CROSS ROAD ディール急襲 第2部 5章 3話10
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 天井から、紐が一本、垂れ下がっていた。その他には何もない。音もない。すぽん、とどこかに吸い込まれてしまったように。
 人もいない。部屋もない。そこにはおよそ、風景といえるようなものはなかった。ただ真っ白なだけの空間が見渡すかぎりに広がっている。紐の他には何もないから、それを、ぐい、と引っ張った。
 ぽーん、と軽い音がした。いや、音など何も聞こえなかったはずだ。そもそも音自体がないのだから。
 真っ白な真空に、鮮やかな原色の"華"が散った。それが空中でバラバラはじける。色鮮やかな打ち上げ花火だ。
 ……やってしまった。
 それを見て、そう悔やんだ。けれど、今更悔やんでも、もう遅い。自分はこの手で幕を開けてしまったのだ。
 呆然として立ち尽くした。涙があふれて、頬の上をすべり落ちた。紐はいつの間にか消えうせて、元に戻すことは二度とできない。なす術もなくおろおろした。花火は次々打ちあがる。
 花火は、あがり続けている。
 
 
 何かが顔を舐めていた。ざらざらした、とがった舌で。
 うっすら瞼をあげてみると、小さな薄桃色の逆三角が見えた。左右にぴんと張った透明のヒゲ、ちらちら動く赤い舌。
「……なに? あんたが舐めてくれてたの?」
 体がいやに気怠かったが、なんとか片手を持ちあげて、小さな頭をゆるゆる撫でた。舐めていたのは猫だった。毛並みの良い、どこかで見たような白い猫だ。真っ白なふかふかな毛皮に、緑の宝石のようなまん丸の瞳。壁一面の腰窓が全て大きく開け放ってあるから、近くの街路樹の枝を伝って、部屋に入りこんできたらしい。
 猫の頭をゆっくり撫でた。猫は懸命に頭を動かし、顔を貪るように舐めている。どうしてそんなに、と怪訝に思い、ようやく理由に気がついた。どうやら自分は泣いていたようなのだ。
 頭を撫でる手をすり抜け、猫が身をひるがえした。既に興味をなくしたか、こちらのことなど見向きもしない。ひらり、と窓枠をまたぎ越し、青空に浮いて、ふっと消えた。
 何か悲しい気持ちでそれを見送り、エレーンはのろのろ起きあがる。ぼんやり寝床に座り込み、寒くもないのに腕をかかえた。
 三度目に目覚めた時には、日は西に傾いていた。もう少し時間が経てば、夕焼けで空が染まるだろう。食い散らかされたツマミの袋が、畳でカサカサ揺れていた。隅に転がった幾本もの瓶。気楽亭の二階であるらしい。ゆるく一つ首を振った。
「……もしかして、あたし、ずっと寝てた?」
 ならば、あれはみんな夢? 森を逃げて、崖から落ちて、ケネルがアルノーの店に迎えにきて、街に出てファレスを捜して、ザイに海まで追いかけられて──いや、あの花火がそこにある。
 道端の露店でファレスが買った未開封の箱入り花火が、窓際に五箱ほど積まれていた。灰色をした紙箱の上に、透明の袋に入った色鮮やかな手持ち花火が、一つ無造作に載せてある。
 そう、ファレスにしがみ付いて号泣した後、再び気楽亭まで一緒に戻り、もりもり食べたのを覚えている。店はまだ準備中だったが、女将が定食を二人前、板場に頼んで用意してくれた。ほかほかのご飯をかっこみながら、なんだかんだとファレスと喋り、どうしてなんだかゲンコをくらって、ファレスが女将にお水を頼んでそれから──そう、それから後はどうしたろう。記憶の糸は、そこでふっつり途切れている。
 階下の遠くで、音がした。いささか荒っぽい物音だ。店の表戸を叩き付けるような音、誰かが駆けこんできたのだろうか。慌しい足音は、すぐに階段をあがってきた。切迫した足どりだ。音はますます大きくなって、踊り場を蹴り、廊下を駆け、ガラリ、と引き戸が乱暴に開く。入室するのに断りもない。呆気にとられて振り向くと、高い位置で薄茶の頭が、ぬっと出た。エレーンは目を丸くした。「ノッポ君?」
 長身の頭を入口でかがめて、薄茶の髪が入ってきた。白シャツの肩、長い足がもどかしげにそれに続く。ウォードはつかつか歩み寄り、目の前に滑りこむようにして膝をついた。
「……エ、レーン」
 顔を凝視し、中腰の姿勢で硬直している。まずは、いきなり現れた事情を訊こうと、正座で向かい合ったウォードを見、エレーンは開けかけた口を絶句で閉じた。ウォードの長い前髪が、汗で額に張りついていた。ボタンのない、肌に馴染んだ綿シャツが汗で透けてしまっている。肩で荒く息をつき、全身汗びっしょりだった。こうまで取り乱したウォードなど、未だかつて見たことがない。エレーンは困惑して首を傾げた。「ど、どしたのノッポ君。そんなぼろぼろの格好で」
「死ぬかと、思った」
 荒い呼吸で唾を飲みこみ、ウォードはようやくそれだけ言った。眉根を寄せてエレーンは固まる。
(……又かい)
 よく似た台詞を朝から散々言われたが、よもやこの彼にまで、おんなじことを言われようとは。息をつめて見ていたウォードが、拍子抜けしたように身じろいだ。「……オレ、もう死ぬかと思った」
「え゛?」とエレーンは見返した。ちょっと待て。こっちがじゃなくて" オレが "?
 何やら、どうも釈然としない。ウォードが目をあげ、じれったそうに手を伸ばした。胴にぶつかる重みとぬくもり、ぎょっ、とエレーンは正座のままで後ずさる。
「……ノ、ノ、ノッポくぅん?」
 正座の膝に、あの薄茶の後頭部があった。長い両腕を背に回し、胴にしがみついている。長身の背を腰から折って、ウォードが這いつくばっていた。腹に突然突っ込まれ、頭は真っ白、二の句が継げない。白シャツの背から声がした。「……オレ、あんたがいないと生きていけない」
 は? と見返し、エレーンはぽかんと固まった。一瞬後(えええ──!)とたじろぎ、無人の室内をあたふた見回す。視線を膝に再び戻し、頬をひくつかせて唾を飲んだ。もしや、これって、
 愛の告白?
「ノ、ノッポ君……」
 一気にのぼせて赤面し、エレーンはおろおろ、薄茶の後頭部を見下ろした。とはいえ相手は、まだ子供といってもいいような年頃なのだ。話を真に受け、うろたえるのも、いい年こいた大人の女のとるべき態度としてはどうなのか。しかし、かといって、こんなに真剣な告白を、笑ってあしらい受け流すというのも、人としてどうなのか──広い背中がじれったそうに身をよじった。「──早くー」
「えっ」
 何が? 何が早く?
 あれこれ考慮中の半端な笑いで、エレーンは曖昧に首を傾げた。せっつかれたが、肝心の趣旨がさっぱり不明だ。彼の話はいつも情報が極端に少ない。ウォードがもどかしげに嘆息し、背中を揺すって催促した。
「だからー、早くさすってー、背中―」
 ぱちくりエレーンは瞬いた。せなか──って、この背中のことか?
 己の役割を俄かに悟り、肩を落として首を振った。仰せの通り、ウォードの背中に手を伸ばす。
「……はいはい、ただ今」
 て、お抱えのあんま屋かい。
 まったくやれやれ、と思いつつ、ウォードの背中をちんたらさすった。腹に引っついた背を眺め(なあんだ。紛らわしい……)とエレーンはごちる。道理でまるで照れもせず、平気な顔で言ってのけたはずだ。
 汗で湿った広い背中を(もーやれやれまったくこの子は……)とさすりつつ、いささか投げやりになだめてやった。「どーしたのー? まあた痛くなっちゃったー? どーしたんだろーねー。最近収まっていたのにねー」
 うつぶせたウォードは、顔をしかめたまま答えない。
(……まじで痛いのか)
 すぐさま背中をせっせとさすった。
 ウォードはじっと動かない。眉をひそめて、密かに歯を食いしばっている。痛みに耐えているらしい。己の非道を反省し、しばらく真面目に、しゃかりきにさする。
 はあ〜、とウォードがくたびれたように息をついた。固くこわばっていた背中から、力がかなり抜けた気がする。もういいかな? と様子を窺い、エレーンは遠慮がちに声をかけた。「ここまでノッポ君、一人で来たの?」
「……そうー」
 しばらく間を置いてから、ウォードは面倒そうに回答した。眉をひそめ、ふぅーと溜息をついている。答えるのも億劫そうだ。けれど、彼には言わねばならないことがある。恐る恐るエレーンは続けた。「ねー、どうして一言断ってから出てこないの。いきなり消えちゃうもんだから、みんな心配してたわよー? けっこう大騒ぎになっていて、街道なんかをずぅっと捜して──」
 話とはまるで無関係なタイミングで、ウォードが唐突に身じろいだ。
「楽になったー」
 言いつつ、不思議そうに顔をあげる。
「なんでー?」
「あたしの話、聞いてるー?」
 話を横からぶった切られて、エレーンは膨れっ面で腕を組む。「ねー、ノッポ君。あたしの話ちゃんと──」
「らくー」
 素直な顔で再び報告、ウォードは心底満足そうだ。
「……よかったね」
 絶句の口でなんとか応え、エレーンは嘆息して額をつかんだ。こっちの話は無視ってか。ともあれ、ちゃんと聞いている、と意思表示をしないと、恐らく一歩も進めまい。
(ああ、ノッポ君だ……)
 つくづくと、今更ながら実感した。無謀な単独行動を諌めるつもりが、もう既に諦め気分。無理に話を続けようとしても、何を言おうが無駄なのだ。そして、興味がないと平気でスルー。まったく完璧にマイペース。まったくやれやれ、と見返して、膝で転がったウォードの視線と目が合った。
 青白い頬が見上げていた。思いも寄らぬ真剣なまなざしだ。硝子のように透き通った瞳。まっすぐ見つめる誤魔化しのない真摯な視線──
「そ、そうだ! あのっ、ホーリーは?」
 慌ててエレーンは目をそらした。嘘のない目は、時として脅威だ。ウォードは特にこだわるでもなく、大儀そうに頭を動かし、開け放った窓を顎でさす。
「森―」
 森に置いてきた、との意味らしい。
 エレーンはわびしい笑いで頬をひくつかせた。もうちょっとくらい喋ってくれてもいいと思う。彼はとても正直だが、いささか唐突で率直すぎる。不親切なくらいに自由気ままだ。お陰でいつも振り回されて、いつでもあたふた手探り状態。彼との会話は日々是決戦。ちなみに"ホーリー"に関する話は無視しないらしい。ウォードは張りつめた気が抜けてしまったように、ぐったり瞼を閉じている。
「──どうしたら」
 だしぬけにウォードが呟いた。途方に暮れたような口振りだ。問いの続きを待ってみるが、それきりふっつり口をつぐんだ。膝の柔らかな前髪に、エレーンは促すように指先で触れる。ウォードはやはり、じっと瞼を閉じている。
「どうしたらオレ、"一番"になれるー?」
 ふっと膝が軽くなった。ウォードが手をつき、苛立ったように身を起こす。白シャツの肩をひるがえし、さらりと乾いた敷きものの上に、ごろりと仰向けで寝転がった。無造作に膝を立て、眉をひそめて目を閉じている。
 手の平を返したような急な変化に、エレーンは呆気にとられて言葉を飲んだ。今いきなり起き上がった時、彼の長い前髪の向こうに、周囲をすくませるほどの猛々しい意思が垣間見えた気がしたのだ。一瞬の高揚は鎮まって、ウォードは目を閉じて転がっている。
(……何を考えているんだろう)
 気だるそうなその顔を、エレーンはたじろぎながらも、まじまじと見つめた。この彼の頭の中は、一体どんなふうになっているのだ。てか「一番」てなに。
 すぅー、と寝息が聞こえてきた。今、転がったばかりだというのに、もう眠ったらしいのだ。
 エレーンは唖然と口を開けた。まったく堂々としたものだった。彼は何事も意に介さない。どこにいても、何をしていても、彼は常に彼なのだ。どこの誰と一緒にいようが、彼は何も分かち合わない。彼の世界は全て丸ごと、"彼"一人でできている。
 膝を立てたズボンの裾が、乾土で白くなっていた。どこのどろ沼に突っ込んだのか、汗だくの白いシャツにも、こすったような茶色い跡がついている。彼の姿を改めて見れば、随分ひどい有りさまだった。頭から全身ほこりにまみれ、本人もぼろぼろに疲れている。それでも、ケネルらと対面した時のような、むさ苦しさはどこにもない。顔は変わらず綺麗なままで、無精ひげなどないからか。案外まつげが長いのよね、この子……などと無防備な寝顔を頬杖でまじまじ眺めていると、部屋の引き戸が、がらり、と開いた。
 人影が忙しなく現れて、ずかずか部屋に踏み込んでくる。廊下にいるらしき後ろの連れから振り返り、「お?」とファレスが足を止めた。
「おう、起きたか」
 "それ"にもすぐに気づいたようで「あァ?」と視線を隣に移し、寝転がった長身をしげしげ眺めた。「なんで、こいつがここにいる。行方知れずじゃなかったのかよ」
「なんで、とかは知らないけど、ノッポ君一人で、さっき来た。てか、そんなことより」
 冷ややかな非難をまなざしにこめて、エレーンは連れを睨めつけた。
「なんで、そいつまで連れてくんのよー」
 又もあの由々しき奴が、ファレスの後ろにくっついてきたのだ。肩で切り揃えたしなやかな直毛、白い額に整った目鼻立ち──何を隠そう天敵クロウ。
 ファレスはウォードの周りをうろついて、ぽっかり口を開けたウォードの寝顔を柄悪くジロジロ見ていたが、振り向いた途端にたじろいだ。「──いや、お前、飯の途中で突っ伏すからよ」
 言い訳がましい説明を片手で無下に遮って、すっとクロウが歩み出た。ためらうことなく入室し、つかつか寝床に歩いてくる。あわあわエレーンは手近な壁まで後ずさった。クロウは構わずその目の前で膝をつき、顔を突き出し、目を据えた。後のないエレーンの顔を冷たい両手で難なくつかんで、下の瞼を親指で引っぱる。
「はい、舌を出す」
 問答無用で毅然と命令。
(──ちょっとあんた! なにすんのっ!)
 エレーンは驚愕してのけぞりつつも、「んべっ」と言われた通りに舌を出した。つまりは一人あっかんべした無残な顔。クロウは無表情で観察し、やおらファレスを振り向いた。
「副長、異状はありません」
 ぶらぶら部屋を歩いていたファレスが「……あァ?」と舌打ちで見下ろした。「そんなわけがねえだろうがよ。面倒がらずに、まともに診ろや」
 顎をしゃくって促され、クロウは溜息で膝を向ける。
「血色良好、口数旺盛、馬鹿さ加減もまっ盛り。そんなもの一目でわかるでしょうに」
 解放された途端、すぐさま肩を引いたエレーンが、「──ばっ!?」と絶句し、ねめつけた。
「ちょっと! なによそれえっ!」
くそ暑い中、走り回って、消耗したというだけでしょう。自業自得です」
 ぴしゃり、と一睨みで患者を撃退、クロウは迷惑顔でファレスを見る。ファレスは辛うじて「……お、おう」と応じたものの、珍しくたじろぎ、気圧された様子。クロウは華奢で小柄だが、己の管轄ではさすがの貫禄。膝を立てて立ちあがり、旅装の腕をやれやれと組んだ。
「どこもなんともありませんよ。背中の例の怪我については、見ての通り、あの通り、、、、ですしね」
 鋭くファレスが一瞥した。その視線は思わず竦んでしまうほどの苛烈さだったが、当のクロウは臆するでもない。むしろ諦めたように嘆息し、ちら、と曰くありげに目を返した。
見た、、んでしょう? 副長も」
 
 
 
 
 

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