■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部5章 5話2
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朝食後、ケネルは慌しく出て行った。ファレスが気楽亭に飛び込んできて、ひそひそ耳打ちしたすぐ後に。
ケネルは驚いたように一瞥し、改めて話を聞いていた。内緒話をしている間、二人とも渋い顔で、そこには困惑したような翳りもあった。
何かが起きたようだった。
とはいえ、例によって仲間はずれで、ケネルもファレスも何も教えてはくれなかったが。
そんなこんなでケネルはセレスタンらと一足先にレーヌを出たので、エレーンはファレスとウォードと共に、ぽつんと丸太小屋が建っているだけの、この丘にやって来た。どうも周囲が慌しいが、ともあれ今は、それどころではない。
そわそわうろつく遠くの影を、エレーンは上目使いで窺った。
……絶対、告白に違いない。
どうしても話があるようで、ウォードは何度も言いかけては、その都度、途中で断念している。彼のことは憎からず思っているので、告白されることそれ自体は嬉しくないわけでもないのだが、いやだがしかし現実に、彼の想いを受け入れるわけには、もちろん、いかない。彼は十歳も年下の、純でいたいけな少年なのだ。その気もないのに気のある振りして騙くらかすような真似をすれば、それはいわゆる一つの犯罪、いや、そもそも自分は既婚者だ。
けれど、彼の想いを拒絶するなら、これまでの良好な関係が一挙に壊滅的に損なわれること請け合いだ。彼のことはたいそう気に入っているだけに、それは、かなーり残念な事態だ。できれば避けたい。いや、是非とも避けたい!
けれど、件の話を切り出される都度、慌てふためいて逃げ回るというのも、なんとも情けない図ではないか。しかしけれどそうかといって、真正面から受けてたつなら、彼への答えは「ごめんなさい」以外にはないのであって……。
彼が持ち出さないでくれるというなら、それが一番平和なのだが、彼の心情を慮れば、それは言うまでもなく手前勝手というもので──そんなことをぐるぐる考え、がんじがらめになっていたら、気もそぞろでうろついていたウォードが、案の定、意を決したように足を止め、気まずそうにやってきた。長身の肩を揺らして、ぶらり、と目の前で立ち止まり、溜息混じりに振りかえる。
「オレ、やっぱり、あんたに言わなくちゃなんないんだけどー」
きた──っ!?
エレーンは瞬時に硬直した。頭を占拠していたあれやこれやが、それだけでいっぺんに吹っ飛んだ。
お日様じりじり降りそそぐ青々広がる真夏の丘に、二人きりで立っていた。ファレスは小屋の管理人と打ち合わせをしているし、こんなだだっ広い丘の上では、気をそらそうにも逃げ場はない。
ええい、ままよ! と半ば捨て鉢に気合いを入れて、鼻息荒く身構える。おうよ! どっからでも、かかっこいや!
ガラスの瞳でじっと見つめて、ウォードはやおら口を開いた。
「エレーン、オレ、あんたのことを──」
「うっ、うん! なあに?」
ウォードが怯んだように口をつぐんだ。
(やばい。先走った──!)
エレーンは内心、諸手をあげて飛びあがる。この繊細な局面で、言葉尻におっ被せるなど、なんと無神経な勇み足。どぎまぎしつつも、ちら、と様子をうかがった。
あの神妙そうな面持ちは、やはり告白に違いない。
そうだ。愛の告白に違いない!
でも、引っかかるところも、ないではない。「言わなくちゃなんないんだけどー」と彼はいつも言うのだが、その「オレはどっちでもいいんだけど一応言っとく」的、義務感満載の投げやりな前置きはなんなのだ?
ウォードはたじろいで視線をはずし、居心地悪げに立っている。ぎくしゃくして狼狽しきり。だが、気を取り直して向き直った。
「エレーン、オレ、あんたのことを──」
「……え?」
なに? 初めからやり直し?
エレーンはぱちくり見返した。「そこは言った」と言いたいとこだが、ここで突っ込んでは、緊張しきりの彼が不憫だ。それにしても、何故に必ず絶対に、ここまでくると止まるのだ?
そう、どうしたわけか、彼は必ず、このくだりで停止する。そうして後は、ただひたすらに手に汗にぎる緊迫状態、じぃっと硬直して、だんまりを決めこむ。台詞の配置と「てにをは」の選択に難があり、すんなり続かぬようなのであるが、それをこちらが指摘をするのも、それはもちろん野暮というもの。そう、不慣れなりにも精一杯、彼も頑張っているのだから。
そして、彼の方でも、別方面からのアプローチを試みようとは、決してしない。彼はいつでも頑なに、同じ言葉で試みる。この融通の利かなさは、実は密かに練習してたりするのかもしれない。
「エレーン、オレ、あんたのことを──」
案の定、同じ切り出し方で再度挑んで、ウォードはじぃっと硬直した。しばしそのまま固まって、前屈みになった肩を戻す。ひょろ長い腕を持ちあげて、所在なげに頭を掻いた。
「……やっぱ、いいー」
はあ、と脱力して嘆息する。あたかも全力疾走して、くたびれた、とでも言いたげに。
気合い十分、既に前のめりのエレーンは、拍子抜けして眉根を寄せた。「……あのねー、ノッポ君。なんか言うことに決めたんでしょ?」
「決めたけどー」
こっくりウォードは素直にうなずく。そこは気楽に肯定するか。エレーンは後ろ手にして軽く屈み、下から顔を覗きこむ。
「なあに?」
ふと、目がかち合った途端、ぱっとウォードが目をそらした。動揺しきりで視線を左右にさまよわせ、もどかしげに顔をゆがめて嘆息する。「──だから、オレはさー」
「うんっ!」
エレーンは心はやって促した。ウォードは苦しげに眉をひそめて、見ている方が息苦しくなるほどに真剣だ。「エレーン、オレ、あんたのことを──」
「うん。なあにっ?」
ああ、なんか苛々する!
緑の丘にそよ風が吹いた。太陽はさんさん振りそそぎ、セミしぐれが暑苦しく充満する。足元で陽を浴びる野草の花に、白い蝶が舞っている。
ウォードはしばらく凝視して、半開きの口を、あむ、と閉じた。ああ、じれったいこと、この上ない。前のめりのエレーンは、やきもきしながら手に汗握る。どした? その先忘れちまったか?
「たく! まあだ、こんな所にいやがって!」
柄悪い声が割りこんだ。
丸太小屋の方からだ。ぬ、この声は──といささか興醒めして振り向けば、案の定あの長髪が、ふんぞり返って歩いてくる。ウォードの横までやってくると、ファレスは舌打ちでウォードを睨んだ。
「さっさと詫びを入れに行け! 勝手にフケてきやがってよ」
そういえば、バパ隊が到着したと、今朝方、連絡が入っていた。ちなみにケネルも、そちらの方にいるはずだ。ウォードはのっそり振りかえり、いかにも普通に首を傾げる。
「バパは別に、怒ってないと思うけどなー」
「──てめえが決めることじゃねえ!」
まなじり吊りあげてファレスはがなり、ウォードの肘を引っつかんだ。問答無用で連行する気だ。かたわらに突っ立つエレーンを一瞥、ギロリとウォードを睨めつけた。「こいつには二度と近づくんじゃねえぞ!」
「バパは別に、ダメとは言わないと思──」
「あんなエロジジイのこたァどうだっていい!」
言葉尻におっ被せ、ファレスは癇癪を起こしてがなりたてる。
「でもオレ、バパの方の組だからさー」
ぐ、とファレスが前傾姿勢で言葉に詰まった。そういやウォードは、短髪の首長に引き取られたと聞いている。つまり、ファレスは管轄外だというわけだ。
(……やるぅ〜、ノッポ君)
二人の応酬を交互に見ていたエレーンは、小さく感心の口笛を吹いた。あのファレスが凄んだ日には、大抵の者がすくみあがるが、ウォードは無理せず飄々としながら、何気にファレスに負けていない。むしろ何気にやり込めている。
ファレスはギンギン、剣呑にウォードにガンくれている。箱入り娘にもれなくついてくる頑固親父であるかのように。もっとも、ウォードに張り合う奴の動機は、頑固親父の真似事ではなく、もっと個人的なところにあるのだが。
どうやら奴は、お気に入りのあの女将をウォードにとられたもんだから、面白くないらしいのだ。いや、絶対根に持っている。エレーンは小さく嘆息した。「もー。なにもちょっと立ち話したくらいで、そんなにガミガミ怒鳴らなくてもさー」
ふとファレスが振り向いて、真面目な顔で、じっと見た。
「こいつと寝たのか?」
「──はああ?」
ゴン──と頭をぶちめす音が、緑の丘に響き渡った。
「なんで、いきなりそーなるのよっ! 話をしていただけでしょーがっ!」
鼻息荒く肩を上下し、エレーンは拳を震わせる。とっさに避けきれずに沈んだファレスが、殴られた頭をさすりつつ、むっとまなじり吊りあげた。
「だから! 話だけじゃ済まねえから言ってんだろうが!」
「何があるって言いたいわけえ?」
ずい、とエレーンは腕を組む。「ノッポ君が変な真似なんか、するわけないでしょー!」
「あァ? 何をトチ狂っていやがんだ。こいつがお前を捕まえるのに、他になんの目当てがあるってんだよ!」
「なんで、あんたは、いやらしい見方しかできないのよ!」
「腹がふくれたら、どうすんだっ!」
「ばっかじゃない! なに考えてんのよこのすけべ! ノッポ君はねー! うぶで清らかで純粋なの! あんたみたいに薄汚れてないのっ!」
いたいけな少年の盾になり、エレーンは奮起して言い返す。「だいたいねー、あんたには何の関係も──!」
「俺は見てんだ! こいつがお前に乗っかってんのを!」
「──はああ!?」
エレーンはまなじり吊りあげ、絶句した。言うに事欠きなんたる暴言。身に覚えなど無論ない。ビシッと人差し指を突きつけた。
「なにそれ最低! なんで、そういう嘘つくの! だったら言ってみなさいよ! いつ、そんなことがあったのよ! そうよ! 一体、いつ、どこで!」
ぐぬう、とファレスは前のめりで返事に詰まった。ぐぬぬ……と力んだまま言い返せない。どうも、夢で「見た」らしい。まったく、言いがかりも甚だしい。
「ほーらね、言えないじゃないよ。適当なこと言ってんじゃないわよ!」
「うるせえっ! てめえは黙ってろっ!」
ついにファレスが怒鳴り飛ばして、強制的に打ち切った。無関係な顔して見ていたウォードを、憎々しげにギロリと睨む。「いいか、てめえ。覚えておけよ。絶対阻止してやるからな!」
「やってみればー?」
ウォードも何気に、火に油を注ぐようなことを言う。
ぐぬぬ、とファレスは歯軋りで力んだ。だが、二対一では分が悪いと悟ったか、「来い!」とウォードをしょっ引いた。二人はさりげなく足を蹴りあい、北側の林に歩いていく。
エレーンはやれやれと見送った。ファレスはどうも昨日から、何かと言ってはウォードに絡む。そうしてネチネチ意地悪する。
そう、レーヌを出る際、ファレスの馬とウォードの馬の、どちらに乗るかで揉めた時にも、ジャンケン十回勝負を仕掛けて、結局ウォードに負けていた。そして、負けた後にも往生際悪く、隣の馬からウォードの足を蹴っていた。もちろんウォードもやり返すから、昼過ぎにここに到着するまで、ずっと小競り合いを続けていたのだ。ファレスがちょっかいかけなけりゃ、ウォードは何もしないのに。まったく了見の狭い男だ。
案外幼稚なファレスの背中を(もー、あんた、年いくつよー……)とつくづく白けて眺めていると、ファレスがふと足を止め、思い出したように振り向いた。
「てめえはそこを動くなよ」
急に矛先を向けられて、エレーンはぱちくり瞬いた。一瞬後、我に返る。
「──えええーっ!」
炎天下なんですけど。
ちょっとあんたなに考えてんのよっ! と全身汗だく、ぶいぶい文句。過酷な試練を命じたファレスは、しかし、当事者の不満に取り合うことなく、小川の先の森を見た。
「ザイ! 俺が戻るまで阿呆を見ていろ! いいな!」
ぎょっとエレーンは飛びすさった。ぶんむくれた態度から一転、のどかな周囲をあたふた見回す。この第一級警戒態勢は、無論「ザイ」の名前に反応したのだ。
だが、目を皿のようにして姿を捜すも、ザイなど影も形もありはしない。とはいえファレスは、無駄な冗談など言わない奴だ。ならば、丸太小屋の裏にでも隠れているのか──?
壁のへりに張りついて、じぃっと見ているザイの姿が動揺しきりの脳裏をよぎり、はっ、と震えあがって振りかえる。
緑の丘にぽつんと建った山小屋風の丸太小屋は、穏やかに静まり返っていた。足を踏んばり、目を凝らすも、人の気配など、まるでない。他に潜伏可能な場所といえば、左手、川向こうの森くらいのものだが、そちらも丸太小屋同様に静かに梢がゆれているばかりだ。
ファレスは一人で怒鳴るだけ怒鳴ると、ウォードを引っ立て、バパ隊が駐留している北の林に踵を返した。隣のウォードとさりげなく蹴り合いを続行しながら、すたすた平気で歩いていく。昨日は足を引いていたが、一晩寝たら治ったようだ。いや、あのふてぶてしさでは、あの額の怪我の方も実は治っているとみた。まだ(これ見よがしに)包帯なんぞを巻いているが、女将にやってもらったもんだから、とりたくないだけなのだ。普段はふんぞり返っているくせに、見ている傍が気恥ずかしくなるほど、ファレスはいじましい真似をする。ともあれ、あんなに大声張りあげた挙句に、返事はどこからもないのだが……。
てか「阿呆」って誰。
何やら色々悶々としながら、取り残されたエレーンは、青草の丘に呆然とたたずむ。
お日様さんさん降りそそぐ緑の丘のなだらかな起伏を、ウォードの白シャツの長身がファレスに引っ張られて去っていく。そして、見送る頭上に、じっとり猛暑が降りそそぐ。
ふと、自分が戻るまで待機せよ、とのファレスの言い草を思い出し、エレーンは口を尖らせた。片手でぱたぱた顔を仰いで、丸太小屋にすたすた向かう。
「ふんとにもおー! あの吊り目ぇ〜!」
あー、暑っつい! と軒下の日陰に飛び込んで、汗をぬぐって人心地つく。キイ──と扉を押し開けた。それにしても肩凝った。無駄にいきんでくたびれた。
木板に囲まれた室内は無人で、がらんとしていて、ひっそりと静かだ。エレーンは左手にあるソファーに向かった。よっ、とそこに身を投げ出す。右手に入り口、向かいに窓、左の奥には事務机、その手前に大きな本棚、四つの客間への入り口がぽっかり口を開けている。そして、ソファーの後ろの壁にも窓がある。窓が向かい合わせで開けてあるので、涼風が室内を吹きぬける。
この小屋の入口脇には、片腕ほども長さのある木の表札がかかっている。そこには「牧畜管理事務所」と大書され、横に黒の三角旗が貼られている。それはこの小屋が、商都の「北の区画」に本拠を置く大手商館の運営であることを示している。商館の名前は「ラディックス商会」。これは、ドゴール商会、エンブリー商会と並んで商都三大商館に名を連ねるカレリア屈指の大商館だ。ちなみに、商都の「北の区画」は、堂々たる押し出しの高級商館が軒を連ねることで知られている。
その出先機関が、こんな人里離れた不便な丘に、何故にぽつんと建っているのかといえば、「牧畜管理事務所」の看板が如実に示している通り、遊牧民が肥育する家畜に関する一切を取り仕切っているからだ。
ここへ向かう道すがら、ファレスから聞いた話によれば、カレリア政府は遊牧民から、放牧した家畜を買い上げているのだという。正確には、彼らの家畜の大半はカレリア政府の所有であり、遊牧民はそれを肥育し、政府から報酬を受け取っている。家畜の繁殖に成功すれば、その分は遊牧民の財産となる。異邦人である彼ら遊民が、国内の草原で放牧しても、取り締まられたりしないのは、そうした事情がある為だ。だが、商品の購買者たるカレリア市民の大半は、商品が店頭に並ぶまでの背景までは知らないのが普通だ。
この手の事情が表に出てこないのは、当該商館が政府と遊牧民との間に入り、両者の仲介をしている為だ。又、政府は表向き、遊民を取り立てることができない為に、放牧によってもたらされた成果物──食肉、毛皮等の加工品の出所は、常に「ラディックス商会」と表記され、その名を冠した商品が市場に出回ることになる。
ちなみに、遊牧民を管理するには、放牧から戻った彼らの住みかが冬の間留まることのできる、広い場所を確保する必要がある。その為、当該管理事務所はどうしても、町から離れた立地となる。つまり、今は広々としているあの丘も、冬ともなれば、遊牧民たちの多数のゲルで埋め尽くされることになる。
ファレスはレーヌを出立すると、商都に向かって北上する街道ルートから左に反れ、この管理事務所に連れてきた。レーヌを出た翌日は、街道沿いのロマリア学園都市で宿をとるのが定石なのだが、ファレスは何故か、宿や飲食店には事欠かないロマリアの町には見向きもせずに、誼があるというだけの理由で、閑散期である不便な小屋に、ためらうことなく連れてきた。二人の首長が率いる隊も、北方向に丘を越えた近くの林で駐留している。つまり、彼らは進路を北西にとっているのだ。トラビアのある方角に。
あの彼の顔が脳裏をよぎり、エレーンは肩を震わせた。だが、反射的に首を振り、息を吐いて気を落ち着ける。
木造りの室内は、ひっそりしていた。遊牧民が出払うこの時期、管理事務所には、誰もいない。到着した折り、ここの管理人に挨拶をしたが、あのほがらかな老人も、どこかへ出かけているようだ。
誰もいない建物で、一人で待つのは手持ち無沙汰だった。連れのファレスも短髪の首長の所に行ってしまった。ひょろりと背の高いあの彼と連れ立って──今のウォードとのやり取りを、はたと唐突に思い出し、エレーンは、くた……とうなだれた。
しばらく、じっとうつむいて、彼の言動を何度も反芻、顔をやおら、むっくりあげる。にへら、と笑って、肩に手を当てコリコリ回した。
「……あー。もー。告白されるのも楽じゃないわあー」
殊更に声に出して言っておく。こういう快挙は滅多にないから。
『やってみればー?』
ウォードが返した挑発が、淡々とした声音と共に脳裏をよぎった。あの言葉は本気だろうか。──わかっている。十分に本気だ。
どことなく釈然としない思いで、エレーンは首をぐるぐる回す。あの彼の告白がいつになったら言い終わるやら、それについては定かではないが、明確にわかっていることが、一つだけある。一度こじれてしまったら、二度と修復できないということだ。いや、修復どころか、彼の想いを拒んだ日には、口さえきいてもらえなくなるだろう。彼は分別のある大人でも、遊び慣れた女たらしでもない。そう、覚悟しなければならない。彼の告白を最後まで聞いてしまったら、ウォードとの関係は、そこで終わる──。
ぶらぶらしていた足を止め、エレーンは唇を尖らせた。ソファーの背もたれに両腕をかけて、うなだれ、深く嘆息する。なにか、どうも、上手くいかない。
時計の音がコチコチ聞こえる。部屋は静まり返っている。今出かけたばかりだから、ファレスもしばらくは戻らないだろう。エレーンは苛々と溜息をつく。一人きりは嫌いだ。一人でじっとしていると、余計なことまで考えてしまう。
時を刻む時計の音がカチコチ小さく聞こえていた。まったく、どうして上手くいかない。ウォードのことは気に入っているのに、彼も離れていってしまう。膝を眺めてうなだれたまま、浅く、重たい息を吐く。
「……父さん……母さん……」
淡くおぼろげな記憶の向こうに、亡き両親の面影がよぎった。そして、いつものように現れるのは──唇が震え、胸に秘め続けたその名がこぼれる。
「……ダド、リー」
鋭くエレーンは息を詰めた。心臓が強く鷲掴まれて、痛みをこらえて奥歯を噛む。
ふと我に返り、ゆるく一つ首を振った。緩んだ気持ちを引き締める。息を大きく吐き出して、わめき出しそうな胸のつかえと、今にもくず折れそうな脆弱な弱気を追い払う。
今は、まだ駄目だ。「それ」を思い出したりすれば、前に進めなくなってしまう。
「──しっかりしないと」
殊更に声に出して言い、弱い自分を叱咤した。大きく息を吐き出して、乱れた呼吸を整える。自分が「行く」と言い続けなければ、「どうしてもトラビアに行く」という堅固な意思を持ち続けなければ、遠い西の地には辿り着けない。
これは強制された旅ではない。ケネル達は本来、トラビアになど用はないのだ。しゃがんで一人で泣いていても、誰も親切に連れて行ってはくれない。自分の足で歩かなければ、目的地には辿り着かない。弱音を吐くのは、トラビアに着いてからでいい。
のろのろ身じろぎ、ソファーの背もたれに片肘をかけ、エレーンは顔をうつ伏せた。
「……ノッポ君、言わないでいて、くれないかな」
本音がこぼれたその傍から、そんなことは無理だろうと思う。
あの年代の男の子は、身の内に熱源を持っている。四方に弾ける制御不能の熱源は、本人の意思さえ追い越してしまう。振り回される当人は、追いつけず、取り残されて、戸惑い、途方に暮れてしまう。これがケネルやファレスなら、あんな真似は決してしない。他人との距離の測り方を知っているし、制御する術を知っている。後先考えずにぶち壊したりはしない。
女将をとられた腹いせで、ファレスがウォードに意地悪するのは、実のところ好都合だった。
トラビアを目指しているのは自分一人だ。親も兄弟も親戚も、共に闘う仲間はいない。移動の手段こそケネル達に頼るにせよ、この件に関しては、彼らは元より無関係な他人だ。ダドリーの行く末に関心はない。
この孤立無援の状況で、好意的に接してくれる相手は、できれば失いたくはなかった。ごまかしと欺瞞で糊塗された紛い物でも構わないから、息のつける場所が必要だった。どうしても。
エレーンはのろのろ膝を抱えて、うつ伏せ、気鬱に嘆息した。
「……もー。誰でもいいから、早く帰ってきなさいよー」
気が滅入る。いくら気持ちを引き立てようとしても、一人きりでは喋り続けていられない。陰鬱に腐った泥沼に、ずぶずぶ沈んでいきそうだ。膝を抱えた左右の腕に力をこめて、うつ伏せの顔をこすりつける。「……あたしも一緒に、連れてってくれればいいのに」
ファレスもケネルも日頃から、野営地には近づけたがらない。でも、一人で膝を抱えていると、不安に打ちのめされそうになってしまう。いや、そういえば、一人ではなかった。ファレスは確か、ザイが近くにいるとか言って──
(きつね、男?)
はた、とそれを思い出し、ビクリ、とソファーから飛び起きた。黒虫の潜伏を肌で察知した時のように、全神経を逆立てて、その気配をビクビク窺う。
小屋は依然として物音一つなく静まり返り、わずかな異状も察知できない。耳が拾う音といえば、建物裏手を流れている小川の静かなせせらぎくらいのもの──ふと、背後にある窓を見た。絶え間ない川の音に紛れて、何か聞こえた気がしたのだ。
背を向け、ソファーに膝であがって、後ろの窓に取りついた。開け放った窓の向こうには、瑞々しい木立が広がり、手前に小川が流れている。それは歌声のようだった。高く柔らかい女の声。
そう、歌が、聞こえる。
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