CROSS ROAD ディール急襲 第2部 5章 3話9
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 震えあがって振り向くと、ザイが真後ろに立っていた。腹に据えかねたような顔つきだ。
(……お、怒ってる?)
 助けを求めて突き伸ばした手を、エレーンはそろそろ引っ込めた。それを持て余してニギニギしながら、ちら、と上目使いで機嫌を窺う。案の定というべきか、ザイはいつにも増して憮然としている。街からずっと走ったはずだが、息一つ乱していない。平素と何一つ変わらぬ様に、怖気が背中を駆けあがる。
「……え……えっと」
 引きつり笑いできょろきょろ見回し、エレーンはさりげなく後ずさる。
「ごきげんようっ!」
 サンドレスの裾をつまんで、脱兎のごとくに踵を返した。
 すっ、とザイが立ちふさがった。危うくぶつかりそうになり、エレーンは慌てて振り仰ぐ。長い前髪の向こうから、鋭い瞳がじろりと睨んだ。「何故、逃げる」
「だっ、だって、そりゃあ……」
 じりじり引きつつ周囲を見るが、味方はただの一人もいない。むしろ、西日激しい砂浜には、赤の他人でさえ一人もいない。海岸の先の遠い埠頭に、働く人影が見えるだけだ。髪先から汗がしたたって、乾いた浜の白砂に落ちた。うつむいた足元には、目前にいるザイの影。
 ザイと二人きりで対峙していた。その厳然とした事実が胸に迫って、エレーンは緊張に唾を飲む。この至近距離では、どちらに逃げても、ほんの一歩で捕まってしまう。ザイが一歩動いただけで──。
 潮風が吹いていた。太陽はじりじり照りつけてくるのに、体はいやに冷えている。打ち寄せる波の音、強い日ざし、遠くの埠頭、サンダルで踏みしめた海岸の砂──頭の中が真っ白になり、思考がふつりと焼き切れた。
「だって、あたしのこと、ぶったじゃない!」
 破れかぶれで食ってかかった。「そんなことされれば逃げるでしょーが、誰だって!」
「その十倍」
 ぴしゃり、とザイが言い返した。対峙した真向かいで、小首を傾げて腕を組む。「俺の顔を蹴りゃしませんでしたかね」
 う゛っ、とエレーンは口ごもった。もっともすぎて反論もかなわじ。そして、二人きりで対峙したこの状態。真昼の浜には、だあれもいない。ということは?
(……やばい)
 お愛想笑いでへらへらしつつも睨めっこ状態を継続し、じりじりさりげなく後ずさる。確かに、あの青あざは、己の仕業で間違いない。あの時は存分に取り乱していたが、蹴っ飛ばした自覚はある。そう、向こうにしてみりゃ、ここで会ったが百年目。
「じゃ! そゆことで!」
 全力で、逆方向に踏みこんだ。こうなったら逃げるが勝ちだ。ザイを蹴りつけた時の勢いで、やり返されたら、きっと死ぬ。──そうだ、セレスタンを追いかけて、何が何でもかくまってもらおう。両手でハゲにかじりついてでも!
 腕が、後ろからつかまれた。反射的に身をよじり、エレーンは逃れるべく遮二無二暴れる。構わずザイは、自分にぶつけるようにして、手荒く懐に引っ立てた。堅い胸板に顔がぶつかり、ぎょっ、とエレーンは振り仰ぐ。
「な、なにすんのよっ!」
 既に悲鳴。と同時に、気力をふりしぼってザイを威嚇。構わず腕が引っ立てられた。とっさにもがき、大声でわめき散らす。
「大人しくしねえか!」
 腹立たしげに怒鳴りつけ、ザイが間近で凝視した。
「俺は、あんたの敵じゃない」
 ぽかん、とエレーンは見返した。思いもよらぬ宣言だ。
 腕を捕らえて突っ立ったままで、ザイはそのまま動かない。例の仕返しをするでもない。嫌みを言うでも、罵倒するでもない。
 波の音が耳に戻った。暑い白浜で動くものといえば、青空を飛びかう白い海鳥、視界の隅の波打ち際、そして、潮風にさらされるザイの薄茶の髪だけだ。言い聞かせるように吐き捨てた今のザイの口調には、もどかしさと苛立ちがにじんでいた。
 まだ何か続きがあるのか、ザイは腕を放すことなく、小首を傾げて眺めている。何かをためらう顔つきだ。エレーンは上目使いで恐る恐る覗いた。「……あ、あのぉ?」
 ばつ悪そうに舌打ちし、ザイが腕を突き放した。ふい、と素っ気なく踵を返す。浜の砂を踏みしめて、街の方へと歩いていく。 押しやられた勢いのまま、エレーンはへなへな、白い砂浜にへたり込んだ。
「……そ、それだけ?」
 一言それを言う為に、こんな所まで追いかけてきたのか?
 ぺったりついた手の平に、焼けた砂が熱かった。癖のない薄茶の髪が、西日に照らされ、離れていく。あんなにしつこく追いかけてきたのに、もう、こちらを振り向きもしない。激しい動悸を肩でなだめて、エレーンは呆然と見送った。
 
 
 包んだ花火を手に持って、麦藁帽子の露店の主が、客の支払いを待っていた。青い大きなパラソルの下で、胡散くさげに眺めている。エレーンは引きつり笑顔で振り仰いだ。
「え、えへっ……あ、あのぉ〜……」
「──お客さん。あんたねえ」
 恰幅のいい中年の店主は、首のタオルで汗を拭き拭き、溜息でジト目を向けている。エレーンは上目使いでしどもど見た。「いや、あの、なんていうかその、ちょっと事情が……」
「じゃ、やめます?」
「いやよっ!」
 ぎろり、と店主にすぐさま目を剥く。ちら、と店主は冷ややかに見た。「なら買うの?」
「……そ、それは〜」
 ツケとかきく? 
 店主がぎょろ目でジロリと睨んだ。「なに、冷やかし?」
「違いますっ!」
 むむぅ、とエレーンは顎を出して対抗。それ下さい、とは言ったものの、財布を持っていなかったのだ。たぶん財布は、着替える前の、向こうの服のポケットだ。ザイに置き去りにされた海岸から、大通りに戻ったところで、この露店を見つけたのだが──
「……やー、なんかちょっと今、持ち合わせが……」
「うちは、掛け売りはやってねえの」
 ぴしゃりと遮り、店主は、うんにゃ、と首を振る。
「でも、あたし、どうしても今日、必要で──あ、お代は後で持ってくるしっ!」
 今日はダドリーの誕生日。二十四回目の誕生日。この機を逃がせば、あの約束が守れなくなる。
 終点トラビアはもうじきだ。ノースカレリアを出て、ルクイーゼを越し、もうレーヌまで来てしまった。ここで諦めてしまったら、トラビアに着いてしまったら、約束が果たせなくなってしまう。ディールの旗がひるがえる、あの不気味な要塞に着けば。
 夜毎の夢が告げていた。見たこともない国境の街が、夢に現れて警告していた。これから起こる出来事を。
 トラビアに着いてしまったら、ダドリーはきっと「階段」をのぼる。苔むした頑丈な石段を。これまでの歩みを振り返るように、一歩一歩踏みしめて。そして、晴天の頂きに立ったなら、ダドリーは、そこで──。あの見知らぬ「声」が響いた。
 
『 用意はいいか、クラウン 』
 
 ぶっとい腕を胸で組み、店主が大仰に溜息をついた。
「いい加減にしてよ、お客さん。あんたさっきから、ずーっとずーっと、そうやって!」
「おう、いくらだ」
 にゅっ、と肩先に顎が出た。
 柄の悪いぶっきらぼうな声。びくり、と肩を震わせて、エレーンは全身を硬直させる。背中に感じるこの体温。視界に写りこんだ革ジャンの腕。着込んでくたびれた茶色の革の──心臓が、全身の血が、どくどく慌しくわめきだす。少し開いた唇が震えた。馴染み深いこの空気。ふんぞり返ったこの気配! しとどに濡れた前髪の汗が、振り向いた途端に、ぽろん、と弾けた。「ファ──!」
「てんめえ、じゃじゃ馬。こんな所で何していやがる」
 肩をわずかに傾けて、ファレスが大儀そうに立っていた。額の白い包帯が目を引く。顔の輪郭がいびつに腫れて、頬が青あざになっている。
 思わぬひどい有様に、とっさに言葉を継げずにいると、ファレスは無愛想に見下ろして、眉をひそめて舌打ちした。「こんなこったろうと思ったぜ。あれの店にいねえと思えば、ぷらっぷらぷらっぷら、ほっつき歩いていやがってよ」
 肩を揺らして身じろぎし、ズボンの尻ポケットから札入れを引っ張り出しながら、閑散としたレーヌの通りにその視線を巡らせる。すぐにそれに気がついた。足を少し引いている? ファレスが目を返して、舌打ちした。
「まあた、てめえは、そんなぴらっぴらした格好で出てきやがって。たく、どこで水浴びしやがった。頭がぐしょ濡れになってんじゃねえかよ」
 額に張りついた前髪を、指の先でぞんざいに弾く。ぽろん、と雫が石畳に落ちた。
 エレーンは瞠目して見つめていた。文句は色々あったけれど、全部喉でつまってしまって、言うべき言葉が出てこない。ファレスは店主に勘定を渡し、白い紙包みを受けとっている。包みの重みを量るように片手でたるそうに上下して、白けた顔で舌打ちした。「しけてんな、これっぱかしかよ。──おう、親父、追加だ追加」
「へい、まいど! どちらをおいくつ、さしあげましょ」
 すぐさま店主は、揉み手で笑顔。ファレスはあっさり言い放った。
「箱で」
 ……手持ち花火で大人買い? 
 唖然とエレーンは横を見る。同じ花火を何十本買う気だ。店主も目をまん丸くして、あんぐり口を開けている。ファレスは気にした風もなく「そいつとそいつな、その赤い奴」と箱に指をさしている。いつものあの横柄な態度で。
 頓着しない横顔を、エレーンは呆けて凝視した。露店の主とやり取りしつつも、ファレスは片足に重心をあずけ、体を少し傾けている。立っているだけでも大儀そうだ。それでも遠慮のないふてぶてしさは普段と何ら変わらない。いつもの通りのあの、、ファレスだ。
 端整な横顔を見ていたら、手荒く懐に引き寄せた荒々しい息遣いがよみがえった。せっぱつまった真剣な顔。轟音とともに砕け散る波。大海の海上に投げ出された絶望──
 こみあげた恐怖に顔がゆがんで、エレーンは唇を噛んで恐慌をこらえた。ファレスは何事もなかったように平然と露店で買い物をしている。面白くもなさそうな顔で、のんきに花火なんか選んでいる。ひとの気も知らないで──勝手に宿から抜け出して! 勝手にひとの着替えなんかして! そんな大怪我しているくせに!
「こっ──!」
 強く噛んだ唇が震える。ふと、ファレスが目を返し、面食らったように動きを止めた。呆れたように息をつく。「──なんてえ顔をしてやがる。よだれと鼻水でぐちゃぐちゃじゃねえかよ」
 体を少し傾けて、上着のポケットを探っている。エレーンは震える指を握りしめた。こらえても、こらえても、涙がはらはら頬を伝う。
「こ、こ、こ……っ!」
 ──恐かった。
 地を蹴り、ファレスに抱きついた。ファレスは怯んで動きを止めて、「……おう、どした」と無造作に見下ろす。革ジャンの背にしがみつき、顔をすりつけ、わんわん泣いた。
「だっ、だっ、誰のせいだと思ってんのよっ!」
 思い余って怒鳴りつけると、「……あァ?」と呆れたように語尾をあげた。傷だらけのくせに平気な顔で。どれだけ心配していたか、こいつはちっとも分かってない。
 頭が平手でつかまれた。その手がぐりぐり、ぶっきらぼうに頭をなでる。持て余しているように。少し面倒くさそうに。特別優しくはないけれど、どこか労わりが感じられる、いつものあの手で。ランニングの胸板が振動し、頭の上で声がした。
「ようし、飯食いに行くぞ。あんぽんたん」
 
 
 

SIDE STORY *ファレスの日記6 
 
 
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