■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部5章 7話1
( 前頁 / TOP / 次頁 ) ☆ 商都配置図
何かがほのかに香った気がして、エレーンは怪訝に顔をあげた。
甘い匂いだ。決して嫌な香りじゃない。むしろ、リンゴの香のような良い芳香。なのに、胸がなぜだか締めつけられて、心がうずいて落ちつかない。
神経を逆なでされたような、嫌なざわめきを不意に覚えて、エレーンはとっさに我が身を抱いた。己の反応に困惑しながら、人けのない裏路地に、おろおろ視線を巡らせる。
夏日に暖められた生ぬるい風に、庭の緑がゆれていた。隅の方に置いてあるガーデンテーブルと椅子の白さが、夏日を反射し、いやにまぶしい。建物のテラス戸は閉て切られ、無人の館はひっそりしている。敷地を仕切る鉄柵の向こうで、主不在の白亜の館は、降りしきる夏日を浴びながら、静穏な営みの中にある。人の姿はどこにもない。
この館の裏庭に、奇妙な既視感を覚えていた。医院の裏手に回ったのは、これが初めてのことだったし、つぶさに庭を見渡しても、やはり、初めて見る光景だ。だが、辺りに漂う芳香だけは、奇妙なことに知っている。
かつて、ここへ来たことがある、そんな気がして戸惑った。そして、とても嫌な目に遭ったのだ──。ふっ、と隣のリナがしゃがんだ。
エレーンは我にかえって振り向いた。紺のメイド服を着たリナは、革のブーツの足元から小石を一つ拾いあげ、その左手を思い切り振りぬく。
テラス戸のガラスを打ち砕く剣呑な音がとどろいた。
「──ちょっと! なにしてんの!」
ぎょっ、とエレーンは後ずさった。見咎められやしなかったかと閑静なお屋敷街をあたふた見回す。リナは口を尖らせて、無人の庭を睨めつけている。拳を握りしめた横顔で、腹立たしげに吐き捨てた。
「窓の一枚くらい、なんだってのよ!」
エレーンは呆気にとられて見返した。そういうこと言う? てか、
──あんた、何してくれてんの!?
愕然と立ち尽くしたその直後、ピイィ──! と警笛が鳴り響いた。
リナの手首をとっさにつかむ。息を切らして必死で走り、高い塀の角をいくつも曲がる。見渡す限り、歩行者はいない。この街区の屋敷は敷地が広く、館から庭の端までかなりの距離があるためか、なんの物音もなく、ひっそりしている。どこかの庭で、犬が二、三度吠えただけだ。
塀の上で、庭木の緑がまぶしくゆれた。息せき切って走る頭上に、真夏の太陽が降りそそぐ。空が、青い。
現場から大分離れてから、気配に耳を澄ましてみたが、警邏は追ってこなかった。留守宅の様子を見に行ったのだろう。いや、正確には「宅」ではない。医院だ。所有主の名はオーレリー=クレマン。アドルファスから病気の子供を言葉巧みに取りあげて、実験材料にしたあの女医だ。そして、瀟洒な館を買い取って、この高級住宅街区内に医院を開いた。
白亜の館はひっそりしていた。名こそ医院となってはいるが、患者らしき姿はない。もっとも、南街区の市民では、医院が要求する高い診療費を払えやしないし、女医は元より、もう庶民など診ないだろうが。わざわざこの地区で開業したというのなら、主な顧客は貴族や資産家。ならば、先方の屋敷に医師の方が出向くので、あれは医院とは名ばかりの受付窓口のようなものなのだろう。
もっとも、女医当人は不在としても、別の医師の姿もなかった。稀少な研究成果を携えて領邸に出入りを始めた二年前、彼らは数人の医師団だった。だが、あの館の女医とは異なり、他の医師の華々しい話などはついぞ聞かない。手柄を女医に独占されて、ていよく締め出されでもしたのだろう。そして、彼女を見限り、去っていった。あの女医の手段を選ばぬ裏の顔には、周囲はとうに気づいている。だが、女医がおもねる貴族らだけは、こぞって女医を引き立てている。そして、悪いことに、彼らが一番、力がある。
前屈みの膝に手を当てて、エレーンはぜえぜえ息を吐いた。
「……ふ、振り切った〜」
同じく隣でへたり込み、リナもぜえぜえ息を整え、ようやく唾を飲みくだす。「……あんた、ずいぶん機敏ねえ。いきなり引っぱるんだもん、驚いたわ」
エレーンもぜえぜえ汗をぬぐう。「ま、まーねー。ここんとこ逃げてばっかだから」
「はあ? "逃げてばっか"?」
前屈みの背を起こし、リナが怪訝そうに見返した。「なにそれ、どういう意味?」
はた、とエレーンは気がついて、ぶんぶん顔の前で手を振った。
「あ、ううん! なんでもない! そんなことより、お腹すいたっ!」
「……はあ? 喉渇いた、とかじゃなくて?」
顔をしかめて裾を払い、リナが大儀そうに立ちあがった。「いーけどさ別に」
「だって、お腹すいたもん。てか、なんであんた制服ぅー? 今日、非番でしょー?」
「わかってんでしょ、役得よ」
リナは事もなげに肩をすくめる。領邸のメイド服は人気が高い。これを着て歩くだけで、周囲の待遇も五割増し。無論、エレーンにも余禄に預かった覚えがある。
たるそうな顔で、リナが足を踏み出した。エレーンも続いて、横に並ぶ。「あ、そーそー。ラナは元気〜?」
「あー、あの子は相変わらずよ」
木陰になった人けない歩道を、リナは露天街方面に歩いていく。「門番たちにモっテモテ。ま、あたしの顔見ると、すぐにすっとんで逃げてくけどね。ほんと、あいつら失礼でさあ〜──あー、いいよね、いつもん店で」
「もっちろん! 店長のランチ、まじ久しぶり〜」
右手には「役所通り」と呼ばれる馬車道があり、それを越した向かいには、飾り気のない政務所の壁が歩道に面して延々と続いている。この「役所通り」は、こちら側の住宅街区と、政務所のある行政街区を分断し、北の街壁まで延びている。
ラトキエ領邸・政務所を含む商都カレリアの行政街区は、街の中心の時計塔から北北西に位置している。その東には、資産家の邸宅が軒を連ね、更に奥まった地域には、貴族たちの館がある。これらがある高台は「北街区」と呼ばれており、薄い三段の階段と街を南北に分断する「西門通り」で、市民が活動する南街区と、明確に、厳密に区切られている。
石段を降りた先の南街区は、多くの店舗が軒を連ねる商業地区、いわゆる「商都」と呼ばれる界隈だ。西門付近には繁華街があり、南の正門付近にはカレリア名物、一大露天街が広がっている。
商都の正門を潜ったその後、エレーンはリナとぺちゃくちゃぺちゃくちゃ喋りつつ、目抜き通りの建物の日陰をてくてくてくてく歩いていた。が、リナが歩くのたるいと言ったので、とっとと乗合馬車にのり、馬車に揺られてペチャクチャぺちゃくちゃ──。
そして、此度の事件のあらましを聞き加勢を買って出たリナを伴い、カレリアの詰め所を統括する政務所の窓口に乗り込んだ。無論、アドルファスを奪還する為だ。
ところがである。窓口係はあろうことか門前払いをきめこんだ。そうかやるかそれならば! と上席徴税官ラルッカに頼んで圧力かけてやろうかと意気込むも、昨今の情勢不穏で彼もさすがに忙しいらしく、面会を申し込むも会えずじまい。だが、どうにも腹の虫がおさまらず、女医に嫌みの一つも言ってやろうと「役所通り」をずんずん渡り、お屋敷街のどこまでも続く塀沿いを歩いて、女医の医院に赴いた。瀟洒でこぢんまりとした白亜の館だ。ちなみに、貴族の古い館を買い取ったと聞いている。
だが、いざ館に到着してみれば、女医当人はあっさり留守。そういや、あんな事件があったぱかりだ。ロマリアに行ったに違いない。そして、思わぬ失態に舌打ちしながら、やむなく裏庭を眺めていたら、リナが突然、館のテラス戸に石をぶん投げやがったのである。
すぐに警笛が鳴り響き、警邏が急行する足音がした。運悪く付近を巡回中だったらしい。無論、二人はあわてて逃げた。幸い、屋敷の塀がどこまでも続く一軒の敷地が途轍もなく広い街区にいた為、警邏は塀の曲がり角まで辿り着けず、姿を見咎められることなく、街路の突き当り「役所通り」まで逃げ果せた。そうして今現在に至るという、なんともお粗末な顛末である。
「ねー。あたし、向こうに行ってから、ずっと考えてたんだけど──」
エレーンは大きく深呼吸して、故郷にしては珍しく静かな、商都の街並みを眺めやる。「なんつーか全然違うよねー。人とか街とか」
「どういう意味?」
「……うーん、なんていうの? こっちは伸び伸びしてるっつーの? ノースカレリアの方ってさー、人が少ないっていうのも確かにあるけど、暗いっつーか、陰気くさいっつーか、息苦しいっつーか、寒風ぴーぷー吹いてる感じっつーか──領邸で働いてる子たちだって、変に卑屈で顔もろくにあげないし、あ、仕事はちゃんとしてるのよ? さぼってるとかそーゆーことじゃ全然ないのに、なーんかビクビクしちゃってさー。無能でしょーもないメイド長が偉そうにふんぞり返ってんのに、だあれも文句ひとつ言わないしさー」
「……げ、なにそれ。まじで?」
リナが顔をゆがめて片頬を引きつらせた。叩き出しちまえ、と言いたげだ。いや、実際に言った。「使えない奴なんか、即クビでしょ」
「でっしょー? 何して給料もらってんだっつの」
ぴら、と手を振り、エレーンもうんざり嘆息する。
「でも、誰も言いにこないのよねー。それじゃあ、こっちだって手の打ちようがないっての。あーゆーの、まじ信じらんない。うじうじしちゃって、まじ苛つく」
あの北の街にいる時に、エレーンは身にまとわりついてくる靄の正体が分からずに、ずっと心の底で苛立っていた。感じていたのは、息苦しい淀み。栄える商都と廃れる北方、二つの都市を比較できる立場にあり、実家の店舗を経営した一時期、世の仕組みに必死で取り組んだエレーンには、理由はうっすら理解できた。
うだつの上がらぬ地方を収める為政者は、税を多く徴収すべく高圧的になるのが常だが、成果は往々にしてあがらない。返って領民が反発し、現状維持を貫こうとするからだ。すると、それを是とせぬ為政者は、ますます居丈高に振舞って、泥沼化の袋小路に迷い込む。
領民は身を守る為に徒党を組み、殻に閉じこもって息を潜め、古い風習に意固地に固執し、仲間の裏切りを警戒する。そこに根付くのは保守的な風潮と、互いが互いを見張るような息苦しい閉塞感。慢性的な疑心暗鬼が諦念と共に蔓延し、為政者への不審と過度の警戒から、新たな気運をもたらす余所者をも排除してしまう。この排他的な集団は、安易に見知らぬ者を信用しない。ただただ膠着がある場には、発展も再編も存在せず、土台に不審があるために揉め事の絶えることがない。そして、経済は停滞する。
一方、商都では、圧政に脅かされることはない。取引と治安は正常に守られ、他と団結して身を守らずとも理不尽な目に遭うことはないので、一人で自由にやっていける。才覚次第で立身出世が可能であるので、市民には独立独歩の気風が強い。
市民は余計な心配をすることなくして、商売だけに没頭できる。日々熾烈に競い合い、創意工夫を凝らして成長し、良い品を作り、競争に負けた者は脱落して街を去り、その空いた穴を埋めるようにして、別の才覚の持ち主が新たに市場に参入し、街は以前にも増して活況を呈する。前向きな活気と熱気を帯びるこの街で、市民は大声で快活に話し、伸びやかに街を闊歩して、社会はますます発展する。商都は常に開かれている。新しい血に常に入れ替え、可能な限り遠くへ跳ぶべく、うねり、力強く脈動している。
市民は、商売・居住等々に対して定められた税をきちんと支払い規律を遵守する以上、政府にも当然の如くに公平であることを要求する。それが当然だと思っているし、それが罷り通る社会でもある。
市民は「商都民」であることに誇りを持ち、各々の仕事に邁進する。その生活基盤を政府は十二分に整える。そして、市民はもてる全力で働き、政府は要求に速やかに対処し、市民は更に邁進する。そして、かすかな変化にも目を光らせ、常に神経を研ぎ澄ましている。これでは一見、民を治めるべき領家が市民に気圧されているように見えるし、街を動かしているのは市民であるとの密やかな自負も、市民の側には現にある。だが、エレーンを初めとする市民は知らない。向上が向上を呼ぶ商都の上昇気流を作っているのは、他ならぬ為政者であることを。
確かに商都では、稼げば稼ぐだけ、努力しただけの実入りがある。利益を横から掠め取る者はなく、そうした粗暴な無法者を領家は厳しく取り締まる。治安の良さを市民に保証し、活動基盤を整える。そして、民が血のにじむような努力をして高く積みあげたその果実は、やがて「税」という形で、治領を束ねる領家の懐へと還流する。密やかに執り行われる諸々の過程に、民は気づくことさえない。つまるところ、それがラトキエの政治であり、持てる者と持たざる者との手腕の差、為政者の力量というものだった。
やがて、歩道の前方に、強い夏日に照らされた白い階段が見えてきた。
一段の厚みが小指の長さほどしかない、大理石でできた階段だ。この境界線が北街区と南街区を実質的に仕切っている。
リナは頭の後ろで手を組んで、白い階段をぶらぶら下り、石畳の馬車道「西門通り」に踏み出した。目指すは、目抜き通りから西に入った静かな路地。続いてエレーンも、通りを横切る。「それにしたって、石ってどうよ。なんで、いきなり投げるかな〜」
ただでさえ暑い夏まっさかりの昼下がりに、走りに走って汗だくだ。リナが厳しい横顔で一瞥した。「なら、あんたは許せる?」
「許せない」
エレーンは躊躇なく即答した。そうだ。ああした卑劣漢には厳罰をもって対処すべきだ。自己の立身出世の為に他人の命を費やすなど、断じて許される行為ではない。
事情を聞くと、リナはすぐに同調し、政務所に共に怒鳴り込んだが、彼女だけが特別に激しやすい質だったというわけではない。これが非人道的な事件であることは疑いの余地なく確かだが、商都民であるならば、誰もが不愉快になったろう。ひどく不当な話だと。
それは商都民の気質には、決定的に相容れなかった。商人は儲けと負担を天秤にかけるが、女医の行為は明らかに、負担を「不当に」欠いている。生贄にされた少女の命は、女医の持ち物ではないからだ。そこには利益を得るための真っ当な「仕入」が存在しない。
確かに、商都の商人は同業他店と競いはする。だが、どんなに熾烈に競っても、他を陥れるのはご法度だ。むしろ、商都民たるもの己が立場に誇りを持ち、他の範たろうと己を律し、えりを正して生きている。商売人は信用が第一、市場が正常であることを前提に、商都の経済は成り立っている。無論、自らに公明正大を課すからには、他にも当然それを求める。不屈で強靭な商都気質は、目抜き通りに軒を連ねる店舗の主のみならず、道ばたで売り物を並べる露天商のそれに至るまで変わらない。それが、この街で商売を営む者の最低限の資質である。つまり、道義を破る不届き者は直ちに弾劾されて然るべき、商都の者なら、そう思う。本来己のものでないものを我が物顔で売り買いする、それは神聖な商売に対する冒涜であり、そうした不公正な抜け駆けは、才覚だけを頼りに努力し、誠実に競ってきた者にとっては、許し難い背信行為に他ならない。
「にしても、なに、この暇さ加減は」
馬車一台通らない西門通りを見回して、エレーンはげんなり嘆息した。「人が全然いないじゃない。いやしくも、ここは商都でしょ。こんな閑散としてて大丈夫なわけ?」
「平気でしょー? もうすぐミモザ祭だもん。わんさか人が集まってくるわよ」
ミモザ祭とは、カレリアの建国記念日である。当日は、街中に花を飾って今日ある発展を祝い、初代カレリア国王がこの地に国を打ち立てて建国を宣言した時刻──午後二時頃に、各都市で一斉に慶賀の鐘を打ち鳴らす。
人もまばらな「西門通り」を渡りきり、目抜き通りから一本入った静かな路地に足を向ける。すぐに、窓の木枠が赤で塗られた白壁の店が見えてきた。西門通りから路地を入って三軒目。入口上部の看板には、《 ぴんくのリボン 》の見慣れた屋号。
少し先行していたリナが「ふぃー、暑い暑い!」と顔を仰いで、店の扉を押し開けた。
オリジナル小説サイト 《 極楽鳥の夢 》