■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部5章 6話1
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ともし火揺れるテントの中、灯りの届かぬ薄暗い壁に、人影がじっとうずくまっていた。あぐらで顔をうつむけた、長らく動かぬその様は、気配をうかがう獣のそれのようにも見えなくもない。隙間風が入るのか、ほの暗い灯りが不規則に揺れた。宵闇に紛れた野営地から、遠くかすかに声が届く。
薄暗いテントの中央、灯下で雑誌を眺めているのは、バパ隊二班を取り仕切るカルロという壮年の男、その飄々とにやけた風貌と、相手をすがめ見る性癖で、見る者に胡散臭い印象を与える三十半ばの男である。
衛生班とも呼ばれる第二班は、負傷兵の応急処置等を主に担うが、軟弱なわけでは決してない。本隊と共に戦渦を潜り、格闘・立ち回りも適宜こなして、動けなくなった負傷者を敵中から引きずり出すのが彼らの仕事だ。その長たるこのカルロがひ弱であるはずがなく、野戦服の下の筋肉は、どこも固く引き締まっている。猛者揃いの部隊の中でも、殴り合いの喧嘩程度なら、容易く取り押さえる腕を持つ。
壁で身じろいだ影に気づいて、ふと、カルロは顔をあげた。
「なんだウォード、小便か?──ああ、ちょっと待ってろよ。今、副長を呼んでやる」
雑誌を伏せて床に置き、よっこらせ、と膝を立てる。あぐらの膝をおもむろに崩して、ウォードが構わず立ちあがった。
「──おい、こら、ウォード、待ってろよ。すぐに戻ってくるからよ」
カルロは一転、そわそわ見回し、やおら慌てて立ちあがる。ウォードは今、謹慎中だ。無断で外に出すわけにはいかない。出口に向かうウォードの胴を引っ抱えるようにして取り押さえる。
ウォードがようやくそれに気づいて、ふと脇に目を向けた。
「悪いんだけど、どいてくれるー?」
取りついた腕を片手でつかみ、造作もなくカルロを押しやる。だが、無論カルロとて、ここで容易く引き下がるわけにはいかない。気負いなく歩くウォードの胴に、尚も阻止すべくしがみついた。「待てったらウォード。こんな夜更けに、どこへ行くんだ!」
「ちょっとねー」
激突音がとどろいた。積荷を弾き飛ばす激しい音。
天井から吊った光源が右に左に大きく揺れて、床を照らすほのかな灯りが壁の闇を乱雑に走った。カルロは床に手足を投げ出し、薄暗い壁でうなだれている。
気絶したカルロには一瞥もくれず、ウォードは出口の靴脱ぎ場に向かった。隅に寄せた靴をとり、靴の紐を締めあげる。
テントを出ると、宵闇の野営地は揺らいでいた。空気が浮つき、落ち着きがない。右往左往の気配ただよう木立の暗がりをしばらく歩き、愛馬を休ませた木陰に出た。
「悪いねー。こんな遅くに」
馬はいち早く主人を見つけ、黒いまなこでじっと見た。ウォードは愛馬を引きよせて、長い首に頬ずりし、馬のたてがみを優しくなでる。「でもオレ、エレーンに言わなきゃなんないしなー」
困った口調で独りごち、ウォードは北の木立に目を向けた。
「行くよー、ホーリー」
昨日は、たやすくねじ伏せられた。
今日もなんとか、できるだろう。だが、明日はどうだか、わからない。
闇に切り込む馬の上、ファレスは手綱を握りしめ、街道の先に目を据えた。
「──あんのガキがっ!」
急な移動の連絡に、驚いて事情を聞きに行き、指示を出して戻ってみれば、テントはもぬけの殻だった。いや、もぬけの殻というのは正確ではない。ウォードの見張りを代わったカルロが隅の柱で伸びていた。そして、肝心のウォードはどこにもいない。
例の騒ぎが耳に入ったようだった。自首したアドルファスを取り戻すべく、件の彼女が出奔した。しかも、よりにもよって、素行の悪いボリスら三人と連れ立って──そんな話が耳に入って、ウォードが大人しくしていようはずもなかった。泰然自若のケネルでさえ、慌てて一行を追ったくらいだ。まして、海に呑まれた彼女を追いかけ、単身南下を強行した堪え性のないウォードなら。
疾走する馬を急き、闇の先に切り込みながら、ファレスはぎりぎり歯ぎしりした。
「どこにいやがる、あの野郎! あれになんかしたら、ただじゃおかねえ!」
昨日は、たやすくねじ伏せられた。だが、今日は、いやに骨が折れる。手をめいっぱい伸ばしても、わずか指先が届かない。気配は確かにそこにあるのに、後ろ髪がつかめない。あと一歩が、追いつけない。
どんどん、どんどん、速くなる。
今、こうしている間にも。
商都カレリア
人もまばらな馬車道が、昼下がりの夏日に照らされ、白々とたゆたい、ゆらいでいた。等間隔の街路樹が、風に吹かれて、さわりと揺れる。
予てよりの報告通り、商都は解放されていた。だが、街の入口の南門には、軍服の見張りが依然として張りつき、街への出入りを怠りなく監視している。
強い夏日に目をすがめ、ケネルは足早に歩いていた。街中にいても目立たぬように革の頑丈な防護服を脱ぎ、街の若者が着るような半袖の丸首シャツに着替えている。
ラトキエの政務所に張りつけた下回りからの報告によれば、野営地を抜け出した賓客は、姿を見せぬようだった。まだ到着していないのか、街のどこかをうろついているのか──。だが、彼女は刺客に狙われている。一刻も早く捜しだし、身柄を押さえる必要があった。行方知れずの闇医師が裏通りの診療所に戻るまで。
額を流れる汗をぬぐって、ケネルは視線をめぐらせた。水打ちされた石の舗道が、じりじり注ぐ夏日に白んで、湯気をあげて揺らいでいた。露天街の舗道にはパラソルの花が咲き乱れ、派手な傘の日陰では、多種多様な商品が台に山積みにされている。赤・青・黄のあでやかな布、履き物、軽食、駄菓子に果物──だが、客の姿はそこになく、街は閑散とひなびている。
常ならば活気に満ちた露天街にも、客の姿はまばらだった。街路にひしめくレンガの店舗も開店休業のありさまだ。軍が街を包囲した比類のない此度の騒ぎで、商都近隣の住人たちは、未だ引きこもったままらしい。もっとも、住人の警戒も無理はない。軍こそ撤退したものの、ディールが仕掛けたこの戦、決着がついていないのだ。
商魂たくましい売り子の婦人も、街路のあまりの寂れ具合に、売り物を広げた台を離れて路地の日陰に寄りつどい、手うちわで顔をあおいでいる。気だるげに座りこんだ井戸端会議の一団を、ケネルは一瞥して通りすぎ──
「……うん?」と足元に視線を落とした。
不可解な事態に、ぱちくり、ケネルはそれを見おろす。半袖からつき出た手首が、下から、むんずとつかまれている──?
その頃、ロムの野営地を出奔し、商都に向かったエレーンたち一行は、夏日照りつける商都カレリアの正門を眺めて、街道の交差点で立ち往生していた。目的地である商都カレリアは、平らに均された土道の先、およそ北の方角にある。ちなみに、レーヌと商都を結ぶここレーヌ街道は、商都手前のこの地点で、大陸中央を横断するカレリア街道と交差する。
街道脇の並木の陰で、ボリスが片頬ひきつらせ、ぎろりと睨んで腕を組んだ。
「あ? "自分は有名人だから? あっという間にとりかこまれて、ちやほやされ放題よー"とか調子くれてたのはどいつだよっ!」
額に傷のあるオールバックのブルーノと、黒い眼帯のジェスキーも、肩を大きく上下させ、これ見よがしに溜息をつく。
「……う、うっさいわね」
ばつの悪い上目使いで、エレーンはじりじり後ずさった。クレスト領家にお嫁に行く時、嫁が初の庶民の出ということで、当時たいそう話題になった。目抜き通りには号外が飛びかい、発行部数第一位を誇る商都のタウン誌《書き売り》は一大スクープと騒ぎたて、同僚と連れ立って街を歩けば、見知らぬ人から笑顔を向けられ、やんややんやの祝福の嵐。だが、故郷の商都の皆さんは、今をときめくシンデレラの顔など三日で忘れ去っていたのであった。
爪先立って、ボリスはがなる。
「なあにが、あたしが話をつけてやるぅ、だ! あんな下っ端の門番にさえ、簡単に追っ払われてる始末じゃねーかよ。これじゃ、頭(かしら)助けるどころの騒ぎじゃねえだろ!」
たいそうカリカリしているようだ。いや、苛ついているのはボリスだけではない。三人組は揃いも揃って髪はぼさぼさ、お目目は真っ赤、見るも哀れな疲労困憊の態である。
ボリスはいがぐり頭を掻きむしる。「それだけじゃねえ! こっちが夜通し馬走らせてるっつうのによ、てめえはなんだァ? 一人だけ気楽にぐーすかぴーすか寝やがってよ!」
むぅ、と口を尖らせて、エレーンはぶちぶち不貞腐る。
「だあってえ。あたしが夜起きてたって、やることとか別にないしぃ? 馬とか乗れないし、喋れば怒るし、夜起きてるとお腹とかすくし、だいたい夜更かしはお肌に悪いし、てか、ケネルだってファレスだってバパさんだって文句なんか言ったことないわよおー? あーんな子供のノッポ君だってそんなせこいこと言わないのに、それを大の男がねちねちねちねち! あんた達ちょっと、みみっちくなあい?」
「──あんだと! くそアマっ!」
よれよれぼろぼろの三人が、ギッとまなじり吊りあげた。なによお、と顎を出すエレーンに、青筋立ててつかみかかる。
ひゅん、と風が鋭く鳴った。
とんがっていた三人が、ぎょっ、と見るからにすくみあがった。凍りついた視線の先は、べええ、とあっかんべしているエレーンの後ろ。
「……なによ?」
奇妙な反応に面食らい、エレーンは、あん? と顎をしゃくった。三人は青筋立てた形相から一転、何故だか顔を引きつらせ、じりじり後ずさっている──と、飛びあがるようにして踵を返した。脇の畑にあたふた飛びこみ、諸手をあげて逃げていく……?
「あ?──ちょっと、あんたたちぃ。いきなり走って、どこ行くのよー?」
おーい、あたしを置いてく気ぃー? とエレーンはぶんぶん両手を振る。だが、三人組は見向きもせずに、緑葉ゆれるのどかな畑を、今にも転びそうに突っ切っていく。
「……なんだってのよ、いったい」
夏日降りそそぐ街道に、一人ぽつねんと取り残されて、エレーンはぽりぽり頬を掻いた。あの三バカ、見るからに全力疾走だ。あたふた目指すその先は、カレリア街道の西方か? てか、いつかはこっちに戻ってくるのか?
「もー。そんなとこ走ったら、畑のおじさんに怒られるわよー?」
畑を荒らす軌跡を眺めて、エレーンはぶちぶちごちながら、つばの広い麦わら帽子で、顔にぱたぱた風を送る。街道の並木で、セミがジージー鳴いている。昼下がりの太陽が、じりじり街道を焼いている。暑い。暑い。まったく暑い。真夏だから当たり前だが。いや……?
汗をぬぐって、気がついた。
(……なんか、ちょっと涼しい、みたいな?)
そういやブーツの爪先が、いつの間にか日陰になっている。つまり、
──後ろに、誰かが立っている。
ざわり、と肌が泡立って、眉根を寄せて固まった。
今しがたの奇妙な流れを、大至急、脳裏で再生し直す。ザッと切るような風のうなり、即行逃げた三バカの反応、唐突に湧いて出た人の気配、そして、ひしひし感じる無言の殺気──どれもこれも身に覚えがある。そう、逃げて逃げてしゃかりきに逃げて、なんとか振り切ったはずなのに、いるはずもないその場所に突如どろんと出没し、どこへ逃げても逃げ切れない──そんな奴が、かつて、どこかにいはしなかったか?
(も、もしかして、アレが出たとかじゃ……?)
ごくり、とエレーンは唾を飲んだ。奴に対する直近の所業を思い出し、一人密かに震えあがる。黙って勝手に動いたから、怒らせたのは間違いない。
一気にガチガチに緊張し、頬をひくひくこわばらせ、そろり、と後ろを振り向いた。
「どーしたケネル。そんな一生懸命ぶっ飛んできて」
蒸し暑い街角で足を止め、ファレスはきょとんと瞬いた。
「なんぞ恐い目にでも遭ったのか?」
ケネルが街角を曲がるや否や、両手両足大の字に広げて、ぴたっと壁に張りついたのだ。そして、そろりと顔を路地に突き出し、慎重に様子をうかがっている。その顔は珍しく引きつっている。
ケネルがうかがう路地の先を、ファレスはぶらりと眺めやった。露天の立ち並ぶ一角に、中年の物売りが寄りつどい、気だるげにお喋りに興じている。
ははーん、とファレスは肩を戻して、路地の先へと顎をしゃくった。
「さては、あのババアどもにとっ捕まったな?」
むぅ、とケネルが図星の顔で見返した。
そう、手首をつかまれたと思った途端、おばちゃん達の輪の中に突如引っ張りこまれたんである。そして「どうせ暇だろ? ゆっくりしてきな」だの「あんた、いい男だねえ」だの「バナナ食うかい?」だのやんややんやの歓待攻め。その筋では、ケネルは泣く子も黙る「戦神」のはずだが、その癖のない顔立ちは、子育ての場数を踏んだ百戦錬磨のおばちゃん達には、物静かな青年にしか見えなかったものらしい。着慣れた野戦服でなく平服でいたことも、或いは災いしたかもしれない。
思わぬ泥沼にはまってしまい、ケネルは焦って脱出を図った。だが「じゃあ、俺はこれで」だの「もう行かないと!」だの「急ぐからっ!」だの何度そわそわ連呼しても、おばちゃん達は聞く耳もたず、脱出を図るその度に、ケネルの腕の二倍ほどもあるぶっとい腕が伸びてきて、むんずと渦中に引きずり戻され──間の悪いことに、敵は暇を持て余している。こんな物売りのおばちゃんなんぞ、戦地の猛者に比べれば何ほどのものでもないのだが、いかな戦神ケネルでも、斬り捨てるわけには無論いかない。
結局ケネルはナメられ放題。暇つぶしの肴にされて、かれこれ小半時ほども経った頃、街路にファレスの姿を見つけて、必死で四つんばいで這い出してきた、と聞くもお粗末な顛末なのであった。
ファレスはよれよれのケネルを見、おばちゃん軍団をまじまじ眺め、この場に最適な感想をほうった。
「カレリアのババアは、おっそろしいな」
はあ、と白けて息をつき、「それにしても」とケネルを見る。
「お前、そんなに怯えんなよ」
「怯えてない」
直ちにきっぱり言い返し、一難去った戦神ケネルは、ふぅ、と額の汗をぬぐった。あくびをしている向かいのファレスを、仕切り直して振りかえる。「そんなことより、何故、お前がここにいる。ウォードの世話はどうしたんだ」
ファレスは軽く肩をすくめて、人もまばらな商都の街路を眺めやった。
「あのガキ、又、ばっくれやがってよ。で、十中八九こっちに向かった。カルロがたんこぶこさえて伸びてやがって」
ケネルが驚いて瞠目した。
「何故、ウォードから目を離した!」
「そういうてめえこそ、隊はどうした」
ぐっ、とケネルは言葉につまった。ファレスはおもむろに腕を組む。
「大事な隊をほっぽりだして、こんな所で何をしている。てめえは隊長じゃねえのかよ」
ケネルはじれったそうに目をそらした。息を吐いて気を鎮め、改めてファレスに指示を出す。「ウォードを見つけて連れ戻せ。預かり物は俺が保護する」
「俺は、あんぽんたんを捜す」
ファレスは素っ気なく言い返した。苛立ってケネルは語気を荒げる。「ウォードを捜せ! 命令だ」
「──めし、食わねえんだよ、あのアマよォ」
ケネルが面食らって口をつぐんだ。ファレスは眉をひそめて舌打ちし、大儀そうに息を吐く。「俺がいねえと、飯も満足に食いやがらねえ。なら、俺が行かなきゃ始まんねえだろうが」
反抗的なファレスの態度に、ケネルがたまりかねて嘆息した。「──ファレス!」
「俺の血やったから、アレは俺んだ!」
間髪容れずに怒鳴り返し、ファレスが鋭く目を向けた。
「こいつは俺の領分だ。外野がくちばし突っ込んでくんじゃねえ。ケネル、てめえにもてめえの、役目があるんじゃねえのかよ」
呆気にとられたケネルの顔を、三白眼で睨めつける。
「目を覚ませ、大馬鹿野郎。この戦時の震源地に、部隊を近接させてんだぞ。指揮官がふらついて、置き去りにされた隊はどうなる。てめえの下には何十の兵隊がいるんだぞ」
軽く息をついて、先を続けた。
「女のケツなんぞ追っかけてる場合じゃねえだろう。今はアドルファスの件もある。指令棟につめて、指示を出せ」
ケネルは何事か言いたげに口を開いた。しばらく眉をひそめてファレスを見、だが、それを口にすることなく口をつぐんだ。
夏日ふりそそぐ蒸し暑い街路に立ち尽くし、しばし、無言で睨み合う。
街角の向こうから、人足の怒声がかすかに届いた。人もまばらな石畳の街路を、荷馬車がガラガラゆき過ぎる。路地から漏れる笑い声──
「どうせ、ウォードも、すぐに来る」
ファレスが身じろぎ、ぶっきらぼうに口を開いた。向かいのケネルを一瞥する。「奴の狙いは、あの阿呆だ」
ケネルは小さく息をつき、視線を市中に巡らせた。その目を改めて向かいに据える。
「わかった、ファレス。預かり物を直ちに保護し、商都の街宿で待機しろ」
「──了解、隊長。行ってくら」
ファレスが手をあげ、踵を返した。
「心配しなくても、ウォードの馬鹿には指一本触らせねえよ」
ぶらぶら歩く防護服の背は、石畳の通りを渡り、向かいの街角に向かっている。
街角に消える長髪を、ケネルは苦々しく見送った。舌打ちして視線をそらし、眉をひそめて歩き出す。
「奇遇だな、ケネル」
ふと、ケネルは足を止めた。
自分の名を呼んだのは、苦い気分とそぐわない、聞き覚えのある明朗な声──相手の正体に思い当たり、軽く嘆息して、振り向いた。
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