが好い仲なのは、みんな知っていることですから」
まばらな人波を見回して、エレーンは隣の着流しをしげしげ眺めた。「そういえば、この辺の漁師さんて、仕事があがると、みんな、そういう格好するよね。夕涼みの時だとか、一杯やりに行く時だとか」
「楽なんですよ、一枚羽織れば事足りるんで」
「もしかして、オーサーさんが着てるから、それでみんなが真似をして?」
「まあ、そんなところでしょうかね。こいつを気に入って着始めたのは、兄貴が最初らしいですし。よそから流れてくる者も、兄貴に憧れて何かと真似ている内に、いつの間にか、この格好になっちまいますし。もっとも、俺の場合は "そっちの奴は、こういうのを着るもんだ" って強引に着せられちまいまして。まあ、もう慣れましたが」
他愛のない話をぼちぼちしながら、アルノーと二人、人のまばらな午後の通りをそぞろ歩く。隣の顔をえへえへ仰ぎ、めくれあがった石畳の隅にたまに蹴つまずいたりしていると、アルノーがふと、思い出したように顔をあげた。「そういえば、お友達がお見えでしたよ」
「お友達?」
ぱちくりエレーンはまなこを瞬く。アルノーは一瞬だけ言いよどみ、石畳の通りの先を、どこか気まずげに目線でさした。「──ええ、例の」
「例の?」
エレーンは(誰だ?)と考えて「……ああ、例の」とげんなり応じた。「そういや、あの子、婚礼の時に言ってたっけねー、レーヌの別荘に寄るとかなんとか」
思い出したのは誰あろう、ドゴール商会の一人娘、エルノア=ドゴールその人である。そして、このドゴール商会というのは、食品、雑貨、服飾、流通、なんでも担う商都きっての大組織。
国の中心、商都の北の区画には、名立たる商館が軒を連ね、そうした大手の商館は、領家の権力に対抗すべく「商都商人会」を結成している。ゆえに商都は、商人の力が抜きんでて強い。その一大勢力を牛耳っているのが、このドゴール商会である。つまるところ、その大金持ちのご令嬢と、とある縁で「お友達」なのである。ちなみにこのエルノアは、一言「例の」の形容だけで、大抵の者が了解するような御仁である。
ぽんっと彼女の顔が浮かんで、エレーンは、むむ……と過日の騒動を思い出す。そう、婚礼の宴に招いた折りの、試練とも思しきあの騒動。エルノア一人で百人分騒いでいった。新手の嫌がらせかと思ったくらいだ。そう、招待客の貴婦人方に、新郎新婦の馴れ初めその他を事細かにぶちまけられて、どれだけ冷や汗かいたことか──。ふと、連れに気がついて、ぺこり、と膝まで頭を下げた。
「ご迷惑をおかけして」
むしろ、ご愁傷様と言いたいくらいだ。アレ絡みの話なら、そう言っとけば間違いない。
「……いえ」
アルノーは軽くかぶりを振った。だが、事もなげなその頬にやつれた影が掠めたような気がしたのは、錯覚などでは恐らくあるまい。あの世間知らずのお嬢様は、興味の向くまま気の向くまま、自分の気がとことん済むまで掻き回していったに違いないのだ。「──んん?」と気づいて、くるり、とアルノーを振り返る。
「"お見えでした"って、なんで過去形?」
着流しの腕をゆったり組んで、アルノーは大通りの先にある北の出口を眺めやった。「どうも、商都にお戻りになったようで」
「えー? でも」
ぽかんとエレーンは振り向いた。「今、戻るのって危なくない?」
「ええ、物騒なんで、兄貴も引き止めていたんですが、ちょっと野暮用で出た隙に。──まあ、色々とありましてね」
「そうでしょうね」とエレーンは肩をすくめる。いつだって、どこでだって、なんかしら色々あるのだ。エルノアは。
「え? オーサーさんがいないってことは、もしかしてアルノーさん、一人でエルノアのこと、おもりしてたの?」
「ええ」
「大変だったでしょう」
同情しきりで大いにうなずく。アルノーは前を見たまま小首を傾げた。「いえ、傍で言うほどのこともないですよ。あの人は基本的には正直ですし、はっきりしていて潔いですし」
眉根を寄せてしばし絶句し、エレーンはつくづく首を振る。「アルノーさんって面倒見いいよね。尊敬しちゃう」
賞賛ものだ。
「いえ、そうでもないですよ」
アルノーの方はにべもない。
「でも、前の時だって、組の人たちからかばってくれて、オーサーさんに取り成してくれたし、今だって遭難したとこ助けてくれて、泊めてくれて、ご飯だって持ってきてくれて、あいつの面倒まで見てくれて──そんなことまで普通する?」
ちなみに、この「組」というのは「レーヌ漁業組合」のことである。アルノーは事もなげに言った。「兄貴の知己は、俺にとっても大事ですから」
「でも、転がり込まれて、迷惑だったでしょ?」
しかも、小汚いヒゲ面がわらわらと。しかも、土足で。他人の家を訪ねるというのに、手土産一つ持ってこない。まったく、いつもながら無礼な奴らだ。
食い下がるとアルノーは、困ったように苦笑いした。「気にしないで下さい。言ったでしょう、てめえが好きでしていることです」
「でも、自分の家なのに追い出されて、それで見返りもないっていうのは──」
「俺の方は、どうでもいいんですよ」
アルノーは微笑って、さらりと言った。エレーンは面食らって顔を見返す。どことなく投げやりな風情に思える。そう、彼はいつだって、そうだった。何ものにも囚われず、何に対してもこだわりを持たない。どこにも留まらない水のように、たださらさら流れて往くだけ──。やりきれない気分が込みあげて、エレーンはそっと溜息をついた。「アルノーさんって、なんか、いつも、どうでも良さげ」
「そうですかね。まあ、ここの暮らしは、おまけのようなものですから」
「──おまけって?」とエレーンは面食らって首を傾げる。長い前髪がさらりとゆれて、横顔が夏の青空を仰いだ。
「いっぺん死んでるんですよ、俺は。たぶん」
色が抜けたような明るい髪が、西からの夏日に透けていた。とうもろこしのヒゲのような、透き通るような明るい黄色。その曖昧な輪郭が薄れていって、ふっと消え入ってしまうのではないか──そんな危惧を抱かせる。索漠とした彼の風情に怖気が不意に込みあげて、そっとエレーンは目をそらした。「……結婚とか、しないの?」
「考えませんねえ、そういうことは」
大して深く考えるでもなく、アルノーはあっさり答えをほうる。
「でも、アルノーさんって、もてるでしょう」
「──さあ、どうでしょう」
苦笑いで足を止めた。休憩中の札のかかった店の表戸に手をかける。それを無造作に引き開けがてら、頓着のない笑顔を向けた。「そういや、所帯を持ったとか。この度はおめでとうございます。お祝いが遅れちまって無粋なことで。あの人も達者にしてますかい? ほら、あの癖っ毛の」
「……え?」
息が止まった。
胸の動揺を必死で押さえて、強く唇を噛みしめる。アルノーは何も気づかぬようで、がらりと引き開けた表戸を潜り、「姐さん」と奥に呼びかけて、仄暗い店内に入っていく。
ややあって、洗い物をしていたのだろう気楽亭の女将が、前掛けで手を拭きながら、店の奥から、ぱたぱた出てきた。左目の下にほくろのある、色の白いたおやかな美人だ。
「ああ、姐さん、これ、どこか、その辺に」
手持ちの花を、アルノーは片手で女将に差し出す。女将は小首を傾げて微笑んだ。「あら。いつも悪いわねえ」
「いえ。花屋の店先で見かけたんで、ついでに」
ぶっきらぼうに手渡して、アルノーはそそくさ目をそらす。どうかしたのか、どことなくそわついた様子だ。
休憩中の店は、ひっそりしている。年季の入った壁の品書き、静かに時を刻む古時計、水打ちされた仄暗い石床──。ふと、エレーンは気がついた。花屋で彼を見かけた時の、あの違和感の正体に。
「ついでに」寄ったというようなことを、彼は今、女将に言ったが、本当は初めから立ち寄るつもりで、花屋へ足を向けたのではなかろうか。つまり、花束の方は口実で、この店の様子を見にきた。女将の慣れた受け答えから、ちょくちょくやってきているらしい。けれど、何故わざわざ、そんなことをするのだろう。もしや、何かと心細いであろう女の一人暮らしを気遣って?
存外に細やかなアルノーの心遣いに驚いて、エレーンはまじまじ横顔を見る。アルノーはどことなくぎくしゃくとしていて、悪戯が見つかった子供のようにばつの悪そうな顔つきだ。言葉にも態度にも、あんなに余裕があったのに。
(──ああ、そうか)
話の焦点が出し抜けに合った。(……なあんだ)と急に気が抜けて、仕方なく苦笑いする。むしろ、場違いな彼を花屋で見た時、どうして気づかなかったのだろう。そう、
──この人は、彼女のことが好きなんだ。
「まあまあ、花瓶、花瓶」と奥へぱたぱた探しに行ったどこか可愛らしいあの女将は、恐らくそれには気づいていまい。けれど、傍で見ている方は、どうしようもなく分かってしまう。
エレーンは微笑んで二人を見た。女将は彼より十歳以上も年上で、二年前の当時から、あの親分の好い人で、店につどう彼らはみんな、世話好きな、すこぶる良い人たちで、アルノー一人が想いを寄せても多分どうにもならないけれど、一人っきりのあの彼が、いつか幸せになるといい。彼はきっと一言も、女将に言いはしないのだろうけれど。
開け放った窓の外では、緑がちらちら揺れている。店の石床は水打ちされ、椅子は卓に上がっている。窓から風が吹きこんで、仄暗い店内はひんやり涼しい。
花を挿した硝子の花瓶を慣れた手付きで拭きあげて、とん、と女将は卓に置く。軒下に立ったままのこちらを見つけて「まあ、すみませんね、まだなんですよ」とそつなく笑顔を振り向けた。客だと思われたらしい。
「ああ、いえ、姐さん。その人は──」とアルノーがそれをやんわり制した。背を向け、女将と話している。小柄な女将はアルノーの顔を懸命に見上げて、小首を傾げて聞いている。すぐに笑顔で振り向いた。
「あのきれいな色男なら、二階の廊下の突き当たり──一番広い畳の間よ」
そこからどうぞ、というように店奥の階段を目で示す。たおやかなのに気取らない。いつ見ても、彼女はこざっぱりとしている。
女将の横で突っ立ってアルノーが待ってくれているようなので、エレーンも笑顔で女将に会釈し、ガランと広い、休憩中の飯屋に入った。白くたおやかな女将の手が、通りすぎ様、アルノーを引っ張る。
「──ね。もしかして、この人が?」
振り向いたアルノーに囁いて、悪戯っぽい笑みで仰ぐ。「だってあの服、あれでしょう?」
アルノーは苦笑いで首を振った。「──そんなんじゃありませんよ。覚えていませんか、二年前の。兄貴のところにきたでしょう」
「……あら」と口元に手を当てて、女将が振り向き、しげしげ見た。やがて、目を瞬いて、「あらあらまあまあ」とぱたぱた慌てて駆け寄ってくる。すぐに「元気だった?」「懐かしいわ」「お腹すいてない? ご飯は?」と矢継ぎ早に質問攻めにする。いたわしげに眉をひそめ、しっとりした手で肩を撫でた。
「ね、この包帯どうしたの? 若い娘さんなら、こういう方が可愛いかと思ったんだけど、肩紐じゃない方が良かったわよねえ──ごめんなさいね、気がきかなくて。まったく、この人ったら、なんにも言ってくれなくて」
すまなそうにそう詫びて、突っ立ったアルノーを微笑って睨む。アルノーはばつが悪そうに頭を掻いた。
今日までの近況を女将にひとしきり報告し、エレーンはようやく階段に向かった。古いが、掃除の行き届いた木造りの階段だ。とんとん二階にあがりつつ、先に立ったアルノーの背中に話しかける。「それにしても、急に転がり込んで、よく部屋があったわねえ」
「宿はどこもガラガラですよ。客足が芳しくないようで」
「でも、あんな大勢、いっぺんに泊まれるとこって、あんまりなくない?」
「兄貴がちょっと出てるんで、大部屋に空きがありましてね。そいつも丁度、具合が良かった」
アルノーは階段をあがりきり、二階の廊下を右手に折れる。すぐに、エレーンも後に続いた。「ずっといないの? オーサーさん」
「北で妙な連中が出ているようで。このところ、被害が甚大でしてね」
「あ、やっぱりぃー?」
大きくそれにうなずいて、エレーンは憮然と腕を組んだ。「その人たちには、あたしも迷惑してんのよねえ!」
「──会ったんですかい、そいつらに」
アルノーが面食らった顔で振り向いた。エレーンはぷりぷり目を向ける。
「会ったもなにも、もー大騒ぎよ! 元はといえば、あたしが崖から落ちたのだって、そいつらが追っかけてきたせいだもん。なのに、ひとが一生懸命逃げてんのに、あのキツネの奴まで恐い顔で追っかけてくるし。だから、あたしは──」
『来い!』
キン──と高い耳鳴りがした。
手を突き伸ばしたファレスの顔が、切迫した声がよみがえる。
水の匂いが鼻をついた。顔をなぶる強い風、腕をひっぱる痛いほどの力、窒息しそうな息苦しさ、海がぐんぐん視界にせまる。さかまく海流、青い大海。黒々とつき出た険しい岩礁──。
足が、震えた。
膝から力が抜け落ちて、とても歩いていられない。立ちつくした唇が怖気にわななく。急に立ち止まった連れに気づいて、アルノーが怪訝そうに身をかがめた。「どうしました。もしや、また具合でも」
「……ファレス、どこ」
ようやくそれだけ呟いて、エレーンは弾かれたように顔をあげた。アルノーの手を押しのけて、板張りの廊下を強く蹴る。半眼で凄むふてぶてしい顔。食卓を監視する説教顔。乱暴に引っぱるぞんざいな手。
──今すぐ会いたい!
突き当たりの窓から日ざしが差しこみ、ひっそりとした廊下は明るい。揺れ動く視界の中央で、窓の光がどんどん近づく。女将から聞いた引き戸に駆けこみ、それを大きく開け放った。
「ファレス!」
空き瓶が、隅の方に転がっていた。敷きっぱなしのふとんは寝乱れ、ツマミの袋は空いたまま。だが、誰の姿も、そこにはない。部屋の中は閑散としている。
「……どこ、行っちゃったの?」
力がへなへな抜けていき、エレーンは廊下にへたり込んだ。
食い散らかされた残骸の袋が、畳でかさかさ揺れている。向かい一面の腰窓が、いっぱいに開け放たれて、窓から、ゆるい風が吹き込んでいた。純白の雲を浮かべた夏空の端に、緑がさわさわ揺れている。
畳の間はがらんと広く、大勢がいた気配だけが抜け殻のように残っていた。晴れた日にみる陽炎のように。
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