■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部 5章 4話
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あれは一瞬の出来事だった。
崖から落ちたアレを追い、手首をつかんだその途端、不可思議な光が弾けるように発光した。目もくらむ程の閃光が瞬く間に駆けのぼり、全身をくまなく包みこんだ。
萌黄色のまばゆい光は、宙に吸い込まれるようにして拡散し、残光は速やかに収束した。あの彼女の体へと。あの異様な光景に、柄にもなく肝を冷やした。大海を背にして落下していた当人は、まるで気づきもしなかったようだが。
「……何者なんだ、あの阿呆」
飯屋の壁に寄りかかり、ファレスは昼空に紫煙を吐いた。光がふつふつ湧きたって、全身が淡く発光していた。あの奇怪な現象は一体──。立ちのぼる紫煙は薄まって、空に溶け込み、消えていく。
「よく見捨てずに戻ったものだな。あのひどい有り様で」
戸口からの声に顔をしかめて、ファレスは空から視線を戻した。
「どうにかなると思ってよ、お前がこっちに着きさえすれば」
敷居をまたぎ出てきた男に目を向ける。「実際、どうにかなっただろ」
「悪い」
その額の包帯を、ばつ悪そうにケネルが見た。
「お前を殴るつもりはなかった。あの時はつい──」
「お前、最近、口数が増えたな」
ファレスは一蹴、ジロリと見た。「そんなことはどうでもいい。なんでもねえよ、こんなものは。それより訊きたいことがある」
ふと、ケネルが口をつぐんだ。
ああ、と苦々しげに目を逸らす。それだけで通じたところをみると、思い当たる節があるらしい。追及すべく、ファレスは口を開きかけ、しばしためらい、切り出した。
「知ってたんだろ、お前はよ」
上着の懐をケネルは探り、煙草の紙箱を取り出した。一本くわえて火を点ける。「ああ、知っていた」
「いつからだ」
「初めから」
「何故、俺にまで伏せていた」
詰問調に口をつぐんで、ケネルは立ちのぼる紫煙を眺める。
「大ごとにはしたくなかった。他の誰にも知られずに、先方に引き渡すつもりでいた」
「俺の他に知っている奴は」
「クロウが診た。領邸から逃げた医者の代わりに。だが、さすがにあれは手に余る。いくら奴が優秀でも」
「──どうなってやがんだ、あの背中」
ファレスはたまりかねて舌打ちした。
「なんで、あれで生きていられる。割れてんだぞ、背中がぱっくり」
斬られたばかりと見紛うような、生々しい切り口だった。その傷と周囲だけ、時が凍りつきでもしたような。
「それは俺にも皆目わからん」
お手上げ、とケネルは首を振る。
「いずれにせよ、客を診ていた領邸の医者が、逃げ出したのも無理はない。何度傷を縫い合わせても、元に戻っちまうってんだからな。縫合した痕は消え、傷は未だに開いたままで、それでもその当人は、痛みを感じる様子もない。まったく、あれには恐れ入る」
「なるほど、それで例の医者か」
客を北方から連れ出したケネルの意図をようやく察し、ファレスは思案を巡らせる。だから、ケネルはわざわざ選んだ。数多の優れた医師の中から、悪名高い闇医師を。不可思議な奇跡を成し得ると、評判の高い闇医師シュウを。
夏日に灼けた板壁にもたれて、晴れた空をケネルは眺める。
「運びこまれた瀕死の男が、何事もなく診療所を出ていく。腕を落とされたごろつきが何不自由なく両手を使い、商都の街を闊歩している。そいつが請け負った怪我人は、なぜか格段に治りが早い。一体どんな手品を使うやら。だが、そんな楽屋裏はどうでもいい。確かな腕があるというなら、こっちにも揮ってもらうまでだ」
「腕尽くでも、だろ」
ファレスは一服、紫煙を吐く。
「なるほど。確かに適任か。噂にきく闇医師は、口が堅いと聞くからな。相手がどこの誰であれ、患者の秘密は他言しない。ま、金を積めば、の話だが」
飯屋の戸口を、肩越しにうかがう。今話題のあの客は、店内で昼飯の最中だ。
「──アレのお守りもあと少し、か」
シュウの診療所は商都にある。レーヌを出て北上すれば、残す行程はあとわずか。本隊との合流を加味しても、さして時間はかからない。ケネルは目を閉じ、瞼を揉む。
「商都で身柄を引き渡す。店のシュウは留守のようだが、その内戻ってくるだろう。うるさいネズミとの小競り合いも、あと数日で終了だ」
肩の荷がおりるというように、頭を壁にもたせかけ、ゆるく流れる雲を眺める。
「"要望通りに南下して、俺たちはトラビアへ向かったが、商都の医者の判断で、断念せざるを得なかった"」
「当初の筋書き通りにな」
ケネルを受けて空を仰ぎ、ファレスは長く紫煙を吐いた。「──気づいた日には、行き先が違う、とわめくだろうが」
客の目的地はトラビアだが、かの地はレーヌから西北の方角、商都へ行くなら、北上だ。レーヌからトラビアへ直進できる街道はないため、最短距離で直行するなら、原野を突っ切ることになる。
一方、商都のような大都市へ向かえば、道々の風景は次第に華やぎ、猥雑な賑わいを増していく。どんな方向音痴でも、それに気づかぬはずはない。道を外れていることに。
物思いの横顔で、ケネルがふと苦笑いを漏らした。「──いや、案外アレは喜ぶんじゃないか」
トラビア行きが中止になれば。
まだ長い煙草を落として、ファレスは靴底で踏みにじる。「たく。阿呆が怖気づきやがってよ。あれほど、行く、とごねたくせして」
二人とも、とうに、それに気づいていた。部隊で預かるあの客が、なんだかんだと理由をつけては部隊の進行を遅らせて、到着を引き伸ばしてきたことに。そう、疲れたと言っては休憩をとり、目にごみが入ったと言っては馬をおり、馬に酔ったと言っては慌てて森に吐きに行き──その不調の原因は、なにも馬酔いのせいばかりでもあるまい。
部隊を止めて休憩に入ると、一人きりになりたがる。密かに様子を見に行けば、後ろ手にしてゆっくりと、静かな風道を歩いている。森の空を時おり仰ぎ、首を倒して深呼吸をしながら。あたかも涙をこらえるように──。
脳裏をよぎった頼りなげな肩に、ファレスは苦々しげに眉をひそめ、新たな煙草に火を点ける。
「だが、ここまでもたついた分、これで帳尻が合っちまった」
レーヌに辿り着いていた。ほんのつい先日まで、行程半ばにいたというのに。
思いがけず、ここにいた。客を部隊も追いかけて、全速で大陸を南下した。これまでの遅れを取り戻すように。
一気に押し流されていた。客のなけなしの抵抗など、歯牙にもかけぬというように。
白々とした諦観が広がり、ファレスはじっと紫煙を見る。改めて実感していた。これまで連綿と繰り返された予知の結末の正しさを。
──"「予定」の針は狂わない"
夏日を浴びた壁横で、ケネルの肩が身じろいだ。
「目的地は伏せておく。客が寝ている夜半の内に、地下道から商都に入る。知れば、暴れること請け合いだ。もっとも」
気だるそうに背を起こし、捨てた煙草を踏みにじる。
「泣こうがわめこうが連れていく。当初の予定通りにな」
休憩中の札がかかった、飯屋の紺ののれんを潜った。昼過ぎの静かな店の中、女の甲高い声がする。
「飯は食ったな。さあ、行くぞ」
応答するケネルの声。だが、待てど暮らせど、出てこない。
入口に下がるのれんを手でどけ、ファレスは舌打ちで中を覗く。「──一体、何をもたついていやがる」
がらんと涼しい店の奥で一人食事をしていた彼女が、ケネルに食ってかかっていた。かっ込んだ飯つぶ頬につけ、口の先を尖らせて。ケネルは彼女を引きずり出すべく奮闘している様子だが、そこで思わぬ抵抗にあい、難儀しているものらしい。彼女は両手で卓に張りつき、未練たらたら渋っている。
ファレスは呆気にとられて口を開けた。
「……あいつ、あんなにがっついてたか?」
口やかましく促しても、大した量を食わなかったのに。昼に配られた弁当でさえ、まともに食いきれた試しがない。だから、いつもスタミナ切れを起こして、妙なタイミングで、くったりへばる。それが──。
「行くぞ。ほら、もういいだろう」
もそもそ食っていた食いかけの膳を、ケネルが横から取りあげた。ついに痺れを切らしたらしい。このところ客に合わせていたが、元々気の長い方ではない。やれやれ、やっと出てくるか、とファレスは壁に背を戻す。
「うわはははっ!」
何が起きた! と跳ね起きた。
……今の爆笑、もしやケネルか?
怪訝に再び店を覗けば、卓に仰向けで背をつけたケネルが、膳の横をバンバン叩いて、ひーひー笑い転げている。と、ぴた、と唐突に笑いを収めて、むくり、と卓から肩を起こした。そして、
「脇腹をくすぐるな!」
まなじり吊りあげ、客を一喝。
ケネルを上から押さえ込んでいた客が、むっくり、おかっぱの頭をあげた。「腹から降りろ!」とがなるケネルを、実に珍しいことに無言で見あげ、だが、何を思ったか、おもむろに再び身を伏せる。
ケネルが身をよじって背を向けた。息も絶え絶えなアハアハ笑いで。
「わ、わかった! 食っていい! その飯全部、食ってからでいいから!」
すとん、と客がケネルから降りた。椅子を引いてガタガタ座り、何事もなかったように食い始める。くすぐり攻撃でケネルをやり込め、どうやら気が済んだらしい。
再びもくもく食い始めたその横で、揉みくちゃにされた戦神ケネルが、ぐったり無言で突っ伏している。両手をあげた万歳三唱の恰好で。
あぜんとファレスは口をあけた。
元の壁にげんなり引きあげ、のどかなレーヌの空を見る。知らず、つぶやきが口から零れた。
「……あの野郎、本当に、」
本当に、よく笑うようになったな。
「副長」
不意に呼ばれて、振り向いた。
ひさしの陰の路地裏に、馴染みの顔が立っている。頭のてっぺんの頭髪が尖って見える旅装の男。
連絡員のワタリだった。窺うように辺りを見まわし、道を突っ切り、近づいてくる。
ファレスは「ご苦労」と部下をねぎらい、定時連絡を聞くべく向き直った。汗を拭き拭き、ワタリが到着、指でのれんを持ちあげる。
「なに見てんです?」
興味津々覗きこもうとする襟首を、ファレスは無下に引き戻す。
「報告が先だろ。例の連中はどの辺りだ」
ワタリは肩をすくめてお愛想笑い、だが、すぐさま表情を引き締めた。
「隣のロマリアに差しかかりました。ずっと歩きづめでしたから、街に入れば、宿をとるとは思いますが、ここまで戻って来ちまえば、ヤサはもう、すぐそこですから、案外ロマリアは素通りして、直帰するかもしれません」
「なら、そろそろ出ねえと鉢合わせか。こいつは阿呆を急がせねえと」
断崖から落ちた客を追い、レーヌに急行したケネルらが、かのオーサーに捕らわれたあの後、ワタリは指笛で連絡を受けた。そして、休憩の隙を見計らい、林に忍んだ鳥師らと共に、オーサーらの馬を放して回った。つまり、ケネルらが離脱した後、移動の足を失った一行は、とてつもなく広い原野を、徒歩で戻る羽目になったのだ。
業務の報告をそつなく終えて、ワタリがいそいそ店を覗く。
とんぼ返りが普段は常だが、今日はなぜか戻ろうとしない。ファレスは別段咎めなかった。冷涼な大陸北方から、おっとり刀で南下したのだ。まして、連日の多忙に加え、蒸した石畳の街中と草原の気温差はかなりのもの。健脚自慢の連絡員も、これではさすがにバテるだろう。
どれどれ、どんな按配だ? とほくほく覗いたワタリの顔が、拍子抜けしたように固まった。
見るからに気落ちして振り返る。
「なあんだ。何かと思えば、隊長と姫さんがいるだけじゃないすか」
「何が見えると思っていたんだ」
ファレスは白けて眉をしかめた。
気だるくもたれた壁の向こうで、あの楽しげな笑い声がする。
レーヌの晴れた夏空に、ゆらりゆらりと紫煙が消え入る。路地の隅の影を眺めて、誰に言うともなく呟いた。
「……女ってのは獣だな」
上着の懐を探っていたワタリが「は?」の顔で振り返る。ファレスは空に一服し、煙草を投げ捨て、歩き出した。
「ちゃんと格上ってもんが分かっていやがる」
誰が教えたわけでもないのに。
気楽亭ののれんを潜ると、昼の営業の後片付けをしていた女将が、拭いていた卓から顔をあげた。
顔を見るなり「ああ、ちょっとお待ちよ」と前掛けで手を拭き、奥へぱたぱた入っていく。
四つに折り畳んだ紙を手にして、女将はすぐに戻ってきた。さばさば笑い、アルノーの胸を紙片で叩く。「はい。あの色男から」
「俺宛て、ですか?」
アルノーは面食らって紙片に目をやり、「そいつはどうも」と受け取った。「ふーん、どれどれ、なんだって?」と女将が横から覗くかたわら「なんですかね」とそれを開く。
現れた文面を一読し、アルノーは苦笑いした。外光を四角く切り取った戸口の向こうを眺めやる。
「……行っちまったか」
道端の黄色い花をゆらして、昼のそよ風がゆき過ぎた。ゆるりと下げた手の中の手紙──手帳を切り取ったらしい紙片には、手のひら全部でペンを握りしめて書いたような、ギジギジねじ曲がった下手くそな文字で、一言、簡単に綴られていた。
『 世話になったな。ファレス 』
ちなみに、オーサーら一行が、原野を嫌になるほど歩きづめ、疲労困憊で帰着したのは、この日の夜半のことだった。
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