【ディール急襲】 第2部5章 5話1

CROSS ROAD ディール急襲 第2部5章 5話1
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 ジョウロからほとばしる水しぶきが、光をまぶしく弾いていた。
 鉄格子の向こうの緑の庭では、青葉がそよ風に揺れている。庭木に水をまいている女は、額の左で髪を分け、まっすぐな髪先を肩の上で切り揃えた利口そうな顔つきをしている。赤い爪でジョウロを片付け、仲間の集うガーデンテーブルへと足を向けた。空いた椅子の背を引いて、細身の女医は腰かける。
 昼日中の医院の裏手で、白衣の若い医師たちがぼそぼそ囁き交わしていた。いや、彼らは声を抑えてはいない。それを彼らに望むのは、こちらの願望というものか。
 誰はばかることのない、気負いのない声だった。彼らにとってはありきたりの、茶飲み話でしかないからだ。男が三人、女が一人、何れも白衣をまとっている。ぼやけた複数の声の形が、不意に明瞭に耳に届いた。
 
「──思えば、不憫な話だな。だが、そうは言っても、検体が生きていないと、反応が観察できないし」
「構わんさ。どうせ薄汚い遊民風情だ。そんなものがどれほどいても、なんの役にも立ちはしない。本人にしても、あの賤しい身の上では、この先、夢も希望もなかろうし。そもそも、貴重な検体になれる者など、そう滅多にいるものではない。無為徒食の厄介者が医学の進歩に寄与できるというんだから、むしろ名誉な話じゃないか」
「そうよ。ほうっておいても、どうせ長くはないんだもの。それなら精々活用させてもらわなくちゃ」
「──しかし、クレマン女史。あの子はまだ幼いのに」
「生きた検体は貴重ですもの。しかも初期の患者だなんて。それに、これで良くなってごらんなさいよ。あの子だって大儲けじゃないの」
 うっとりと指を組み、女医は夢見るように目を細める。
「ラトキエに取り立てられれば、研究資金も潤沢になるわ。これは私たちが頭角を現すチャンスなのよ。いえ、偉業よ。治療法が見つかれば、多くの患者が救われる。今後の医療に貢献できるというんなら、あの子だって本望のはずよ」
 
 そうかい、だったら、「それ」がお前のガキなら、どうだ。その大そうなお役目とやらに、二つ返事で差し出すか?
 薬効不明の不出来な試薬を毎日のように投与され、もがき苦しむその様を、笑って眺めていられるか? 
 そいつが役に立たなくなるまで、、、、、、、、、、
 あの女を八つ裂きにしてやりたい衝動に駆られる。だが、黒い鉄格子に阻まれて、近寄ることが、どうしても、できない。
 
「それにしても、ツイてたな、"遊民"が手に入るとは。これが市民なら、こうはいかない。役所や家族がうるさいからな。まさに遊民様々だ」
「まあ、せめてもの手向けで、臨床結果は精々ありがたく使わせてもらうさ。医療の輝かしい発展の為に」
 
 
 年端はもゆかない幼い少女が、細い肩をしゃくりあげ、一人きりで泣いている。白いベッドに尻を落として座りこみ、華奢な背中をこちらに向けて。
 この白い部屋には、外から鍵がかかっている。四方の壁に、窓はない。窓どころか、部屋の中には何もない。ベッドが一つ、あるきりだ。
 清潔すぎる狭い病室、どこを見ても真っ白な、動くもののないこの部屋には、時の流れというものが存在することさえ疑わしい。
 幼女の様子を、複数の眼が見つめていた。慈悲の欠けらもない冷めた目で。いや、冷めたというのは語弊がある。その視線はこの上なく熱烈であったはずだから。
 硬い靴音をコツコツ立てて、白衣の集団は少女に近づく。泣きじゃくる幼女の折れそうに細い痩せた肩に、なおざりな笑顔で手を置いて、なだめ、慰め、幼い少女を泣き止ませる。いや、慰めがあれば、まだしもだ。そんな声などかけられない日も、むしろ、舌打ちで睨まれる日も数多く、少女には存在したはずだから。彼女は既に「人」ではなく、貴重な「検体」なのだから。
 四方から、幼女に手が伸びる。
 幼女はおののき、後ずさって首を振る。窓のない白い部屋に、か細い叫び声が響き渡る──。
 
 アドルファスは飛び起きた。
 溺れかけてでもいたように荒く息をついて肩を上下し、額をつかんでこうべを垂れる。全身、汗でびっしょりだ。
 無人のテントは薄暗く、適当に置かれた雑多な物が、薄墨の闇に沈んでいた。テントの壁に穿たれた明かりとりの四角い窓から、月が白々と射している。
 うら寂しい虫の音が、絶え間なく聞こえていた。群れは寝静まっている。
 飛び跳ねる鼓動を押し殺し、アドルファスは歯を食いしばる。悔恨に固く目を閉じて、黒い蓬髪をゆるゆると振った。
 
 
 
 
 

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