■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部5章 6話3
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エレーンの道連れ、件のボリスら三人は、緑の畑を爆走し、畑を越した先にある、カレリア街道沿いの納屋の裏壁に張りついた。引きつり顔で息を整え、今来た街道を盗み見る。
「……ぶっ殺されるかと思ったぜ」
はあ、と額の汗をぬぐって、ボリスは壁にずり落ちた。隣で張りつく二人の仲間も、力尽きたようにずり落ちる。
鋭いまなこでギロリと睨まれ、身がすくんで、とっさに逃げた。そこにいたのは鎌風のザイ。彼が本気になりさえすれば、束になっても敵わない。荒事については元より本職、猛者の中でもピカ一の腕だ。これまではバリーがいたから強がってもいられたが、バリー不在の今となっては、三対一でも敵うような相手ではない。
納屋の壁から向こうを覗けば、ザイは彼女と話しているらしい。無論、彼女を連れ戻しにきたのだ。
「たくよお! 親父を救う一縷の望みだってのに!」
オールバックのブルーノが忌々しげに舌打ちした。市民の身分を持つ者がなければ、アドルファス釈放の交渉はおろか、面会することさえ覚束ない。とはいえ、ザイと渡り合い、客を取り戻すこともままならない。何故だかわんさと襲いくる賊の襲撃をかわしにかわし、不眠不休で四苦八苦して、ようやく目的地の鼻先まで連れ出すことができたというのに。黒眼帯のジェスキーも忌々しげに壁を叩く。
「畜生っ! バリーがいればなあ!」
す──と気配が近づいた。
「よお」
いやに馴れ馴れしい男の声。
「──あァ?」
威嚇を含んだ舌打ちで、三人は声を振り向いた。この納屋の持ち主が文句でもつけにきたのだろうか。苛立って相手を見据え、だが、三人は面食らって口をつぐんだ。三人の目が捉えたのは、いかにも着古した防護服、目に馴染んだ背格好、頬に走る刀傷──顕著な特徴を相手に認めて、三人は目を見開いた。よく見知った風貌の男が、頬傷をゆがめて不敵に笑う。
「今、俺を呼んだかよ。なんだ、てめえら。シケた面しやがって」
大きく目をみはったまま、ボリスが愕然とつぶやいた。「……バリー、なんで、ここに」
「お前らこそ、なんで、こんな所にいるんだよ」
煙草の吸いさしを投げ捨てて、バリーは煙たそうに紫煙を吐く。はた、と三人は我に返った。
「悠長にそんなこと、くっ喋ってる場合じゃねえ!」
「親父が──親父が大変なんだよっ!」
拳を握って言い募られ、バリーが顔から笑みを消した。怪訝そうに三人を見返す。「親父が大変って、そりゃ一体、どういうこった」
畑向こうの街道の彼女を、ボリスはもどかしげに一瞥した。事ここに至った経緯を、バリーに手短に説明する。バリーとこの三人にとって、アドルファスは育ての親、一家の大黒柱アドルファスに対し、彼らの思慕の念は、誰より強い。
「あァ? あの女が親父を助けにィ?──なんでまた」
草波ゆれる畑の向こうで、彼女はザイと話している。畑の向こうの街道を、バリーは怪訝な顔で眺めやり、無精ひげに覆われた顎を、思案するようにゆっくりなでた。
街角に視線をめぐらせて、ウォードは首をかしげて頭を掻いた。
「……まだ着いてないのかなー」
ごった返した人込みで発見できないというならまだしも、この閑散としたありさまで見逃すことなど、ありえない。どうやら、知らぬ間に追い越していたらしい。
落胆して嘆息し、ズボンの隠しに手を突っ込み、途方に暮れて歩きだす。いないというなら、待つしかあるまい。
レンガの建物が夏日を遮り、閑散とした馬車道に影が濃く落ちている。目抜き通りを通りかかる馬車はなく、街路を歩く人影もまばらだ。晴れた空を手持ち無沙汰に仰ぎ見て、ふと、ウォードは振り向いた。
彼の注意を引いたのは、通りを隔てた歩道だった。等間隔に設えられたガス灯の下、街角に立っていた一人の娘。年の頃は十六、七。高く結い上げたポニーテールの見知らぬ顔だ。人けない通りをはさんで、呆けたように突っ立っている。
ウォードは足を止めて娘を見つめ、小首をかしげて笑いかけた。
「あんたさー。オレのこと好きでしょー」
「……は?」と娘はつぶやいて、真赤になって目をそらした。ウォードは馬車道に踏み出して、通りの中央で足を止める。
「くればー?」
動揺しきりでうつむいていた娘が、え? と瞠目して顔をあげた。
「だからー、少しだけなら付き合ってもいいよー」
娘は見るからに慌てた様子で、誰かに助けを求めるように、あたふた周囲を見まわしている。頭を激しく動かす度に、高く結ったポニーテールが肩の先で忙しなく跳ねる。
娘の返事を待つでもなく、ウォードは無造作に踵を返した。元いた歩道に立ち戻り、だが、数歩歩いて立ち止まる。まごまごしている街角の娘に、肩越しに声を投げた。
「早くくればー。どうせ、あんた、くるんでしょー?」
「はい、どうぞっ!」
エレーンはいそいそ提示した。軍服の門番にさし出したのは、件の期限切れの身分証。黄ばんでへたった紙切れをつまみ、リナがそつない笑みで口添えする。
「この子、あたしの同僚なのよ〜。ほら、書いてあるでしょ、勤務先が。あ、この子ってばものぐさで、更新の手続き忘れちゃってたみたいだけど、まー、身元はこのあたしが保証するから」
「というと、こちらも領邸にお勤めで?」
エレーンとリナと身分証を、軍服の門番は交互に見やった。リナは手を振り、満面の笑みで畳みかける。
「まー、更新し忘れたってしょうがないわよ。こんなもの滅多に使わないし、自分の街に入るのに、まさか身分証が必要になるなんて、誰も夢にも思わないじゃな〜い?」
しげしげ見ていた門番は、隣の門番に目配せした。しばし顔を見合わせる。隣がしかつめらしくうなずいて、門番は吟味していた身分証を丁重な手つきで返却した。
「まあ、領邸勤務ということでしたら、さしあたり問題はないでしょう。犯罪者名簿も非該当ですし、そちらの方の身分証には何ら問題はありませんし」
(わお!)の形に口をあけ、エレーンはコクコクうなずいた。隣でリナが素早くウインクを投げてくる。領邸に雇用された人員は、まさしく中枢で働く為に、採用時の人物審査は、当然ながら殊の外厳しい。つまり、かの者の素行については、既に念入りに調査済み、一度でもこれを通過したという実績すなわち、これ以上の身分保障はないことになる。
返却された身分証をポシェットにそそくさしまいつつ、エレーンは胸をなで下ろした。これでようやく難関突破だ。それにしても、いやにあっさり通れたものだ。三バカと一緒にきた時とは、門番の対応が天と地ほども違う。顔つきからして全然違う。さっきはこっちを見た途端、一気に顔が険しくなった。あ、門番もやっぱ男だから、相手が女の二人連れなら、何気にチェックが甘いとか──そこまで考え、はた、とそこに気がついた。今とさっきとでは「連れ」が違う。つまり、さっき門番に止められたのは──エレーンはぐったり額をつかんだ。
(……あの三バカが不審だったのか)
あれか。はねられた原因は。
確かに、それはそうだろう。あんな人相の悪いのが後ろでふんぞり返っていたのでは、自分が門番だって通すまい。
まあ、足を引っ張るお荷物も、何はともあれ、もういない。畑に飛び込んでそれきりで、戻ってくるような気配もない。
すっきり清々晴れ晴れした気分で、両手を振って通過する。これで晴れて無罪放免。なにやら、万事上手くいってしまった。日頃の行いが良いのかもしれない。にしても、単に帰郷するだけなのに、何故にこうまで七面倒臭い真似をせねばならんのか──もしもし、と肩が叩かれた。今しがたの門番の声だ。
一体なによー、と密かな舌打ちで振り向けば、なにやら先程の門番が門の向こうを指している。
「あの人も、お連れで?」
怪訝そうに尋ねられ、エレーンはぱちくり瞬いた。
(……あー、あれがいたっけね)
憮然と腕組みで立っていたのは、言わずと知れたザイだった。案の定、はらわた煮えくり返った仏頂面だが、そこに突っ立っているだけで、ふん捕まえようとするでもない。門番がそこにいる手前、強引に連れ戻すわけにはいかないらしい。
エレーンはにっこり笑みを作り、不審そうな門番を振りかえる。そして、きっぱり返答した。
「ううん。全然知らない人」
「──てめえ!?」
くるりと踵を返した背中で、何やら罵倒が聞こえたが、るんるん鼻歌で商都に入った。さっき、恐がらせてくれたお返しだ。
素肌にシーツを掻きいだき、マルグリッドはぼんやり見まわした。狭い部屋、色のくすんだ灰色の壁紙、薄日のさしこむ曇った窓。調度品も何もない、狭くてほこりっぽい、まるで使用人に与える小部屋のような、掃除用具を収納する物置小屋であるような──一口にいえば、ひどい部屋だ。
彼が先に立って連れてきたのは、裏通りの安宿のようだった。商都に遊びにくる際は、別邸に滞在するマルグリッドは、こうした場所は見るのも来るのも初めてだった。むしろ、こんな場所があることさえ、今日まで全く知らなかった。無論、路地を歩いたのも初めてだ。そう、安全で華やかな商都の街に、こんなうらぶれた場所があろうとは。
彼はためらう様子も見せず、まるで気負いなく歩いていった。狭く寂れた陽のささぬ路地にマルグリッドが尻込みすると、「こっちー」と肩越しに振り向いて、再び背を向け、歩き出す。ひどく入り組んだ細い路地にも、その足取りに迷いはない。
通りをいくつも横断し、人もまばらな街角を曲がり、距離を保って長らく歩き──ようやく辿り着いたのは、くすんだ塗装のはげかけた、ひどく陰鬱な建物だった。彼は終始先に立ち、狭くて暗い朽ちかけたような階段をのぼって、ドアの前で振り向いた。そして、
「入ってー」
キイ……と蝶つがいを軋ませて、塗装のはげた緑の扉を押し開けた。
扉の向こうにあったのは、窓からさしこむ鈍い薄日、乾ききった古板の床、色の褪せた粗末な寝台、そして、静かで、気だるく、神聖な午後。
鈍く静かな薄日の中で、ほこりだけが舞っていた。衣擦れだけが小さく聞こえ、建物の中はひっそりしていた。打ち捨てられ、忘れ去られた廃墟の中にいるかのように。
しなやかで長い彼の指は、注意深く慎重で、声も表情も扱いもじれったいほど優しかったが、終始うつろなままだった。肉体こそはそこにいたが、体の中は空っぽで、彼の内なる魂は遠く離れているような。もどかしさが込みあげて、なめらかな背を抱きすくめても、彼を捕えることは決してできない。
営みを終えた空虚な部屋は、息がつまるほど静かだった。時の流れがそこだけ淀んでいるかのように。窓越しの鈍い日射を、ほこりがゆっくり舞っている。
事の重大さにようやく気づいて、マルグリッドは困惑した。どぎまぎうつむき、唇を噛む。見知らぬ男と何故同じ寝台にいるのか、いくら考えても、わからなかった。何も強要されたわけではない。強引なことなど一切なかった。むしろ彼は、常にマルグリッドに背を向けて、かなり先の方を歩いていた。通りをいくつも横断し、建物の立てこんだ路地を抜け、見知らぬ街角をいくつも曲がり──引き返すことは、いつでも、できた。いつでも、どこへでも逃げられた。この部屋に到着するまで、ずい分長らく歩いたのだから。
どうひいき目に見ても、勝手についていったのはマルグリッドの方だった。そう、街角で彼を見かけた途端、何も考えられなくなっていた。ガラスのように透明な、あの瞳に吸い寄せられて知らぬ間に足を踏み出していた。そして、夢中になって追いかけた。密かに胸を高鳴らせ、彼の背中を見失わないよう、どんな路地にも入り込み、追いかけて追いかけて追いかけて、気がついたら、ここにいた。今こうしていることが、あたかも運命であったかのように。
彼はしなやかな背を向けて、寝台に腰をかけていた。薄茶の髪の輪郭が、鈍い薄日に包まれて、うっすら金色に輝いて見える。しなやかなその手がパイプの背もたれからシャツをとり、丸首の襟ぐりを頭からかぶって、綿シャツの袖に腕を通す。シャツの裾を軽く引っ張り、彼は気怠げに立ちあがった。
「じゃあねー」
歩く背越しに言葉をほうられ、え……とマルグリッドは面食らった。
「──ちょ、ちょっと! あのっ!」
我に返って脱いだ服をかき集め、床に下ろした爪先で、脱ぎ捨てた靴をあたふた探る。普段であれば、そんなはしたない真似など決してしない。どんな場合であろうとも、淑女たるもの身形をきちんと整えて、然るべく部屋を出なければならない。けれど、そんな余裕はどこにもなかった。
恋に、おちていた。
理屈などでは量れない、極めて理不尽な強い濁流。打算も予定も通用しない。なのに彼は、去ろうというのだ。まだ、名前さえ聞いてない。いくらなんでも唐突すぎる。
彼は長い足で戸口に歩き、古いドアを引きあけた。そして、薄日のさしこむ狭い部屋を、振り向くことなく出て行った。
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