■ CROSS ROAD ディール急襲 第2部5章 7話2
( 前頁 / TOP / 次頁 ) ☆ 商都配置図
ガランガラン、とドアベルが鳴る。
後に続いたエレーンの顔を見た途端、黒い前掛けの中年の店主が「あれ?」とまなこを瞬かせた。「なに、もう出戻ったの?」
「失礼ね。ちょっと遊びに来ただけよ」
むぅ、とエレーンは口を尖らせ、ちら、とリナの顔を見る。本当はトラビアに向かう道中なのだが、ダドリーがディールに囚われた事情は、実はリナにも話していない。一介の庶民が背負うには、荷が重すぎる内容だ。
景色の良い窓辺の席に歩みより、エレーンはリナと共に椅子を引く。「ねー店長。まだランチできるぅー? もー、お腹ぺこぺこで」
カウンターの向こうで了解しながら、店長はグラスに水を注ぐ。「なに。リナちゃんも、おんなじやつでいいの?」
「あー、あたしは冷たい飲み物。珈琲ね」
リナもやれやれと腰を下ろす。冷風機が回る店内は涼しい。
この店は、領邸勤務のメイド達の溜まり場だ。というのも、同僚のメイドがここの店主と恋仲になり、結婚退職したからだ。友の顔を見に通う内、すっかり入り浸るようになってしまった。職場にほど近いので休憩するにも都合が良いし、何より領邸メイドには、とある特典があったからだ。それは、メイド服着用で入店すると全品半額の大サービス。
もっとも、店にだって利点はある。著名な「メイド服」が出入りする店と宣伝し、同業他店との差別化を図る。領邸に伝があることを暗に示して箔を付ける。その辺りは、もちつもたれつお互い様というわけだ。ちなみに、気の弱そうな店主によると、現女将の友人は、出産間近につき里帰り中であるらしい。
店はがらがらに空いていた。壁際の席に、老夫妻が一組いるだけだ。どちらも品の良い白髪頭で、静かにゆったり寛いでいる。飴色の棚から白いカップを取り出しながら、店長はエレーンを振りかえる。
「飲み物は珈琲でいい? カモミールティーなんてのもあるけど?」
今しがた客が注文したのだろう。リンゴの甘い芳香が、そういえばうっすら漂っている。
ふと、エレーンは顔をあげた。あの裏庭で嗅いだ甘い香りは、リンゴのそれのような芳香は、もしや、カモミールのそれではなかったか。
虚ろな記憶をたぐり寄せるべく、エレーンは眉をひそめて目を閉じる。急に夏日が遮断され、目の裏に緑のもやがかかっている。見てきたばかりの光景が、何故か瞼の裏に浮かんだ。静寂に包まれた館の裏庭──
いわゆる上流階級が住まう北街区。あのお屋敷街界隈では、誰も彼もが上質な身形だ。館に雇われた使用人でさえも。そうした人々が行き交う中で、どう見ても場違いな、薄汚れた無精ひげの男が──原野の砂塵にまみれた男が、一人取り乱す姿が目に浮かぶ。
『あんた、治すって言ったよな! 俺の娘、必ず治すって言ったよな!』
世界を隔てる鉄格子を、ごつい両手で握りしめ、声を限りに叫ぶ声。
『カーナを返してくれ! 俺の娘を返してくれ! 返してくれ!』
大勢の警邏に取り囲まれて、鉄格子から引き剥がされ、引っ立てられる彼の姿。小奇麗な身形の人々の中に、一人、蓬髪、不精ひげの野獣のようなアドルファス。
鉄格子の向こうにいるのは、腕を組んだ白衣の女医。子を失った父親を、邪魔者でも見るように、虫けらでも見るように、傲然と冷ややかに見下して──女医の顔を知っているだけに、当時の現場は手に取るように想像できた。
にわかに押さえようのない殺意を覚え、とめようもなく体が震えた。疑問が再び込みあげた。何故、その時アドルファスは、女医を殺さなかったのだろう。
『──死んじゃった子には悪いけど、あの女、いい気味よ』
小奇麗に片付いた無人の庭を睨みつけ、リナは口を尖らせて、そう言った。
『あの女、まじ何様のつもりよ。あんなに好き放題したんだもの、ひどい目に遭って当然よ』
元よりリナは、女医がことのほか嫌いだった。いや、領邸の使用人に良く言う者などいはしない。女医は、視界から雇い主が消えた途端、たちまち横柄に豹変し、見下した態度で接したからだ。リナは苦い顔で嘆息した。
『アディーが亡くなった後のアルベールさま、痛々しくて見ていられなかったわ。あの女、散々気を持たせるようなことを言うんだもの』
あと半年、猶予があれば──葬儀の際に、あの女医は、いかにも沈痛な面持ちで、口惜しそうに語ったのだという。"研究は順調に進んでいた。そう、あと半年の猶予があれば"
『どうせ嘘八百よ。だって、告知された月よりも、むしろ早く亡くなったわ。つまり単なる藪医者ってことじゃない。あの女はペテン師よ。アルベール様が看病で疲れ果てているのをいいことに、言葉巧みに引き回して!』
確かに、彼にはわからなかったかもしれない、エレーンは今にして、そう思う。死にゆく者を前にして、詮索する間など、ありはしない。まして、企みを見抜く余裕など。皆、疲弊していた。藁にもすがる思いだった。何を言われようが、頭から信じた。まして、医師の言葉なら。
アディーを失い、あの後アルベールがどうしていたか、エレーンには全く記憶がなかった。「家族」とすがった最後の砦を失って、絶望して錯乱し、周囲のことなど眼中になかった。日々どうやって生きていたのか、それさえ記憶が定かではなかった。たぶん、彼とリナたちが、寄り添い、支えてくれていた。
「で、奥方さま生活は、どんな具合よ」
リナの声が不意に割り込み、はっとエレーンは我に返った。
「う、うん。まあまあってとこかな……」
顔をしかめ、メニューで自分を扇いでいるリナに、あたふた笑って言葉を濁す。ディールの使者に喧嘩を売ったり、ぐーすか寝ている傭兵どもと毛布奪い合って雑魚寝してたり、刃物持った輩に追いかけられたり、なんだか色々しっちゃかめっちゃか──とは、さすがに言えない。一応、見栄ってもんがある。おほほ、とエレーンはから笑い。「そ、そっちこそどんな具合よー。その後、派手なあの彼とは」
「あー。なにロックウェルのことー? あれ、言わなかったっけー? 別れたって」
パタリとメニューを卓に置き、リナは嫌そうに顔をしかめた。
「だってあいつ、他の女とあたしの名前、何度も何度も間違えんのよ? それだけだって許せないのに、別れたのも忘れてバラ持ってくるしさ」
片頬をひくつかせ、頭いたい……と額を揉む。「──あの馬鹿。まったく、どこまで能天気なのよ!」
む? とエレーンは考えた。要するにまだ、付き合ってるのか?
ちなみに、リナは面食いだ。ぶつくさ言ってる向かいの機嫌をうかがいながら、恐る恐る身を乗り出す。「ねー。なんか、あたし、あの人にとってもよく似た人と、ノースカレリアで会ったんだけど」
そう、あの日、遊民の天幕群で会った、統領代理と名乗った男。
リナはげんなり手を振った。「あー。案外それ、本人かもね。デートすっぽかして、いきなり消えたし」
憮然と卓で頬杖をつく。さては待ちぼうけの屈辱でも思い出したか。いささか不穏な雲行きに、エレーンはあたふた食い下がった。「あ、でもね、その人けっこう偉い人、みたいな──」
「まじむかつくから、もーやめて」
突如、話がぶちきられた。
向かいで、リナがぶんむくれている。どうやら、怒りがぶり返したらしい。
「いいじゃん。しょせん相手は遊民でしょ。リナちゃん、別れて正解だよ」
男の声が割り込んだ。みれば、注文の品を持ってきた店長だ。水の入ったグラスを置いて、それぞれの注文を卓に置く。
カウンターに戻る店長に、リナはふてて言葉を投げる。「あたしは別に平気だけどー? つか、遊民てなんで、あんなに忌み嫌われるわけ? 別に、なんにもしないじゃん」
「"あいの子が世界を滅ぼす"」
え? と二人は振り向いた。飴色のカウンターの向こうで、店長は布巾をとりあげる。「って、アレじゃないの?」
「──なにそれ」
二人は顔を見合わせた。
「だからさ、いつか世界を滅ぼすのは、シャンバール人でもザメール人でもカレリア人でもない。どこにも所属しない流れ者、いわば遊民だって話。"彼方より異邦人きたりて、国滅ぶ"──親から聞かなかった? ガキの頃」
リナはストローをとりあげて、グラスをくるくるかき回す。「──ばっかばかしい。迷信でしょー」
「でも、けっこう知られた話だけどな」
「はあ? そんなの、あたし聞いたことないわよ? 店長って、どこ出身?」
「故郷はルクイーゼの先だけど、別段こっちの出じゃなくても、たいがい知ってると思うけどな。商都の人は、そういうの関心ないみたいだけど」
「……ねー、それ、なんか根拠があったりするわけ?」
エレーンも店長をうんざり見やる。「てか、誰か見たわけ? 滅ぼしてるとこ」
あんた、ばっかねー、とリナが呆れた顔で目を向けた。
「だったら、世界なんて、もう"ない"じゃないよ」
「……あ、そっか」
おバカ、と白けて目を向けるリナに、エレーンは、えへへ、と頭を掻く。
「それに、言うだろ? ほら、遊民は人をさらうって」
店長は皿をとりあげた。「田舎の方じゃ、今でも遊民の幌馬車は、目の仇にして警戒するよ。娘を持つ親なんかは特に。ま、なんにせよ、遊民が厄介者ってのは事実だな」
丸皿を拭きつつ、先を続ける。
「大人しく興行だけしていてくれりゃあいいものを、あいつらときたら、店を我が物顔で占拠するわ、奇声をあげて騒ぎまくるわ、目がイっちまってるような妙なのもいるし」
何気なく顔をあげ、ぎょっ、と引きつって氷結した。皿でも割りそうな勢いで。視線の先は、二人が座る窓の外。
エレーンとリナは、それぞれ、ぱちくり瞬いた。顔を見合わせ、怪訝に、そろりと窓を見る。──げ、と顔を引きつらせ、エレーンは椅子にのけぞった。
「……なんで、ここに」
思わぬ者が、そこにいた。
両手の五指をいっぱいに広げて、窓にべったり張り付いている。豚鼻になりそうな突撃体勢で。
姿が窓から掻き消えた、と思った直後、来客を告げるドアベルが悲鳴をあげるかの如くに乱打され、人影がずかずか踏み込んできた。
混乱を収めきれぬドアベルが奇妙な余韻で打ち鳴る中、店長はあわあわ引きつり笑い。
「……い、いらっしゃ〜い」
なにしろ相手は、見るからにカレリア人ではない、眼光鋭い風貌だ。
男は媚び笑いには目もくれず、ずかずか店内に踏み込んだ。そして、エレーンの陣取る窓辺の席に直行、大きく息を吸い込んだ。
「てんめえクソアマ! こんな所で何していやがるっ!」
開口一番、怒涛の一喝。
とっさにエレーンは首をすくめた。頭ごと吹っ飛ばされそうだ。黒のランニングと迷彩パンツ、普段の革ジャンは着ていない。足こそいつもの編み上げ靴だが、いつでも人込みに紛れ込める街でよく見るくだけた格好。今にも取って食いそうな勢いで、ファレスはぜえぜえ、肩で息をついている。エレーンはたじろぎつつも誤魔化し笑った。
「あらやだっ! 久しぶりぃ〜! もー元気だったぁ〜?」
とりあえず、すっとぼけて愛想をふりまく。
ファレスは怒り心頭に発した顔。たいそうやばい。そして案の定、剣呑に言った。「なんで茶ァなんか飲んでいやがる!」
「えー。だってー」
エレーンは引きつり笑いで小首をかしげた。「ご飯食べないとお腹すくしー?」
「やだっ。もーちょっとお〜っ!」
ふと、黄色い声を振り向けば、リナが手を組み合わせ、ぽっかり口をあけていた。視線の先は、鬼気迫るファレス。ぱっと振り向き、乗り出した。
「やだこれ誰これかっこいいーっ! あんたの彼氏!?」
顔を赤らめ、やーん、やーん、ときゃいきゃい騒ぎ、(なによあんたいつの間に〜!)と口パクでぐいぐいエレーンを小突く。そういや、リナは面食いだ。ファレスは無論、彼氏ではないので釈明しようとしたのだが、とはいえ経緯を一から説明するには中々に微妙な関係で──とっさにまごまごしていると、ファレスがギロリ、と目を向けた。
「うるせえっ! すっこんでろ! おかちめんこ!」
「……はああ!?」
カチン──とリナが引きつった。口を開いて三秒で、婦女子を敵に回す男である。
ファレスは胡散臭そうに目をすがめ、じろじろリナの顔を見る。「なんだてめえはメイド服。この間の抜けた面じゃ、敵ってわけでもなさそうだが」
「──敵ィ!?」
リナがまなじり吊りあげた。
「敵ってなによ! 初対面の相手に向かって、どーゆー神経してんのよっ!」
ぶんぶんストローを振り回す。ファレスは顎を突き出して、あ? やんのかこら、と早速柄悪く絡んでいる。む、と何かを見つけた様子で、二人の後頭部をむんずとつかんだ。
「伏せろ!」
ごごんっ! と何やら剣呑な音が、連続してとどろいた。
シン、と店が、奇妙な静けさをまとって静まりかえった。エレーンとリナの両名は、土下座の態勢で突っ伏している。
「……行ったか」
やがて、素早くしゃがんだ天板の下から、そろり、とファレスが立ちあがった。
卓にぶつけた顔面を、いたた、とエレーンは涙目でさすり、どこかそわついたファレスを見る。「もー。なにすんのよー、いきなりー」
「ウォードだ」
ファレスはもっともらしくうなずいた。窓に身を乗り出して、そわそわ様子をうかがっている。エレーンは「はあ?」と眉根を寄せる。「ノッポ君? なんでノッポ君から隠れてんのよ?」
あんた、なにやらかしたのよー、と説教態勢で腕を組む。同じく額をさすったリナが、ぎろり、とファレスに目をむいた。
「ちょっとあんたねえっ! ウォードってなに。つか、なんで、あたしまで!?」
ようやく気がついたというように、お、とファレスは目を向ける。「お前はついでだ」
「──なあぁんですってえ女男っ!」
ガタン! とリナが、ついに席を立ちあがった。
あぁん? とファレスはすぐさま対抗、顎を出す。「てめえ、いい年こいた女のくせに、女男とか言ってんじゃねえぞ」
「あんたが先に言ったんでしょうがっ!」
リナはまなじり吊りあげて、ぶんぶん指を振りたてる。「もーなにこいつー! すんごい信じらんない! すんごい失礼―っ!」
ああ、あれか、と己の粗相を思い出したらしいファレスが、くるり、とリナを振り向いた。
「おかちめんこをおかちめんこと言って何が悪い」
「──だからっ!」
まったく口をはさめぬままに、エレーンは二人を交互に見やる。
「やめろってのよ! さっきから! おかちめんこおかちめんこ連呼してんじゃないわよ!」
「だから、おかちめんこをおか──」
「失礼なのよ入ってくるなり! あーもー! まじで常識ない! あんた、まじ信じらんない!」
「──む。だから、おか──」
「あたしはメイド服でもおかちめんこでもありませんんー! つか、あんた自分はどーなわけ? 女みたいな頭しちゃってさー! なんでばっさり切んないわけ!? なんでさっぱりしないわけ!? あーやだ! もーやだ! あーむかつく! 男のくせにチャラチャラチャラチャラ! ふざけんじゃないわよ! 何度も何度もひとの名前まちがえてんじゃないわよ! けろっとしちゃってバラとか持ってきてんじゃないわよ!」
「──ぴーすかぎゃーすか、うっせえなっ!」
ぽい、と店からほっぽり出された即刻退場の副長ファレスは、ぱたん、と閉じた扉を睨み、一人ぶつくさ毒づいた。
「なあにが、ご飯食べたら迎えにきてん、だ。ふざけやがって」
積もる話がたくさんあんのっ! とぐいぐいエレーンに追い出されたのだ。
つまり、ダチとの話が終るまで、身柄の回収はお預けで、小一時間はこのまま待機ということだ。閑散とした昼の街路に、ファレスは舌打ちで目を返し、おもむろに指をくわえた。人もまばらな静かな街に、鋭い指笛が響きわたる。
ファレスはケネルと別れた直後、詰め所関連の窓口がある北の街区・政務所に向かった。そこで、貼り付けておいた下回りから「エレーンと思しき二人連れ」が南街区方面に逃げ去ったとの目撃情報を入手して、慌てて片っ端から通りを当たった。そうして汗だくで駆け回った挙句、喫茶店のこの窓辺でようやく対象を発見し、すわ捕獲! と乗り込めば、そこには思わぬ伏兵が。知らないメイド服にキーキー騒がれ、散々罵倒されて、このありさまだ。
しばらくすると、西門通り向かいの街角から、男が一人駆けてきた。黒眼鏡に禿頭、長身に編み上げ靴、こちらも普段の革ジャンは脱いで、深緑のランニングと黒い綿ズボンという、街の雑踏に溶け込むことのできる身形をしている。
ファレスは鋭く目を向けた。「ウォードは」
「──見つかりませんね」
石畳の段差をガラガラ鳴らして、荷馬車がのどかに行きすぎた。夏日に照らされた西門通りを見回して、セレスタンは額の汗を拭く。「でも、なんでまた急に、捕まえろなんて言うんです? 日がなぼんやりしてますし、放っておいても別段支障はないでしょう」
「──てめえはなんにもわかっちゃいねえ!」
ファレスは苛立たしげに舌打ちした。
「あの野郎、とぼけた顔をしちゃいるが、目はとうに覚めている。未だ取り立てて動きがねえのは、阿呆の勢いに気圧されて、気を呑まれているだけだ。だが、いつかは、あれのペースに追いつく。いや、そう遠いことじゃねえ。奴があれを捕まえたら、あっという間にぶっ殺される」
「でも、相手はあの姫さんでしょ? そんなに警戒しなくても」
困惑気味に小首をかしげて、セレスタンは黒眼鏡の視線を静かな街路に巡らせた。「奴にとっちゃ宝みたいなもんじゃないすか。ありゃ他の女とは違いますって。いくらなんでも──」
「俺は信用しちゃいねえ!」
ファレスが腹立たしげに遮った。
「あの化け物のことなんぞ、俺はこれっぽっちも信用しねえ!」
ファレスの剣幕に絶句して、セレスタンは軽く肩をすくめた。苛立たしげに肩を返して、ファレスはぶっきらぼうに歩き出す。「奴がこねえか見張っとけ。そこらにいねえか、ざっと見てくる」
「了解。副長」
赤い窓枠の白壁にもたれて、セレスタンは片手をあげた。
ファレスは不機嫌な顔つきで、路地から一本向こうにある大通りへと足を向ける。
石畳の馬車道が、夏日を反射して輝いていた。普段は賑やかな目抜き通りも、この騒ぎで人はまばらだ。行き交う者も、皆、気軽な普段着姿。観光客に敬遠されて、街の通りを歩いているのは地元の者が大半らしい。
ここ商都の街並みは、白と青とで建物の色が統一された南部の港町レーヌとは異なり、ありとあらゆる雑多な色彩がゴミゴミと取り留めなくひしめいている。多種多様な個人の店舗がどこまでも連なる光景が、世人をして「ここで揃わぬ物はない」と言わしめ、国の首都たるこの都市が「商都」と呼ばれる由縁でもある。
建物の日陰を、若い男がだらだらたるそうに歩いていた。街角では、飲食店の店主らしき親父が寄り合い、前掛けをいじりながら話をしている。降って湧いた未曾有の不景気を嘆くかのような面持ちで。さすがに都会であるらしく、通りには様々な人種がいる。荷運びの人足、眼鏡をかけた神経質そうな商売人、逆立てた髪を奇妙な色に染めあげた気の荒そうな若い男、身形はラフだが垢抜けた娘──
思わず、ファレスは足を止めた。頭の赤い軽そうな男が、道ゆく娘にまとわりついている。日中の暑さもどこ吹く風でへらへら笑っているからか、もわん、と気だるい熱気をもものともしない奇妙に身軽な挙措だからか、ともあれ、いやに目を引いた。
「……妙なのがいるな」
派手な赤頭と、着崩した白シャツ、痩せた体に黒のスーツを着こんでいる。そのだらしのないいでだちと、見るからに軽いフットワークから、どこぞの客引きかとも思ったが、どうやら、そうではないらしい。というのも、話しかける相手はことごとく、男ではなく、若い娘であるからだ。だが、娘たちの方は顔をしかめて、鬱陶しそうな顔で往きすぎる。つまりは、ナンパに勤しんでいるらしい。
「──駄目だろ、ありゃ」
ファレスは向かいを一瞥で評して、建物の日陰をぶらぶら歩いた。いくらなんでも軽薄すぎる。だが、通りの向かいでせっせと励む赤頭の首尾が気になって、ついつい目の端で追ってしまう。進行方向が同じというのも、まずかったかもしれない。
ぺらぺら言葉を並べ立て、赤頭はしつこく食らいついている。背の高いあの姿を捜して通行人に視線を巡らせ、ふと、向かいの歩道に目を返し、お? とファレスは足を止めた。
「……仕留めやがった」
赤頭は娘の肩を抱き、いそいそ歩道を歩いていく。女を口説く愉しげな声が、今にもこちらまで聞こえてきそうだ。
「女ってのはわからねえ」
あんぐりあけた口を閉じ、ファレスは嘆息して首を振った。まさか、あれに引っかかるとは。あんな軽薄野郎のどこがいいのか理解に苦しむ。あの小生意気で小生意気な阿呆といい、ダチの強気なメイド服といい、理解不能の領域だ。
女を伴い、いそいそ歩いていた赤頭が、ピタリ、と急に足を止めた。何を思ったか踵を返し、今きた道を脱兎の如くに逆走する。仕留めた女は置き去りで。
「……なにやってんだ?」
呆気にとられて姿を目で追い、何を必死に逃げているのかと、ファレスは何気なく視線を戻す。目に、別の女が飛び込んできた。スカートの裾を翻し、赤頭を追っている。見るからに険しい形相だ。イノシシが突進するかの如くの勢い。
赤頭は向かいの歩道を二つ先の街角まで爆走し、ひょい、と曲がり角に飛び込んだ。ややあって、イノシシ女もそれに続く。二人が消えた向かいの歩道を呆気にとられて眺めていると、正面に見える路地の先を、左から右に赤頭が突っ切る。ややあって、イノシシ女もそれに続く。それから更に少しして、正面に見える路地の先を、今度は右から左に赤頭が突っ切る。そして、イノシシもそれに続く。
「速ええ……」
形振り構わず全力疾走だ。一体何をやらかした?
ふってわいた追いかけっこに、思わず足を止めて見入っていると、正面に見える路地の先に、女が一人走り出た。がに股で激しく息を吐き、左右をきょろきょろ見回している。髪を振り乱したイノシシ女は、はーはー肩で息を荒げて、しばらく睨みを利かせていたが、やがて恐ろしい形相のまま、左の街角に姿を消した。
知らぬ間に手に汗握って見ていたファレスは、肩の力を、はー……と抜いた。凄惨な追いかけっこが繰り広げられた現場は、もう、いつもの平穏を取り戻している。
「……逃げ切りやがった」
ぐったり疲れて脱力し、首を振って歩き出す。さっきの女はどうしたかと、ふと思い出して向かいを見れば、ぽかん、とガス灯の下にたたずんでいる。いきなり一人置き去りにされ、何が何やらわからない様子。
ぱたん、と二階の窓が開いた。通りの向こう、置き去りにされた女の少し手前の建物だ。にゅ、と赤頭が顔を出し、しゅるり、と何かが窓からおりた。壁に投げられた一本のロープ、一階店舗の軒先までの長さがある。
赤頭は窓に足をかけ、ロープを伝ってするする降下、ひょい、と歩道に降り立った。窓に笑顔で手をあげる。視線を追えば、窓辺に乱れ髪の中年女?
間男か?
赤頭はくるりと踵を返し、置き去り女の元へと歩く。途方に暮れてよそ見をしていた女の肩に、ぽん、と手を置き、やあ、と笑った。
「おまたせ」
街の裏手をひた走り、散々駆け回った赤頭は、ナンパした女の肩を抱き、あたかも何事もなかったかのように昼の歩道を去っていく。いかにも手慣れたあの首尾は、この手の追いかけっこは、どうも日常茶飯事っぽい……呆気にとられて見ていたファレスは、はた、と再び我に返った。
「……都会の奴は節操がねえな」
まったく恥も外聞もねえ、と思わずごちつつ踏み出して、ふと足を止める。あれを店に回収に行くまで、まだ小一時間ほど余裕がある。
「……そういや、ここんとこ、ご無沙汰だったな」
急にそわそわ辺りを見回す。だが、ここは北街区のほど近く。南の花街まで往復するにはいささか距離がありすぎる。そして、目抜き通りの歩道には、お代無料の若い女がいくらでも無造作に歩いている──それは、今、学習したばかり。
「よお! ねーちゃん」
すっと後ろから追い抜いた、優しそうな顔立ちの巻き毛の女に、ファレスはにっこり手をあげた。
「そこらに一発しけこまねえ?」
しん──と一瞬静まり返る。
夏日麗らかな穏やかな商都に、ビンタの音がとどろいた。
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