CROSS ROAD ディール急襲 第2部 5章 3話8
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 もどかしい思いで振り向いた途端、髪の先から汗が散った。前髪が額に張りついて、汗が額をしたたり落ちる。喉が渇いて張りつきそうだ。
 通りの先に目を凝らす。胸の辺りがチリチリした。額の汗を手の甲でぬぐい、街の大通りを端から見回す。街路樹の萌黄がさらさらそよいだ。夏の昼下がりの気だるい店々。まばらな人波がのんびり歩く変わりばえしないレーヌの街──エレーンは苛々爪を噛んだ。
「どこに行ったのよ、あいつってば!」
 薄日さしこむ宿の廊下で、がらん、と無人の室内を眺めて、アルノーは怪訝そうに腕を組んだ。
『今朝、部屋を覗いた時には、窓辺で静かに寝てたんですが。しかし、あんな体で一体どこへ。満足に歩くことさえ、できねえってのに』
 それを聞いた途端、戦慄が走った。そして気づけば、気楽亭を飛び出していた。それから長いこと捜している。だが、あの長髪はどこにもない。路地の日陰を駆けぬけて、乾いた石畳の大通りに戻る。
 勢いのある夏の日ざしを、白い石畳が照り返していた。どこも店を開け放ち、窓も表戸も全開だ。さし渡された梢の下、青い大きなパラソルの下で、路上に並べられた商品が気だるく西日を浴びている。氷に浸かった飲み物の瓶、こんがり焼けたとうもろこし、いい匂いを振りまくイカ焼き、色鮮やかなゴムぞうり、よそでは着られない派手な柄シャツ──肩で息をつきながら、素早く視線を巡らせて、エレーンは唇を噛みしめた。
「──なによ、勝手に着替えなんかしてっ!」
 大きすぎるサンダルを鳴らして、焼けた石畳をぱたぱた走る。見つけたら絶対とっちめてやる! 変なことなんかしてようもんなら、絶対ただじゃおかないんだから!
 呼吸が熱くなり、顔がのぼせた。髪先の汗が目に入る。肺が破れてしまいそうに痛い。息が切れた。石畳のつなぎ目に足がとられて、ともすれば転びそうになってしまう。真夏の日ざしの強い直射──。
 日陰になった道端に、年季の入った木の荷車がとめてあった。みやげ物屋の軒先では、貝殻の風鈴が涼やかな音を立てている。積みあげられた籐のかご、鮮やかな花の飾られたオレンジ色のグラス・カクテル、赤や黄色や薄緑色の山盛りになった露店の果物、氷に沈められた新鮮な魚貝、桃色貝で作られたブレスレットやアクセサリー──居並ぶ店を苛々しながら見てまわる。どこかにアレが立ってやしないか。ひょっこり、そこらに紛れていないか。柄悪く店主に凄んでいないか。暗い路地裏で倒れてやしないか──! 焦れる足を、ふと止めた。
 だしぬけに注意を引いたもの、それは道向かいの露店だった。飛び跳ねる呼吸を肩で整え、すだれの敷かれた台の上のそれを見つめる。花火だった。個人で遊ぶ手持ちの花火だ。色とりどりの棒状のそれが、箱に無造作に突っ込まれている。一組が袋入りになったものもある。花火の端の薄紙のこよりが、風にかすかに揺れている。凝視した視界いっぱいに、それらが大きく広がった。赤、青、黄の鮮やかな紙で巻かれた花火──。
「ダド、リ……」
 唇の端がわなないた。語尾が消え入り、呼吸が浅く、速くなる。知らぬ間に握った指が震える。サンダルの足が、そちらに向けてよろめいた。
「……か、買わないと」
 あの花火を買わないと。
 どうしても、今、買わないと! もう、レーヌまで来てしまっている、、、、、、、、のだ。
 覚束ない足取りで、道向かいの露店へ向かう。視界の中央に捉えた花火が、右に左にゆれ動く。目は一心に花火を見つめ、周囲が白く焼き切れる。だって、ダドリーと約束したのだ、今年の彼の誕生日には、花火で派手にお祝いしようと。二人で踏みだす生活の、新たな一歩を記念して。
 奥で座っていた店の主が、おや、と気づいて、曲がった腰を大儀そうにあげた。白髪まじりの老店主だ。久しぶりの客らしく、すぐにいそいそ店表に出てくる。その満面の笑みで、エレーンはふと我に返った。道の中央まできて歩をゆるめ、反射的にポケットを探る。財布──そう、財布は──
「足、止めんじゃないよ」
 耳元で、諌めるような声がした。低くかすれ気味の女の声だ。後ろから腕をとられている。聞き覚えは、ない。
 エレーンは怪訝に振り向いた。すらりとした若い女が、すぐ真後ろに立っていた。この暑いのに、黒革のパンツスーツ、同じく黒革のロングブーツ。きつい目元で、肩下までの癖のない髪、綺麗な顔立ちの若い女。やはり、まるで知らない顔だ。人違いだろうか。いや、この人どこかで見たような──? 顔を見下ろす薄く赤い唇が、落ち着いた声音で先を続けた。「お久しぶり、奥方様、、、
「……えっと。どなたでしたっけ?」
 ぽかん、とエレーンは首を傾げた。ふっ、と女は薄笑いを浮かべる。「なんだい、もう忘れちまったのかい? 結構こたえたようだったけど?」
 そう言いつつも、女は腕を放さない。手首の入れ墨が目を引いた。いや、あれは入れ墨ではない、アザだ。花のような形の大きなアザ。女はからかうように目を細める。「泣きそうな顔で逃げてったくせにさァ」
「……逃げて? あたしが?」
 なんでそんなことを──と考えて、あっ! とエレーンは目を丸くした。恐る恐る上目使いで尋ねる。「あの、もしかして、あの時の? 夜の林で、ケネルといた」
 そう、夜更けにゲルから出ていったケネルが、藪で組み敷いていた相手ではないか。思わぬ濡れ場に出くわして泡食って逃げ戻ったのを覚えている。とはいえ、ケネルには既にクリスがいるし、恋人というにも別にいるし、人目を忍ぶ仲というなら彼女はいわゆる愛人という立ち位置か? いや、あの"恋人"は弟だ。ともあれ彼女は、つまりはケネルの、
 ──第三の女。
 ケネルの事もなげな顔が浮かんで、むぅ、とエレーンは拳を握る。涼しい顔してあのタヌキ! 次から次へと手を出して──はた、と現状に気がついた。彼女と二人きりのこの状態、つまりはその愛人と、のっぴきならない差し向かい? 
 ぎょっ、とたじろぎ、じりじり引く。
(な、な、なんの用? なんで、急にあたしのとこなんかに?)
 もっとも、これはどう見ても「サシで話をつけにきた」というより「捕まっている」といった方が正しいが。女につかまれた自分の腕を呆気にとられて見ていると、女は投げやりに鼻で笑って、じっと茶色の目を据えた。「ひとつ忠告しておいてやるよ。あの色男はやめときな」
「……はあ?」とエレーンは眉根を寄せた。もしや、これは宣戦布告? もしや、牽制されている? つまり、"あたしの男に近づくな"? 女は冷ややかな目で軽く睨んで、もどかしげに吐き捨てた。
「まだ死にたくは、、、、、ないだろう?」
 エレーンは虚をつかれて絶句した。なんて物騒な物言いだ。いや、それ以前に腑に落ちない。今の言い聞かせるような声の調子だ。そこには、やりきれなさのようなものが聞きとれた。そして、親が子を戒めるような情けのようなものさえも。だが、彼女とは面識など、ないに等しい。
「あの、それって一体、どういう意味──」
 怪訝に顔を見返した途端、ザッ、と風が鋭く動いた。そう「鋭く」だ。空気がばっさり断ち切れた感じ。急に動いて、急に止まった、そんな感じ──急に女が顔をしかめた。腕がねじ上げられている。女の後ろに誰かいる。
 女が忌々しげに身じろいで、真後ろに立った人影が見えた。男で、髪は薄茶色、痩せぎすの肩、長い前髪、その下に覗く切れ長の目。
「とうとう尻尾をつかんだぜ」
 アレの声だ!
(でた!)とエレーンはすくみ上がった。嫌な冷や汗がこめかみを伝い、あわあわたじろぎ、指をさす。
「きっ、きっ……きっ……」
 ──きつね男。
 顔から血の気が一気に引いた。まさか、こんな所で出くわすとは。ちなみに、青あざが顔に浮いているから、人相が余計に悪く見える。その目が忌々しげにジロリと睨んだ。「このとんちきが。敵と味方の区別もつかねえのか」
 開口一番舌打ちされ、エレーンは顔を引きつらせて後ずさった。ザイは女に目を戻し、顎の先でぞんざいに促す。「手を放せ」
「おや、ご挨拶だね」
 ふん、と女は薄く笑う。「あたしはただ、このぽわんとした奥方様を、保護してやろうと思っただけさ」
「手を放せ!」
 腕を強くひねり上げられ、女が舌打ちして手を放した。解放された腕をさすって、エレーンはたじろぎながら二人を見た。ザイはいつにも増して険しい顔つき。女の腕をひねり上げたザイの手には、かなりの力がこめられているようで、女は整った顔をゆがめて、不自由そうに身をよじっている。ザイが冷ややかに女を見た。「覚悟しろよ、黒薔薇ローズ。全部吐いてもらうからな」
 エレーンは呆気にとられて口を開けた。一体何がどうなっているのだ? ザイが何故ここにいるのか、何故、他人をあんなに乱暴に捕まえているのか、何故いきなり凄んでいるのか、事情がさっぱりわからない。もしや、結婚詐欺にでも引っかかり、金品巻きあげられたのか? 
 妙なあだ名で呼んでいるから、どうも知り合いらしいのだが、それにしては、ザイの態度が剣呑だ。けれど、彼女はケネルの愛人。それを教えてやった方がいいのだろうか。いい気になって、どっぷり不始末やらかして、手遅れとかになる前に。
 いや、面識があるというのなら、ケネルと彼女の関係も知っているに違いない。ケネルとの付き合いなら、こっちより余程長いだろうし、こっちへの苛めの尻尾を未だにケネルにつかませない辺り、日頃から抜け目もなさそうだ。にしても、女性の腕をひねり上げるなんて乱暴な真似をするものだ。女性が相手であるのなら、普通は二の足を踏むだろうに。なのに、何かとても慣れている──はっ、ととんでもない事態に思い当たった。もしやこの二人、デキている? でも、彼女はケネルの愛人。つまり、もしやまさかの、
(……三角関係?)
 不気味な暗雲の固まりが、脳天を横から直撃した。ずぼらなケネルと陰険なザイ、そして、見るからにきつそうなこの愛人、この三人で三角関係に陥っている、と?
(重っ……)
 どんより暗い、凄惨な底なし沼が思い浮かんだ。それは一面ねばねばで、一度落ちたたら、ちょっとやそっとじゃ這い上がれない。てか、落ちた時点で即窒息。そう、たぶんドロドロ間違いなし。しかし、ともあれ自分には、どんなに生々しいいざこざがあろうが、全く何ら関係ないのだ。
 ザイが愛人に凄んでいる間に、そおっとエレーンは後ずさった。あの綺麗な愛人には悪いが、ザイにはあんまり関わりたくない。それに、両手が塞がったあの状態なら、いつもみたいに追ってはこれまい。
 二人の注意を引かないように、そおっとゆっくり回れ右。ギロリ、とザイが振り向いた。鋭い視線に弾かれて、ギクリと足が勝手にすくむ。くっ、とおかしそうに女が笑った。
「おーやおや。顔をつき合せた途端に逃げられるとは、あんた随分、嫌われてるねえ」
 白い喉をのけぞらせ、ザイの肩にしなだれかかる。ひげのないザイの顎を白い指で撫でやって、窺うように目を細めた。「いいのかい? 一人で行かせちまってさァ。ここらは物騒だと思うけど?」
 思わせぶりな冷やかしに、ザイは忌々しげに舌打ちし、鋭くこちらを振り向いた。「そこを動くな」とのあからさまな脅迫。エレーンは飛び上がって踵を返した。
 両腕を振って慌てて走り、そろり、と肩越しに窺えば、女を捕らえて突っ立ったザイは、こちらと女を交互に睨んで、苛立った顔で舌打ちしている。どちらをとるかで迷っているらしい。ザイはしばらく、そうしてためらい、結局、女を突き放した。憤怒の入り混じった大きな溜息で振り返り、血相変えて駆けてくる。て──え?
「ちょっと、なんでこっちに来んのよっ! あんたの相手はあっちでしょあっちっ!」
 エレーンはわたわた両手を掻きやり、全力疾走に切り替える。両目を見開き、腕を振り、午後の大通りを大爆走。ザイがしばらくもたついたお陰で距離はわりと離れているが、キツネはいかんせん足が速い。それについては我が身をもって知っている。かけっこしても、きっと勝てない。そばに誰か人がいるなら、ザイは人目をはばかって何もしないが、ここにはケネルもファレスもいない。アドもあの短髪の首長も、まだレーヌには着いていない。つまり、ここで捕まれば、どんな目に遭わされるかわからない。ならば、この先、どうしたらいい。アルノーのところに逃げ込むか。けれど、気楽亭への曲がり角は、たった今、通りすぎたばかりだ。両手を振ってあくせく逃げつつ、絶妙の間の悪さに舌打ちする。他に──他に、頼みの綱は──! 
 気楽亭への街角を未練がましく凝視して、唇を噛んで目を戻す。刹那、青い色彩が視界を掠めた。見覚えのある明るい髪色。はっと息を飲んで振り向いた。
「アルノーさん!」
 日陰の路地から駆けてきたのは、着流し姿のアルノーだった。宿を飛び出した客を追い、捜してくれていたらしい。呼ばれて振り向きはしたものの、すぐには事情が飲み込めぬようで、泣きべそ寸前の引きつり顔と、後続のザイとを戸惑ったように交互に見ている。だが、迷っていたのは束の間で、追っ手のザイへと、すぐさま向かった。
「──なんだ、てめえは!」との罵り声と、揉み合う物音が聞こえてきたから、ザイを押し留めてくれているらしい。だが、うかうかしてはいられない。のこのこ向こうに戻った日には、ザイにあっさり引き渡されて、とんでもない目に遭うかも知れない。何せ、ザイは口が上手い。食えないケネルが、いともあっさり言い包められるくらいだ。となれば、アルノーが時間を稼いでいる間に、浜の先の小屋まで戻って、セレスタンのところに逃げ込むか。仲間の前ならザイだって、無体な真似はできないはずだ。
 息を切らせて走る視界に、きらめく波頭が見えてきた。海──大通りの終点だ。白い貝の風鈴ゆれる角のみやげ物屋がぐんぐん近づく。商店街の切れ目を駆けぬけ、あたふた左に曲がろうとして、エレーンは顔を強張らせて直進した。
(ちょっと! なんで、そこにいんのよっ!)
 十人ほどの漁師らしき集団が、道を塞いでしまっていた。何かの作業をしているようで、大きな黒い網を道いっぱいに広げている。
 のんびりたむろす集団を睨んで、雑草の平地に駆けこんだ。前方は、一面にひろがる白い砂浜。その向こうは青い大海、見渡す限り開けてて、ここでは身を隠す場所がない。やはり、多少は大回りになっても、このまま砂浜を左に走って、アルノーの店を目指すしかない。重たい砂に足をとられて転びそうになりながら、(ああ、こんな時にケネルがいれば……)とつくづく涙目でうなだれる。そうしたら一発で納得するのに、ザイの凶悪な裏の顔を。
 ザッ──と後ろで音がした。雑草の中に飛び込む音。ぎょっとエレーンは振り向いた。
 もう、ザイがそこにいた。草地を抜けて砂浜を蹴ちらし、ぐんぐんこちらに近づいている。
(なんでっ? もう来たっ! アルノーさんはっ?)
 エレーンは目を見開いてうろたえた。助けを求めてあたふた見回し、「──おおっ!」と顔を輝かせる。左に見える町沿いの日陰を、よく知るあの禿頭が、ぶらぶら、のほほんと歩いているではないか。ぶんぶん両手を振りまわし、口パクで助けを求めた。
(せっ、せれすたんんーっ! こっち来てこっちっ!)
 むしろ助けて。
 努力と熱意が通じたか「お?」とセレスタンが振り向いた。にへら、と笑って禿頭を掻き、片手をあげて振り返す。ふと、黒いサングラスの目が横を向いた。後を追うザイの姿に気づいたらしい。片方の足に重心を預けて、やおらそれを眺めやる。ひげを剃った口端が、ほんのわずか持ちあがり、禿頭の首を軽く振った。上機嫌ですたすた歩みを再開。
(て、どこ行くハゲっ!)
 エレーンは愕然と氷結した。ぜえぜえ肩で息をつきつつ、信じられない思いで凝視する。今のは単なる挨拶と、勝手に誤解したらしい。ザイと戯れているとでも思ったか?
(違う! 遊んでないから! そーゆーんじゃ全然ないから! てか、そんなわけないでしょっ!)
 心の中で絶叫し、エレーンはぶんぶん首を振る。てか、肝心な時に使えない奴だ──ザッ、と不穏な音がした。
 
 
 
 
 

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