CROSS ROAD ディール急襲 第2部5章 5話7
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 遥か下方に、白っぽい河原が広がっていた。
 硬直した手足の先が、宙に浮いて揺れている。いや、宙吊りになった全身が、心許なく揺れている。
 目をいっぱいに見開いた視界が、ゆらゆら不安定にゆれ動いた。踏み込まれ、蹴り出された斜面の小石が、崖の高さをものがたり、斜面をバラバラ転がり落ちる。
 涙のにじんだぼやけた視界にゆらゆら揺れて映るのは、ぬかるみ赤茶けた泥土の斜面と、傾斜で踏んばる編み上げの靴。崖から大きく踏みだして、胴を引っかかえているらしい。
「何やってんです。落ちますよ」
 頭上で、男の声がした。抑制のきいた低い声──聞き覚えがある。これは味方だ。
 浅い呼吸がかすかに震えたその途端、ぐっと引っぱりあげられた。
 息をつめ、顔をしかめて、エレーンは前屈みの男に振りかえる。黒っぽいズボンの腿あたり、深緑色した綿シャツの、真っ平らな腹のあたりが、顔の真横で視野に入った。板のように硬い胴に、引きあげられた弾みで、頬がぶつかる。
「……あ、ありがと。お陰で命拾いしたわ」
 エレーンはガクガクしがみつき、震える声で礼を言った。今聞いた声は誰だったろう。崖から落ちかけた人ひとりの体重を、難なく片腕で止めるとは、大した腕力の持ち主だ。何より、動きが恐ろしく速い。だって、いつの間にか、真後ろにいた。
 一体、これは誰だろう、と四つん這いの首をひねって、どうにかして視線をあげる。青い夏空を背景に、薄茶の直毛が、さらり、とそよいだ。肉付きの薄い引き締まった顎、目元を覆う長い前髪、そこから覗く切れ長の眼──ザッと顔から血の気が引いた。
 目をいっぱいに見開いて、エレーンはあわあわ絶句する。「きっ──きっ──きっ──!」
「遅くなりまして」
 左手で木蔦をたぐり寄せ、右腕一本で引っぱりあげて、ひょい、とザイが振り向いた。
 慌てて胴を突き放し、エレーンはジタバタしゃかりきにあがく。宙ぶらりんの四つんばいでは、それも詮ない努力だが。
 ザイは立ち戻った崖から離れ、無頓着に歩いていく。小脇に抱えた被救護者を青草の上にどさりと下ろして、やおら足を踏みかえた。怒号飛びかう木立の先を眺めやる。
「状況、わりとやばいっスねえ」
 へなへなへたりこんで後ずさり、エレーンは頬を引きつらせた。「なっ、なっ、なんで、あんたがここにいんのよ!」
「護衛スから」
 ぐ、とエレーンは言葉につまった。
 まあ、確かにそう聞いた。ケネルからもファレスからも本人からも。だが、それならそれで問題があろう!
「だったらなんで、すぐに助けてくんないのよっ!」
「ちょっと"自然"に呼ばれてましてね」
「──呼ばれないでよっ!」
 こんな時に。
 ちなみに、用足しに行っていた、ということだ。
「無茶言わないでくださいよ」
 しれっとザイは言い返し、呆れた顔で腕を組んだ。「あんたこそ、なんで表にいるんです? 小屋で、、、休んでたはずじゃ、、、、、、、、なかったんスか」
 な──と一瞬絶句して、エレーンはわなわな瞠目する。
「なんで知ってんのよっ!」
「護衛だって言ってんでしょ」
 ぐぬぅ──とエレーンは拳固を握った。確かにもっとも至極な言い分だが、言い返せないのが何気に悔しい。
 ふと、悪辣極まる相手の素行を思いだし、手近な草葉にビクビク隠れた。エレーンはしげしげ盗み見る。ザイは別人のようにさばさばしている。粗暴な素振りは一切合財鳴りを潜め、綺麗さっぱり抹消されている。これまでじわじわ蓄積してきた数々の剣呑な攻防などは、あたかも存在せぬように。
(ど、どうなってんの?)
 まったくもって困惑しきりだ。近寄るなオーラをギンギン発して、あんなに凄んでいたくせに──。ひょい、とザイが振り向いた。「さ、戻りましょ」
 ぅわっ、とわたわた踊りあがり、エレーンは呆気にとられてザイを見る。
「……も、もどる、って」
 気楽にあっさりそう言うが──。たじろぎつつも指さした。「でも、あっちで、まだ三人が──」
 孤軍奮闘しているが?
「なんとかするでしょ、自分らで」
 ザイは事もなげに言い捨てた。「お客さんの避難が優先スよ」
「──で、でも〜」
 エレーンはおろおろ、震源地に目を向ける。「てめえ!」だとか「この野郎!」だとか、依然として聞こえてくるが……。
 ザイはぬかるみの道を下って、さっさとふもとに引き揚げていく。エレーンはあたふた南の山林に目を向けた。「でも、セレスタンもどっか行っちゃってるし──」
「わかってます。聞きました、、、、、から」
 ぽかん、とエレーンは口を開けた。だが、セレスタンが賊を追ったのは、ザイが助けにくる前だ。二人は一度も会ってはいない。それで、いつ彼らから「聞いた」というのか。
 不審のまなざしで見ていると、ザイが面倒そうに念押しした。「そっちは、ほうっておいていい」
「そっ……そっ、そうなんだ……」
 問答無用で切りあげられて、エレーンはやむなく引きつり笑った。何やらどうも釈然としないが、相手に取りつく島がない。更には、こんな山中に取り残されては、か弱き乙女としてはたいそう困る。
 野草を膝でぶらぶら掻きわけ、ザイは気負いなく下っていく。又いつ豹変せぬかと内心ビクビク警戒しながら、エレーンもそろりそろりとついていく。すぐにも彼方へ逃げられるよう、全力をあげて身構えながら。無論、急に前に立ち止まられて背中に突っ込んだりしないよう、前との間隔はきっちり保つ。そんな事態になりでもしたら、後悔してもしきれない。
 様子をうかがい、付かず離れず、間者の如くに小走りで歩く。右手前方の喧騒をそわそわしながら眺めやり、やきもき背中に声をかけた。「──ね、ねえ! 助けに行った方が、やっぱ良くない?」
「こっちの避難が優先ス」
 ザイはきっぱり取り合わない。
「で、でも! なんか大勢に囲まれてたし!」
「今、優先すべきは向こうの連中にもわかっていますよ。それくらいはわきまえてるでしょ、あんな碌でもねえ狂犬でも」
「でも! あの人たちに何かあったら!」
「それで散るなら本望でしょ」
「──ちっ!?」
 唖然とエレーンは絶句した。なんか、あっさり言ってのけたが、あまりに物騒すぎないか? てか、仲間じゃないのか薄情者!
 エレーンはおろおろ喧騒を見る。三バカが気の毒になってきた。必死で防戦しているのに、味方に知らんぷりされるとは。もしや、仲悪いのか?
 ザイはぶらぶら歩きつつ、いかにもたるそうにあくびをしている。本気で小屋に引き揚げるつもりなのだ。あの牧畜事務所の丸太小屋、、、、に──ふと、緊急課題に気がついて、エレーンはわたわた顔をあげた。
「で、でも、小屋に戻るのはまずくない? あ、だってね、外から火とか点けられたら、あっという間にまっ黒焦げに──!」
「俺が外で見張っといてあげます」
 ザイは事もなげに、さらっと返す。
「……あ……そ、そうなんだ……」
 勢いこんだ前のめりで、エレーンは毒気を抜かれて固まった。確かに合理的な回答だ。反論する余地もない。とはいえ、物言いがどうも恩着せがましい。てか、元々護衛が仕事でしょー。
 ぶんむくれて前を見る。しかし、ともあれ、あんなに恐かった暴力ギツネが飄然と前を歩いているとは──。どうにもそわそわ落ち着かない気分で、ザイの横顔を盗み見た。長い前髪で顔が隠れて、機嫌の良し悪しは判然としない。しかし、解せない。どういう心境の変化なのだ、この妙に穏やかな豹変ぶりは。話しかけてくることはおろか、いつも、ぎすぎすトゲトゲしていて、あげくに顔を引っ叩かれた。間違っても普通に付き合える奴じゃない。そうだ、こんな奴じゃなかったはずだ──はた、と心当たりに気がついた。
(無理して、あたしに合わせてる?)
 そういや昨夜も、レーヌの浜辺で、豪勢な快気祝いを大盤振る舞いしてくれた。たぶん、これまで苛めた罪滅ぼしに。
(……そんなに、あのこと気にしてたんだ)
 呆気にとられて、まじまじと見た。過日の崖からの転落事故を、ザイが気に病んでいた──そうセレスタンが言っていた。そんな殊勝な律儀者とはよもや思いもしなかったが。いや、だが、しかし、こうして改心したというのなら、こちらも態度を改めねばなるまい。それが分別のある大人の対応というものではないか。
 まだ腰が引けてはいたが、なけなしの勇気を総動員し、エレーンはごくりと唾を飲む。揺るぎなさを漂わせる背に、口を開きかけてはその都度ためらい、おっかなびっくり声をかけた。「──あの、責任感じなくていいからね」
「見かけほど、軽薄ってわけでもないんスね」
 ぐ──と詰まって拳を握った。なんか憎ったらしいんだがこのキツネ。
 だが、ここで怒っては元の木阿弥。そう、口下手のくせしてたまに喋ったもんだから、スベり続けただけかも知れない。ぐっとこらえて笑顔を作る。「──じっ、実は意外と良い人なんだ?」
「おや、今頃気づいたんスか」
 ザイはぶらぶら野草の坂道を下っていく。非友好的な衝動が、沸々たぎって噴火寸前までわき立つが、首を振って払いのける。にま……と無理やり頬をゆがめた。
「あ、花火頼んでくれて、ありがとねっ! でも、なんでわかったのー? 打ち上げ花火が見たいって」
 友好的に友好的に友好的に!
「なんだって知ってますよ、あんたのことなら」
「──はああっ!?」
 恐いこと言うな。
 エレーンは逆毛を立てて爪先立つ。ザイは構わずつらつら続けた。「ずっと、あんたを見てました。出立してから、ほぼ毎日」
「ううう嘘よっ!」
 ほぼ反射的に叫び返す。
「う、嘘よっ! うそうそっ! あたしは全然見なかったもん!」
 エレーンはぶんぶん、もげそうになるほど首を振る。
「そりゃま、隠れていましたし?」
「なんで隠れんのよっ!」
 もてる全力で怒鳴り返す。もう、恐いもヘチマもあったものではない。
 ザイはたるそうに首を回した。「うちの頭(かしら)の言いつけなんで」
「……バパさん、の?」
 はた、とエレーンは思い出した。そういや以前、短髪の首長に苦情をねじ込んだことがある。首長も気楽に請け負った。だが──エレーンは額をつかんで、うなだれる。
(もー。違うんだってば。バパさあん……)
 あれは、見えないようにしてくれ、と言ったんじゃない。遠ざけてくれ、と言ったのだ。
 前途に暗雲が立ち込めて、暗澹たる気分になる。ならば、寝ていたケネルをおちょくったところも、ファレスと張り合って喧嘩したところも、ノッポの彼に告られたところも、じぃっと、どこからか見ていたというのか。
 ……想像するだに恐ろしい。
 一気に滅入ってメランコリー。
「もう、だいぶ慣れました?」
「──あ゛?」
 風雲急を告げる流れの弾みで、エレーンは殺伐と顎を出す。「なんの話よー」
 そうだ。だしぬけになんの話だ。この物騒な旅行の話か? 無愛想なケネルの話か? はたまた馬での移動の話か? ザイはぶらぶら、振り向きもせずに歩いていく。「まったく、あんたは他愛もない。ま、手間がなくていいが」
「──はああ!?」
 エレーンはまなじり吊りあげた。目下の者を哀れむような小馬鹿にした言い草だ。もしや、喧嘩を売っている?
 目を三角にしてカリカリする。だが、ふざけ果てたこのキツネには、打ち上げ花火を贈ってもらった、けっこう高額な恩義がある。ふうぅー……と息を吐いて気を鎮め、荒ぶる心中をなんとか往なす。
「ねー。なんか感じ、違わなくない?」
 いささか強引に話題を変えた。そう、ザイの唐突な豹変振りが、どうにも解せなかったのだ。ソフトになったというか丸くなったというか軽くなったというか何というか──。ザイが背中で返事をした。「これも飯の種なんで」
 つまり「仕事であれば、いつでも友好的に振る舞える」そう言いたいわけなのか? ぬけぬけとした言い草に、エレーンは口をとがらせる。
「なら、やたら冷たいこれ迄の態度の数々は何」
「これまでのはウォーミングアップということで」
 くぅー、とエレーンは顎を出した。他人との接触が不得手なのかと思ったが、口下手だなんて、とんでもない。言ったそばから、ぽんぽん答えを投げ返してくる。むしろ、飄々とかわされ、玉砕ざんまい。ファレスも案外口数が多いが、うるさいだけのアレより上だ。不貞腐って「ねえー!」と仰いだ。
「やっぱ小屋に戻る気なわけ?」
「他に、どこに行こうってんです」
「だあって、あたしだけしかいないんじゃ──あ、ケネル、すぐに帰ってくるー?」
「隊長は、当分戻りませんね」
「えー! なんでよー!」
「野営地の方がごたついてましてね。忙しいんスよ、あの人は」
「あ、なら、あたしがケネルのとこに行くー!」
「駄目です」
 言下にきっぱり、はねのけた。
 くぅぅー! とエレーンは歯噛みする。踏んづけたいんだがこのキツネ! 憮然と顎を振りあげた。
「もしかして嫌がらせしてるでしょ」
「するわけないでしょ、そんなこと」
「なんで行っちゃいけないのおー!」
「なんでそんなに行きたいんです?」
 くぅぅぅーっ! とエレーンは拳を握った。ああ言えば、こう言う。おちょくっているとしか思えない。なんか飄々としているくせに、どうしても奴を論破できない。どうでもよさげに見えるのに、ザイは一歩も譲らない。ザイはぶらぶら歩きつつ、面白くもなさそうに背中で言った。「なんとかして言い負かしてやろうと思ってんでしょ」
 カチンときた──!
 堪忍袋の緒が切れて、癇癪を起こしてジタバタわめいた。
「もおー! だったらこんな、なんにもない所とかじゃなくて、ロマリアで宿とればいいのにさあ! そしたら一人でも、色んなお店とか見れたのにぃ!」
「あそこは駄目っスね」
 又してもザイは、いかにも素っ気なく却下する。エレーンはまなじり吊りあげた。「──どうしてよっ!」
「色々事情、、があるようで。それに、バタバタしてますし」
「バタバタあっ? バタバタって何よ。あそこでなんかあったわけ?」
「なんでも、寄宿舎の生徒が殺されたとか。お陰で、こっちも散々だ」
「はあ? なんで、こっちまで散々なのよ?」
「──ちょっと、経緯がありましてね」
 緑梢ゆれる坂道を、ザイはぶらぶら降りていく。希望を片っ端から却下され、エレーンは膨れっ面でぶんむくれた。足をぶん投げ、無駄に下草を蹴り飛ばす。よそ見をして歩いていると、ザイの背中から声がした。
「もう、すっかりタメ口っすね」
 たるそうに首を回している。「まあ、いいでしょ」
 エレーンは不貞腐って見返した。
「いいって何が?」
「こっちの話です」
 ……くぅぅぅぅーっ!
 エレーンはいらいら地団駄を踏んだ。これだ。ここの男どもは、いっつも、こうだ。すぐに人をのけ者にする!
 地面の草を、腹いせにどすどす踏んづける。ふと、とあるネタが閃いて、背中にぱたぱた駆け寄った。
「ねーねー、ひとつ訊いていいー? もしかして、ソッチの、、、、人だとかー?」
 唇に真っ赤な口紅を引いたザイの顔を想像し、せめて、くふふ、と笑ってやる。そう、さっきの女賊から聞いたネタ。
「……そういうキャラがお好みで?」
 一瞬つまって、ザイは返した。何やら考えているような様子だが、図星を指されて戸惑っているな? そうとなれば逃すかキツネ! ここぞとばかりに畳みかけた。
「だあって有名なんでしょー? ほらあ、ソッチの、、、、世界では!」
「初耳っスね」
 ザイは背中で首をかしげた。そんな芝居をしているが、さては、動揺を押し隠そうとしているな?
(……勝った!)
 悪辣ギツネをやり込めて、エレーンは、ふふん、とふんぞり返った。ムシャクシャくさった気分が晴れて、なんて清々した気分。にんまっと上機嫌で笑いかける。「あっ、要望とか、あったら言ってねー!」
「……要望?」
 ザイは胡散臭げに復唱し、歩く肩越しに一瞥する。
「だあって護衛するんでしょー? 要人て、あたし、初めてだしぃ?」
「なら、無駄に絡まないでくれますか。鬱陶しいんで」
 う゛──と前のめりで言葉に詰まった。巻き返す隙を与えることなく、ザイは「それと」とすかさず続ける。「それと、おかしな名で呼ぶのは、よしてもらえませんかね。そういうのは苦手な質なんで」
 ぎくり、とエレーンは躍りあがる。"キツネ男"がばれてたらしい。
「わ、わかった! ごめんね、キツネ男とか言っちゃってっ!」
 余裕の態度から急転直下、これまでの無礼をわたわた詫びる。
 エレーンは冷や汗で黙りこくった。大分さばけたと思ったが、案外まだまだねちっこく、怒っているのではあるまいか。なにせ奴に対しては、顔を蹴っ飛ばした前科がある。
 そうだ、そうに違いない。こんなに気を使って歩み寄ってやっているのに、キツネときたらば、にこりともしないし。しかし、妥協の努力なら、こっちだって、ちゃんとした──どうにも割り切れない心持ちで一人ぶちぶちごちながら、先導しているザイを見る。「でもさ、それなら一体、なんて呼んだら──」
 木立おい茂る視界の隅を、白い何かがちらついた。はっ、と気づいて、エレーンはザイを振りかえる。「待って! 戻るんだったら、あの人も一緒に!」
「──あの人?」
 ザイが肩を揺らして立ち止まり、面倒くさそうに目をやった。右手の山野を、エレーンは探す。
 木立の間で、生成りの服がチラついた。件の風変わりな歌姫だ。この大騒動さえ意に介さず、森をふらついていたらしい。
「こっち! こっち! 戻ってきてえっ!」
 歌姫に向けて、大きく手を振る。
 林立する木立の先、緑の濃淡に包まれて、歌姫が気づいて足を止めた。視線をこちらに向けたまま、両手で藪を掻きわけて、夢遊病者のようにふらふらと、覚束ない足取りで歩いてくる。かたわらに立ったザイに気づいて、覗くようにして顔を仰いだ。いかにも不思議そうな面持ちで。
 ザイは相手を認めた途端、虚をつかれたように言葉を飲んだ。
「──あんた、向こうの頭(かしら)の」
 唖然とエレーンはザイを見た。彼女は知り合いだったらしい。もっとも、三バカだってそうなのだから、同じ群れに属するザイに面識があってもおかしくない。彼女は外国人のようではあるが、実は付近の遊牧民で、かつて面識があったのかもしれない。そういえば──と気がついて、歌姫の右手を盗み見た。「あれ」は一体どうしたろう。あの血のついた短刀は。
 彼女の長いスカートの横に、ほっそりとした指があった。無頓着に伸ばした手には、今は何も握られていない。あの物騒な代物を、どこへやってしまったのだろう。
 ザイはしばらく彼女を眺め、怪訝そうな目をわずかにすがめた。踵を返し、再びぶらぶら歩きだす。
 中断していた小屋への帰途が、それを機として再開された。
 昼の山中は静かだった。聞こえてくる音といえば、遠くかすかな喧騒と、さくさく草を踏む音だけだ。
 踏みしだかれた野草の道は、茶色くぬかるみ、水たまりが方々にできていた。木立はまばらに生い茂り、木漏れ日がそこここに差しこんでいる。木立のない開けた場所では、人の背を隠さんばかりの背丈の高い野の草が、旺盛にたくましく伸びている。萌えいずる濃淡の緑に、白い蝶が舞っている。
 ふと、ザイが足を止めた。何かの気配をうかがうように、周囲をいぶかしげに見渡している。うめき声が右手であがった。エレーンは飛びあがって振りかえる。
 右に外れた茂みの中に、黒いぼさぼさの頭髪が見えた。小太りの男が血に濡れた片手を伸ばし、地面にうつぶせになって転がっている。
「……生きて、たの?」
 エレーンは鋭く息をつめた。先ほど刺された賊だった。血がどくどく流れていたし、突っ伏して動かなくなったから、てっきり駄目かと思っていたのに。
 そういえば、周囲の景色に見覚えがあった。女賊に連れられ、ずいぶん坂道を登ったが、いつの間に、ここまで戻っていたのか──。
 賊の倒れた草むらを、ザイは目をすがめて眺めている。そのいぶかしげな面持ちに、エレーンは慌てて説明した。「あ、あの!──それは、あの女の人が!」
 素早くザイが一瞥した。ビクリ、とエレーンは震えあがって硬直する。長い前髪の向こうから鋭いまなこで射すくめられて、凍りついたまま動けない。
 相手を萎縮させたことに気づいたらしく、ザイが我に返って、ばつ悪そうに促した。「──その、女ってのは?」
「あ、あの、──だから──」
 エレーンはしどもど説明した。「ほら、昨日捕まえてたでしょ、なんか綺麗な女の人を。あの、黒革の服を着た、あの人がいきなり刺しちゃって」
「女狐の仕業か。──余計な手間を増やしやがって」
 ザイが舌打ちで足を向けた。男が倒れた少し手前で立ち止まり、立ったままで見下ろしている。
「──しばらくは、もちそうだな」
 様子を眺めて、ぼそりと呟き、賊のかたわらにしゃがみ込んだ。ぐったりとした男の体を、草むらから引き起こす。賊の血の気の失せた口元が、喘ぐようにわなないた。息も絶え絶えの状態ながらも、まだ辛うじて生きている。
「おい、しっかりしろ。こんな所でくたばるんじゃねえぞ」
 腕の男を抱え直して、ザイは低く呼びかける。エレーンは怯えながらも面食らった。いやに親身なザイの姿に言いようのない違和感を覚える。確かに人道には適っているが、あの小太りの中年男は、まさに敵対している「敵」なのだ。現に、男が属する一味とは、今も三人が闘っている。それを助けてやるなんて──。何かがいびつに歪んでいた。だが、何であるのかは分からない。
 ザイは賊を励まして、肩に担いで立ちあがった。賊は痛みにうめきつつ、その手にすがって立ちあがる。腹を染めた赤い血が汚れたズボンに滴り落ちる。エレーンは驚いてザイを見た。「──ど、どこに行く気!」
「決まってんでしょ、あんたが出てきた小屋っスよ。ここで手当ては到底無理だ。処置が遅れれば、まずいことになる」
 ザイは構わず横顔で応え、賊の脇を肩に担いで、小屋への道を戻り始めた。
 エレーンも慌てて付き従う。歌姫は三バカが気になるようで、ともすれば、ふらふら戻ろうとするので、はぐれたりしないよう、その手をしっかり握りしめた。歌姫は周囲を見回しながら、やはり、ふらふら歩いている。
 風の加減で、微かな喧騒が遠のいて、木立がさわさわ涼やかに鳴った。ザイは黙々と歩いている。その横顔を盗み見て、エレーンは小さく身震いした。
 今しがたの山々しさが、歩く足をすくませた。ひと度それを思い起こせば、じわじわ怖気がこみあげる。不意に立ち現れる押し隠した獰猛さ、ザイの気性の荒さを垣間見た気がする。気を抜いて喋っていれば、別段なんということもないのだけれど、ふとした拍子に、ひしひしそれを肌で感じる。やはり、恐い相手なのだと。
 黙りこくって歩きつつ、エレーンは唇を噛みしめる。一たび口をつぐんでしまえば、沈黙が重く圧しかかった。担がれた賊の、苦しげなうめき声が聞こえてくる。草を踏む音。風が吹く音。遠くの喧騒が不意に聞こえる。
「バリーが戻っているようで」
 ひっそりとした静寂を破って、声が耳に飛びこんだ。慌てて前に目をやると、賊を肩に担いだザイは、やはり背中を向けたままだ。落ち着いた口調で、先を続ける。
「改めて言いますが、周囲が物騒になってきたんで、俺があんたを護衛します。必ず近くにいますから、何かあれば、呼んで下さい」
 思わぬ労わりをそこに見出し、不意に頭に血がのぼる。エレーンは赤面してうつむいた。「う、うん。ありがと、キ──」
 ツネ男、と続けそうになって、開けかけた口をあたふたつぐむ。ようやくのことで修復しかけた良好で柔な関係を、危うくぶち壊すところだった。げに慣れとは恐ろしきもの。どぎまぎしつつも、上目使いでうかがった。「……あの、そしたら、なんて呼んだらいい? あ、だって──」
 結構気に入っていたのだが、"キツネ男"は不可なのだ。だからといって、皆と同じに名前で呼ぶのも、どうにも親しげで気後れする。むしろ、そんな真似をした日には、たちまち、ぶっ飛ばされそうだ。
「なら」
 だしぬけに、ザイが振り向いた。
「パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ファン・ネポムセノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・クリスピン・クリスピアノ・デ・ラ・サンテシマ・トリニダード・ルイス・イ・ピカソ、ってことで」
 エレーンは頬を引きつらせて、たじろぎ笑った。やっぱり、嫌がらせしてるとしか思えない。てか、言えるかそんな長いやつ。
 薄茶の長い前髪の下、ザイの頬が、ふっと笑った。
「ザイ、でいいスよ。そのまんま」
 
 女に刺された件の賊は、最寄りの診療所へと急送された。この小太りの中年男は、医者に訊かれて、ゲールハルト=アルトナーと名乗り、その後も数日、生き長らえる。
 そして、ロマリアの診療所で息絶える直前に「黒薔薇ローズにやられた」と憎々しげに証言した。
 
 
 
 
 

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