CROSS ROAD ディール急襲 第2部 5章 interval04 〜お嬢様の憂鬱 1 〜
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 ねえ。もしも、翼があったなら、あなたはどこへ飛んでいきたい? 
 もしも、空を飛べるなら、わたしはまっすぐ──
 
 向かいからの海風に、スカートの裾がひるがえる。
 桟橋さんばしの端に一人たたずみ、女は形の良い眉をひそめ、大海の果てを睨んでいた。二十歳そこそこの若い女だ。つばの広い帽子の下には、手入れの行き届いた栗色の長髪、磨きぬかれた象牙色の肌、そして、太い革ベルトで胴をしめた仕立ての良いワンピース。顔立ちは童顔気味だが、きらきら輝く大きな瞳の、中々の美女である。
 潮風になぶられ、長い髪が舞いあがる。女はしなやかな手を握り、きゅっ、と唇を引き結んだ。
「ばっきゃあろおーっ!」
 波打ち寄せる大海に向かい、足を踏んばり、ありったけの大声で叫ぶ。
「──あんたなんか──あんたなんか──大っ嫌いよおぉぉっ!」
 むに、と女は口の先をとがらせた。
「なに、迎えにきたの?」
 両手を腰に押し当てて、くい、と顎をもちあげる。ちなみに、浜にも海にも誰もいない。ほっそりした腕を組み、女はツンと横を向く。
「遅いのよ今更。どれだけ待ったと思っているの。いえ、わたくしは待ってなんか、いなかったけれど」
 桟橋を支える柱を洗って、波がちゃぷちゃぷ打ち寄せた。隣の空間を一瞥し、女は物憂げにふっと嘆息、肩に流れる栗色の髪を、指の先で払いのける。
「言い訳なんて聞きたくないわ。でも、そうねえ。土下座で謝るというのなら、今回だけは戻ってさしあげてもよろしくってよ」
 びしっとポーズを決めたまま、女は流し目で停止した。
「……もー。返事の練習し飽きちゃったわよ。なのに」
 むに、と口を尖らせて、ぎゅうぅっ、と拳を握りしめる。「もー許さなくってよっ! あんたなんか──あんたなんかっ!」
 きぃっ、と海を睨めつけた。
「大っ嫌いよおぉぉぉっ!」
 ざっぱーん、と大波が打ち寄せた。
 夏の日ざしに、ゆらりゆらりと水面みなもがきらめく。白い海鳥が甲高く鳴いた。女の長い栗色の髪を、潮風がさらさら梳いていく。
 レーヌの海は、青くのどかに澄んでいる。夏は例年、観光客で賑わう当地だが、今年の浜に人けはない。商都でクーデター騒ぎが起きていて避暑どころではないからだ。
 桟橋の端に腰を下ろして、女は足をぶらつかせた。その顔は存分に不貞腐っている。
 手持ち無沙汰そうな女を見つけて、小猫が三匹寄ってきた。桟橋に座り込んだ女の膝に、代わる代わる顔をなすりつける。レーヌは青い海原と、白壁の連なる美しい町だ。と同時に国内有数の漁港でもある。港の水揚げのおこぼれを狙って海鳥や野良猫が群がってくるので、青い海上には鳥が舞い、いたる所に猫がいる。住人との関係は良好なので、彼らは人懐こく、毛艶が良い。女を見上げて、か細い前足で乗りかかり、猫たちはミーミー鳴いている。
「……わたくしを慰めてくれるのね」
 なんてい奴……と、女はうるうる猫たちを見回す。一まとめにしてむんずと抱え、むぎゅうぅ、と力一杯抱きしめた。ちなみに猫らにしてみれば、餌をねだりにきただけであるが。
 女の思わぬ怪力に猫たちが驚いて暴れるがそんなことには委細構わず、女は、むぅっと口の先を尖らせている。ぎゅうぎゅう力を込められてギャーギャージタバタ暴れ始めた猫たちの迷惑かえりみず、変わりばえのしない水面を膨れっ面で睨みつけ、拳を固めてぷるぷる握る。と、それも束の間、今度は視線を泳がせて、何やら指折り数えている。そうして、ふっと半眼になり、不穏この上なく呟いた。
「──もぉ〜、絶対に、許さなくってよっ!」
 すっくと女が立ちあがった。
 窒息しかけていた猫たちが、女の膝から慌てて飛びのく。海に落ちでもしたら一大事だ。もっとも、災難に見舞われたのは、この運のない猫だけではなかった。
「──うわっ!」
 真後ろにいた中年男が、不意をつかれてよろめいた。女の今の行動に他意などかけらもなかったが、急に立ちあがったものだから、とっさに避けきれなかったものらしい。
 ぶつかってこられた中年男が驚きの声をあげたのと、立ちあがった女の背中が男の腹に弾かれたのが、ほぼ同時だった。
「……あっ?」
 二人同時に発声し、刹那、互いをまじまじ見つめる。
 あっという間に、視界の上下が反転した。視界をよぎる青い空、入道雲がむくむく浮かぶ、どこまでも青いレーヌの夏空。なら……体を宙に投げ出しつつも、女はふと考えた。
 ──なら、海は「どこに」ある?
 そう、海は目前だ!
 急な客を受け入れるべく、レーヌの青い大海が、水面をキラキラさざめかせていた。
 きたるべき衝撃を覚悟して、女は固く目を瞑る。
(……ああ、わたくし、ここで死ぬのね)
 静かな魚港の一角に、大きな水柱が、どぱん、とあがった。
 水面を激しく叩く音。なんだか胸が、たいそう苦しい。きゅっ、と女は眉根を寄せた。
(さよなら、はかなくも美しいわたくしの人生。これもみんな、ラルが迎えにこなかったせいよ……)
 
 ぎゅっと硬く瞑ったまなこを、女は恐る恐るこじ開けた。
 水面は日ざしにきらめいて、ゆらりゆらりと揺れている。
 頬に触れる青い服地に気がついて、女は怪訝に顔をあげる。斜めになった体勢が、途端、ぐい、と立て直された。
「大丈夫ですかい」
 頭上で男の声がした。
 真夏の太陽を遮って、誰かが覗きこんでいる。彼の長い前髪が、顔半分を覆ってこぼれ落ちていた。ひょろりと痩せた長身の肩には、釣竿を無造作に担いでいる。つまり、彼女の体重を片手で支えているようだ。色素の抜けた薄茶の髪の輪郭が、夏日を透かして黄金色に輝く。ぽかんと女は口を開けた。
「アルノー?」
 桟橋下で、けたたましい水音がした。
 バシャバシャもがく水音と共に、のたうつように突き出てきたのは、五指を開いた男の手。それは支柱を引っつかみ、ぷはあっ──と顔が飛び出した。
「──な、なにをしやがる! この野郎っ!」
 髪を頭皮に引っ付かせ、男がげほげほ、息を荒げて咳きこんでいる。抗議の相手は女ではなく、アルノーの方であるようだ。男は桟橋の板床をつかんで、濡れ鼠で這いあがった。水を滴らせて、あぐらをかき、ずぶ濡れになった我が身を見やる。
「ひっでえことしやがるぜ。あーあー見ろよ、びしょ濡れだ。この落とし前、どうつけてくれんだよ!」
 鋭いぎょろ目で、ギロリと顔を振りあげた。アルノーは見もせず、つらつら返す。「すいませんねえ、邪魔だったもんで。ほら、この桟橋せまいから」
「だからって! 突き落とすかよ普通!」
 男が逆毛を立てて突っこんだ。ぶらり、とアルノーは振りかえる。「大体、そちらさんの方がいけねえや。置き引きなんぞ働こうとしなさるから」
「……な、なにおぅ」
 物盗りの男が面食らって肩を引いた。ばつ悪そうに目をそらし、腹立たしげに舌打ちする。だが、怯んでいたのも束の間で、ギロリと目を据え、乗り出した。
「おうおうおう! 兄ちゃんよお! どこに目ぇつけていやがんだ。俺は何もしてねえぞ。そんなに言うなら証拠を見せろ、証拠をよ!」
 目元を覆う前髪の下で、鋭くアルノーが目を向けた。ぎくり、と男の顔がこわばる。とっさに怯んだその肩を、ぽん、とアルノーは気負いなく叩いた。
「お上とは、なるたけ関わり合いたくないんですがねえ。──どうです。面倒な話はナシってことで、ここはひとつ手ぇ打ちましょうや」
 男は渋面をつくって舌打ちし、だが、分が悪いと悟ったか、そそくさ背を向け、踵を返した。アルノーはおもむろに視線を戻し、既に傍観者と化していた懐の女に目を向ける。
「お久し振りです、エルノアさん。しばらく、こっちにご滞在とか」
 ぼけっと見ていたエルノアが、ようやく、はたと我に返った。ぬき足さし足で歩み去る盗難未遂の濡れ鼠に、半眼になって目を向ける。
「置き引き、ですってえ?」
 ぎくりと物盗りが飛びあがった。不穏な声音に、ぎくしゃく肩越しに振りかえる。ほっそりした腕を組み、エルノアは目を閉じ、ふっと微笑った。「まったく甘く見られたものね。このわたくしを誰だとお思い?」
 カッとまなこを見開いて、びしっと指を突きつける。
「盗人ごときがわたくしの荷物をくすねようなんてちゃんちゃんらおかしいわスットコドッコイ! 百万年ほど早くってよ!」
 妙な啖呵を高飛車に切られて、物盗りは首を傾げて氷結する。肩の髪を指で払って、エルノアは三白眼で腕を組んだ。
「この落とし前、どーつけてくれるのかしらァ? 天下のドゴール財閥を敵に回すつもりとか?」
 ざっと物盗りの血の気が引いた。あわあわ、すっ飛んで逃げていく。
 カレリア屈指の大富豪ドゴール財閥の令嬢は、足は肩幅、両手は腰に、ふんっ、とふんぞり返っている。
 エルノア=ドゴール、二十一歳。職業、お嬢様むしょく
 
 
   〜 お嬢様の憂鬱 〜
 
 
 このお嬢様、かのクレスト領主ダドリーをして「新手の嫌がらせかと思ったぜ」とカレリアの街中で嫌みを言わしめ、辣腕徴税官ラルッカをして「あれを娶るのは勇気がいる」とげんなりせしめた御仁である。
 見目麗しき令嬢のくせして何故に時おり妙に柄が悪くなるのかといえば、その原因はご多分に漏れず、彼女の友人たちにある。そう、沈黙と静謐に満たされた清らかな学院寄宿舎生活から解き放たれた二年前、初めて連れ立った仲間の素行がよろしくなかったわけである。具体的には、ダドリー、エレーン、そして、ラルッカ。
 今でこそ、クレスト領主、その正夫人、カレリアの上席徴税官というそうそうたる顔ぶれであるが、当時の三人の境遇は、「ドゴール財閥のご令嬢」というエルノアの華やかな肩書きに比べ、見劣りする感が否めなかった。ラルッカは没落貴族の次男坊であったし、ダドリーは領家の三男坊という中途半端な冷や飯食い、そして、エレーンにいたってはラトキエ邸の使用人。いずれも当時は、不本意な地位に甘んじて悶々とする日々を送っていた。どろどろ荒んだそんな所に、世間知らずのお嬢様が無防備に混じっていたのであるから、たちどころに染まってしまうのも、それはむしろ道理というもの。ぬかるみに落ちた乾いた白紙が、たちどころに染まっていくように。
 もっとも、エルノアの我がままは、生来の気質も然ることながら、彼女の恵まれた出自によって形成された代物で、更にその上、報復を恐れた周囲の者が決して彼女に逆らわず、ちやほやへつらい育てに育てて増長させた結果でもある。
 ちなみに、彼女が放つ決め台詞と、妙に意気の良い合いの手は、件の庶民の奥方さま仕込み。世間知らずで生意気な「お嬢様」を面白がって、あることないこと吹き込んだ結果、「庶民化」が完了したのである。
 つばの広い大きな帽子で、隣の肩をぱたぱた扇いで、エルノアはいたって上機嫌。着流し姿のアルノーは懐手にして歩きつつ、苦笑いで海を眺めた。「……よっぽど待っているんですねえ」
「──ちっ」
 全身真っ赤にのぼせ上がって、エルノアはその場で硬直した。
「ちちち違うわよ違うわよ違うわよっ!」
 拳を握り、全否定。
「──ああああたしは別に待ってなんか──! ななな何言ってんのよ何言ってんのよ何言ってんのよっ! しっ、しっ、失礼なこと言ってんじゃなくってよっ?」
「わかりましたよ」
 力んで食ってかかるエルノアを、アルノーは上半身だけのけぞって、かわした。着流しの裾を無造作にさばいて、肩でぜーはー息を乱した栗色の髪の障害物を右手によけて歩きだす。「で、いかがでした? ノースカレリアは」
 エルノアは引きつり顔でおののいて、じりじり出方をうかがっている。だが、まるで気負わないアルノーの様子に、もう訊いてこないと悟るや、ぴょん、とひとっ飛びで隣に戻った。
「もー、ぜんぜん退屈でしたわ」
 辟易とした顔で嘆息し、一転、ひらひら片手を振る。「だから早々に引き揚げて、こっちに遊びに来たんでしょ。ノースカレリアなんてなんにもないし、あっちの貴族も野暮ったいし。領家がパーティーを開くっていうから、どんな面白い趣向があるかと思えば──」
 あの程度のまかないじゃ、わたくし満足できなくってよ? と口を尖らせてごち続ける。
 ちなみに、彼女の言う「パーティー」というのは、クレスト領家が主催した華燭の典のことである。その主役は言わずと知れた新領主ダドリーとエレーン嬢。
 後ろ手にして、るんるんついて歩きつつ、エルノアはもてあましたように首を振る。「まあ、クレストじゃ仕方ないでしょうけど。なにせ、とっても貧乏ですもの」
 アルノーは呆気にとられて振り向いた。
「……まさかとは思いますが、先方でそのまま、言ってきたりはしませんよねえ?」
 きょとん、とエルノアも顔を見る。
「いけなくって?」
 この一点の曇りもない反論は「言いたい放題やらかしてきた」と白状したも同然である。こうなると、彼女の不穏当な発言がこれだけではないことは、もはや容易に想像がつく。アルノーは嘆息して首を振った。「……あちらはさぞや、ご立腹だったでしょう」
 ご立腹? さあ、どーだったかしら……とエルノアは上目使いで首を傾げる。事もなげに振り向いた。
「わたくしは何も言われなくってよ?」
「──そりゃ、そちらは客人ですから、面と向かって咎め立てるようなことはしないでしょうが」
 悪びれるでもなく胸を張る堂々たる言い草に、アルノーは絶句しながら確認する。「ですが、不興を買ったんじゃありませんか? 招いてくれたご友人の」
「ダドたちの?」
 きっちり物議をかもした当人は、きょとんとして口を開けた。
「まっ。なんで怒られなければなりませんの?」
 全部本当のことですのに〜、ところころ笑って、連れの肩を気楽に叩く。確かに、派手な盛り場が北方にないのも、地方の貴族が野暮ったいのも、ラトキエ主催のそれに比べてクレストの宴が地味なのも、全部本当のことである。
「──本当に、はっきり物を言う」
 歯に衣着せぬエルノアに、アルノーは困ったように苦笑いした。
 彼女は容赦なく、手厳しい。だが、思ったことを全て吐き出してしまうので、腹の中には何もなく、本人はいたってケロリとしている。態度に裏も表もありはしない。それゆえ敵も作るだろうが、全て跳ね返す気構えがある。いつも堂々と前を向き、何者をも恐れない。己の言葉に嘘などどこにもないからだ。
 ひょいひょい、ついて歩きつつ、エルノアが覗きこんでいる。視界の端にそれを置いて歩きつつ、アルノーは微笑って空を仰いだ。
「まったく度胸がありなさる。いつもながら正直ですねえ」
 
 
 
 
 

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