CROSS ROAD ディール急襲 第2部 5章 interval05 〜逢う魔が時〜
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※ このページは残酷なシーンを含みます。苦手な方はご注意ください。

 
 
 ビルの谷間の狭い路地に、痩せ細った野良犬が餌を探してうろついていた。風がゆるく吹きわたり、読み捨てられた大衆紙が、砂塵に紛れてさらわれていく。荒んだ風情の裏路地に、通りかかる人影はない。
 風雨にくすんだ煤けた壁に、ガラスの曇った四角い窓がどこまでも素っ気なく連なっていた。その高い場所にある窓で、人影が路地を眺めている。
 首都カレリアの北西には、商都のかもしだす活気の中に、とある特異な領域が澱(おり)のように潜んでいる。これが遊民たちの掌握する経済特区──「異民街」と呼ばれるこの界隈だ。とはいえ、ここにたむろす者たちは、遊民ばかりとは限らない。
「遊民」とは一般に「他国と混血した者」をさすが、この何かと孤立しがちな集団には、特殊で個人的な事情をかかえた行き場のない者たちが隠れ潜んでいることがある。その中には、まれに「変り種」も入り混じる。彼らは風変わりという個性の領域を通り越し、どの集団にも決して馴染ぬ、いわば構造的な、、、、異端だった。その素性はようとして知れず、不意に一人で現れて、誰も知らない知識を有し、或いは未知の言語を話した。そして、何より彼らには、他とは異なる決定的な特徴があった。降りかかる日ざしの具合によって、頭髪が薄金色に輝いたのだ。
 そうした外れ者にしてみれば、社会から阻害された「遊民」と呼ばれる集団は、潜伏場所として格好だった。この社会の吹き溜まりは、そして、独自の法に則る異民街は、その特殊な排他性ゆえ、官府の目の届かない唯一の隠れ蓑として機能したからだ。つまり「純粋にどこかの国に属す者」以外の全ての者が、ここに自然と割り振られる格好になる。
 それは、底辺に虐げられた集団が、真っ当な設備投資なくして、また、膨大な時間の消費なくして、革新的な諸技術と、使いこなせる人材を獲得してきた、、、、、、ことに他ならない。
 
 キィ、と重厚なドアが開き、その細い隙間から、するり、と何かが滑りこんだ。
 毛の長い純白の猫だ。ふさふさした尻尾を立て、そろりそろりと向かい壁を歩いていく。ケネルが何気なく目で追うと、ぴたり、と猫は足を止め、宝石のような緑の瞳で、何かを見透かすようにじっと見つめる。
 木枠の窓から鈍い陽がさし、高価な家具調度の上に濃い陰を作っていた。三人掛けの布張りの長椅子が卓をはさんで配置され、薄暮れの陰影に沈んでいる。
 敷きつめられた赤い絨毯、飴色に光るバーカウンター、瀟洒な細工の飾り棚、随所に配されたそれらはどれも、逸品揃いと一目で分かる。
 遅い午後の人けない部屋で、ケネルは軽く背を屈め、舌を鳴らして猫を呼んだ。猫はじっと止まったままで、警戒もあらわに近づかない。
「待たせたな、ケネル」
 すぐに扉が開かれて、男がにこやかに入ってきた。腰ほどもある長髪の、端整な顔立ちの優男だ。ゆるやかに波打つ金茶の髪、斜陽を反射する琥珀の瞳、絹シャツのつややかな紫。たそがれ近づく薄暗い部屋を、ケネルは顔をしかめて見まわした。「いつ見ても成金趣味だな」
 いわゆる異民街の表の顔、活気ある表通りから大分奥まった界隈の、廃墟のようなこのビルに──風雨に煤けた窓一枚を隔てた向こうに、これほどまでに贅を凝らした場違いな一室があろうとは、よもや誰にも想像できまい。
 険悪な相手に構うことなく、男は暮色に染まった部屋の隅へと、優美な足取りで歩いていく。斜陽に染まったバーカウンターで、天板に並んだ黒や透明のビンの中から、緑色の瓶をとりあげた。「エールでいいか、ケネル」
 ケネルは苦々しげに目をそらした。「こんな昼間から、酒は飲まない」
「なら、紅茶でも淹れよう」
 男はしなやかな手を伸ばし、光沢のある飾り棚から、白磁のティーポットを取り出した。そして、美しい曲線の茶碗を二つ、対の白磁の受け皿を二つ。
「ウォードの暗示が解けたって?」
 男は茶葉をポットに入れて、保温瓶から湯を注いだ。一連の作業を流れるようにこなしつつ、背を向けたまま、愉しげに声をかける。「手に負えないらしいじゃないか」
 ケネルは不機嫌に目をそむけた。
「別条はない。あんたに迷惑はかけないよ」
 男は天板の片隅から、オレンジを盛った大振りな皿と果物ナイフを取りあげた。薄日に照らされた長椅子へ向かい、それらをおもむろに卓に置く。オレンジを盛った大振りな皿と、分厚い皮を剥く果物ナイフ。
 ゆっくりカウンターに取って返して、しばらく待って紅茶を注ぎ、トレーに二人分の茶碗をのせて、再び長椅子へ足を向けた。「お姫様は無事なんだろうな。──気をつけてくれよ? 要人護送はいつものことだが、今度の荷物はいささか注意が必要だ」
「なら、妙なちょっかいは、やめたらどうだ」
「このわたしが何をしたと?」
 男は心外そうな顔をした。悪びれることなく肩をすくめる。「ともあれ、あれには驚いた。お前がわたしに逆らおうとはな。ずい分入れ込んだものじゃないか」
「──別に」
 わずか苛立った口調で言い捨て、ケネルは憮然と眉をひそめた。「天涯孤独の身の上だから、力になった、それが悪いか」
「本音を言えば迷惑だが、まあ、過ぎたことを言っても仕方ない。なんにせよ、相手は一応、要人の部類だ。恩を売っておくに越したことはないしな。ま、その分は、後で返してもらえばいいさ」
 トレーに置いた二つの茶碗を、卓の手前と向かいに置き、男は手前の長椅子で足を組む。
 目線で男に促され、ケネルは嘆息して窓辺を離れた。男の向かいに腰を下ろし、平服のズボンの隠しを探る。芳香たゆたう紅茶を無視して、煙草を取り出し、一本くわえ、ぶっきらぼうに背を投げた。
 男は足を組んだまま卓の紅茶を取りあげて、豊かな香りを楽しんでいる。統領の代理を名乗った男、そして、デジデリオと名乗った男だ。
 カップを傾けるその膝に、するり、と純白の毛皮が飛び乗った。それを見やって、ケネルは呆れ顔で溜息をつく。「──また買ったのか。ろくに世話もしないくせに」
 猫の喉をなでてやり、デジデリオは相好を崩した。「猫の世話など、わたしにできると思うかい? お前だって知ってるくせに」
「それなら初めから欲しがるな」
「人には向き不向きがある。そして、わたしに世話は向いていない。なら、得意な者に任せるしかないじゃないか。こいつもわたしも、その方がよほど幸せだ。な、ジュリアン」
 ジュリアンと呼ばれた白猫は、気持ち良さそうに喉を鳴らし、膝の上で寛いでいる。ちらとデジデリオは目をあげて、にこやかに向かいを促した。「可愛いだろう?」
「別に」
 ケネルは素っ気なく紫煙を吐いた。デジデリオは嘆かわしげに首を振る。「まったく、お前は無愛想だな。見ろ。お前がそんなにピリピリするから、可哀相にジュリアンが恐がっているじゃないか。な、ジュリアン」
「そんなにそいつが大事なら、いっそ放してやったらどうだ。こんな部屋に閉じ込めるより、猫だって、その方がよほど喜ぶ」
「紅茶が冷めるぞ。飲まないのか?」
「喉は渇いてない」
「なんだ。せっかく淹れてやったのに。ま、そう言うだろうと思ったけどな。──ああ、なら、オレンジでもどうだ。ほら、旨いぞ?」
 果物ナイフを卓からとりあげ、にっこり笑って、オレンジを取る。憮然と、ケネルは眉をひそめる。「──腹も減ってない」
 デジデリオはつまらなそうに、オレンジを皿にほうり投げ、とんとナイフを卓に置いた。
「まったく、お前は相変わらずだな。このわたしが手ずから果物を剥くなんて滅多にないことなんだぞ」
 やれやれと長椅子に背を投げる。「何が不満だ。お前には、最高の地位をやったろう」
「地位?」
 ケネルは鼻であざけった。
「あんたが余計な真似をしてくれたお陰で、どれだけ苦労したと思っているんだ」
 眉をひそめて苛立たしげに紫煙を吐く。「まったく、あんたはいつでもそうだな。言うだけ言って丸投げだ。そんなだから恨みを買うんだ」
 デジデリオが驚いたように目をみはった。
「今日は珍しく、よく喋るな」
 呆気にとられた表情をゆるめて、クツクツおかしそうに苦笑いする。「一体どういう心境の変化だ? ろくに口もきかなかったくせに。ま、何にせよ、お父さんは嬉しいけどさ」
「笑わせるな。あんたが親父と言って、誰が信じる」
 ケネルは白けた顔で一蹴した。青年にしか見えない容姿の、ゆるやかな長髪の優男は、飄然と肩をすくめる。
「だって、本当のことだろう? お前は俺の子、紛れもない事実だ。まあ、それはともかくとして」
 取るに足りぬという顔で、デジデリオはやれやれと紅茶を啜る。「陰口など捨てておけ。どうせ、何もできやしない。そんなクズどもは相手にするな」
「あんたの心配なんかしていない! その下らない気まぐれのお陰で、お袋がどんな目に遭ったと思う!」
 ケネルが激して息巻いた。業を煮やしたように息を吐き、鋭い視線で睨めつける。
「あんた、なんにも知らないだろう。俺がまだガキの頃、家に戻ってドアを開けたら、部屋が真っ赤に染まっていたよ。壁も床も寝床の上も、家の中は目茶苦茶で、血だまりにお袋が倒れていた。何箇所も何箇所もむごたらしく刃物で斬られて。血に濡れた靴跡が、そこら中を踏み荒らしていたよ。あんなに大勢に押し入られれば、逃げることさえできなかったろう」
 デジデリオは卓に茶碗を戻し、椅子の背もたれに両腕をかけた。そのまま首を後ろに倒し、薄暮れの天井を眺めている。
 長くしなやかな指先が、何かを計るように、背もたれを叩く。じっと無言でもたれたままで、デジデリオは動かない。やがて、小さく息を吐き、一言一言確かめるように、その言葉を舌にのせた。「クレアには、可哀相なことをしたと思うよ」
「可哀相?」
 嘲るように冷笑し、ケネルは腹立たしげに声を荒げた。
「全部あんたのせいだろう! それをあんたは他人事みたいに! お袋は何もしちゃいない。あの人に罪なんか何もなかった。無力で弱くて優しくて。なのにあんたが、敵をいたずらに煽るから!──あんた、あの時、どこにいた。どこの女の寝床にいた!」
 デジデリオは鬱陶しげに顔をしかめた。「こっちだってまさか、クレアに目をつけるとは、まるで思いもしなかったさ」
「お袋は街に帰りたがっていた、それは、あんただって知っていたはずだ。大した望みじゃなかったはずだ。郷から連れ出し、放してやる、たったそれだけのことで済んだ話だ。それをあんたは億劫がって! 飽きたら飽きたで仕方ない。だが、それならせめて帰してやれば──!」
「それは無理だ、ケネル」
 デジデリオは溜息で遮った。
「隠れ里が世間に知れれば、たちまち火をかけられる。《春来の郷》がああして村落の体を成すまでに、どれほど時間がかかったと思う。町を一つ創るのはそう容易いことじゃない」
 薄日さしこむ左手の窓へと、ゆっくり視線をめぐらせる。
「人には拠り所が必要だよ。いつかは帰る、そうした場所が。大陸を渡り歩く荒くれ者にも、そうした場所が必要なんだ。これは大勢の暮らしと未来が関わる問題だ。一人の女の我がままの為に、全てを捨て去るわけにはいかない。一度入れば二度と戻れぬ、それが収容の条件だ。クレアにしても、納得づくで来たはずだ」
「あんたがたぶらかしたからだろう!」
 怒りに頬を硬直させて、ケネルは強く拳を握る。「あんたが声などかけなければ、平穏無事に暮らせたはずだ。今頃はどこかの街角で、穏やかに笑っていられたはずだ!」
「勘違いするなよ、ケネル」
 拍子抜けするほど平板な声音で、デジデリオが先を阻んだ。
「その時、クレアと睦み合っているのは、お前じゃない、別の子供だ。なにせ、お前は、このわたしの、、、、、、子供だからな」
 大儀そうに手を伸ばし、卓から紅茶をとりあげる。「大体ケネル、お前はそうやって、わたしを責めるが、お前だって、他人ひとのことは言えないだろう?」
「どういう意味だ」
 ケネルは剣呑に言い返す。デジデリオはわずか目を細め、曰くありげに一瞥した。
「忘れてないだろ? クリスティナ、、、、、、
 ケネルの頬が、凍りついたように硬直した。デジデリオはおもむろに紅茶を啜る。
「胎児が血の海で泳いでいたって? 迂闊な真似をしたものだな。安易に情けなどかけるからだ。それに、つい最近も──」
「やめろ!」
 息をつめ、ケネルは瞠目して乗り出した。座席にのろのろ身を戻し、額をつかんで、うなだれる。「……よせ……やめろ……やめてくれ」
 それは、ありふれた日常の、戦場の片隅から始まった。
 突き出し始めた腹を抱えて、サランディーに現れた戦災孤児。天涯孤独で廃墟をうろつく哀れな身の上にほだされて、安全な町外れに家を借りあげ、無一文の生活が立ち行くように配慮した。妊婦の後ろ盾になった手前、前線からの移動の折りに、侘び住いの様子を見に行った。よもや、夢にも思わなかった。娘が唯一のよすがを慕い、腹の子供の父親と周囲に触れ回っていようとは。そして、あの惨劇が起きた。
 ケネルは未だ、毎晩のようにうなされる。血しぶきを浴びた凄惨な部屋は、惨殺された母親の、かつての光景の再来だった。娘は椅子に荒縄でくくられ、散々暴行を受けた挙句に、血の海の中で絶命していた。妊婦の腹は切り裂かれ、床に打ち捨てられた胎児らしき肉塊が、靴裏で無残に踏みにじられていた。
 執拗で残忍なやり口は、強い恨みを匂わせた。いたずらに懐妊を口にした「妊婦と同じ愛称の娘」も、厳重な警護にも関わらず、惨殺体で見つかった。敵襲に紛れたあの森で。
 これらのことは、日々の平穏に静かに潜む「影」の存在を示していた。怠りなく行動を監視し、虎視眈々と隙を狙う者がいる。ケネルに火種の心当たりはあった。縄張りを主張する頭目たちを、かつて公開の場で粛清していた。頭目を失った多くの配下は、散り散りに解体されて、今もどこかに所属している。そして、薄氷を踏むような平穏は、密かにどこかで軋みをあげる。だが、事の首謀者は身をかわし、常に尻尾をつかませない。
 打ちひしがれたケネルを眺め、デジデリオは膝に茶碗を置いた。
「しょせん、我々は同じ穴のむじなだ。成果に伴う反動は、やがて自らに降りかかる。戦果が大きければ大きいほど、卑小な悪意は我が身を迂回し、近しい者に塁が及ぶ。だが、どれほど身を慎もうが、どれほど深く悔い改めようが、時間を巻き戻すことは、誰にもできない。周囲を粛清して伸し上がった以上、ひと度掲げた看板は、何があっても下ろすことはできない。役を降りることは二度とできない。どこへ行っても、どこへ逃げても、常に誰かが覚えている。歴史に刻まれたお前の名前と、お前がこれまでしてきた所業ことを」
 瞳の琥珀が不意に深まり、すっと冷徹に細まった。
「お前は戦神ケネル、、、、、だ、死ぬまでな」
 ケネルは苦々しげに目をそらした。
「──そう仕向けたのは、あんただろう」
 膝で握った拳を震わせ、ケネルは強く瞼を閉じる。「あんたの息子に生まれたことを──俺は心底、神に呪うよ」
「お前が戦場で名をあげたのは、わたしに見つけて欲しかったから、認められたい一心からじゃなかったのか?」
 鋭くケネルが一瞥した。それを無視して、デジデリオは猫の毛並みをなでる。「わたしはお前を愛しているよ? クレアの次に、ということだが」
「で、お袋は番付の何番目だ?」
 手を止め、デジデリオが顔をあげた。ケネルは口の端を吊りあげる。「さしづめ、その猫の次くらいか?」
「そんなに、この猫が気に入らないか?」
 呆れたように見返して、デジデリオは卓に手を伸ばす。
 屈んだその背を起こした途端、純白の毛皮が躍りあがった。
 純白の毛皮を血に染めて、猫が四肢を突っ張り、ひくつかせていた。長椅子に置かれたその手には、血塗れの刃が握られている。ケネルは愕然と振り向いた。「──あんた、何を」
「気にするな。後で誰かに片付けさせるさ」
 突然首を掻っ切られ、息も絶え絶えな膝の猫を、デジデリオは静かに見おろしている。
「あんなに可愛がっていただろう!」
「猫など、また買えばいい」
 赤く汚れた純白の毛皮が、ついにぐったりと動かなくなると、デジデリオはそれを片手でつかんで、無造作に壁へと放り投げた。壁の隅にぼとりと落ちた白い毛皮は、もう、ぴくりとも動かない。ケネルは唖然と目を戻す。「──情はないのか、あんたには」
「ああ、ケネル。いつも言っているだろう?」
 しなやかな足を組み直し、デジデリオは嘆かわしげに顔をしかめた。
「物事の軽重を取り違えてはならない。例え、どんなに可愛かろうが、」
 とん、と血塗れた刃を卓に置いた。
「猫はしょせん猫だよ、ケネル」
 デジデリオは足さえ組んだまま、何事もなかったように平然としている。そして、夕闇迫る部屋の隅には、猫の死骸が転がっている──。ケネルはしばし絶句して、苦々しげに目をそらした。「──あんたの女、、、、、は不幸だな」
「いいか、ケネル。お前がどんなに忌み嫌おうが」
 揺るぎない口調で言い置いて、デジデリオは顎の下で指を組む。窓からさしこむ鈍陽を受けて、琥珀の瞳が獣のような光を放った。
「わたしは、お前を手放しはしない」
 遅い午後のひっそりした部屋に、鈍く重い空気が流れた。部屋が時間ごと呑み込まれ、重油の底に沈み込んでいくような。
 吸い殻を灰皿にすりつけて、ケネルは長椅子から立ちあがった。「特務の連中を待たせている。用がないなら、俺は行く」
「用ならあるさ。大事な指示がね」
 そつなく、デジデリオは呼び止めた。
「お前も薄々見当はついていると思ったがな」
 扉に向かいかけた足をとめ、ケネルは嘆息して目を向けた。「あいつのことは、一任すると言ったろう」
「もう、お前の手には負えなくなる。あれはどうやら系統が、、、違うらしいからな」
 素っ気なくデジデリオは一蹴した。冷淡な口調を改めて、穏やかに笑いかける。
「あいつは今まで、身を縛る鎖を引き千切ろうと、全力で抗ってきたんだぜ? そして、その枷がついに外れた──意味するところが分からんお前じゃないだろう」
 塵に曇った窓の外、ビルの縁に切り取られた狭い空を眺めやった。
「今、あの坊主の目には、この世の全てのありさまが、今までになく鮮明に、細部まではっきりと見えている。頭にかかったもやが晴れ、今なら全力で考えることができる。不自由な枷がなくなった分、思考も行動も鋭利になる。──考えてもみろ。あいつはこれまで半醒半睡の状態で死線を越えてきたんだぞ。それだけで桁違いの化け物だ。そんなことをやり果せた奴が完全に目を覚ましたら、追いつくことさえ容易じゃない」
「──だが、奴は何もしていない」
「野獣は既に放たれた、それだけで理由は十分だ。今ならまだ、辛うじて間に合う。ならば仕留めるのは、お前の役目だ、ケネル」
 素っ気なくデジデリオは言い捨てて、戸口で立ち尽くしたケネルの顔を、有無を言わさず、すがめ見た。
「身柄を確保でき次第、ただちにウォードを始末しろ」
 
 
 
 
 

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