■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部5章 5話5
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しなだれかかる緑梢が、夏陽を浴びてきらめいた。山野はのどかに静まりかえり、賊を食い止めに残った三人の、剣呑な喧騒も聞こえない。
坂道のぬかるみに足をとられて、ともすれば、手をつきそうになる。その都度、女が腕を引っ立て、面倒そうに引っぱりあげる。
ゆるい坂を登っていた。腕を引かれて歩く都度、積もった落ち葉が踏みつけられて、赤茶色した泥土がのぞく。そして、二人分の足跡が、静かな山道に刻まれていく。
エレーンはぼんやり考える。こんなふうに囚われるとは想像だにしなかった。あのファレスとやり合ったのは、つい今しがたのことなのに。
手荒な真似は、たぶんしない──あらかじめ女はそう言った。無論、大人しくしていればの話だが。そして、彼女の目的を淡々と明かした。然る貴族が待っていると。その依頼主の元に、これから向かう。その後の処遇については聞いていない。万事、先方の匙加減ひとつだと。
エレーンはぎこちなく頷いて、従順な態度で従った。誰とも知れぬ相手の元に、これから拘引されるというのだ。前途は決して明るくない。相手は貴族ということだが、どこで関わった者なのか。いずれにせよ、他人を平気で刺すような物騒な賊を寄越すくらいだ、碌な輩ではないだろうということは想像に難くない。そうした人物が相手なら、引き渡されれば、最悪の事態も考えられる。すぐにも脱出するべきだ。なのに、頭が働かない。
意外にも物盗りなどではなかったらしい女のされるがままになり、エレーンはただ朦朧と交互に足を踏みだしていた。現実感がまるでなかった。いや、恐怖や絶望は依然として燻っている。だが、感覚がひどく麻痺してしまって、上手くそれを捉えられない。
手足が固く硬直し、だが、意識は灰色に塗り潰されて、おぼろに霞んで鈍っていた。雲の上でも歩くかのように、心許なくふわふわして、地面を踏みしめている感覚がない。あたかも抜け殻であるかのように。この危機的状況に、意識の端では気づいているのに、確たる感覚が取り戻せない。
熱に浮かされているような、それでいて体の芯は冷えきっているような、空虚で馴染まぬ浮遊感だけが、やんわり全身を包んでいた。濃霧に覆われ霞んだ脳裏に、人が刺された場面だけが、くり返し立ち現れては、消えていく。男の脇腹から血が流れ、それが指からしたたり落ちて、男の服をどす黒く染める。そして、膝をついて、くず折れる──
頬が出し抜けにぶつかった。エレーンは顔をしかめて振りかえる。女が足を止めたらしい。女は不審そうに柳眉をひそめ、後ろの道を窺っていた。女が見つめる視線の先を、エレーンも漫然と眺めやる。
木立は青く直立し、山野は静まり返っている。野草は旺盛に生い茂り、細かな羽虫が、山道の脇で群れ飛んでいる。変わった様子は取り立ててない。耳にかすかに届くのは、遠くで藪が揺れる音。野兎でもいるのだろうか。虚ろにそれを眺めていると、腕が力任せに引っぱられた。
「きゃあ!」
体を大きく振り回されて、エレーンはとっさに目をみはる。支点の手を放されて、体が急に投げ出され、足がもつれて、たたらを踏んだ。体が強ばり、足が利かず、泥土で滑って踏み止まれない。
勢いのままに、ぎくしゃく足をくり出した。ぬかるんだ坂で、下降はいよいよ勢いづく。体重で加速がついているのだ。エレーンは瞠目して息を呑む。足が、止まらない。
焦る視界に何かが迫った。前方中央に苔むした大木。
──ぶつかる!
硬い樹幹が眼前に迫った。死に物狂いで足を踏んばり、エレーンは首をすくめて目を瞑る。
「おっと」
声が、耳に飛び込んだ。
聞き覚えのある声だ。体はどこも痛くない。
胸部に強い圧迫があった。そのことに不審を覚えて、エレーンは恐る恐る目を開ける。
どこかで見た禿頭が、背後で顔を見おろしていた。ずり落ちそうになる体を、片腕でしっかり支えている。つまり、彼にもたれかかった体勢だ。
一瞬遅れて相手を認め、エレーンは唖然と口を開けた。「……どうして、あたしがここにいるって」
「悲鳴が聞こえましたんで。後はこいつを辿って、なんとかね」
事もなげにそう言って、彼は足元を指でさす。赤茶の泥土が踏み荒らされて、足跡が点々とついている。
「……セレスタン」
エレーンは呆然と名を呼んだ。途端、凍てついた恐怖がぶり返す。一気に虚脱が霧散して、しゃにむに腕に取りすがった。
「ひ、人が今、ナイフで刺されて!」
目から涙があふれ出し、声が震えて裏返る。現状をようやく認識し、どうしようもなく肩が震える。周囲を眺めた目を止めて、セレスタンがいぶかしげに見返した。「刺されたのは、うちのもんすか」
「う、ううん、知らない人! あたし、また襲われて、でも、その人がいきなり刺されちゃって」
「刺した奴は、どっちに逃げていきました?」
「──あ、あっち!」
女が駆け去った左の木立を、エレーンは慌てて指し示し、セレスタンを振り仰ぐ。
「血がすごくいっぱい出て! し、死んじゃったかも!──どうしようセレスタン、死んじゃったかも!」
涙がはらはら勝手にこぼれた。喉が詰まって声が震える。セレスタンがそちらに目をやった。
「──仲間割れか」
淡々と眺める黒眼鏡の横顔に、表情らしきものは浮かんでいない。
「泣かなくていいっすよ。すぐ済みますから、こんなものは」
いつもの調子で気負いなく言い、なだめるように肩を叩く。エレーンはその腕に両手ですがって、心許ない膝を立てた。いや、自力で立とうとした途端、ガクリと膝がくず折れた。
「どうしました?」
禿頭が気づいて覗きこむ。
「……あ、あれ?……なんで……」
エレーンはへなへなへたりこみ、困惑して首を傾げた。立ちあがろうとはするのだが、左右の膝が笑ってしまい、力がまるで入らない。ついに座りこんだ有り様を見やって、セレスタンは困ったように苦笑いした。
「腰が抜けちまいましたか」
脇を抱えてズルズルと、木の根の張った乾いた大木の根元まで、セレスタンは移動した。エレーンはいささか呆然と、自由にならない我が足を眺める。こんなことは初めてだ。萎えてしまって、立ちあがることさえ、ままならない。やむなく、のろのろ顔をあげ、視線を周囲に巡らせた。
女の姿は既にない。こちらの味方が現れたと知るや、即断して逃げたらしい。緊張の糸がふつりと切れて呆然と緩んだ意識の中に、薄く微笑った美しい顔がよみがえる。味方なのだと本気で思った。横目でからかい、悪戯っぽく笑った顔。あの彼女が賊だったとは、今でもどこかで信じられない。現にさらわれそうになったというのに──。エレーンは呆然と呟いた。「……あの人、昨日も、レーヌの街で」
「昨日も出たんすか。しつこいすねえ」
セレスタンは苦笑い、意外そうに首をひねった。「しかし妙だな。その手の輩は見なかったが」
エレーンは憤然と首を振る。「ほんとだもん! 花火の屋台を見ていたら、いつの間にか後ろにいて、"ごきげんよう、奥方様"って!」
「奥方様?──そう言ったんすか」
ふと、セレスタンが見返して、難しい顔で考えこんだ。やおら辺りを見回して、長い指を口にくわえる。
高く鋭い指笛が、木立の間に響きわたった。山野はのどかに静まっている。ややあって、どこからか、別の指笛が聞こえてきた。セレスタンはじっと聞き入り、足を踏みかえ、向きなおる。
「ここで待っていて下さいね」
「──ど、どこに行くのっ? セレスタン!」
エレーンは息を飲んで目をみはった。
「ちょっと退治してきます。二度と悪さをしないように」
つまり、一人で置いていく気か? エレーンは慌てて腰を浮かせる。「ま、待って! あたしも行く! あたしも一緒にセレスタンと──」
「女の人に見せるようなもんじゃないすよ」
「おいてかないで!」
じれったい思いで、エレーンは叫んだ。「一人になんかされたら、あたし──!」
「大丈夫、恐くないっすよ」
立ちあがりかけた肩を制して、セレスタンはやんわり押し戻す。「すぐに迎えがきますから」
なだめるように肩を叩いて、禿頭が背を向け、歩きだした。
エレーンは木の根でへたり込んだ。連れて行けば、足手まといになると、彼は判断したのだろう。確かに、それも、もっともだ。すっかり腰が抜けてしまって、ろくに立てもしないのだから。だが、たった今、目の前で、人が刺されたばかりなのだ。そんなとてつもなく物騒なことが、ここでは現実に起こり得る。
女は仲間を刺した時、わずかにも躊躇しなかった。そうしたことに関しては、女の仲間の賊たちも大して変わりはしないだろう。己の願望を達する為なら、容易く他人を手にかける、ここにいるのは、そういう冷酷な輩なのだ。エレーンは我が身を抱いてうずくまる。
「……行かないで……行かないでセレスタン……お願いセレスタン……」
体ががたがた震え出す。恐くて恐くてたまらない。
賊の足取りを探っていたらしいセレスタンが、探索の足を不意に止めた。くるり、と出し抜けに振りかえり、すたすた早足で戻ってくる。
エレーンは呆気にとられて固まった。「行くな」と言ったのが聞こえたのか? いや、それしきのことで戻ってきたのか? あっさり戻るくらいなら、初めから一緒にいてくれればいいのに──。半ば呆然とセレスタンを仰ぐ。「ど、どしたの? 何か忘れ物でも──」
「まあ、そうっすね」
エレーンはきょろきょろ辺りを見る。身じろぎを感じて振り向いた途端、仰いだ視界が遮られた。硬い革のジャンバーの肩が、ほんのすぐ目の前にある。
セレスタンが背を屈め、体をすくい上げるようにして、背中に両腕をさし回していた。左肩にある後ろ頭を、エレーンはどぎまぎ振り仰ぐ。「──セっ、セレスタンっ?」
「なるべく声をあげないように」
「……え?」
「さっきみたいに大声でわめけば、敵に居場所がたちどころに知れます。迎えの方で探しますから、声を立てずに待っていてください。ここから絶対に動かないように」
「でも、」
「いいすね。俺についてきちゃ駄目っすよ」
丁寧に、だが有無を言わぬ調子で言い渡した。頑是ない幼児をなだめるように平手で後ろ頭をつつみ撫で、話を切りあげるようにして背を叩く。
「でも! セレスタン!」
「怪我なんかされちゃ困るんす」
腕がゆっくり解き放たれた。エレーンはおろおろ頭上を仰ぐ。
しゃがんだ体勢から立ちあがり、セレスタンは束の間見下ろした。薄く微笑って、ほんの軽く息をつき、賊の足取りを追うべく踵を返す。ひらけた草原を突っ切った背中が、みるみる木立にまぎれていく。
力なくへたり込んだまま、エレーンは呆然と見送った。肩に、耳に、平手で包まれた後ろ頭に、彼の温もりが残っている。
恐慌の発作が収まって、ぼんやりと穏やかな、薄い皮膜に包まれていた。どこもかしこも麻痺してしまって、体に力が入らない。すぐにも追いかけたい衝動が、体の片隅でくすぶっていたが、今の毅然とした制止が耳に残って、後を追うことはためらわれる。
震える両手で我が身を抱いて、エレーンは己に言い聞かせた。そうだ。迎えはすぐにくる。ここで待つのが、今は最上の選択なのだ。あの彼の言うように。
罵倒と不穏な喧騒が、放心した耳にかすかに届いた。荒々しい物音だ。盾になった三人は、まだ闘っているのだろうか。罵声を浴びせて、組みあい、蹴りあい、殴りあい──刃の銀の一閃が、不意に鋭くひるがえる。
刺された賊の有り様が、脳裏にありありと蘇った。怖気が足元に忍びより、セレスタンがくれた柔らかな暗示が、次第次第に剥ぎとられていく。
悲鳴をあげて、追いすがりたい衝動に駆られた。だが、寸でのところで踏み止まる。後先考えずに大声でわめけば、敵に居場所が
──たちどころに知れる。
ぞっと震えあがって、エレーンは我が身を抱いてうつむいた。動揺し、混乱をきたしはじめた頭で、必死に考えを巡らせる。そうだ。自ら敵を呼び寄せはいけない。そんなことをすれば自殺行為だ。気配を殺して迎えを待つのだ。彼に言われたばかりではないか。だが、どれだけ待てば、迎えが来るのだ。それは五分後? 十分後? もしも到着する前に、一人で待っているその時に、また賊が襲ってきたら──?
(……あたしも……あんなふうに刺されるんじゃ……)
戦慄が走り、かかえた膝にうつぶせた。奥歯を食いしばって耐える脳裏に、刺された賊の有り様が、いやに生々しく蘇る。ありえない話ではない。むしろ渦中にいる以上、何度でも一味に狙われる。
歯の音が合わずにかたかた鳴った。動かぬようにと言われたけれど、こんな開けっぴろげな木の下で、隠れもせずにじっとしていたら、見つけてくれと言っているようなものではないか。そうだ、すぐにも見つかるだろう。そうして刃を向けられる。さっき刺されたあの賊のように。
ガサ、とどこかで音がした。
エレーンはすくみあがって振りかえる。もしや、女賊が戻ってきたのか? それとも、あれとは又別の? 山野は依然として静まり返り、誰の姿も見い出せない。セレスタンが賊を追ってから、まだ、どれほども経っていない。迎えにしては早すぎる。
(に、逃げないと──早く、ここから逃げないと!)
がたがた震えて幹を伝い、やっとのことで立ちあがった。感覚のない足をなだめて、座り込んでいた大木を離れる。転びそうになりながら、萎えた足で懸命に歩いた。だが、足取りが上滑りして覚束ない。一歩一歩踏みしめても、宙を踏んでいるかのようで、膝に力が入らない。
浅い呼吸であえぎつつ、木々を伝って、エレーンは歩いた。藪を掻く小さな音は、ますますこちらに近づいてくる。敵の足取りは案外速い。ここにいる、ということが、あたかも分かっているように。
(……また、捕まる!)
それを意識した途端、鼓動が一気に飛び跳ねた。空気が薄まりでもしたように、呼吸はいよいよ速くなり、もう何も考えられない。
肩越しに一瞥した歪んだ視界で、緑の山野が大きく揺れた。視点が動揺で定まらず、輪郭がまともに捉えられない。距離はみるみる縮まっていく。いつ、それが飛びかかってくるのか、どこから敵が飛び出してくるのか、まるで予測がつかなかった。急げば、まだ追いつけるだろうか。叫んで助けを求めたら、彼は気づいてくれるだろうか。
「セレ──!」
ガクリ、と左足が宙を踏んだ。慌てて足元を振りかえる。エレーンは息を呑んで目をみはった。
石砂利の河原が遥か眼下に広がっていた。下方の川面のきらめきが、視界の先でちらついている。河原まではかなりの距離だ。三階建ての屋根にいるくらいの高さだろうか。
ぬかるんだ斜面で腰を引き、爪先に必死で力を込めて、前のめりで踏みとどまる。だが、足場の悪い泥の斜面だ。赤茶の泥土に足がとられて、体の重みでずるずる滑る。せめて両手をばたつかせるが、指先が触れる範疇に、すがれるような木立はない。
ぬかるむ泥土と急傾斜、下には石砂利の硬い河原。こんな所を転げ落ちたら、大怪我するのは間違いなかった。いや、重たい頭から激突すれば、骨折だけでは恐らく済むまい。
萎えた膝にありったけの力をこめる。だが、泥土の斜面で、ずるる、と滑る。
(──もうだめっ!)
エレーンは固く目を閉じた。無責任にも置いていった薄情な禿頭が脳裏をよぎる。「死んじゃう! 死んじゃう! あたし死んじゃうぅーっ!」
「そのわりに、よく喋りますね」
ばさり、と衣擦れの音がして、風圧が頬に押し寄せた。
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